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真っ暗闇に包まれた視界の中。
心中に突如現れた絶望の渦に巻き込まれた俺は、第七章のもうどうにもならない展開に過剰な息苦しさを感じながら、レンがまたしても告白した、というその事実に呑み込まれ、もがき苦しんでいた。
何してんだよ、俺。こんな時に何呑気に指輪買ってんだよ。
矢継ぎ早に俺を批難する声が轟く。
しかし、そんな声は荒ぶれた精神という名の激流の中ではなんの意味も持たず、俺の意思や感情はぐちゃぐちゃに鬩ぎ合い、揉みくちゃにされ、悲哀の荒波にこれでもかと掻き乱されていた。
なんでわざわざこの日なんだ。
なんでよりによってこの日が重なってるんだ。
怒っているのに、まるで泣き叫ぶように掠れた疑問が俺の頭上に降り注ぐ。
おかしいだろ。俺が先にナナに告白するつもりだったのに。
先手を取って、レンと大きな距離を取って、ナナの心を勝ち取るつもりだったのに。
なんでしゃしゃり出てくるんだ。
どうして俺を追い越していくんだ。
けれど俺の疑問に答えるものは愚か、むしろ無理難題へと進化していく現状に俺は自分自身の無力を悟らざるを得なかった。
これじゃあ、ナナに告白なんて出来ないじゃないか。プロポーズなんて尚更無理じゃないか。
それにナナは言っていた。
自分の事を好きになって最初に告白してくれる人と一緒になりたいと。
俺はどうだ。
好きになった時期も、告白をするタイミングも皆まとめてレンより遅いじゃないか。
あまりの惨状に気持ちが、精神がうらぶれる。もう俺の心はズタズタでボロボロだった。
「くそ~!!!!!!!!!!」
バン、と力任せに自分の太ももを引っ叩く。
俺は自分自身に怒っていた。これ以上などないくらいに凄まじい勢いで。
けれどその太ももの痛みは、むごい現実に痛めつけられた心傷とは比べものになどならなくて。
俺は自分の胸の辺りのシャツをぐいっと掴むと、こみ上げる情に任せて涕涙した。
ページがめくれ、ポタポタと零れ出た悲しみが小さな雨となってレンとナナが抱き合う挿絵に降りかかる。
痛い。これ以上苦しみたくない。もう諦めてやめてくれ。
激痛が走る胸が俺に懇願した。
もう諦めろ、と。
ナナを諦めて、その恋心を捨ててレンにナナを譲って、もっと楽になってくれ、と。
「イヤだ!!!」
けれど、ナナに対する気持ちを簡単に破棄することなど出来なくて、気がつけば俺は歯を食いしばるように、震えながらそう口走っていた。
もしすんなりとこの気持ちを捨てられていたらとっくの昔に葬り去っていただろう。
だけど、それが出来ないから今こんなに痛いんだ。苦しいんだ。何も出来ていない自分を殴り飛ばしたいくらいに怒っているんだ。
ぐっ、とまた握り拳を作りながら充血した目に溜まった涙をぞんざいに拭い去る。
涙で霞がかかっていた視界が晴れると、そこにはまたしてもレンがいて、俺は思わずギロリと目をむいてレンを睥睨した。
「なんでお前なんだ」
むしゃくしゃとした気持ちに促されてそう口にするが、あちら側に届きはしない。
俺はその場にいる訳でも、ましてやその世界にいる訳でもないのだから。
なんで俺なんだ。
なんでレンじゃなくて俺がこんな状態にならなきゃいけないんだ。
逆恨みだとわかっていても、この世界を、この状況を、そしてレンを恨む。
同時にレンとナナの状況に渇望の眼差しを向けた俺は、ありもしないことを考えながらその情景を思い描いた。
俺がレンより早い段階で告白していたら。
俺がナナと同じ幼稚園に通っていたら。
俺とレンの立場が真逆だったら。
そうすればきっとナナに俺の想いの丈をぶつけることが出来ただろう。
俺がナナを幸せにしていただろう。
もはや狂気めいている自分を自覚することなく、俺は自分に語りかけていく。
「俺だったら。俺だったら……」
俺だったら手紙に便乗などしないでもっと整った舞台で告白していただろう。
俺だったらもっとダイレクトに結婚してくれと頼みこんでいただろう。
でも俺だったら本当に…………出来たのだろうか?
