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その後、俺は工藤さんに手を引かれて誘導されるがままにキツイ坂道をゆっくりと登っていた。
正午を過ぎた真夏のこの時間帯に丘を登るのははっきり言って楽な仕事じゃない。それを知ってか知らずか段々とペースを落とす工藤さんの横でなんとなく周りの景色に目を向けていた俺は前方に立ち並ぶ樹木を見つめながらぼーっと考え事をしていた。
なんの木かな、と推理する俺に生暖かい風が前方から緑の葉っぱを届けてくる。
その見慣れた形状をした葉っぱと、少し挽回した工藤さんが前に歩み出るのを確認した俺は約七年前となるある出来事を思い出していた。
強引に俺の腕を引っ張る工藤さんとナナの姿が重なる。
あの日もこんな感じだったっけな、と思考する片隅で俺の記憶はナナと出会って三年ほど経った秋の頃に引き戻されていた。
「なんで買い出しなんてことを頼まれるかなぁ」
中学一年生の部活中、じゃんけんという名のパシリを決める王様ゲームで負けた俺とナナは先輩らの飲食物を買いにコンビニへと向かっていた。
冬の訪れと秋の終わりを知らせる風に乗ってあの独特な臭みを放つ銀杏の香りが鼻にツンとくる。
降りゆくイチョウの葉を踏みしめながら秋の終わりを肌で感じ取っていると、ナナはまだ言い足りないのかブツブツと口を窄めて愚痴をこぼしていた。
「大体、リュウセイが負けたんだから一人で行くべきなのになんで私まで巻き添いくらってんの?しかもよりによって今日は風が強いし」
そう言いながらもスカートを抑えながら勢いよく俺の手を引くナナはどこか矛盾していて、そのギャップがおかしい。
照射角が低くなった日光に当たるように、長くなった日陰を避けながら俺たちは第一の目的地であるお寿司のチェーン店へと歩を進める。
一歩行く度に音を鳴らすローファーの効果音と共に店の前まで辿り着いた俺たちは使命を果たすために店内に入ろうとすると、ナナが俺の手に握られたお金を取り上げて、外で待つように促した。
俺も一緒に入ろうとしたが、ナナにやんわりと断られた俺は仕方なく肌寒い外で待っていると一分もしない内にナナが目当ての品々とともに出てきた。
「さぁ、とりあえず次行こっか」
「いや、いいけど、それ本当に頼まれてた河童巻き?」
「ううん、木村先輩の嫌いな納豆巻き。後輩をパシリに使った罰としてね。もちろん先生に頼まれてだよ」
先輩にはリュウセイの責任だからって言っておいてね、と寿司が入ったビニール袋を渡しながらうっすらと笑うナナに返す言葉は見つからない。
次のコンビニに向かって歩き出した俺は少し前を歩くナナの手持ち無沙汰な両手をなんとなく見つめていると、唐突にナナが振り返って声をかけてきた。
「そうだ、知ってる?『銀杏』って漢字は『ぎんなん』とも『いちょう』とも読めるんだよ」
前後の脈絡の無い会話の内容と屈託のない笑顔に一瞬ぎくりとした俺とは裏腹に、斜め上方向のイチョウの木を見つめたナナはそのままニヤリと笑うと、やや得意げに俺に告げた。
「面白いよね。人によって同じ文字でも読み取り方が変わっちゃうなんて」
そうやって知識をひけらかしたナナはもう十分だと言わんばかりにふわりと髪を揺らして正面を向く。
少々自分勝手なナナに振り回されるのが当時の俺にとっては癪だったのか、その後に近くの地面に落ちていた銀杏を拾って直接当たらないように投げつけた記憶がある。
そんなやりとりを繰り返す内に俺たちはコンビニの前に辿り着いていた。
そのまま、今度はナナを引っ張っていこうとすると、ナナはコンビニの前に設置されたガチャガチャに目と足を止めていた。
「あっ!まねき猫ストラップだ」
幸運を呼び寄せる招き猫。ある時は四つ葉のクローバーだったり、願い事を叶える消しゴムだったりと手を変え足を変えて売り出された開運グッズの内の一つにしかすぎないそれが、最近なぜか流行っている。
そういう類のグッズの流行りには疎いナナも、白くて丸いマシュマロのようなストラップの誘惑には勝てなかったのか、先輩から借りたお金で入手しようとしていた。
咄嗟の判断でお金をナナの手からかっさらえば、ナナはガチャガチャに百円を投入しかけていた手をぶらぶらさせる。
「あー。うー」
すると、ナナは何かを唸りながらいきなりその場でしゃがみ込んだ。
ガチャガチャを物欲しそうに見つめるナナの横顔をチラリと見つめる。
しゃがんだことによって僅かに露わになった膝小僧を抱え込みながら、眉を八の字に曲げたその顔は拗ねたようにも不貞腐れたようにも見えた。
「おーい、中入るぞ」
声をかけるが、ナナは俺の声に反応しないどころか微動だにしない。
仕方なく、コンビニ内に入る様子のないナナを他所にまたもや頼まれていた飲み物を買いに店の中に入った俺はこれまた短時間で買い出しを済ませると、店内に比べて寒い外に戻ってきた。
