1
1
二つの影が並んでいる。
太陽が沈みかけ、陰りを見せ始めた坂道。蝉の鳴き声が響く広い車道の脇道で俺とナナは足並を揃えていた。
車が通り過ぎていく度に夏特有の生暖かい風が顔を撫でる。額に伝う汗を拭いながら俺たちはコンクリートまみれの坂道を登っていた。
「あついな、今日」
胸のあたりのシャツをパタパタと扇ぐ。今日は例年の暑さを越える暑さ、と今朝天気予報で耳にした情報をふと思い出しながらそう呟く。
同時に同じ暑さに晒されているであろうナナに視線を送ると、案の定ナナは俺の言葉に同意するように首を縦に振っていた。
「なぁ、ナナ」
「んっ?何、リュウセイ」
そんなナナに俺は声をかける。
高校卒業と共に茶髪に染めたセミロングにカチューシャという髪型。整った形の眉や鼻や口に、大人っぽさを感じさせる僅かに切れ長な目。その上に浮かべる笑みは子供のように無邪気であどけない。
長年見てきたこの顔に俺はほんの少しだけ頬を染めながら彼女に尋ねた。
「今日、ちょっと公園寄らね?」
峠を越えた向こうにある小さな公園。遊具は五本の指で数えられるくらいしかないが、代わりに鳥が水浴びに来るちまたで有名な溜池がある。
「なんで?」
目を合わせながら首を傾げて尋ね返してくるナナに心臓が高鳴るのを感じながら、俺はずっと前から計画していたことを口に出した。
「いや、ちょっと渡したいものがあるんだ」
手探りでポケットの中にある箱を触る。前々から渡したいと思っていたものだ。
その様子にナナは更に怪訝そうに頭を捻りながらこちらを見つめるとサッと手を出してきた。
「じゃあ、今渡せばいいじゃん」
催促する手に俺は今すぐ渡したい気持ちをグッと堪えながら告げる。
「それは駄目だ。公園につくまでの秘密」
「えー、なんでなんで?」
どうやら俺の返答が気に入らないらしい。ナナは目を細めて俺を睨むと、不満げに訳を訊いてきた。
「いいからいいから」
しかし俺は彼女の質問を手を振りながら躱す。ナナは俺の態度が気に食わないようでそれ以上何も言わずに口を尖らせると、そのまま何食わぬ顔で俺に告げた。
「まぁ、リュウセイのことだからどうせつまらない物だと思うけど」
そのままそっぽを向くナナに心の中で謝りながら俺は聞こえなかったフリをして話題を変えた。
「あのさ……」
ようやく丘の上に辿り着く。
二人で信号が変わるのを待ちながら俺はゆっくりと語り出した。
「今日でさ、十年目だよな、俺たち」
「えっ?」
「いや、だからさ。出会ってから十年だよな」
俺、こと星川リュウセイとナナ、小島ナナはいわゆる腐れ縁という奴だ。
そして十年前のこの日。俺たちは一度会っている。
二人で横断歩道を渡りながら俺は話を続ける。
「ナナはもう覚えてないかもしれないけどさ。俺たち一回ここで会ったことがあるんだよ。いや、まぁ、会ったってよりは見かけたって言った方が正しいのかもしれないけど」
とある夏の日。俺が友達の家に遊びに行く途中。この横断歩道の向こう側に彼女は立っていた。
今時珍しい真っ白なドレスに身を包み、履き慣れていないだろう厚底の靴を履きながら静かに佇んでいる。
青信号とともに歩き出した彼女の横を通り過ぎた際にふわりと漂ってきた洗剤の香りに妙な高揚感を抱きながら俺は車道の向こう側まで歩いていった。
今思えばあれが俺たちの腐れ縁の始まりだったのかもしれない。
案の定、小学五年の二学期と同時にナナが俺の学校に転入してきて以来、俺たちは時にライバルとして、時に大親友として登下校を共にしたりしていた。
大学二年になった今でもその関係性は変わらず、俺たちはまるで漫画や小説の登場人物のように友達以上、恋人未満の関係を築いている。
だが、それも今日までだ。
なぜなら俺はそんな曖昧な関係から抜け出すために告白するのだから。
例え、それが吉と出ても凶と出ても。
緩やかな坂道を下りながら俺は胸の中で力強くそう決意する。
段々と鼓動が早くなる。
いつもは長い下り坂も、今日は随分と短く感じる。
まるで車道沿いに軒を連ねる家々がジェットコースターのレールになったようだ。
しかし、身体は以前の退屈な下り道を覚えているようで、実際にはあんまり進んでないようにも感じる。
俺がそんなことを考えながらその瞬間を待ち遠しく思っていると、ナナは優しい天使のような笑みを浮かべながら口を開いた。
「ふふ、そんなこと覚えてたんだ⁈」
ふんわりとした天使の笑みをちょっと小悪魔風に変えるナナはやはり魅力的だ。
思わずナナが言っていたことを忘れるぐらいにナナを直視すると、ナナは夕日のせいかほんのりと頬を紅潮させながら俺に告げた。
「忘れるわけないじゃん」
それと同時に照れたようにまた笑顔を変えると、まるで生きた絵画を見ているようで俺は思わず見惚れた。
「リュウセイ?」
「お、おう」
俺の方が身長が高いからかナナが上目遣いに俺に声をかけてくる。
危うく停止しそうになった思考を無理矢理再起動させると、俺は少々どもりながらも何とか返事を返した。
やっぱりナナは美人だ。
気をつけていないとずっと見ていたくなる。
