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閑話5
カチャリ、と液体の入った陶器がテーブルの上に置かれる。
底が見えるくらいに透き通った緑色の液体、お茶からは白い湯気がふわふわと空を舞うように飛び立っている。
「お茶です、どうぞ」
「いえいえ、わざわざありがとうございます」
湯のみからきめ細かくなめらかな手が離れ、代わりに小動物を彷彿させる可愛らしいトーンをした声が澄み渡る。
「ノゾミちゃんも」
「…………ありがと」
声の主、ナナはくりっとした瞳をノゾミに向けながらお茶を渡すとそのままテーブル周りの空いていた席に腰を落ち着けた。
ルイがリュウセイを見つける数時ほど前。現在、テーブルの周りをルイとナナとノゾミが向き合って鼎談する形で囲んでいた。
ノゾミはナナが席に着いたことを目にすると、コホンと咳払いをしながら裁判官のようにテーブルを叩いて口を開く。
「で、なんでルイがここに来れたわけ?」
先ほど、ナナが逃げ込んだ場所で小さな格闘があったからなのか、ノゾミの髪はやや不安定に飛び跳ねている。
「そうですね……」
ノゾミはそんな騒動を無かったことのように振る舞い、髪を直しながらルイを見つめていると、ルイは綺麗に剃られた顎の辺りをボリボリとかきながら事の顛末を語り出した。
先週の金曜日。
ノゾミの原稿と貸し出していた資料を預かる為にノゾミの住む最寄りの駅で降りたルイは予定より一時間ほど早く着いてしまったことに気がついた。
職業柄、駅前の本屋で立ち読みしたくなったルイは本屋で時間つぶしとなるような新作の本や未だ手付かずだった古本などを漁っていると、突然、ふと目にした一角でぴょんぴょんと飛び跳ねている、後にナナと判明する、女性を発見した。
どうやら棚の一番上の段に置かれた本を取ろうとしているらしい。
一度跳ねる度にスカートが下着が見えるギリギリの位置、神の領域を越えて見えるか見えないかのところで揺れ動いていた。
ルイは釘付けになりかける視線を必死に逸らしながら自分に語りかけた。
例え僕が根っからの日本人でも、心は英国紳士顔負けのジェントルマンだ、と。
ルイはこみ上げてきた下心を必死に振り払いながらナナに近づいていくと、ルイはなるべく渋い声を作りながら彼女の隣に立った。
「あの~、取りましょうか?」
声だけ聞けば痺れてしまうのではないかと疑うくらいダンディな声。
しかし、ルイの鼻の下は猿のように取り繕っていても隠しきれないほど伸びていて、せっかくの紳士っぽさが台無しだった。
「えっ?あー、はい。お願いします」
目を覆うほど長い髪に、無精髭。
おまけに熊のような大柄な体型をしているルイはそばから見れば怖い。
しかし、ナナはそんなことなど意にも介さないのかただただ鈍いのか、嫌悪感を見せることもなく純粋に好意だけを受け取った。
「これですね……。ってあれ?もしかして桐崎先生のファンの方ですか?」
ルイが取ったのはノゾミが書いた小説の内の一冊【しんごうき】。
ノゾミのデビュー作であると同時に、過去に発売日から二週間もの間ベストセラー本となった知る人ぞ知る有名な作品にルイは思わずそう尋ねると、ナナは控えめに両手で本を抱えながらルイに答えた。
「はい、そうですよ。ノゾミちゃん、じゃなくて桐崎先生の作品は全部揃えてます。今日来たのもミニ文庫版を買い揃えようと思って……」
筋金入りのファンっぷりに感心を通り越して涙が出そうになるルイ。
しかし、ルイはノゾミちゃん、と漏らしたナナのことが気になって、そのまま遮るように声をあげた。
「ノゾミちゃんって……失礼ですが、桐崎先生の知り合いの方ですか?」
「あ、はい。大親友です」
ナナがあまりにも素っ気ない言い方で返したばかりにルイのテンポが一瞬遅れるも、その後、彼はいそいそと取り繕うように胸のポケット内を探るとそこから名刺入れを取り出した。
「……そ、そうですか!あ、実はわたくしこういう者でして」
名刺を取り出して渡しながら軽く礼をするルイ。
ナナは若干戸惑いながらも名刺を受け取ると、そこに記されていた名前と職業に目が釘付けになった。
「平野ルイ、さん。えっ?ノゾミちゃんの担当編集者さんですか?」
