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視界がグルグルと回転している。公園のコーヒーカップ以上の速度で回る視界に吐き気を催すも、徐々に視界はコマのようにゆっくりと揺れ、そのまま俺はパタリと倒れた。
同時に周りを包んでいた白い光が弱まっていく。
どんどんどんどん淡くなっていき、終いにはバンという音を立てながら光は完全に鳴りを潜めた。
「うー、うーん」
どうやら回転すると同時に俺は勢いよく床に倒れたらしい。
その証拠に俺の下にはツルツルに滑る木目が印象的な綺麗な床があり、よくフローリングされているであろうことが一目で分かる。
「何が起きた?」
正直身体が重いが、今は何が起きたのかを知ることが重要だ。
腕に力をこめ、身体を起こすと、俺は周りの景色が変わっていることに気がついた。
まずはここはあの憩いの場ではなく、誰かの部屋であること。
その証拠に、壁はピンク色に染められていて、一部には写真も貼ってある。
他にも洋服棚、鏡、勉強机にふかふかの絨毯など、おおよそ女子の部屋と想像出来る物がきちんと整頓されてあった。
「イテテ……。ここどこだよ?」
俺はひとまず周りの状況を確認する為に辺りを見渡すことにした。
本棚から天井へ、天井からベッドへと上下ジグザグに目線を動かしていく。
誰もいないなーーと思っていたら突然、俺の両目がとある女性の姿を捉えた。
「えっ?誰?」
いきなり現れた見ず知らずの女性に面食らい、困惑していると、女性の方もビックリした、という様子でアワアワと口を開いたり閉じたりしていた。
「う、ウソ……。そんな、あり、え、ない……」
見るからに驚愕していると分かる慌てっぷりに、さっきまで混乱していたこっちが冷静になってゆく。
しかし、数秒、数分と経過していくにも関わらず女性は頭を抱えたり魂が抜けそうになっていたりだ。
その様子に段々と苛立ちを募らせていくのを肌で感じた俺は、そのイライラを撒き散らすが如く少し低音のドスのきいた声で彼女に尋ねた。
「あなた誰ですか?ここどこですか?」
俺の質問に身体がビクンと固まる女性。
けど、俺の質問で幾分か自分を取り戻したらしく、女性は息を吸って吐いてをしばらく繰り返した後に俺を遠慮がちに覗きこむと、そのままオロオロとした様子で口を開けた。
「えっと、えっと……。私は工藤ナナです。で、ここは私の部屋で…」
ナナ。
その名前を聞いた途端、俺の脳内では先ほどの光景がカメラのフラッシュのように蘇った。
「そうだよ。俺はナナと一緒に公園にいて……」
もう目の前の女性の話など耳朶に触れない。
俺はついさっきまでの記憶を繊細に思い出すと、暫し自分の思考に入り浸った。
登りは急で、下りは緩やかな峠道。
車やバイクのエンジン音が流れ去っていく歩道で、俺たちは公園を目指して歩いていた。
そして俺のポケットの中にはナナに渡す予定だった全バイト代をはたいて買った金の指輪が。
イニシャルまで彫ったなんの変哲もない指輪だったが、俺はその指輪とともに結婚を申し込むつもりだった。
どんなに勝算がなくても、ナナにどう思われようとも渡したかったから。
一緒にいたかったから。
そしてようやく辿り着いた公園の池の片隅で俺は彼女にプロポーズの言葉を囁いたーーつもりだった。
でも何故か身体は白い光に包まれて視界は反転していって……。
最終的に俺は誰かも分からない女性の部屋の中で倒れていた訳だ。
確かあの時、ナナも一緒に巻き込まれた気がするのだが憶えていない。
ちくしょう。
一体全体、何が起きたんだ。
俺は頭を掻き毟りたい衝動に駆られながら目の前で狼狽えている女性を見つめると、冷静さを欠いた声で尋ねた。
「ナナは?ナナはどうした?」
「わ、分かりません」
知らないだと…。
思わず胸ぐらを掴んで問いただしたくなるが、俺の中の沈着な部分が寸前のところで俺を止める。
「知らないってどうゆうことだよ⁈」
頭が混乱する。
現状が分からずに怒鳴る。
八つ当たりだと分かっていてもだ。
俺は爆発しそうな感情をなけなしに近い理性で必死に抑えながら拳を握る。
目の前の女性は俺の怒りを肌で感じているのか、涙目でこちらを見ながらごめんなさい、と謝ってくる。
俺はそんな彼女を見ながら、いや、無関係な人に怒鳴っている自分をどこか客観的に見ながら小声で悪態をついた。
何故こんなにイライラしているのかわからない。
同時に何故自分がこうなっているのかも。
こんなに怒ったのは初めてで、でも何に対して怒りを覚えているのか分からなくって。
そんな俺に何を思ったのか、女性はただ平謝りを続けながら俺を宥めようと手を伸ばすと、パタン、という音と共に何かが彼女の腕の中からこぼれ落ちた。
真新しいブックカバーが被せられた単行本らしき本。
落ちた拍子に飛び出たしおりが俺の近くまで転がってくる。
俺は何故だか分からないけど何かに吸い込まれる気がして無意識に本に手を伸ばすと、徐に本のページを開いた。
初版の恋愛小説。
大学生の女性が主人公の一般的な普通の小説だ。
けれども、俺の手はページを中ほどまでめくったところで止まってしまった。
「これ……。ナナだよな?」
茶色に染まったセミロングの髪。
白いカチューシャに目が惹かれがちだが、それ以上に長年見慣れた彼女の顔が微笑んでいる。
決して見間違えることのない想いを寄せる子の顔。
自分の目が信じられずもう一度二度見するもやはりその表情は変わらない。
俺の思考は理解の範疇を超えたおかげか、知らず知らずの内に固まっている。
すると、俺の様子をじっと見ていた女性がおずおずと俺の手から本を抜き取ると、静かにしかしはっきりと俺に告げた。
「ナナさんってこの小説の中の小島ナナさんですよね?この物語の主人公の」
俺は呆然とその言葉を聞き流す。
小説の中の主人公?
