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「星川リュウセイ君だね⁈」


 この酷い残暑の中、ダラダラと流れ出る汗を真っ白なハンカチで拭き取りながら立っている男。短く刈り上げられた髪にツルツルに剃られた顎。黒縁に近い青の眼鏡をかけた、背丈や体格だけなら熊と言っても差し支えない、そんな男は懐から名刺を取り出しながら影に隠れた地面の上に座る俺の姿を覗き込んでいた。


「僕は平野ルイ。ノゾミちゃんの、桐崎先生の専属編集者だよ」


 ニヤリと逆光にも負けない白い歯を見せて笑いかけながら俺とその周りの惨状に目を走らせる。


「隣、座るよ」


 男ーー平野ルイは名刺を渡す為にそのまま俺の座る日陰に近寄ってくると、許可も無くどっかりと俺の隣に腰を降ろしながら自己紹介の続きと言わんばかりに名刺を俺の手に握らせた。

 ちらりと名刺に目を向けると、そこには確かに出版社の名前と本人の氏名、その他メールアドレスなど諸々が書かれてある。


「いゃあ、二重の意味で驚きだよ」


 どうやらサシで話がしたいらしく、見知らぬ人物から名刺を貰い、色々と状況が掴み切れていない俺に突飛に語りかけてきた。

 しかし、突然な発言の内容は自己紹介の内容と繋がりがない上に脈絡がなく、は?、と言いたい心境を抑えて何故ですか、と問おうとすると、平野ルイは地面に散らばった紙の破片を何枚か拾い上げながら僅かに冗談めかした声で溜息を漏らした。


「本当にイラスト瓜二つの青年がいることにもビックリだし、物語の登場人物その人が僕が大事に保管していた初版本のページを破っているなんて」


 平野ルイの言葉に俺は自分が先ほどやらかしたことを再確認して縮こまる。冷静さを欠いた行動だったとはいえやりすぎてしまったことは否めない。


「すいません」


 ギクっとなりだした心臓をおさめる為に反射的に謝罪の文句を告げると、平野ルイはほんの少し朗らかに笑ったあと目の焦点を何処か遠いところに合わせた。


「ハハ、いいんだ。ただ皮肉だなと思っただけさ。君がその本を手にしていることも。そして小説の中では一番冷静だったはずの君がこの世界では感情に任せてページを破ったことも。そしてその本を、大事に、ゔ、がんりじていだ僕が第一発見者だどいゔごども」


 身体ごとそっぽを向いて目から汗を流す平野ルイにひどく罪悪感を感じてしまう。先ほど自分が感じていた感情が霞むくらいに悔しそうに啜り泣く彼にとりかえしのつかないことをしてしまったなと、自責の念を抱いていると、平野ルイは眼鏡を外してハンカチで目を抑えながら背中越しに声をかけてきた。


「まぁ、茶番は置いといて。君は主人公補正って言葉知ってるかい?」


 唐突に話を変える平野ルイ。今のは演技だったのかと驚くくらいの切り替えの速さに完全に彼にペースを奪われる。俺は彼の調子に呑まれながら何も言い返せずに固まっていると、目元を拭いていたハンカチで眼鏡のレンズを磨きながら彼はそのまま急にその場から立ちあがってベンチのある方向に移動し、静かに腰を落とした。


「元々は物語やゲームの主人公が絶対に倒せない敵を倒す際に現れる強さだったり武器だったり人間性だったりするものなんだけどね」


 ボソボソとした喋り方は背後からは聞き取りづらく、俺も彼の隣に移動する。そんな俺の様子を知ってか知らずか一旦間を開けた平野ルイは地面に視線を落とすとゆっくりと眼鏡をかけた。


「それって結局作者が物語を有利に進める為に一番楽な方法なのであって、物語の主人公的には作者の決められたルートをただ歩んでいるだけだったりするんだ。本当は当事者自身が決めた結末を歩むべきなんだろうけどね」


 語りながら、チラリとベンチの辺りに広がる破られたページの破片に意味深に視線を送ってまたもやタラリと流れてきた汗をぬぐう。その仕草の意図を計りかねて同様に地面の上に置かれたページの破片を見つめる。

 俺が破いた第七章の、ナナとレンが抱き合っていた挿絵の載ったページ。ナナやレンと一緒に俺がいた、俺の世界の俺たちのことが綴られた小説。今はただ歪んで見える物語。


「小島ナナはね」


 またこみあげてきた苛立ちと共にイライラをぶちまけようとしたその時。平野ルイが俺のよく知るその名前を口にしながら俺の肩にそっと手を置いた。


「小島ナナはね。本来そんな、自分で自分の未来を決めるキャラクターだったんだ」


 まるでナナの全てを知っているような語り口にチクリ、と胸を小さな針で刺したような痛みが広がる。

 俺の方が長くナナと一緒にいたし、ナナのことを一番よく知っている。

 一緒にいたこともない奴が勝手にそんなことを言うな、と反論を試みるもしかし、開いた口から漏れたのは乾いた空気だけで。ナナの事は俺が一番よく知っている、とそう言いたかったのに、結局なに一つ口にすることが出来なかった。