ノゾミから既に彼のことは聞いていたのだろう。ナナはキョトン、とした様子でルイに尋ねるとそのまま貰った名刺をバッグから取り出した財布の中に入れた。
こんな公の場で財布を堂々と取り出したナナを見て、ルイは肝が座っているなと褒めるべきか、警戒心が足りないから注意すべきか迷ったが、結局何も言わずに彼女の質問にのみ焦点を向けることにした。
「そうです。いつも桐崎先生にはお世話になっております」
「そうですか。あっ、私は工藤ナナと申します。学生なので名刺は持っていないんですけど…」
「いえいえ、お構いなく」
その後会話が弾むわけでもなく双方黙ったままで突っ立っていると、ルイが何かに思い当たったのか自分の腕時計を一瞥しながら彼女にある提案をした。
「あの、突然で申し訳ないのですが、この後お時間はありますか?良ければ先生の作品について工藤さんの感想をお伺いしたいんですけれど…」
せっかく先生のファン、しかも桐崎ノゾミ自身を良く知っていそうな人と出会ったこの機会を逃す手はない。
そう思ったルイは押し付けがましくないよう低姿勢を保っていると、ナナはその提案に対してケータイで時間を確認しながら少し考える素振りを見せてこう言った。
「三十分くらいなら大丈夫です」
「では、近くの喫茶店でいいですか?」
「はい。よろしくお願いします」
二人は窓際の席に腰かけるとお互いにアイスコーヒーを頼みながら談笑をはじめた。
注文が届く頃合いにはすっかり打ち解けた二人の話題は軽い自己紹介から先ほどナナが購入したミニ文庫版の小説へと移り変わっていた。
「やっぱりノゾミちゃんがイラストのモデルだと違和感がありますね。本人はそんな三角関係の恋愛なんか絶対しないだろうから」
「そうですよね。普段の先生のイメージとはかけ離れてる気がしますもんね」
少し内容を振り返ったあとに主人公のイラストについて感想を述べるナナ。そのモデルになった作者との相違点にルイが同調していると、ナナが物語のラストについて語りだした。
「最後のイラスト、えっとレンと結ばれるところ、あるじゃないですか。あそこなんて全くの別人みたいな気がします」
「あ、ああ。改訂版のほうか…。そうですね。あれはもう乙女チック過ぎていかにも文学女子って感じの先生とはまるっきり雰囲気が違いますよね」
脳裏にあるイメージを新しいイラストに塗り替えながら自分の意見を述べるルイ。そのままアイスコーヒーに手を伸ばすルイの対面ではどこか怪訝そうな顔をしたナナが彼に疑問を投げかけていた。
「改訂版のほう?どういう意味ですか?」
ルイの意見に賛同するか否かよりも先に改訂版という単語に興味を覚えたのだろう。ナナはバッグから先ほど購入したミニ文庫を取り出すとパラパラとページをめくりながら首を傾げた。ミニ文庫版にはイラスト及び表紙のイラストでさえも無くなっていて、ルイが気にかけていたような内容ではない。
ますます意味が分からないと言いたげなナナの表情にルイは慌ててコーヒーを飲み込むと、そのまま出版社と一部の書店ぐらいしか事情を知らない情報を口にした。
「あー。僕が言ってるのはいわくつきの初版本のことなんですよ。先生から話は聞いてませんか?」
自らを桐崎ノゾミの大親友と豪語したナナがデビュー作に纏わる裏事情を知らないことに対して僅かに疑問を覚えたルイだったが、あー、それか、と言って急に表情を明るく染めたナナは何やら訳ありに説明をしだした。
「聞いてますよ!でも私まだ読んだこと無いんですよね。だってノゾミちゃんに、『ナナちゃんにはちゃんと出版されたこっちの最初のサイン付きの方を読んで欲しい』って言われたら断れないじゃないですか。隙を見てノゾミちゃんの部屋からとっちゃえ、て思っても『もう、バイト先の収入に貢献しないわよ』って言われるし」
「ハハ、先生らしい」
改訂版を印刷する間際の数週間の間にフルスピードで原稿を書き換えていったノゾミの姿を脳裏に浮かべながら思わず頬を緩めたルイは、その後、何かに思い当たったのか急いで自身のA4サイズのファイルが入りそうなほど大きなクラッチバッグの中をまさぐると何かに指先が当たった瞬間にニヤリと口角をあげながらナナに申し出た。
「この本はまだ持ってないだろうーーと、思うんですが、もし良ければここでちょっと読んでみますか?いわくつきの初版本」
