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どこかの三ツ星レストランのウェイターのように上品で繊細な流れでテーブルの上を整える平野ルイ。
冷蔵庫でキンキンに冷やされた水がグラスに注がれ、ナイフやフォークは鏡ばりにピカピカと輝いている。
匠の品が近くのコンビニ弁当だということに目を瞑れば百点満点をとってもおかしくない給仕だ。
「ちょっとルイ。私達こんなに食べられないわよ」
テーブルに並べられた四人前の弁当を前に桐崎さんは、使用人を顎で使う主のようにそれを撤去するように命じると、平野ルイはどこかケロっとした様子で桐崎さんを見返しながら淡白に告げた。
「いえ、これは僕の分です。皆さんにはおにぎりを買ってきましたので…」
そう言って指差したキッチンのカウンターには乱雑にビニール袋の中に放置されたおにぎりの姿があった。
梅干し、ツナマヨ、おかかに明太子。メジャーと呼べるおにぎりの中では牛カルビやオムライスといったおむすびも異彩を放っている。
その光景に、室温との温度差によって曇り出したグラスにニッコリマークを描いていた工藤さんが思わず指を止めて目を見開いた。
「この量は一体……いくらしたんですか?」
量よりも値段の方が気になるのか、いくら返済すればいいのかと心配になっている工藤さんが財布を取りにいく。
すると、平野ルイが慌てて工藤さんを引き止めながら柔和で紳士的な笑みを浮かべた。
「出世払いですから、大丈夫ですよ」
「いや、クレジットカードを美化しただけでしょ」
平野ルイのふざけた回答に桐崎さんがどこからか持ち出したハリセンで頭を引っ叩いていると、工藤さんがお腹を空かせていたのか自分の具材を決めにキッチンへ向かった。
「ノゾミちゃんはおかかで私はツナマヨ。星川さんは何を食べますか?」
「俺はいいです。お腹減ってないので。皆で食べていてください」
ぶっきらぼうに口を動かす。
暑い中クロワッサンを食べたのもそうだが、先ほどのショックから立ち直れていないのか食欲が全然湧かない。
そんな俺を見て空気を読んだのか、ただ単に無関心なのか平野ルイが一つ目の弁当に手をつけると、桐崎さんもこちらの様子を窺いながらおにぎりにかぶりついた。
工藤さんは俺と桐崎さん達の間をキョロキョロとしながら慌てふためいていた。
食べないなら食べないでここにいるのもどうかと思って席をはずそうとすると、工藤さんがどこか気を揉みながら俺の顔を覗き込んだ。
「星川さんがそんなに浮かない顔してたら食べられません。何があったんですか?」
同時に心配そうな顔をしながらそう呼びかける。
「何もありません」
話したくない。明確な意思表示をしたくなくて俺は黙り込んだ。
はっきり言ったらこの場から逃げ出したい。誰とも話したくない。でも、外にいて何かが出来るわけでもないからここにいたい。
相反する想いが行動に出てしまったのか、工藤さんを拒絶するように目を逸らしながら背中を向けると、工藤さんは少し強い口調で俺に言った。
「話してください」
どうやら俺を反故にはしてくれないらしい。
その証拠に工藤さんは背中を向けた俺の正面に回り込むと、腕を大きく開いて通せんぼをした。
「どいてください」
「いやです」
脇を通り抜けても腕をゆっくりと払いのけても俺の正面に戻ってくる工藤さん。
強行突破をしようかとも思ったが背後に二つの視線を感じた俺は床に目線を落として黙りを決めこんだ。
こうすれば諦めてまた一人にしてくれるだろうと思っていると、工藤さんが一歩踏み込んで俺の顔を見上げながら尋ねた。
「小島ナナさんのことですか?」
核心を突くその名前にピクッと肩を震わせる。でも何も悟られたくなくて、強がって無言を貫く。
すると工藤さんが、平野ルイが回収していた初版本をどこからか取り出して俺の目前に突きつけてきた。
