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 他人のことなど目にも止めない。

 視線など気にしない。

 今はただ一人になりたい。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 あの会話の後、マンションから飛び出た俺は煩雑とした脳内で可能な限り一人になることだけを勘案しながら、行き先も決めずに脚を振り上げていた。

 顎を出しながら肩で息をする俺は、旗から見たら何かから逃げている逃走者のように映るのかもしれない。

 事実上、この世界に来てからずっと浮き足立っていた俺は現在、全ての視線から外れるようになるべく人混みの少ない道へと無意識に足を進めていた。

 多分俺自身が人を避けているんだろう。

 その証拠に、肺はとっくのとうに息を切らしているというのに身体は誰かと出会う度にその進行方向を変えている。

 そんなどこか消極的な自分の状態に辟易としながら俺は後先考えずに角を曲がったり通りを突き抜けて走っていくと、最終的に俺の足はどこか見慣れた場所で速度を緩めていった。

 必死に息を整えながら周囲に誰かいないか確認すると、俺の視線はある一点に目を向けたまま固定される。


「ハァ……ハァ……あれっ?ここって……?」


 ギーコギーコと淋しげなブランコが心なしか客はまだかと小さく嘆いている。

 ペンキが剥がれたシーソーにボコっと凹んだ滑り台。

 どこかで見た光景。


「あっ……!」


 俺はこの公園が誰も寄り付かない、この世界に引き抜かれて初めて訪れたあの時の公園だということに気づくと、俺の足はまるでその公園に、正確にはそこに隣接するベンチに引き寄せられるように一歩ずつ踏み出していった。

 そのまま人影の欠片もない公園のベンチで腰を降ろす。


「それにしても誰もいないなぁ」


 まるでこの公園だけ世界から隔離されてるような錯覚さえ覚える始末に、俺は僅かに苦笑しつつもどこか安心感を抱く。


「でもここなら……」


 ここなら呼吸も思考も整えてゆっくりと読書が出来る。

 そう思った俺は一度だけ大きく深呼吸をした後に、例の初版本を前に掲げるとそのままベンチに背中を預けた。

 これからナナについて書かれた本を読むんだ。

 そう考えるだけで、血が騒いで思考が乱れるような、スポーツの試合開始直前のドキドキするような感覚が身体中を駆け巡って落ち着きがなくなっていく。

 同時に、これからナナ主点の物語を読むことに対して、個人的な抵抗と他人の日記を読むような罪悪感が押し寄せてきて、俺はあまりの気まずさに目を閉じるとそのまま空を仰ぎみるように後頭部を下げた。

 視界を真っ黒に染めたまましばし頭の中を空っぽにする。

 そして俺はその空っぽの思考の中に初版本を読むイメージだけを投げ込むと、俺はゆっくりと心臓を落ち着かせながらそっと呟いた。


「大丈夫。今から読むことに対しては何の問題もない」


 なに、これは俺が元の世界に戻るために必要なことなんだ。

 その為にナナの私生活を覗くようなことをしても許されるんだ。

 だから俺は忌憚なくナナについて綴られた本を読んでもいいんだ。

 ずっと考えないようにしていた事項を口にしながらそう自分自身に言い訳をする。

 だって仕方がないじゃないか。

 たとえ意にそぐわないとはいえ、そんな風に自分に対して詭弁を弄しなきゃ俺は初版本を読めないんだから。

 俺は間違ったことはしてないんだ。

 大丈夫。もうすでに改訂版で同じことはやったし、第一、俺がやっていることはただの情報収集だ。


「そう、大丈夫なんだ」


 俺は誰に弁解するわけでもなくあくまで体裁を整えた姿勢を保ったままで開目すると、意図的に逸らしていた視線をゆっくりと下げて初版本の表紙を見つめた。

 これはただの本だ、と自分に言い聞かせながら。


「!!!」


 けれどもその瞬間、俺の思考は一瞬のうちに氷結した。

 俺の視界に映り込んだのは俺を含めた三人の姿。

 俺とレンが背中合わせに立ち、主役であるナナの姿を見つめている。

 そしてその二人に背後から見守られる形で正面を向くナナは何かに祈りを捧げるように手を組みながら切羽詰まったと同時に悲しげな双眼を俺に向けていた。

 まるで何かを訴えかけるように見上げるナナに俺は思わず息を飲み込む。


 やめて。

 見ないで。

 結果は分かってるんでしょ?


 本来口を開くはずのないナナのイラストが苦しげに語りかけてくる。

 その途端、先ほどまで考えないように差し押さえていた杞憂が突如俺の頭の中でちらついて、気がつくと俺は無意識に震え出していた。


 本当に読んだ方がいいのか?

 俺のしていることは正しいのか?

 もしも改訂版と同じ結末だったら?

 ナナの本当の気持ちを知ったら俺は平静を保てるのか?


 ずっと懸念していた疑問が拘束を破って俺に襲いかかる。


 この行動自体、恣意的じゃないだろうか?

 実際、初版本を読まなくてもいいんじゃないか?