そのまま、えっ?嘘。持ってるんですか?、と狼狽えるナナの目の前に得意げにドカリと限定カバー付きの初版本を置いたルイはチラリとナナの反応を確認しようと目を上げると、そこにはアワアワと慌てるナナの姿があった。
「えー、どうしよ⁈読みたいけどノゾミちゃん怖いし。そもそも、あっ、電車の時間が!」
読みたい。けど、親友との約束が。それに、電車の時間が。
困ったようにあくせくとするナナにルイはフッとまた突然紳士モードに早変わりすると、低めの渋い声で声をかけながら彼女に本を手渡した。
「では、本は貸すのでいずれ会った時にでも返してください。今後も先生の作品をご贔屓に。あ、あとこのことは先生には内密にしておいて……」
「ありがとうございます料金ここに置くんで来週の同じ時間帯にあそこの焼き鳥店の近くにある大きなマンションに来てください私そこに住んでるんでその時に返却いたしますそれではまた」
一気に大量の情報をまくし立てたナナはお釣りはいらないと言わんばかりに100円をテーブルの上に置いてその場を去っていった。
「ハハ。住所も教えてもらったし。お金の足りない分は僕が出しておけばいいか」
ルイは会計を済ませて店から出ると目的地であるノゾミの住むアパートへと向かっていった。
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閑話6
「最後に一つ聞かせて。ルイはどうやってここまで上がって来れたの?鍵もないし、詳しい部屋番号だって知らないはずなのに」
「それはですね。工藤さんの部屋番号を郵便受けで確認した後に買い物に出掛ける主婦の方の横を通り抜けて……」
拳をギュッと握りしめて何かに耐えているノゾミに対し、ルイはしれっとそう答えると、ノゾミは我慢が尽きたのか口から炎を吐く勢いでルイに迫りながら彼を叱責した。
「それって犯罪よ⁈家宅侵入罪で捕まるわよ⁈何を考えているの?」
「まぁまぁノゾミちゃん。はい、深呼吸、深呼吸」
「ナナちゃんも……すぅー、はぁー。……もうあなたたちには呆れて物も言えないわ」
ガミガミと口うるさく喚くノゾミをがんじがらめに抑えこみながら、ナナは彼女に落ち着きを取り戻すよう促す。一瞬怒りの矛先をナナに向けそうになったノゾミだったが、流石に呵責するに値せず、もう痛棒を食らわせるだけ無駄だと悟ったのだろう。
ナナに言われたとおりに深呼吸を繰り返したノゾミは、最後に文句に近い、小さな苦言を呈すると完全に口を結んだ。
その後、部屋を支配したのはなんとも言えない沈黙。正確にはノゾミが途端に静かになった拍子に生まれたギャップという名の間。
緊張感とも無言を貫いた状態とも呼べない場の雰囲気に居心地の悪さを感じたのか、単に空気が読めないだけなのか。
ルイは先ほどまで怒鳴られていたことなどケロっと忘れた、悪気のない少年のような眼差しでノゾミとナナを交互に視界に入れると、何事もなかったかのように当初の目的である仕事の話をノゾミに持ち出した。
「茶番はさておいてですね、桐崎先生。つかぬ事をお伺いしますが、原稿はすでに仕上がっていますか?昨日も夕方にかけて電話をしたんですけれど返事が来ませんでしたし。明後日が締め切りですよ?」
冬の始めには市場に出回ると思うので工藤さんもどうぞ、とナナにちゃっかりと宣伝をしながらもルイはノゾミに締め切りについて釘を刺していると、ノゾミは昨晩の沙汰を思い出しながらテーブルの上に自らの額を乗せた。
「昨日はちょっとしたいざこざがあって準備なんてところじゃなかったのよ」
そのまま愚痴を漏らすノゾミは疲労が溜まっている声も助長して、すっかり水分が抜けた花のように萎れている。
「そういえば私も、星川さんのことでそのくらいの時間帯に電話をかけてたのにノゾミちゃん、出なかったしね……」
そんなノゾミを見つめながら昨日のことを思い返していたのか、ナナもポツリとルイと似たようなことを漏らすと、ルイの地獄耳が星川さんという名前に反応し、口を挟んだ。
「ホォー、星川さんとは、その、工藤さんのお友達ですか?」
あくまで、紳士的に素っ気なく。
しかし、ルイはナナの人間関係に多少興味があったのか少々首を突っ込んだ質問をすると、ナナは先ほど出て行ったリュウセイが座っていた席を一瞥しながら等閑に付する姿勢でさらりと答えた。