俺は余計に加速した胸の鼓動を落ち着かせるべく深呼吸すると、そのまま気にしてない様子で微笑み返しながら目の前の道に視線を戻した。
段々と茜色が濃くなっていく。
すっかりオレンジ色に塗色された町並みを見つめながらまたゆっくりと公園へ歩みを進める。
コンビニの前を通り抜け、その脇道に入っていくと、もうすぐ前に公園はあった。
川沿いに作られた公園の手前、そこには小さな遊び場があってその先には五分ほどで回れる散歩道がある。
そして散歩道を歩いてすぐそこには川とは別の溜池があってそこが俺たちの目的地だ。
公園に足を踏み入れる。
まだ遊び足りないのか、小さな遊び場では小学生の低学年と思われる子供達がボールを蹴って遊んでいた。
そこを抜けて今度は散歩道。
犬の散歩をしている人や部活の帰りっぽい学生とすれ違う度に俺はナナと立ち止まる。
きっと不思議に思っているナナだろうが、すれ違う時に当たって怪我でもされたら困るのだ。
きっとこんな俺ははたから見たら過保護な彼氏かなんかと映っていることだろう。
それともただの変な男かなんか。
でも、俺は彼女を守りたいんだ。
たとえ誰に気持ち悪いと思われようが非難されようが彼女を守りたいと思う。
だって俺はナナのことが好きだから。
そんなことを考えているうちに俺たちは溜池の近くの憩いの場に辿り着いた。
屋根があり、座れる椅子がある場所だ。
俺たちはそこに座ると沈みゆく夕陽を写し出す溜池の水面を見つめた。
キラキラと光を橙色に反射してすごく幻想的だ。
「ここで色々話したよな、俺たち」
「そうだね」
何となしにそんなことを呟くと、ナナは懐かしそうに目を細めながら水面を見つめた。
「雨の日にここで二人で雨宿りしたことがあったよね」
ナナがクスリと微笑みながらそう囁く。
十年前、友達の家によった帰り道で突然の雨に晒された俺は偶然この近くを歩いていて、急いでここに駆け寄った。
「そうそう。ナナが先にいてさ、俺は雨に濡れて服がびちょびちょで」
その時に雨宿りをしていたナナと偶然にも鉢合わせしたのだ。
ナナが転入してきてまだ数週間と経たない頃、まだクラスにあんまり馴染んでいなかった彼女に声をかけようにもかけられず、そんなチャンスさえも無かった時に訪れた機会。
「うん、あの日はよく覚えてるよ。だってあの日はリュウセイと最初に話した日だったから」
声をかけられずにいた俺は思い切って彼女に声をかけたのだ。
今思えばなんて勇気のあることをしたんだろう、としみじみ思う。
だってナナは転校してきたその日から綺麗だと噂されていたのだから。
「まぁ、結局あの日からだよね。話すようになったの」
俺はそんな過去に思いを馳せながらそう言うと、ナナは綺麗な顔をくしゃりと歪ませて笑った。
この時折見せる子供っぽい笑顔にもドキリとする俺はやはりこの子に相当惚れているんだと思う。
そしてだからこそ。こんな純粋な子を守りたいんだとも思う。
「あのさぁ。話があるんだ」
だから俺はここで決着をつけるんだ。
生まれてきて初めて一生かけて守りたいと思ったから。
普段考えないようにしていてもいつの間にかナナのことを考えているから。
もう、他の男子に言い寄られている姿を見たくないから。
そして何より、俺がナナのことが好きだから。
だから今まで一歩踏み出せなかったけど。
勇気を出して告白出来なかったけど。
ロマンチックの欠片もない公園だけど思い出がたくさん詰まっているこの公園でーーー
ポケットの中の箱にそっと触れる。
その中には必死にバイトして買った指輪がある。
ちょっと無理して買ったから財布はすっからかんだけど、自分の思いをたっぷりこめて選んだシンプルな金の指輪。
そして今日、この指輪でーーー
ーーーナナにプロポーズをする。
俺はポケットの中の箱をゆっくりと時間をかけて取り出すと、そのままゆっくりと時間をかけてナナに渡した。
心臓がバクバクする。
もう胸が口から飛び出てしまいそうだ。
「あのさ……お、おれと……」
覚悟を決めたはずなのに、身体が震えて続きの声が出せない。
足は竦んで手足からは汗が吹き出る。
目を合わせようにも顔はあげられず、気持ちは押しては引く波のように揺れ動くだけだ。
でも俺はここではっきりしないともう戻れない。そう思ったからこうして二人きりでここに来たんだ。
深呼吸。深呼吸。深呼吸。
沈黙の中で俺とナナの吐く息の音だけが耳に入ってくる。
大丈夫。俺は大丈夫。
駄目で元々なんだからきっと大丈夫だ。
俺は意を決したように目を見開くと、ナナを真正面から見据えながらその綺麗な瞳に告げた。
(結婚してくれ……。あれ?)
おかしい。声が出ない。
しかも、身体がなんだか……熱い。
俺は自分の手を恐る恐る見ると、なんと俺の身体中の毛穴という毛穴から真っ白な光が輝きだしていた。
いや、この場合、身体全体に白い光が突き刺さっていると考えた方がいいかもしれない。
まずい、と思った矢先。
視界がいきなり反転したかと思うと周りの景色がグルグルと回転しだした。
何かに吸い取られてゆく、不思議な感覚。
この世界から消えると、思った途端、俺はこの世界から抜き出された。
消える瞬間の最後に見たのは困惑顔で俺を見つめているナナの姿だった。