「第七章のイラストの部分、破られていました。どうしてこんなことをしたんですか?」
「……見ていられなくて」
見たくない。現実に直面したくなくて苦し紛れにそれだけを言い放つと、何を思ったのか工藤さんが間髪入れずに質問を畳み掛けてきた。
「それは速水レンが告白していたからですか?あなたがその場にいなかったからですか?」
やけに鋭い質問に心が抉られる。
あれは仕方がなかったんだ。タイムカプセルを掘り返した日に再び読み返した手紙。
元からのレンの好意に加えて、ナナのレンに対する想い。そういう偶然が重なってあの瞬間が生まれたんだ。
俺は嫌だったんだ。レンに先を越される感じが。
怖かったんだ。ナナが遠くに行ってしまうのではないかという不安に押しつぶされそうで。
だからもうやめてくれ。これ以上蒸し返そうとしないでくれ。
そう告げようとしたその時。工藤さんが俺の琴線に触れる地雷を踏んだ。
「プロポーズ、していたからですか?」
その単語に思わず反応し、顔をあげて工藤さんの顔を凝視する。真因を突き止めたことに気づいた工藤さんはさらに核心部分へと迫ってくる。
「まだ自分がしていないプロポーズが先にされて悔しかったんですか?」
「違います!!」
我慢が出来なくなった俺はついに自分でも驚くほどの怒声をあげていた。その様子に工藤さんが一瞬の間だけ怯む。
「俺だったら、ナナにあんなことしない。レンより何年も長く一緒にいたんだ。あんな不意打ちみたいなプロポーズ。あれじゃあ、ナナが困惑する」
果たしてそれは工藤さんに告げた言葉だったのか否か。ただ気づけば、知らず知らずの内に敬語を使うのやめ、本音が溢れ出ていた。
「なのにあいつは……。ちくしょう。なんであいつなんだ。俺のほうがいいのに。俺なら違うプロポーズをしていたのに。なんで俺のタイミングはいつも遅いんだ。俺だったらーーー」
「俺ならこうしてたとか、俺のほうがいいとか星川さんは自分のことばっかり。一体あなたは誰を見てるんですか?大事なのはあなたがナナさんをどうしたいかじゃなくて、あなたがナナさんの何でありたいかじゃないんですか?そんな中途半端な存在じゃナナさんは絶対に振り向きはしませんよ」
俺の言葉を遮って告げられた言葉。
耳を塞ぎたくなるほどにその言葉が胸に刺さる。
俺は自分のことしか考えていない、か。
図星だった。レンとの勝負にこだわり、ナナに告白出来ない自分を棚に上げて、あげくは時期やタイミングや状況のせいにして逃げ回って。
一体どれほどナナの気持ちを無視してきたんだろう。
友達以上の関係ってだけで安堵して、他の誰よりも近い異性だと無意識に錯覚して。勝手に優越感に浸って。バカみたいだ。
結局現状に甘んじて何もしていなかっただけじゃないか。
ナナを自分のものだと思いこんでいただけじゃないか。大したこともしてはいないのに。ただ期間が長かったというだけで。
「来てください」
そんな風に考えていたら工藤さんに手を引かれた。今日は誰かに引っ張られてばっかりだなと意識の片隅で思いながらも思考に没頭する。
その間にも工藤さんは自前のバックに財布や破かれた初版本を詰め込み、どこかに出掛ける用意をした。
「後でね、ノゾミちゃん。失礼します、平野さん」
また座り直そうとするも、工藤さんに玄関口にまで連行された。
そういえば誰かにこうやって手を引っ張られるなんて久しぶりな気がする。
この強引さはまさに。
不思議にも工藤さんとナナの姿が重なる。
俺の手を引く工藤さんはあの日のナナによく似ていた。
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閑話7
リュウセイとナナが去り、ルイとノゾミが二人きりになった部屋の中で。
「ねぇ、ルイ」
ノゾミは色を感じさせない言い方でどこか無機質にルイに呼びかけると、彼が返事するのも待たずにある質問を投げかけた。
「ルシファーって知ってる?」