 何も反論出来ないのはここが現実だと分かってこの世界を認めはじめているからだろうか。小島ナナの誕生に平野ルイが携わっている、と彼の口調から推測出来るからだろうか。それとも、自分の知らないナナの話を読んでしまったからだろうか。


「もう知っていると思うけど、改訂版では小島ナナは速水レンと結ばれるんだ。やっぱりカップルが生まれるハッピーエンドの方が一般的には一番魅力的だからね」


 自然に拳に力が入る。

 そんなことはとっくのとうに知っている。だと言うのにそう口にするだけの勇気が俺には無かった。

 なぜならそれだけしか知らないような気がしてきたから。

 あんなに長く一緒にいたのにナナのことを全く知らなかったから。

 いや、今でもまだ知らないのかもしれない。

 結婚式のことも、タイムカプセルのことも一番近くにいたはずなのにどうして聞き出せなかったんだろう。

 チャンスはいくらでもあったはずなのにどうして今の今まで先延ばしにしていたんだろう。

 告白だってもっと先に。それもレンとナナが再会する前にすることだって出来たはずなのに。

 どうして俺はスタートダッシュがいつも遅いのだろうか。


「なんで……」


 恐る恐る口を開く。呂律が回っているのかも分からないくらいにボソっと小さく。

 ふと平野ルイが告げた主人公補正、という単語が頭をよぎった。

 もはや世界が敵に回ったようなこの孤独感。自分だけが置いていかれるこの感覚。

 実際ナナ達に手が届かない世界にいる今、それだけが身近に感じられる。

 これが主人公なら自分の世界で起きたどうしようもない状況にも勇敢に立ち向かうのだろう。

 でも俺は……。

 また泣き出しそうになって唇を噛みしめる。

 一番初めに好きになった人と一緒になりたいと夢見たナナに、幼稚園の頃に書いた手紙の内容を実践するレンに、物語の主人公でも何でもない俺はどう対抗すればいいのだろうか。

 補正なんて何一つもらっていない俺は一体何をどうすればいいんだろう。

 神に乞うかのように心の中で解決策を懇願する。自問自答を繰り返しさえすれば自ずと答えが出ると信じて。そんなことは無駄だと分かっているのに。


「先生は敢えて言わなかったみたいだけどね。これだけは言っておくよ」


 そんな俺の心の呟きを知ってか知らずか。ただ落胆する俺を見兼ねただけかもしれない。思考の悪循環に呑まれる俺に対して、平野ルイが俺の顔色をうかがいながら肩から手をどかすと、柔らかな息遣いとは裏腹にどこか辛口な口調でハッキリと告げた。


「君は見たところ感情的になり過ぎだ。まずは一旦第三者として落ち着いた目線から自分を見つめた方がいい。きっとすぐに冷静になれるし、もっと細かいところに目がいくようになるよ」


 覚悟を決めて口にしたのだろう。強い意志を持って放たれた言葉はなんの防具も対抗手段もない俺の心に痛いほど染みた。

 確かに俺はいちいち小さなことに反応して、それで現状から目を背けていた。

 そう自覚させるほどに彼の批判はズシリと重く、俺の何かに訴えかけていた。

 でも。今の俺の頭の中はナナのことでいっぱいで。レンの方が数段先をいっているという事実に押しつぶされそうで。

 今思考を放棄してこの状況を手放したら二度とレン達と同じ場所には立てないような気がして。


「まずは君がどう帰るかが先決だと僕は思う。君がこの世界の人間じゃないにも関わらず、本来知るべきではないものを知ってしまったのには同情はする。けれど、今大事なのは初版本の結末とかそういうのじゃない。それから……」


 もはや平野ルイが何を言っているのか分からなくて半分ほど聞き流していた。

 結末が大事じゃない?先に俺がどう戻るかを考えるべき?

 でもこうしている内にナナがいなくなる。レンがナナを連れ去っていく。

 優先順位が分からなくなる。

 どうすればいいのか分からなくなっている間、平野ルイはまだ口を動かしていた。

 多分この人は俺に一旦ナナ達のこと忘れて欲しいんだと思う。

 レンが告白したこととかナナの気持ちのこととか全部含めて。

 そんなこと到底無理なのに。でもどこか冷めた自分が彼の言い分を理解しているのも事実で。

 俺はたまに相槌を打ちながらただなんとなくそれだけが分かった風な態度を貫いていた。

 しばらく経ってふと平野ルイが時間を確認しながら俺に笑いかける。


「……そうだね。時間も時間だし、先生達の分と一緒にお弁当でも買って小島さんの家に戻ろうか」


 ベンチから立ち上がりながら地面に転がる初版本を手にする平野ルイ。

 そのまま一緒に行こう、と優しく声をかけながら手を差し伸べてくる。

 それはさながら救いの手を差し伸べる神のようで現状から目を背けるための逃げ道のようでもあった。


 あぁ、俺はまた問題を先延ばしにするのか。


 逃げ道に手を伸ばす。何度繰り返したかも分からない逃避行動。いつかツケが回ってくるのを知りながらも、もう払い戻しが効かないことを知りながらも足を踏み入れる。

 逆光にも負けない真っ白な歯を見せるその笑顔と明るさが、まるでズタズタな俺の状態を嘲笑うピエロのようで見ていて息苦しかった。

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