すると、ふと突然俺の脳内にある疑問が浮上して俺はまるで壊れた時計のようにその疑問の内容を指し示したまま止まった。
もし俺とレンが逆の立場でも、俺は本当にナナに告白出来ていたのだろうか。
自分の気持ちを伝えることが出来ていただろうか。
そんな事を考えていると、悲しみは収まっていき、代わりに恐怖が襲いかかってくる。
立場が変わっても結果は同じでどうせ上手くいかないんじゃないか。
疑念が不安の刃物となって切りかかってくる。
どうせ、駄目だって……。
「うるさい、やめろ」
どうせ、無理だって……。
「うるさい!!!」
俺は状況が変わっても変わりはしない自分と自分が起こすであろう結果を想像するも、何処かで認めたくない自分がその考えを一刀両断に薙ぎ払った。
どうせ、どうせ、どうせ、どうせ……………。
「いい加減に黙ってろよ!!!」
けれど、どんなに薙ぎ払っても叩き割っても目の前の二人の状態が変わるわけではなく、俺はその挿絵のページに手をかけた。
「こんなページ」
こんな、ナナに最初に告白する機会を奪い、ナナとレンが一緒になるという幻覚を見させたページ。
もう見たくない。
俺は力の丈を振り絞って、生意気で腹立たしい挿絵を引き千切ると、そのままビリビリと気が済むまで挿絵を引き裂いて、くしゃくしゃに丸めて、宙に放り投げた。
ハラハラと舞い散る挿絵だった紙。
その中の一つ。ひらりひらりと舞い降りる一枚の紙の欠片に描かれたナナの瞳は困惑気味に俺を見つめていた。
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目前にばら撒かれたページの破片。
剥き出しの土に白く浮かび上がる斑点。
真夏に咲く目的を失い、儚く散った桜の花びらのように虚しく土を被った紙くずは、粉々に砕けて散らばった俺の心境を的確に表していた。
覆水盆に返らずということわざがあるように、俺の希望的観測はレンがナナに告白し、プロポーズに準ずることまでしたという事実に取り返しのつかないくらいに押しつぶされ、ぺちゃんこになるまで圧迫されている。
もはや永遠に変化することのない事象を前に俺は虚無感に包まれながら本を閉じると、そのまま自分の視界に入らないようにクロワッサンの入った紙袋の下に差し込んだ。
その後、俺は意図的に体制を逸らしながら頭を抱え込むと、そのまま呆然と地面に目をやった。
第七章を読み終えた俺に続きを読み進める気力や勇気などは残されてはいない。
ミーン、ミンミンミーン。
無気力感に包まれて、初めて他の音が耳に入ってくる。
暫しの間放心状態に陥り、ただの夏の暑さや音の受け皿になっている俺はさながら脱皮を終えて存在意義を喪失したセミの抜け殻のようだった。
それでも夏の陽射しは俺の逃げ場を無くす如く貫くようなスポットライトを当ててくる。
ほとんど消えていった日陰をボンヤリと見つめながら、されるがままに首元をジリジリと焦がされていると、俺は徐々に湧き出てきた額の汗をダラーっと垂れ流しにしながらゆっくりと立ち上がった。
「暑い」
俺は本とクロワッサンの入った紙袋を手に新たな日陰を確保するべく少し歩く。
やがてベンチと建物の間にある日陰に移動すると、俺はドカンと座り込みながら本を傍らに置いた。
そのままほぼ成り行きでクロワッサンを紙袋の中から取り出し手にとる。
俺は小さく手を合わせていただきます、とつぶやくと、小説のことを考えたくないという一心でヤケクソ気味に食らいついた。
ボロボロと食べかすが地面に零れていく。
全てを平らげた俺は空腹しのぎになったクロワッサンを褒めるかのように腹を撫でると、そのままぶっきらぼうに口元を袖で拭いた。
地面に転がったパンの生地を見つめながら俺は考える。
もしこの状況を今食したクロワッサンみたいに呑み込み、消化することが出来たら。
どんなに楽だったかと考えると同時にくだらないな、と自らの戯言を嘲笑する。
けれど、どこかに紛れていた本心が執拗にその願いを強調して、俺はほぼ無意識に今の考えと状況を結びつけていた。
