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パタリ、と本を閉じる。
まだ最終章とエピローグが残っているが、なんだか先を読んではいけない気がしたからだ。
それに、
「なんとなく分かるんだよな……続きが」
物語の続きが、エンディングがわかるような気がして俺はページに栞を挟んだ。
今の心境は一言では表すことが出来ないほど…………複雑だ。
心のどこかで楽観視していた自分が憎いと同時に、これは別の小説だと再確認して安堵する自分もいて、俺の心の中ではかつてないほどの感情や思考が茨の生えた蔓のように絡まりあっていた。
確かに今の俺の感情は混沌としている。
泣いているのか怒っているのか悲しんでいるのかホッとしているのか分からず、足に地がつかない状態だ。
だが、それ以上に俺はレンのあの決死の言葉を読んだ時、身体に閃光が走るような途轍もない衝撃を受けた。
「ナナと一緒じゃないとダメなんだ、か」
勝てるはずがない。
あんなのに。
俺が数年間もかけて見つけ出した答えを、あいつはなんの躊躇もなく、戸惑いもなく、俺がいるかいないかどうかも関わらず、ただ真っ直ぐに、全身全霊を持ってナナに告げた。
「クソ……。なんであいつはいつも先を……」
思えばあいつは初めて会った時からそうだった。
大学の講座も、あいつは迷わずにすぐに手をあげて質問するし。
昼の休憩時間も、あいつはすぐにナナのところに来て昼食に誘っていた。
そんでもってナナの誕生日には真っ先にプレゼントを渡してしまうし。
挙句の果てには、大学近辺で花火大会があった日にはいち早くナナを連れていった。
正に有言実行を体現したようなあいつは、レンはいつも俺がやろうとすることを先回りして上手い具合にやり遂げて。
正直言って、俺には出る幕が無かった。
唯一レンに勝っていた、というか対抗出来ていた事柄と言えば、バイト先がナナと同じで、休日はいつも二人で働いていたことと、帰り道が同じこと、それと、過ごしてきた歳月が俺の方が長いということくらいだ。
でもそんな障壁さえ、レンは上手く立ち回って乗り越えて、ただナナだけを目指して突き進んでいた。
ナナに寄り付く悪い輩を排除するくらい徹底的に。
俺が入る余地すらないほどに。
それでも俺は自分の、ナナに対する気持ちを自覚した時からずっと、気持ちだけは負けないと意気込んでいた。
ナナへのプロポーズで王手をかけるつもりだった。
なのに。
「なんで先にプロポーズしたんだよ、レン……」
あいつはまたいつものように一足先にプロポーズをしていた。
よく当たって砕けろ、という言葉を耳にするが、俺は自分が当たる前、プロポーズをする前に、レンのプロポーズで木っ端微塵に砕け散ってしまった。
もう、取り返しのつかないほど粉々に。
跡形も無く。
きっとナナは、誘われたらなかなか断れない性格をしたナナは、俺に会う前から想いを寄せていたレンの、再会して一層かっこよくなったレンのプロポーズを受け入れるだろう。
ナナは人の好意や善意を絶対に踏みにじることが出来ない、優しすぎるくらいの女性だ。
その上、人の言うことをよく信じるナナは、一度信じたら騙されたと気付くまで騙される、よく言えば純粋な、悪く言えば染まりやすい心を持っている。
だから俺はナナを守りたいと思ったし、結婚したいと思った。
それなのにレンは俺より早く……。
それにあいつの言葉を読めば、嫌でもあいつの真意が、想いが伝わってくる。
「クっ……」
自嘲すれば少しは気分が晴れるかと思って笑おうとするも、漏れ出てきた声は悲しみを堪えるもので。
「なんでだよ……」
一滴の雫がポタリと本の表紙の上に落とされる。
俺はまた込み上げてきた悲しみに耐え切れずにポタポタと床や本を濡らした。
なんて女々しいんだろう。
なんて情けないんだろう。
なんて無力なんだろう。
自分を悲嘆する言葉は山程見つかれど、プラス思考に繋がる言葉は何一つ見つからない。
分かっているつもりだ。
この改訂版が俺のいた小説とは全く違うことくらい、分かっているつもりだ。
この小説を読み終えても、俺のいた物語にはなんの影響もないくらい、とっくのとうに知っている。
それでも、このプロポーズのシーンがエンディングにどう影響を及ぼすか、考えただけで怖くなる。
負けた気分になる。
初版本に全く影響がないからこそ、もし同じことが起きたらと思うと異様に不安になる。
だからもしも何をそんなにビビっているんだと聞かれたら、俺は迷わずこう答えるだろう。