食事を一旦中断するためにフォークを置き、しばし熟考するルイ。
「キリストとかユダヤ教に出てくる頭も見た目もいい堕天使の名前でしたっけ」
辛うじて記憶の戸棚から引き出したのは世界的に見て一番有名な天使の名前だった。
しかし変だ、とルイは首を傾げる。
ノゾミとの過去の会話の中で宗教や神に纏わることを話題にしたことなどほとんどなく、強いて言うなら百人一首の一句で使われた枕詞、ちはやふるが神を意味するといったぐらいだろうか。
他にも神社などにお参りする際の礼儀作法やお盆にクリスマスといった宗教行事について話すことはあるが、専ら季節毎のイベントとしての意味合いの方が強かった。
「そう。神の子供、アダムとイヴがエデンの園から追い出される原因となった天使でね。エデンの園から追放されることを堕落って言うらしいんだけど、一般的には禁じられた善悪の実を食べるようにそそのかして二人を堕落させたことで有名なのよ」
どうやら記憶は正しかったようでルイは内心ホッと安堵する。
同時に何故このタイミングでそんな話を振ってきたのか見当がつかずに途方に暮れる。
「へぇー、そうなんですか。ところで先生って何か信仰してましたっけ?」
もしや、と思い水を一口含む。
いや流石にな、と思いながらもこれは宗教の勧誘なのではと疑問を抱く。
ルイ個人としては、ノゾミが何かの宗教の信者になることに対し何の異論もないが、自分は編集者といういわば中立的な立場だ。
個性溢れる作家と意見を交わす際には、思想や思考も常に第三者の観点から中立的な目線で見なければいけないと自負している。
そんな訳でノゾミに勧誘されないか不安を水とともに飲み込みながら内心ビクビクとしていると、ノゾミはルイの挙動不審な態度に大きく手を振りながら呆れたように即答した。
「まさか。でも小説を書く際に神話や宗教は参考になることが多いから、調べることはあるわよ」
具体的にはギリシャ神話にローマ神話、イスラム教のコーランや仏教の経典など一つずつ宗教名を羅列しながらノゾミは指折り数えていく。
やがてルイの誤解が充分にとけたのを感じ取ったノゾミは再び息を吸い込むと内容を元に戻した。
「それでね。堕落したのには宗派によって色んな説があるから言及はしないけど、ある一説によるとね。人間であるイヴと天使であるルシファーが性的関係を持って、その後にイヴがアダムをたぶらかしたから堕落したっていう解釈があるの」
あくまでとある一説だという部分を強調しながら少し説明を加えるノゾミ。ルイは現実で例えるなら神が親でアダムとイヴが許嫁、ルシファーがイヴの浮気相手みたいなものかと合点していると、その途端、ノゾミがゲスな笑みを浮かべながら鼻息を荒げた。
「これをもし恋愛ものに置き換えたら面白いわよね」
幾ばくか興奮気味に話すノゾミに完全にスイッチが入ったことを認めるルイ。ルイは経験からか話が長くなることを察知すると、右手を左肘に、左手を顎に当てて聴取モードに切り替え、ノゾミの話に耳を傾けた。
「まずはイヴがヒロインで、アダムとルシファーがヒロインを奪い合うイケメン二人。神という親によって定められた婚姻の儀式まで慎ましく暮らしていたアダムとイヴの元に、空からルシファーが舞い降りるの。普段からイヴを実の妹のように振る舞うアダムに対して、知的でクールなルシファーはイヴにとっては正に新鮮な刺激そのもので、段々とときめいちゃうのよ。それから……」
「は、ハハ。そうですね」
「……クールで冷静なルシファーもイヴの清らかな心と美しい身体に次第に感情的になって……」
語ること数分。
ポッと頬を朱色に染め、脳内でイケメン二人にヒロインの奪い合いという名の綱引きをさせるノゾミ。
その熱弁ぶりはルイを萎縮させるには充分で、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