ナナが?
なんで?
俺の脳内が疑問符で溢れかえる中、俺の無言を肯定と受け取ったのか女性はやおらブックカバーを外すと、本の表紙に写された三人の絵を見せて来た。
中央に不安げに手を組むナナの姿があって、その背後では俺と、もう一人見慣れた青年が背中合わせにナナを見つめている。
「速水、レン……」
忘れることはない、ライバルの顔。
大学に入学した際に急に現れた二枚目。
そこには俺にナナへの恋心を自覚させた男、速水レンの姿が描かれていた。
どうして俺たち三人が、と疑問に思ったのを敏感に察知したのだろうーー女性は俺のことを真っ直ぐに見つめながら居住まいを正すと、徐に口を開いた。
「あなたは、星川リュウセイさんですよね?登場人物の」
登場人物の、という言葉が頭の中で復唱される。
まるで、聞いてはいけないことを聞いてしまった時のように。
耳の中にしっかりと残って。
俺はまた徐々に混乱しだした頭を抑えながら絞りだすように声を発した。
「なぁ。俺ってまさか……」
言葉が喉に突っかかる。
冷や汗が背中をダラダラと伝い、目の前が真っ白になっていくと錯覚する。
続きを言おうにも頭が理性が身体が全て拒否反応を示して、俺の口を開かせない。
もしかして、俺は……。
そんな俺の耳に届いて来たのはどこまでも残忍で残酷な、絶対に聞きたくなかった真実だった。
「はい、そうです。……あなたは本の中の人物です」
頭を殴られるような衝撃が身体中を走り回る。
ハアハア、と呼吸が乱れ、荒くなり、鳥肌が立つ。
事実を無意識に受け入れようとする自分と、事実を認めたくない自分が抗い、競い合う。
意味がわからない。
俺のいた世界は本物じゃない?
小説の中の世界?
分からない。
そんなの分かるはずがない。
じゃあ、俺は…。
心の中のどこかで認めてしまえという声が聞こえる。
これが事実だと。
「嘘だ」
でも俺はそんなこと認められるはずもなく、頭がパンク寸前になって。
俺は頭を無理矢理振りながら立ち上がると、そのままこの部屋の玄関を探した。
今は冷静になりたい。
一人になって思考を整理したい。
そんな俺の願いが叶ったのか、あっさりと出口を発見した俺は、俺を止めようと手を伸ばした女性の腕を振りほどき、ドアノブに手をかけた。
どうやらここはマンションの一室らしい。その証拠に目の前のベランダらしきところから下が見渡せる。
俺は一目散にエレベーターがあるであろう場所に向かうと、その隣に隣接している階段を使って下に下っていった。
そのままマンションを出て、脇目も振らず、ただ我武者羅になって歩道に出る。
行き先などわからない。
道も分からない。
俺はとりあえず頭ん中を整理したくて脚をこれでもかというぐらい振り上げると、俺はどこか見慣れた景色に辿り着いた。
スーツを着た大人や制服を着た学生が行き交う大通り。
駅へと繋がるこの場所は俺が住んでいた場所から最も近い最寄りの駅へと続く道だ。
「なんだ。ドッキリじゃんか。なんだったんだよ、マジで。驚かせやがって」
そうだよな。ドッキリだよな。
普通ありえないもんな。あんなこと。
俺はどこか納得した様子で胸を撫でおろすと、辺りを見渡した。
何も違わない。何も変わらない。
「んっ?」
と、思っていた矢先。
ふと、覗いた看板の文字に疑問を覚え、近づいてみた。
「あそこって、マスター・ドーナッツがあった場所だよな?」
そこにはマスターの代わりにMr.と記された看板が。
他にも竹家は竹の字が松に、ワックはWの字がMになっていた。
他にもあの店ってあんな名前だったっけ、と思わせる名前が幾つも並び、頭がまた混乱する。
俺はもしや、と思い横断歩道を渡ると、駅まで全速力でダッシュした。
まさか、そんな、と思ってはいるものの、なんとなくこの先に見えるものが分かる気がして、俺は見たくないという自分の気持ちと葛藤しながら、そのまま無我夢中に駆け抜けた。
人の波をうまく避けながら改札口へ。
すぐ隣の切符売り場を見た俺は衝撃のあまりに目を疑った。
「小田急線って……」
顔をあげて見た線路図には青い文字で小田急線と書かれている。
本来は小馬急線と書かれてあるはずのところが。
俺は目の前の事実を呑み込むことが出来ず、ただ呆然と棒のように立ち尽くしていた。