俺が指輪を買った日とナナとレンがタイムカプセルを掘り出した日が同じ日ということはすでに終わったことだからまだ納得できた。
手紙の内容も幼少期に書いたものならまだ仕方がないとも思えた。
だけど…………。
手に持った紙袋をくしゃくしゃに丸めながら俺は思考を続ける。
レンがナナに告白した。
その事実がただひたすら重く俺の胸にのしかかった。
ブチブチと紙袋を少しずつ千切りながらまた物思いに耽る。
俺にはその場を阻止する力も無ければ、自分のいた世界に帰還する方法さえない。
戻ったとしても俺は先を越された劣等感からプロポーズも出来なければ告白すらも叶わないだろう。
ネガティブ思考がどんどん逓増する。
心境的にも状況的にも俺は壁際まで追い詰められていた。
ぽっかりと心に穴が空く。
小腹を満たしたクロワッサンも俺の心の穴までは埋められなかったようだ。
ナナに告白する度胸も機会も失った俺は心中に広がった空白を塞ぐことが出来ないままただ紙袋をビリビリと破いてはベンチの方角に投げつけるというのを繰り返していた。
ビリっ。ビリっ。ビリっ。
紙自体がなくならないように本当に細かく、小さく破きながら捨てる。
もしかしたら俺はこういう行為をすることによって無意識に精神を安定させようとしたのかもしれない。
そうやって永遠と続くであろう時間を無駄に使って潰す。
その都度考えないように、考えないようにと自分に言い聞かせるも、そう考えれば考えるほどレンやナナのことが頭に思い浮かんで、俺はヒラヒラと飛ぶ紙片を目線で追いかけながら手を止めた。
俺にナナと会う資格なんてない。
レンとナナの方がお似合いだ。
俺なんかがナナと釣り合うわけない。
気づけば俺は弱りきった俺自身を、現状に参っていた自分自身を自虐的に攻撃していた。
お前みたいなやつがナナと付き合えるわけねぇだろ。
俺の方がお前より何十倍もスペックが高いんだよ。
諦めろよ、ナナのこと。
どうせそんなもんなんだろ、お前の気持ちは。
上辺だけの感情でナナに近づきやがって。迷惑かけてる、って思わないのか?
いつの間にか俺の声はレンの声にすり替わり、レンは俺に追い討ちをかけるように間髪入れずに舌を回した。
そのままそっちの世界にいろよ。
どうせ見てるだけで何も出来ないんだろ?
だから無理なんだよ、お前には。
ナナのこと本当に好きなのか?
どうせ違うんだろ?お前の気持ちは。
「違う!!!」
俺は耳を抑えながらそう叫ぶと、スクっと立ち上がった。
「俺は……」
俺はナナのことが好きなんだ。
結婚したいくらいに好きなんだ。
ずっと一緒にいたいからプロポーズしようと思ったんだ。
それなのに。
俺がこの世界に来てから。
自分が物語の中の登場人物だと知った時から。
ナナも俺もこの気持ちも空想の産物だとわかった時から。
俺の気持ちはいつの間にかはっきりしないまま消えかけの蝋燭のようにおぼろげに揺れていた。
自分の気持ちに自信が持てずに俺は肩を落とす。
「違う……」
もはやレンに対して違う、と告げたのか自分に対して言ったものなのか判断がつかなかった。
またいつかのように感情がこみ上げる。
でも俺はその涙の理由を知りたくなくて必死に咬み殺していると、突然俺の影に誰かの影が重なった。
「何が違うんだい?」
野太いわけでも、か細いわけでもない、けれど芯が通りはっきりとした低めの男の声。
その声につられて見上げると、そこには全体的に少々ぽっちゃりとした自分より少し歳上に見える男性が立っていた。
「星川リュウセイ君だね?」
男性が、ほぼ黒に近い青ぶちの眼鏡をくいっとあげながら俺を見下ろす。
下から見上げる形で男の顔を窺おうにも、彼の背後から照りつける日差しのせいで思わず目を細めてしまった。
それを正体が分からない故の困惑と受け取ったのか、失敬、と一つつぶやいた男は懐から名刺を取り出すと、目を細めたままの俺の前に差し出し、こう言った。
「僕の名前は平野ルイ。ノゾミちゃんの、桐崎ノゾミ先生の専属編集者だよ」
平野さんは眼鏡の奥から、ニヤリと不敵に笑った。