それはさながら少女漫画で妄想を膨らませる乙女のようで、同時に韓流スターに悶える何処か下世話な三十路のおばさんのようでもあった。
「私独自の見解だけどね。例えば神様が物語の作者とか映画の監督とかだったら主役の二人に成長してもらうために恋のライバル兼悪役を投入するのは当たり前だと思うの」
まさか神を物語の作者と想定するなどと思いもしなかったルイは目を点にする。
どこかぶっ飛んだ設定だなと呆れながらも、ノゾミの発想力と着眼点に一目置いているルイは彼女の話に乗ることにすると、少し考えるように宙を仰ぎ見た。
もし自分が作家ならいかにこの物語を面白くするか。
誰にその役目を与えるか。
ルイは最終的に自分の考えがノゾミのものに酷似していることを認識すると、そのまま彼女の意見を肯定した。
「ああ、なるほど。作家として考えたらそうかもしれませんね。神はアダムとイヴを結びつけたいのに一回はルシファーとイヴがくっついてしまうから、まるで神が意図的にルシファーを関与させたみたいだ、と」
「そう。何か変でしょ?ルシファーがそっとしておけば物語はハッピーエンドなのに」
あくまでその部分を物語として見た場合筋が通っているな、と感想を抱くルイ。
アダムとイヴの二人を、なんの邪魔も入れずに結婚させれば全てが丸く収まる成功談で終わったはずなのに、この話はルシファーが関与したことで神に忠誠を誓えなかった子供達の失敗談にも、グダグダでドロドロな恋物語のようにも取れてしまう。
そもそも聖書を物語として捉えている時点で間違いだらけなのかもしれないが、ノゾミのやろうとしていることの大体の趣旨を把握していたルイは神イコール物語の作者説に対して首を振らざるを得なかった。
「どうして僕にこんな話を?」
しかしそこで疑問が残る。勧誘でもない、小説の構想を練っているでもないこのタイミングで何故その話を切り出したのか。
何か深い訳がありそうだと推理したルイは探りを入れるため、若干前のめりとなって声のトーンを下げると、内緒話をするように小さく尋ねた。
「……」
無言でルイを見返すノゾミ。
ノゾミは黙っていても埒が明かないことを察したのか、何か名案を思いついたのか、犬歯が見えるほどにイタズラな笑みを浮かべながら逆に尋ね返した。
「もし仮に『星川リュウセイがルシファー役』だったとしたらどうする?」
「!!!」
ルイの瞳孔が開かれる。
視線はノゾミに固定されたまま動かず、不思議と時間が止まっているような錯覚に悩まされる。
星川リュウセイはルシファー役であるという可能性。
それは彼が物語の悪役とも言える役柄であることを指し示していた。
「ですが……」
そんな設定をノゾミと考えた覚えはないし、そもそも編集するにあたって偏った宗教色は出ないように彼女と話しあったはずだ。
反論の口を開こうとしたが、ノゾミの笑顔に僅かな翳りがあることを見抜いたルイは喉元まで出かかっていた言葉を一旦しまいこむと、様子がおかしいノゾミの顔色を窺った。
すると、ノゾミは何処か自嘲気味に鼻を鳴らしながら顔を俯けた。
「私、【しんごうき】の改訂版を見る度に思うの。小島ナナと速水レンが結びつく結末で本当によかったのかって」
さっきまで得意気だった顔つきが変わり、ノゾミの整った表情が崩れそうになる。それはさながら改訂版の表紙に写る小島ナナのようで、やはりノゾミが小島ナナのモデルなのだ、とルイは再確認していた。
今にも壊れそうなガラス細工のようなノゾミにルイはかける言葉が見つからない。
「神様はアダムとイヴ、ルシファーも含めて全員に幸せを望んでいたはずなのにね」
今しがた去っていった二人が出て行った玄関の方向を見つめながらそう呟いたノゾミ。
まるで当然のことであるかのように告げた言葉に重みはなく、ノゾミは淡々とした様子で溜息を漏らす。
はたしてその嘆きは聖書に対するものだったのか、それとも。
「本当は実らないはずの恋が実ったら一体どうなるんでしょうね」