 そもそもなんで俺はこれを読もうとしているんだ?

 どこに何の意味があるんだ?


 冷静な思考とともに読む理由さえ見失う。


 読む理由。

 読む理由。

 読む……理由?


「あれっ?そういえば、何で俺は初版本を読もうとしてるんだ?」


 すると突然俺はあることに気がついて顔をあげた。


「そうだよ。別に読まなくてもいいじゃん」


 そう独り言を漏らしながら、瞬時に先ほどまで感じていたプレッシャーを周囲に分散させる。


「うん。別に俺が読まなくても、工藤さん辺りに結末を聞けばいいんだよ。うん、きっとそうだ」


 声が上ずっているのはきっと確信を持っているからだろう。

 手の震えもきっとただの武者震いだ。

 空元気なんかじゃない。

 それに確かに俺が読まなくても結末は変わらないのだ。

 だったら俺が無理にナナの私生活を覗き込まなくてもいいじゃないか。

 そうすれば俺は知らなくていいことは知らなくてもいいし、心臓に悪いことをしなくてもいい。

 第一また、改訂版の時みたいにナナがレンに取られる展開を見て落ち込むのはもう懲り懲りだ。

 もう充分じゃないか。


 諦めムードに入っていく思考が俺と本を引き離そうとする。


 やめるんだ。

 諦めろ。

 何も変わりはしない。


 ゾッとするくらい冷たい俺の内側の声がここぞとばかりに時を得て俺を説得する。


 そう。大体俺がこの世界で何をしたって何の意味もないんだ。

 だからこんな無駄なことはさっさとやめて……。

 さっさとやめて…。


 俺はゆっくりと首を下げて本の表紙に視線を落とすとふと感じたことを口にした。


 でも、でも、それで本当にいいんだろうか?


 誰かが答える訳でもなく、俺の率直な疑問は無人の公園で消滅していく。


 答えなど分からない。

 誰も教えてくれなどしない。

 じゃあ俺は答えを見つけるまで何もしないほうがいいんじゃないか。


 バサッ。


 俺は消極的な自分に促されるままに本をしまって帰ろうとすると、立ち上がった拍子に今度は本を落としてしまった。

 慌てて拾いあげようとかがむと同時に表紙のナナの後方に映る俺が目に入り俺は一瞬思いとどまる。


 本当にこのままでいいんだろうか。

 俺はまた傍観しているだけでいいのだろうか。


 記憶に蘇るのは改訂版に綴られた自分の姿とこの世界に来る前までの自分の姿。

 ここでナナの気持ちを読まなければ確かに俺には何の影響も与えないし、今後ナナに対して変な気遣いをする必要はないだろう。

 でもここで読まなければ俺は本当の意味でナナを知ることは出来ないだろうし、レンと同じステージに立つことなど出来はしないだろう。

 俺はもう後悔したくないんだ。

 なら当たって砕ける精神で読むべきではないだろうか。

 本当の結末なんて誰にも分からないんだ。

 じゃあ諦めるにはまだ早いはずだ。


「まだ早いよな……うん」


 今までの俺はいつも安全策をとってすぐに行動に移すことはなかった。

 でもこの世界に来てからの俺はストーカー紛いの行動をしたり、感情に任せて涙を流したり我武者羅にナナの面影を追いかけたりとはっきり言って誉められるものじゃないけど自分の気持ちや直感に正直に動いてる。

 だったらこの行為も水火を辞さない勢いでやり遂げればいいんじゃないだろうか。

 後先考えずに突き進めばいいんじゃないだろうか。

 だって今俺がいるこの世界は俺がいた本の中の世界とは違うのだから。


「そうだよ。だから行動に移そう。それに………」


 もう指を咥えるだけなんて嫌なんだ。

 散々だ。

 だから。

 きっと。

 今動かないと俺は一生後悔する。


 自分に語りかけることで曙光を見出した俺はさっきまでのへっぴり腰をやめて気を引き締め直すと、その気持ちが変わらないうちに勢いよくページを開いた。

 この選択が本当に正しかったのかは分からない。

 ただこの初版本が俺の中の重大な何かを変えるキッカケになるとはこの時の俺には想像すら出来なかった。



 *******



 20



【プロローグ】



 あれは私がまだ幼稚園にも入園していなかった夏の日のことだった。

 近所の公園でお砂遊びをしていた私の隣に現れた小さな影。

 私の背丈よりも低い小さな男の子がじーっと私を見つめていた。

 もちろんそんな小さい頃の私がその視線に耐えられるはずもなく、私は不可抗力でボーッと突っ立ったままの男の子に向かって顔をあげると、今思うと子供ながらに残酷なことを口走った。


「近づかないで!!!」


 私的にはせっかく建てた砂の城が崩れてしまいそうだったからそう言ったまでだったんだけど、言葉足らずな当時の私の発言は男の子にとっては否定的に捉えられたみたいで、男の子は女の子みたいな表情をくしゃりと曲げると驚くべき大音量で泣き出した。