「いえ、あのほら、【しんごうき】の登場人物の星川リュウセイさんですよ。昨日は星川さんが本の中から出てきたから、それで……ムゴ!!」
「へっ?出てきた?誰が?」
一瞬自分の耳を疑ったルイ。物語の中から登場人物が現れるという非現実的なことが起こるはずがない、と確信しているルイは聞き間違えかと思い素っ頓狂にそう返す。
同時に何処か慌てた様子でナナの口元を押さえたノゾミは、ルイの疑惑の篭った視線にもう手遅れなのだということを悟ると、何度ついたか分からない溜息を吐き出した。
「はぁ、また余計なことを……うぅ」
苦労人、という字がピッタリ当てはまりそうな体勢で自分の席に座り直す。
ノゾミは暫しの熟考の後、少しだけ温くなったお茶に手をつけると、ナナに向かって一つ頷きながら、まるで遠い過去のことを話すかのようにその話題を切り出した。
「まぁルイも無関係じゃないから話すわ。実はね……」
ナナが初版本を読んでいたら、星川リュウセイが本の中から出てきたこと。
自分が帰宅時に電車に乗ったあたりからナナが電話をしていたらしいこと。
最終的に繋がったのは偶然にもリュウセイをストーカーだと思い、警察に通報しようとしたその瞬間だったこと。
その後も、リュウセイが改訂版を読むにあたっての経緯から現在に至るまで、時折ナナの補足が入りながらも細部までかいつまんで語っていく。
最初は半信半疑だったルイも、ノゾミの語り口とナナの真剣味のこもった双眼に次第に耳を傾けるようになった。
「なるほど。そんな事が」
やがて全てを説明し終えた二人の前で綺麗に剃られた顎を撫でながら話の内容を噛み締めたルイは、当本人である星川リュウセイの姿をキョロキョロと探しながら彼女達に尋ねた。
「それで今彼がどこにいるかは分かるんですか?」
無言で首を振る二人。リュウセイの行方に対する手がかりは現在、何一つ存在しない。そんな状態で冷静に状況を分析していたルイは突如不気味な笑い声をあげると、急に紳士風にきりりとノゾミ達を見つめて得意げに胸を張った。
「ふっふっふ。これは締め切り間際に逃げ回る桐崎先生を追跡するうちに培った、自慢の探偵スキルを持った僕が探しにいくべきですね」
一見すると正気を疑う発言だが、ルイの探偵スキルは折り紙つきだ。
かくいうノゾミも締め切り間際でルイから逃げ出す際には必ずと言って過言ではないほど捕まっていて、思わず自分の携帯電話の番号表に警察の番号を登録してしまったくらいには被害を受けている。ルイの警察犬を思わせるストーカー並みのしつこさはそんじょそこらの編集者の中では群を抜いていて、締め切りを守る、という点では彼は確かに優秀な編集者だった。
「そういうことにしておくわ。原稿は渡すから星川リュウセイを探してきて」
「そういえば伝えてもいないのに、ノゾミちゃんがここにいることも知ってましたもんね。確かに心強いです」
流石に自分の件で立証されているルイの特技に難癖をつけるつもりはないのだろう。
ノゾミは何故か感心を通り越してキラキラとした尊敬の眼差しをルイに向けるナナを無視して、
「はい、もう行きなさい」
とルイを手で軽くあしらうと、次の瞬間、何か言いたげな彼の手を引き、背中を押してトントン拍子に部屋から追い出した。
「えっと、桐崎先生?」
「じゃあ、ルイ。やっぱり、あなたのそのお得意な探偵スキルで星川リュウセイを探し出せたら原稿を渡してあげる。ナナも頼りにしてるみたいだからそっちは任せるわよ。じゃあ、これとこれでね。はい、よろしく」
ルイはノゾミが引き起こした一連の流れに逆らうことが出来ずに最初の立ち位置まで戻ってくると、完全に閉まりきったドアに手を伸ばした。
「ちょっと、待っ…!」
バタン。
ノゾミは、ルイの胸元に手がかりになりうる改訂版の本と、今朝リュウセイに渡したものと同じクロワッサンが入った紙袋を押し付けると、さっさと行けと言わんばかりにドアを閉めた。
僅か数十秒間に起こった行動にルイは着いていけず、自然とその場で立ち尽くす。
「まぁ、原稿をもらう言質を取ったからいいかな、ハハ」
ルイはあくまで事をポジティブに捉えると、約束を果たしてもらうべく、何処か軽い足取りでマンションから立ち去っていった。
そして数時が経ち、帰ってきたルイ。その傍らには俯いたまま表情をチラリとも見せないリュウセイの立ち姿があった。




