深夜の絵空事
卵の殻のような肌をして、異様に眼を充血させた少女が大写しとなったポスターを見とめて、私はまたこの季節が来たことを知った。
すでに昼間の、否、夜も暑さは尋常ではないところまで来ていたのだから、そのことに気付いても良かったのかもしれなかったが、暑さというものは、人の思考能力を奪うのではないか。
すっかりと抜け落ちていた。
とはいうものの、実際ところ私にとっては、どちらでもよいことなのだ。恐怖を感じ、身体は冷えるだろうか。むしろ、冷汗は身体をいやに火照らせるのではないのか。字面に矛盾があるが。
そんなことで身体を冷やそうとするよりも、帰宅してすぐ、冷えたビールを冷蔵庫から取り出す方が、よっぽど有意義だと考えるようになったのはいつの頃からだろう。今日だって、暑苦しい服を脱ぐや、冷蔵庫の扉を開いたのだった。
大体○○というものは――などと年寄り臭いことを考えるようになったのは、私が歳を取ったからか。恐怖を、大手を振って宣伝するものには、とかくふふんと笑ってしまう。所詮、エンターテイメントなのだ。それをみせる方も、ゆく方も分かっている。ジェスチャである。それでお互い満足しているのだから、私はとやかく言うことでもないのだろうが、しかし、笑ってしまうのだ。
ふふん、と。
今日はふとしたことで、河川敷まで下りた。
巨大な堤防の囲まれた川は河口に近く、ちょうどその時は潮が引いていた。
河川敷には川に向かっていくつもの岩を使ってできた出っ張りが等間隔に、作ってある。そこに立てば、三方は水となる。
が、今日に限っては、左右二方向は水が引いて、黒い水の底だった部分が露わになっていたのだ。水たまりが点々と、石が転がり、カラスが何かを摘んでいた。
全面的に黒い。
いや、白い部分もあった。若干の曇り空ではあったが、夏の日差しに晒された石は白く乾いていた。
とはいえ、依然として真っ黒な部分はあったのだ。遠目からでもよく見えた。乾ききっていないわけではない。黒い絵具を垂らしたような一辺倒な黒さでは、それはなかった。磁石に当てた砂鉄の塊と言えば良いだろうか。
川岸にまで下りて、やっと思い至った。
フジツボである。
石を黒く覆っていた。そこここに群棲している。宛らフジツボの小王国か。中には、化石のように真っ白なフジツボの塊もあった。それは別の種類なのか。いや、私はフジツボについて何一つ知らないが、その白い塊はすでに亡骸なのではないかと確信した。小王国の廃墟はより川面から離れた岩に固まっていた。
もうひとつ、見つけたものがあった。
川の中に沈んでいた。バイク。誰がいつ落としたのか。横転した格好で、まだ水に浸かっている部分がある。白いボディだったのだろう。そのような色が見えた。捨てたのだと想像した。それとも。ここもほかの河川敷と変わりなく、休日には色々な人々が集まって飲み食いをする。そして夜も例外ではない。あたりに民家は少ないから遅くまで騒ぐことだろう。その折に、戯れに川の中に投げ入れられたのかもしれない。
どちらでもよいことではある。既に原形を、かたちの上だけで残しているにすぎなかった。
このバイクにも例外なくフジツボが群がっていた。ハンドルから、泥除け、タイヤまで例外なくフジツボに覆われていた。
私はこれらの光景を見て、少しばかりおぞましさを感じた。もっともそれは眺めている内、凋んでいったのだが。
それと恐怖がどうつながったものだろう。
ついでに言うなら、私は虫も嫌いだ。子供の頃には、躊躇なく触っていた記憶もあるのにもかかわらず。
そうしたものはきっと個人的なものではないか。生理的な、と言われることもあるが、虫も食べる人間はこの世界多く、ある種の巨大なモノを愛玩する画を見たことがある。
それよりも、恐怖、である。
大抵の場合、恐怖を掲げる作品には、死が付き纏う。いや、付き纏わせている。
幽霊噺しかり、スプラッタしかり。
死は人間にとって、もっとも怖いものなのだろうか。
いつか必ず、だれもに、平等に訪れる死を、身近なものとさせるモノが人間にとって怖いものなのか。
なるほど、既に死んだ人間の霊は、生きている人を死へと引きずりこむ。今まさに、残酷に殺されようとする人間が映し出され、血飛沫が舞う。
それが私には、とんでもなくリアリティの欠いたもののように思えて、ふふんと、鼻で笑ってしまう原因だ。それを見れば、私も緊張もする。しかし、ふと、我に帰ることがある。そして気付く。作りものじゃないか、と。