 慟哭している、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 けれど、その時の私は彼のその反応にどう対応すればいいのか分からなくて知らず知らずのうちに瞳孔に涙をいっぱいに浮かべて泣き出し始めた。

 なんで私まで泣き出したのかは今の私には到底想像すら出来なかったけど、一つだけ言えることはあの時の私も多分悲しかったんだと思う。

 男の子を泣かせてしまったことに少なからず責任を感じて。

 全く、類は友を呼ぶというか何というか。

 そんな訳で私と男の子は気の済むまで一緒に泣き喚いていると、突然私のお母さんともう一人の女性が私達の側にやってきて私達を宥めるようにゆっくりと告げた。


「ほらっ。これからナナとレン君はお隣さんになるんだから仲良くしてね」


 えっ?私、この泣き虫のお隣さんになるの?

 あの時子供ながら抱いた疑問は今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 けれども当時の私には理解不能だったようで私はその場で駄々をこねるようにふん、と頬を風船みたいに膨らませるとあからさまに男の子を見ないようにそっぽを向いた。

 あらあら、とお母さんが呆れた様子で私を見つめていたことはよく覚えている。


「うちの頑固娘が……。本当に……」


 その後のことはあまりはっきりとは覚えていない。

 ただ覚えているのは、目を真っ赤に腫らしたレンが私のことをそのビー玉みたいな焦げ茶色の瞳でまたじーっと見つめていた姿と、その手に握っていた赤色のスコップだけだ。

 そう。

 それが私、小島ナナと泣き虫な男の子、速水レンの初めての出会いだった。


 文字通りお隣さんになった私とレンはそれからは何故か一緒に遊ぶようになった。

 というのも、私のお母さんとレンのお母さんが元同級生で、同じ世代の子供を持つママ友になったから必然的に会う回数が増えた、というのが直接的な原因だと私は睨んでいる。

 兎にも角にもそんな理由で砂場で一緒にお城を建てたり人形で遊んだり、はたまたヒーローごっこという名のおままごとをしたりとよく遊ぶようになった私達はある日、公園で紙飛行機を飛ばして遊んでいた。

 その日は風も雲もなく、紙飛行機は真っ青な空に映えて綺麗に飛んでいた。

 それはそれは鮮やか過ぎるほど真っ直ぐに。

 すると、ずっと飛ばしていた私の紙飛行機は運悪く少し背の高い木の枝に引っかかってしまった。

 ジャンプして取ろうにも木は高く、足場になりそうな木の幹の窪みはちょうど私の首の位置にあって小さかった私では木に登ることすら出来なかった。

 お母さんにとってもらおう、心の中でそう呟いた私は木を尻目にお母さんが座るベンチに向かおうとすると、突然、誰かが凄い勢いで木を登って、あっという間に紙飛行機をとって降りてきた。

 唖然とする私にそっと紙飛行機を渡す男の子。


「ほらっ、ナナちゃん。僕がとってきたからまた遊ぼう」


 それがあのレンだと気づいた私はびっくりして紙飛行機を受け取ると、レンは満足気に頷いて彼のお母さんの元に戻って行った。

 私はその後ろ姿を見て子供ながらにかっこいいな、と心の中で思いながら何処か胸中でポカポカとした暖かい気分を味わっていた。

 レンに対する何かが私の心の中で変わった瞬間だった。

 不思議なことにそれ以降、私はレンと一緒に遊ぶ度にポカポカとしたものを感じていた。

 安心感とも高揚感とも違う幸せな何かを。

 レンの方は専ら楽しい気持ちしか抱かなかったみたいだけれど。

 それでも私はこの胸の内の正体が気になって幾度となくレンとともに時間を過ごしていた。

 しかし、それも長くは続かなかった。


 幼稚園の卒園式。

 私達の幼稚園の恒例の行事で、未来の自分に対する手紙を入れたタイムカプセルを幼稚園の庭に埋めた後、私達は揃って家に帰って行った。

 お互いに自身の母親に手を繋がれながらも談笑していると、突然、レンのお母さんの携帯が鳴った。

 何が起きたのかは分からなかったけれど、あの時のレンのお母さんはもの凄く顔色が悪かったのを覚えている。

 これは只事じゃない、と私のお母さんは思ったのか目線でレンのお母さんに何が起きたのかを問いかけると、レンのお母さんはレンを連れて


「先に帰るね」


 と言って、そそくさと帰っていった。

 詳しい理由は分からない。

 けれどもそれ以来、私がレンの姿を見ることはなくなった。

 聞いた話によると、レンのおじいさんが急に亡くなって、レンの両親が実家のお店を急遽継がないといけなくなったからだとか。

 でも小さかった私にはそういった大人の事情が理解出来なくて、私は泣いた。

 レンがいない。

 バイバイも出来ずにお別れしてしまった。

 レンも悲しいのかな、私の気持ちとおんなじかな、と小さいながらにそんなことを考えながら。

 それが私にとって初めての、誰かが恋しくて流した涙だった。

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