「見ているだけで、何も出来ていない。何も出来ていない自分が、何も出来ない自分が怖い」
改訂版の俺も、改訂版を読んでいる俺も、結局は何も出来ていないのだ。
ただ傍観しているだけで、全く関与出来ていないのだ。
成功、失敗を繰り返しても何事も実行するレンに対して、計画はしていても結局何も出来ていない俺。
そんな二人が戦えるわけがない。
立っている土俵が違うのだから。
「ゔっ……」
無言でナナの肩を叩く改訂版の俺と、この世界にくる寸前に言おうとしていた求婚の言葉を言えなかった自分の姿が重なる。
何もかも投げ出したいような、自暴自棄に近い感情を吹き出した俺は、そのまま本を傍らに置いて体育座りになりながら顔を膝にくっつけた。
結局弱虫なだけだ、俺は。
ああ、なんてバカなんだろう、俺は。
別の話の展開に露骨に反応して、これだけ落胆して。
「ネガティブ思考しか出来てねぇじゃん、俺」
なんとなく自分を嘲笑ったら気分がすっきりするような気がして俺は乾いた笑い声をあげた。
「言われたこと、本当だったなぁ」
改訂版を読んだ今なら工藤さんが伝えようとしていたことがよく分かる。
「ああ、俺、臆病だな……」
きっとあのプロポーズの後も俺は何も言えずにただ見ているだけだっただろう。
仮に俺がプロポーズをしてもナナはレンの方に行くだろうから。
もしそうだとしたら俺はきっと立ち直れなくなるから。
「ちくしょ……やっぱり本当だったなぁ……」
寝室にポツンと響く俺の声。
俺のガラガラの声は、今の視界のように霞んでいて俺は拳を握りしめながら込み上げてくる感情を必死に耐えていた。
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「何が本当だったんですか?」
工藤さんが伝えようとしていたことがなんとなく分かってしばらく経った後、突然、俺の陰湿で暗いオーラを一発で吹き飛ばせるくらい明るい声が前から届いてきた。
びっくりして咄嗟に顔をあげると、目の前には温かそうな白い湯気を立てた白いマグカップと、ほのかに香るチョコレートの匂いが鼻を擽っている。
「ホットココアですよ」
いつの間にいたのか分からないが、桐崎さんが腫れ物に触るようにそっと俺にマグカップを渡してきた。
そしてそのマグカップの陰から心配げにこちらを覗き込む工藤さん。
俺は、突如現れた二人に狼狽することもせずに、虚空を見つめるように二人の姿をぼんやりと目視すると、工藤さんが恐る恐る、といった感じで俺に尋ねてきた。
「だ、大丈夫ですか?」
「…………」
工藤さんの気遣いに無言で応える。
そのまま視線を隣の本に落とすと、何かを察した様子の桐崎さんが何処か確信を持った瞳で俺を見つめた。
「改訂版、読んだんですね?」
同時に、床の上に無造作に置かれた本を拾いあげると、栞の入ったページの部分をチラリと見つめて顔を俺に向けた。
「どこまで読んだんですか?」
「……ナナが……プロポーズされた、ところです」
何処かに隠れてすぐには引っ張り出せなくなった声を無理矢理吐き出す。
桐崎さんは横目でわずかに工藤さんを盗み見ると、何も発さないまま俺を見つめた。
まるで何かを言うタイミングを見極めているかのように。
俺は未だ心配げに俺を見つめる二人のことを蔑ろにするわけにもいかず、引き攣りながらも微笑のマスクを顔につけると、諦めがついたような気力がないトーンで桐崎さんに尋ねた。
「一応、聞いときますけど、改訂版でナナがプロポーズされた後、あの後、物語はどうなったんですか?」
聞きたくない。
でも聞きたい。
そんな二つの感情が混ざり合い、何処か溶け込まないギクシャクした感覚が俺を包み込む。
それでも俺は絶対に聞きたくなかった結末を、知りたくなかった真実を知るために鼠の糞程度の勇気を振り絞って彼女に尋ねた。
そんな俺の心情を察して彼女は答える。
「最後はレンとナナが結婚して終わります。多分、あなたが予想した通りに」
俺は桐崎さんの単調で抑揚のない、しかし残酷なまでに直球的な回答を聞き遂げると、今度は工藤さんが話を引き継いで俺に語った。
「レンさんのプロポーズの後、星川さんはナナさんを混乱させない為に自分の感情を抑えてまで、二人が結婚するようにナナさんの背中を押しました。エピローグでは星川さんは新婦に贈る言葉を二人の前で読んでいるシーンで終わっています」
俺を傷つけない為だろう。
細心の注意を払って顔色をうかがう工藤さんに、俺はなんと言えばいいのか分からない。