はっきりと言って、私は小心者だ。そう自覚している。だからといって、ここまでのことは、ただ強がっているわけではない。ただ、そう感じるだけのこと。私が、私を小心者という理由は偏に、突発的な出来事に、弱い、ということを自覚してのことだ。決して怖がりだということではない、ということは理解しておいてもらいたい。
ガタガタガタガタガタ。ガタガタガタガタガタ。
そう、本当に嫌な音だ。思わず顔を歪めずにはいられない。慣れない。突然なんの前触れもなく鳴りだすのだ。このことが理由で私は以前は、着信があってもなんの反応もしないよう設定をしていた。
ともてもうるさい。取らなければ、まず鳴りやまない。仕方がなく、万年床を離れた。固い机の上に置いた携帯電話が振動しているだけなのだ。素早く取って、出る。知らない番号からの着信。
そういえば、この手法は恐怖を煽るためにも、使われているな。唐突な大きな音ともにアップで映し出される何かの顔。見ていれば自然と身体が反応する演出。
「―――――――――― ! ―――――――――― ? ―――――――― !」
それは狂人の地に塗れた顔か、はたまた幽霊だろうか。幽霊と言えば、お化け屋敷でもしていることは変わらないのだろう。急に、幽霊に扮した役者が経路で飛び出す。そうして発せられた声にどれほどの恐怖感が含まれているのだろうか。私はジェットコースターに乗ることと差して変わりがないように思える。
「―――――――― ? ―――――――――――――――――― ? ? ―――――――――――― !」
しかし、何だろう、この電話はまるで言葉が聞き取れない。外国語、だろうか。
「―――――――――――――――― ! ――――――――――― ! ――――――― ! ―――――― ! ――――――――― ! ?」
「もしもし?」
一方的に何かを訴えかけている? 言葉なのかすら怪しく、しかし何かを言っているのだろう。きっと、間違い電話なのだろうが、それを知らせないでいて、また掛けてこられると面倒だと思った。
「電話先間違えてますよ。番号見なおしな」
しかし。
「――――――――――――――――――――――――――― !! ―――――――――――hp@;。$‘$>“――――――――――――――――――― ?・ ==!!―――――――――――――――――――――jmlf」
ツーツー
「はぁ、狂ってるのか?」
思わず電話を切っていた。面倒なことだ。狂った人間が適当に電話を掛けて意味の無い音を発する。なんて迷惑なことだろう。手にした携帯を布団の上に放り投げる。そこなら着信があっても音は小さくなる。ついでにさっきの番号は着信拒否に入れておく。
そこに来てもう一缶、欲しくなった。冷蔵庫から取り出して、ベランダに出た。空は曇天。厚い雲が覆っていた。雨が降るなら良いのだが、そんなこともなく、雲は地上の明かりを反射して暗い紫色をしている。空気は酷くべたついた。風も無ければ、室内にいるのと変わりがない。ぶきみな夜だとも言えるかもしれない。
狭いベランダで酒を傾けて見るには、とっておきの夜ではないか。
どこかで轟音が立ちあがって、消えた。
バイクのエンジン音だろう。珍しくもなく、昼夜関係なく、聞こえているのではないか。不意の音ではあるが、遠く、そうなればただの雑音でしかない。
だが、今のバイクはもしかしたら、今日河川敷で見た、川に打ち捨てられたものだったのではないか。フジツボがついたままで、タイヤは回転し、無数の黒い粒を弾き飛ばして、道路を駆け抜ける。あとに残る、夥しい量のフジツボの欠片。死骸。いや、こう考えられないか。バイクの走ったあと、飛び散ったフジツボは、そこでまたコミュニティを再生する。何処であろうとも関係ない。人々気付いた時には、そこかしこにびっしりと、フジツボの小王国が出来あがっている。
例えば、パニック映画ばりに殺人鬼が徘徊していそうな夜でもある。或いは、獰猛な獣、熊なんかが近くに潜んでいるのかもしれない。いずれ夜陰に乗じ、人を襲うのである。
やはり、死とは切っても切れないものなのか。私の妄想は結局、死を暗示する。
それは私の想像力の貧困さゆえ、なのか。だが、私はあるだろうと確信を根拠もなくもっていた。恐怖――それも生死に関わらない人間の根源的な恐怖があるに違いないと。死を訴えかける恐怖なんていうものは、言ってしまえば陳腐なのだ。
じわりと、汗が肌に浮いている。もう、手にした缶の中身は無くなった。
私はすごすごと、室内に引き返した。背後では、急ブレーキの音。居眠りをしていたのか。遅れて、何か重たいものが、ドシンと音を立てた。どこかにぶつかったのか。それにしては、離れている気もした。