未練たらたらと分かり易いくらいにガチャガチャの前に居を据えた不動の駄々っ子は未だに真剣に何かを熟考している。
「おーい、行くぞ」
「……」
「はー、分かった。買ってやるよ」
「えっ?あっ、うん。ありがとう」
呼びかけても反応が薄いナナに痺れを切らした俺は手元に残った小銭を何枚か渡すと、ナナは全然悪びれた様子もなく俺を見上げながら、さっさと小銭を奪ってガチャガチャを回しはじめた。
「やった!白ネコだ!」
一つ目の戦利品を高々と掲げる。どうやらお目当ての品だったようでナナの顔は自然に綻んでいた。
「もう一回……うわー、ダブった」
二回目を回すも、今度は一回目の時のようにはいかず、あからさまに顔を引きつらせてショックを見せている。
一喜一憂するナナの笑顔は本当にただの無邪気な子供のそれで、俺は思わず苦笑を浮かべてしまった。
三回目も回そうとしたナナだったが、流石にもう充分だと判断した俺が三枚目の硬貨をナナの手からくすねとると、ナナは渋々といった様子で立ち上がって軽く睨んできた。
「リュウセイのケチ。もうしょうがないからこっちのいらない方、処分しておいてね。行くよ」
重複してしまったまねき猫を俺に押し付けてスタスタと歩くナナ。
学校に続く横断歩道を渡る彼女の背中をそっと眺める。ナナが走ると同時に、しんみりとした木枯らしがまたイチョウの葉を数枚さらった。
「……か……ん!」
ひらりひらりとイチョウの葉が空を舞う。
不規則と風に振り回された黄色の葉は風と共に俺の視界を遮って。
それで…。
「星川さん!」
工藤さんの呼び声とともにヒヤリとした気温や艶やかに散るイチョウは姿を消し、俺はナナのいない、蒸し暑い現実に引き戻された。
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「ずっと見てますよね。イチョウの木」
工藤さんに指摘されて俺は自分が随分と長い間記憶に浸っていたことに気づかされる。
ジリジリと照らす太陽の暑さにやられているせいもあるかもしれない。
どうやら必要以上にボーッとしていたようだ。
「前にいろいろとあったんですよ」
気候に引っ張られてか、声がジメっとして覇気がない。クーラーの効いていた工藤さんの部屋から出てきてから何故か気分がだるかった。
「秋になると綺麗ですよ。ひらひらって降ってきて」
秋の光景を目に浮かべながらほっこりと微笑む工藤さん。雲が数える程しかない青空に負けないくらいの笑みは俺とは違ってイキイキとしていて思わず目を細めてしまう。
「まぁ、銀杏が臭すぎるので少し苦手なんですけどね」
さっきまでナナのことを考えていたからだろうか?
身振り手振りを加えながら銀杏がいかに臭いのかを説明する工藤さんがなせだかナナに見えて思わず顔を背けてしまった。
視線の先で、横の通りに停まった車の排気口からガスが漏れて陽炎を生み出していた。
話している途中で他のところを見ているなんて、となんとなく思い直して、歩きながら工藤さんに視線を戻す。どこへ行くのかと尋ねたら、少し遠回りして桐崎さんの家に向かうと返ってきた。
急な坂道を登りきり、真っ赤な郵便ポストを左に曲がって住宅街へと歩みを進める。
住宅街にも大量の木が植えられていて、幾重にも重なった木の葉の影が風に揺られて味気ないコンクリートの上でゆらゆらと波立っていた。
そんな影の絨毯を踏み鳴らして進む俺たち。ほんの少し歩くと、桐崎さんの家の近くにあるらしい公園の近くを通りかかった。
昨晩、俺はこの公園の近くを通ったはずなのだが、あの時は桐崎さんを尾行していたからか、周囲の景色をあまり覚えていない。
ましてや、状況が掴めずに混乱していた時で街灯がギリギリつくかつかないかの時間帯だったからわからないのも無理はなかった。
そんな訳で改めて観察すると、俺がこの世界に現れて初めて訪れた公園と比べ、この公園はどちらかというとアスリート向けの印象を抱いた。傾斜の上に作られたからか、公園は二面に区切られていて、下はフットサルやお年寄りがゲートボールが出来るくらいの広さの平面があり、階段を挟んで上には逆にブランコや滑り台などのメジャーな遊具に混じって筋トレ用に懸垂が出来る、高さが異なる鉄棒などがあって、こちらは元の地形に合わせてか所々で起伏や植え付けられた植物が目立っていた。
同じ手を加えられた公園なのに、上と下では印象がガラリと変わっていてまるで別世界を見ているようだった。
俺達がその内の一つの上の面を突っ切っていこうとすると、工藤さんが突然方向転換した後に日当たりのいい、ペンキのはげかけたベンチに腰をかけていた。
「少しいいですか?話しておきたいことがあって」
その真剣な眼差しに魅せられたのか、反抗する気力がないのか、ただ言われた通りに彼女の隣に腰を降ろす。なんとなく座る場所に間をあけたのは工藤さんとの距離感が掴めなかったからだと思う。