やっぱり、というか予想通り、というか。
「そうです、か……」
呂律が回っていないのかと思うくらい危なっかしい口調で返した後、俺は唇を噛んで口元を手で抑えた。
同時に、工藤さんと合わせていた目線を横に逸らす。
なんとなく俺の気持ちが見破られるような、そんな気がしたからだ。
俺は、工藤さんから目線を逸らした後に桐崎さんの方に視線を向けると、桐崎さんは申し訳なさそうに頭を短く下げながら俺に告げた。
「あの、本の最後のところ、すみません」
ごめんなさい、と言葉を続けて地面に擦り付くぐらい頭を下げる桐崎さん。
そんな桐崎さんに、俺はネガティブ思考のせいで漠然とした思考回路に取って代わってしまった脳に鞭を入れてその謝罪の意味を考えた。
何故謝るのだろうか。
作者である桐崎さんは物語にとってただ正しい結末を書いただけで俺には何一つ悪いことはしてないのに。
そう言おうとしていたのに、喉に魚の骨が突っかかるような妙な感覚がして俺は何も言えない。
それでも頭を下げ続ける桐崎さんに、俺は気まずい気分になって、そんな雰囲気を変える為と同時に俺は彼女の気を逸らす為に話を逸らすことにした。
「気にしないでください。そんなことよりココア、ありがとうございます。美味しいです」
こうやって話を逸らすことでどんよりとした雰囲気をあしらおうとしたのだが、どうやら無理だったようだ。
話すと同時に語尾が震えていた俺は、慌ててマグカップに口をつける。
「あち!!」
しかし、思っていたよりも熱かったココアのおかげで、俺は舌を火傷してしまった。
猫舌だったのと、さっきまで声を抑えていた反動で、思わずして大音量の声が出る。
工藤さんと桐崎さんは、急に声をあげて叫んだ俺に目を白黒とさせていると、早急に気を取り直した桐崎さんが俺に告げた。
「ごめんなさい!」
ますます頭が低くなった桐崎さんに苦笑していると、工藤さんも謝りだして収拾がつかなくなる。
まるで悪代官にでもなったような状況に、
「あのぉ、二人とも頭をあげてください」
と、アワアワとしながらそう告げると、二人はお互いの顔を見つめ合いながら同時に俺の方に振り返った。
俺は二人を交互に見ながら後頭部を掻くと、今度は俺から二人に頭を下げた。
「ココアとか、本のこととか色々心配してもらって、えっと、ありがとうございます。だから、あのそのそんなに謝らないでください」
もはや何に対して頭を下げているのかわからない状態に頭が痛くなってくる。
「大丈夫ですよ……」
「そうですよ、大丈夫ですよ」
二人の謙虚な返答が耳に届く。
何故かグダグダになってしまった雰囲気に思わず苦笑してしまった俺は、呆れ顔で彼女達を見つめながらこう頼んだ。
「あの、場所変えませんか?」
ここは寝室。そして俺は布団の上である。
俺の提案はすぐに採用されて、俺たちはゆっくりと立ち上がると、リビングの方に向かって進んでいった。
リビングにて、俺たちはすっかり冷めた朝食を囲みながら無言の状態で佇んでいた。
また昨晩のような気まずい状況になっていて、誰が会話を始めるかお互いにチェックしあっている状態である。
俺はなんとなく手元のココアを口元に運んでいると、今回もまた桐崎さんが単刀直入に会話を切り出した。
「いきなりで申し訳ないんですけど……」
少々言い淀む形で語尾を引っ張る桐崎さんは、俺の方に姿勢を向けると頭を下げながら謝罪を始めた。
「初版の原稿の件、やっぱり見つかりませんでした……すみません」
最初からテンションが低かったというか腰が低かった桐崎さんを見て何かあるなと予感はしていたが、まさか原稿が無いことだったとは。
俺は内心ホッとしたような、残念に思うような不可思議な心境に苛まれていると、桐崎さんが更に続けた。
「それにやっぱり最後の部分は何故か思い出せなくて」
どこか目を泳がせているのは、動揺からなのか気まずさからなのか。
俺は桐崎さんのオドオドした対応に若干困惑していると、工藤さんが一瞬桐崎さんに鋭い視線を向けながらこちらに顔を向けた。
「それで、星川さんは、まだ元の世界に戻りたいと思っていますか?」
やけに真剣な、俺のことを探るような瞳で目線を合わせてくる工藤さんに、俺は考える素振りを見せる。
「正直に言うと、分かりません」
でもやっぱり頭の中の整理がついてなくて、俺は曖昧に首を振りながら答えをはぐらかした。
どうやら状況が掴めていない桐崎さんが俺たちをキョロキョロと見渡すが、工藤さんは桐崎さんを尻目に何かを考え込むように目線を下げる。