室内は真っ暗だ。照明も点けていない。特に見るべきものもないからだ。折角、見えていないものが、白日ではないものの、否応なく見えてしまう。だから、普段から照明は点けないでいた。
見えることが、本当に良いとは言い切れないのだと思う。
鈍い振動音が、鳴り続けている。万年床に放り投げた携帯が、ちかちか点滅して着信を告げていた。取ろうとは思わない。もう、あの嫌いな音は発していないし、夜の電話というのは例外なくろくなものではない。
缶を片づけ、小用を済ませる。
ぼうっと、影が動いた。
手洗いにある大きな鏡だ。なぜ鏡は備え付けられているのだろう。私は必要だと思ったこともない。手を洗いながら、歯を磨きながら自分の顔を見たいと思う輩はそういないはずだ。
鏡に向かって、ふと私は背後を見た。何もいない。
夜の、夜にもかかわらず浩々と照らす街灯の明かりが差し込み、反射する壁の一部がわずかに映るだけだった。
なんとなしの行動に、私は軽く笑った。
振り向いたら、何かが立っている。というのは、もはや、パターンだろう。それが怪物であれ、幽霊であれ、一度は体験してみたいものだと考えたりする。きっと、ともて驚くだろう。私は小心者だからだ。
そういえば、驚くことと、怖いということは、また別のものだ。入り混じりはするもの。そこは、はっきりさせなければ、恐怖は、恐怖ではなく、ただの遊びになってしまう。
「死、か」
万年床に戻ってきても、携帯はブブブ、と着信を知らせていた。もう無視すると決めている。そんなことよりも。
死と、恐怖を切り離せないものか。横になってからも、考えは巡った。
恐怖とは、なんだ。なぜ怖がるのだろう。そしてなぜ、恐怖を求めるのだろう?
視界が低い。
だが、見覚えのある風景。近所の交差点。
強烈なフラッシュ。
クラクション。
衝撃。
なんなんだ。走って、草木の中に、飛び込んだ。
しかし、薄い。向こう側も道路だ。後ろは騒がしい。対して前は、静かだった。
走る。
走っているうち、足に違和感。
痛い?
切れそうだ。
ゴツゴツした道路のアスファルト。黒いモノがボツボツと散らばっている。踏めば、ところどころで割れて、破片は刺さる。
割れる割れる。
小王国を荒らす。なぜ、こんなところに?
道の角に、影。
実体が見えた途端、飛びかかった。
「きゃあああ――」
叫びは、一度。首を噛みちぎる。後に残るのは咀嚼音。骨も気にすることなく砕く。
熱い。
暖かい。
だが、どうだ。
ガリッ、と音を立てて、歯に抵抗するもの。次第に増える。
とても食べられるものではない。それに、臭い。
ついさっきまで、紅かったそれは、黒くぬらぬらと増殖していた。
走った。逃げるように。
割れる。割れては、刺さりそこで増殖をする。
何処へ逃げたら。
無我夢中。
そこへ呼び声が聞こえた。或いは音。しかし、たしかに呼んでいる。
そちらへ方向を変えた。
呼んでいる。止まらない内に、辿りつかなければ。走る足には、力が入り、より破片は飛び散る。
そのうち一片が目に刺さる。そこでもまた、増殖する。だが、足は止めない。見る見るうちに、頭を覆うほどになる。
ここだ。この建物の中。
呼びだしは続いていた。早くなかへ――
気がつくと、目覚まし時計が、がなり立てていた。
眼覚めの時の身体は、いつも重い。だが、出なければいけない時間が迫っている。大急ぎで服を着て、用意を済ませる。大して時間はかからない。朝食はコンビニでおにぎりか何かを買う。それが定番になっていた。
布団の上に転がった携帯を持てば、ほぼ準備は出来ている。開いてみると、不在着信が合ったことが表示される。それは無数の、異なる番号からだ。しかも時間は夜中、間断なく記録されている。
「なんだこれ」
思わず声に出した。いくらスクロールしても、昨夜の時刻はなくならない。
いたずらにしては、執拗だ。いやがらせだと、誰が一体こんなことをするんだろう。考えながら、玄関に向かった。靴を履き、戸を開く。これで済めばいいけど、続くなら番号を変えた方がいいのだろうか?
外は、暗かった。
曇っているのか。しかし、光は差している。東向きの玄関だ。朝は相当に眩しいのだが。
正面は黒い。
隙間から差す光が余計に強調する。
臭う。むせかえる磯の臭い。獣の臭い。
見上げると、歯があった。鋭く、白く、そして紅い。
何でこんなところに――
それが何か、感づいた時、それは動いた。私は頭からそっくり呑みこまれ、私は唯一の持ち物を失った。