「えっと……」
「………」
一転して、何やら深刻に思いつめた表情をした工藤さんに対して何を告げればいいのか分からなくて、黙り込む。空ではさっきまで目立たなかったはずの小さな雲が太陽を遮り、工藤さんの表情のように辺りを暗く染めていた。
「すみません、勝手に連れてきて。怒ってますか?」
しばらくの沈黙の後、恐る恐る切り出された内容は身構えていたものよりも幾分か楽で、俺は何故かほっとしながら口を開いていた。
「いいえ。あの、今は落ち着きました」
誰かの手に引かれ歩いたからだろうか。イチョウの木を見てナナのことを思い出したからだろうか。先ほどまで感じていた怒りや焦燥感は、不思議と先ほど怒鳴り声とレンへの不満と共に工藤さんに漏らしたことによって随分と緩和されていた。
「だから大丈夫です」
気にしないでください、と続けようとすると工藤さんはそんな俺の言葉を遮って謝ってきた。
「さっきは勢いであんな偉そうなことを言って、すみません。私、星川さんの気持ちも知らないで」
俺がこのままだとナナは振り向かない。俺は自分のことばっかり。
ナナのことを考えているようで実際は自分の心配しかしていない俺。
少し冷静になった今なら何か反論出来るかな、と考えていたがその言葉が見つからない。
せめて、工藤さんが気にする必要はない、と断言していればその場を和ませることが出来たはずだったのに、俺の声は臆病風に吹かれて喉の途中で消えてしまった。
風と共にまた空が晴れる。周りが明るくなったのに工藤さんの表情が晴れることはなく、太陽はつまらなそうに痛々しい光をチクチクと俺たちの肌に射していた。
「……」
「それと、もう一つ謝らないといけないことがあります」
別のことを言おうと思った矢先に聞こえた重い決心をしたような声の響き。痛みを感じるくらいの苦しそうな顔でまた工藤さんはちらりとこちらを盗み見た。
「私のせいなんです」
懺悔をするような、横顔。髪をかきあげ、眉尻を下げて俺の表情を探るように見上げている。しかし、バツが悪いのか、気まずそうに目線を逸らすと工藤さんは沈没した船のように沈んだ顔で地面を見つめた。
「それってどうゆう……」
「昔、インターネットで占いを検索してたんです。当時は失恋中で、今はもう平気なんですけどその時はすぐに新しい恋を始めなきゃって思って。検索エンジンに引っかかったサイトを文字通り隅から隅まで探し回っていたら、ある時すごく胡散臭いサイトを見つけたんですよね。恋を叶えるおまじない特集、みたいな」
話すのに夢中なのか、怖くて見れないのか、武者震いにも見えるくらい小刻みに震えながら暴露を続ける。
いきなり始まった脈絡のない内容に困惑するも、ただ言葉の端々から何かを伝えようとしていることはハッキリと感じ取れて、俺は返す言葉もないままに押し黙った。
暑さにやられてかその間、俺の身体からは異常な量の汗がダラダラと流れだす。
「そのおまじないの一つに本の中の登場人物との相性がどれくらいいいのか調べるものがあって、流石にその時は嘘だぁ、と思ってやらなかったんですよ。大学の講義とかバイトとかサークル活動とかで忙しかったですから。それでしばらく経って平野さんに会って例の初版本を借りたんですよ」
暑さからかポタリ、と工藤さんの顔の真下に広がる地面が濡れる。
だが、そんな彼女の状態とは裏腹に、俺の方では何かの悪い予感が背筋をドライアイスでも当てたんじゃないかと思うくらいにヒヤリと冷やしていく。
「それでその、読み進めている内に思い出して試してみたんです。昨日、星川さんがプロポーズをするシーンを読んでいる最中に」
「それってまさか」
「初めは軽い気持ちでした。でもそしたら急に真っ白な光がぶわぁって溢れて気がついたら…」
両手に顔をうずめる工藤さん。
その先は到底口に出来ないと言った様子で、俺は工藤さんの言いかけた言葉を代弁する他無かった。
「……俺が、いた?……」
衝撃、と同時に様々な推測や情報が入ってくる。頭部を強打された訳でもないのに視界がチカチカと光って、何かがグシャリと歪んだ。
「だから私が……私のせいで……」
「じゃあ俺は……」
何と反応すればいいのだろう。
それはつまり工藤さんの手によって俺がこの世界に来てしまったということだろうか。
それはつまり工藤さんがナナへのプロポーズを中断した、俺がこの世界で彷徨うことになった元凶ということだろうか。
俺はつまりおまじないのせいでこうなってしまったということだろうか。
怒りとも困惑とも言い果せない感情の前に疑問符が渦巻き、何かの糸がプツンと切れる。それは言うならば現実から離れていくような、渦潮の中心部に吸い込まれていくような感覚に酷く似ていた。
太陽の真っ白な日差しをおぼろげに確認する。白い光に思わず目を瞑ると同時に俺の意識がゆっくりと遠ざかっていった。