「そうですよね、まだ分かりませんよね。初版本もまだ読んでないし」
小声でそう呟く工藤さんは何かを確認するように一人で頷いていると、曇りなど微塵もない瞳で俺と目線を合わせながら告げた。
「じゃあ、質問を変えます。改訂版の結末を知った星川さんは、それでも初版本を読みたいと思っていますか?」
その瞳から感じるのは純粋な好奇心と、おそらくは昨晩の質問に対しての確認。
多分、工藤さんはこう言いたいのだろう。
『初版本が迎える結末は、改訂版と同じなのかもしれないのに、それでも読みたいのか』
と。
俺は彼女の真剣な心遣いに思わず言葉を失った。
正鵠を射るような的確な指摘に、それこそ東西や度を失うような感覚に陥ってしまう。
そんな俺の対応を見て工藤さんは、昨晩とは違う今度こそ正真正銘の初版本を俺の前に差し出すと、念を押すようにもう一度同じような質問を復唱した。
「読みたいと思いますか?」
工藤さんの問いかけは俺の心の中にダイレクトに届いてきた。
彼女のその真摯な言葉と視線に俺は図らずして身体を強張らせる。
本当に読みたいんだろうか。
続きを知りたいんだろうか。
昨日、いや、今朝蹴りをつけたはずの疑問が蘇り、頭の中を駆け抜けた。
そうだ。
開き直りたくはないが、きっと改訂版がそうであったように初版本も同じ結末があるはずだ。
わざわざもう一度読み返さなくても答えは分かっているじゃないか。
どうせ俺はナナと一緒になれないんだ。
プロポーズも出来なかった男に何が出来るってんだ。
何かを考える度に自暴自棄になって、つい自虐的なことを頭に思い浮かべてしまう。
俺は勇気のカケラもない臆病者だ。
だから読まない方が自分も傷つかないし、第一ナナが幸せならそれでいいんじゃないか。
心とは真逆のことを考えて精神を落ち着かせようとする。
しかし、俺はふと視線を下に下げた拍子に見つけてしまった。
「ナナ……」
レンと俺、そしてナナの姿が映る本の表紙を。
途端に頭の中でナナの姿がちらついて、離れなくなった俺は、意識的に視線を逸らそうとした。
だけど。
「……」
俺の脳裏、そして瞳では幻影であるナナの姿が焼き付いていて、俺は結局本のイラストから目線をはずすことは出来なかった。
読みたい。
読みたくない。
読みたい。
読みたくない。
まるで花占いをしているかのように同じセリフが脳内で現れては消え、現れては消えていく。
そんな俺をじっと見つめる二人は、きっと俺の決断を待ちわびているだろう。
でもだからと言って読むわけには。
意図せず逃げ腰になる。
似たような思いが何度も頭を掠めて俺は葛藤する。
悩むことしか出来なくなった俺は、藁にもすがる思いで目線をキョロキョロと泳がせていると、俺の目はまた最後にナナの姿を捉えて動かなくなった。
茶髪のカチューシャ、長年見つめ、慕ってきた愛しの人。
ナナは例え絵の中でも輝いていて、非の打ち所がなくて。
俺はナナの姿を見つめながら考えた。
例えどんな結末でも俺は見届けなきゃいけない。
そしてやっぱり最後まで見届けたいと思う。
ナナの幸せな姿が見れるならそれでも……、いや、でも……。
また頭が混乱する。
きっと頭の中を家に例えたら誰もがゴミ屋敷と答えるだろう。
それぐらい俺の頭はぐちゃぐちゃでめちゃくちゃなのだから。
「……頭ん中、整理しなきゃ」
でもだからこそ俺は整理しなければいけない。
きっと今の俺には落ち着いて考える時間が必要だ。
昨日、今日と色んなことが頭に入ってきて、多分今すぐにでもそのツケを払わないと、俺の頭は文字通りパンクしてしまうだろう。
「あの……」
だから俺は工藤さんと桐崎さんに告げた。
「あの、考える時間が欲しいので、暫く一人になってもいいですか?外の空気でも吸いながら改めて考えを纏めるので」
一人になりたい、と。
そんな俺の様子に揃って頷く二人。
余裕が無くて二人の表情はしっかり見えなかったが、なんとなくこんな状況になることを想定していたような妙な落ち着きがある。
工藤さんは、朝食用のクロワッサンが入った紙袋を、桐崎さんは本を俺に渡すと、何も言わずに俺を見つめた。
「ありがとうございます」
ただお礼しか言えない自分に嫌気が差す。でもそれ以上に脳内や心が混乱していた俺は、二人の言葉を待たずにドアを開け放つと、振り返りもせずに全力で走りだした。
マンションの廊下を一人の男が駆け抜ける。
その男の背中を見つめる二人の女性は、どこか悲しげだった。




