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祭囃子

作者: 景雪

後書きに、多少解説をさせていただいています。

 笛が鳴る。

 それに応えたのか太鼓が低く短く響く。

 耳を澄ましていると、掛け声と唄声が、滑らかな旋律をもって届き、いつの間にか気だるくなるが悪い気はしない。人々がゆっくりと歩きながら談笑する声は、至るところからずっと聞こえ、それは鼓膜に寄り添っているように思える。

 人垣が厚い壁を作っている辺りまで来て、勇は無理矢理割り込んで前へ出ようとするが、大人たちの身体は余りにも頑丈で太く、中々思うようにいかない。たまに誰かに足を踏まれ、「いでっ」と叫んでみるが勿論そんな声を出してみたところで人垣は城壁のようにただそこにあるだけだ。勇は水中を泳ぐように、手を大きく掻き分けて身体を前に出し、何とかもうちょっとで人垣の先頭まで到達できる位置に来た。

 ちょうどその時、立ちっぱなしの人々が大きなため息を漏らし、それが何十人も重なったからどよめきが不気味な統一感でなびいた。人垣の一人一人が同じような声を出すものだから、同様な動きで収縮した腹や胸の肉に、勇は自分の身体ごと波打たれて酔った。酔った勢いで人垣の先頭にやっと出、勇はもみくちゃにされながら顔を何とか正面に向けた。

 「ねえちゃん!」

 勇の声に気付き、ついさっき出てきて人々の視線を集中的に吸収している三人のうちの一人が、やや下を向いて唇の端を少しだけ上げた。

 「ねえちゃん、かっこいいっぺよ!」

 また声をかける弟に、姉は長い髪を鉄帽に収め、軍服に巻脚絆の様相で、やはり下を向いたまま無理をした微笑でもって応える。

 五尺四寸はあり肩幅の広い姉が、軍人の格好をすると余りに様になっている。勇は姉を褒めたたえる声をかけ続けたが、姉、千代子は背が高いことをずっと恥じていたから、困ったように下を向くだけだった。もう十八になったのに嫁の貰い手がいない、それが姉の口癖だった。

 勇はすぐ左隣に、自分よりも背丈の小さな少女が、自分と同じように人ごみに押されているのに気付いた。少女は長髪を一つに縛り、畑仕事をしていないと一目で分かる白く細い腕を、白地に紺で朝顔が染め抜かれた浴衣から覗かせていた。歳は勇よりも二つか三つ上、十五、六に思えた。少女の肌からは、不思議な匂いが漂ってきた。母の物とも姉の物とも違う、熟す前の果物に似た香りだった。まん丸の瞳は、夏祭の場で肉弾三勇士に扮する三人の女たちに、しっかりと向けられていた。

 「北川一等兵役が、俺のねえちゃんだっぺよ」

 少女は勇の方を見た。丸い瞳の中心、黒目の真ん中が光をためて輝き、勇の興味の全ては、その光の中に吸い込まれてしまった。少女の厚い唇はちょうど指一本入るくらい開けられ、薄く塗られた紅が、ぬらぬらと艶を際立たせていた。

 「俺も、兵隊になんだ。海軍がいい」

 唇は同じだけ開いたままだ。まん丸い瞳を縁取る濃いまつ毛が、目の周りのちりでも何でも受け止めてしまいそうに見えた。

 「海軍の、真っ白い軍服に憧れるっぺよ」

 少女は勇の顔を見たままで、唇も開け続けていた。しかし声の類はその潤った唇を通り抜けてはこなかった。勇は少女が何も言わないのが不思議だった。

 「おめ、口きけねえんけ?」

 眼差しを勇から外し、少女はうつむいた。その仕草は、少なくとも勇の言葉を理解している風には映った。

 「この辺のもんじゃねえべ? どっから来たんだ?」

 やはり答えない。ほんの少しだけ開けられた唇の空間は、それが何のために開けられているのか少しも理解できず、そこから漏れてくる吐息が、真夏のこもった空気をより一層温めるだけだった。

 肉弾三勇士が喝采を浴びながら、観衆に応えて勇ましい格好をするのを、少女は黙って見ていた。人垣に押されて、自分の腕と少女の腕が密着し、汗ばんで二人の汗が混ざり合うのを感じて、何故だか呼吸が苦しくなった。

 「あきえ! あきえ!」

 少女は呼ぶ声に振り返り、人垣に戸惑いながらもくぐり抜けるように声の方に戻って行った。戻り際、少女が自分をちらっと見た流し目の視線と、「あきえ」という彼女の名前とが勇の脳裏にじっとりと残り続けた。


 「あ、しげ兄!」

 肉弾三勇士の人垣から離れ、勇は出店を適当にふらつきながら歩き、見慣れた顔に出くわした。二軒隣で育った増渕茂、通称しげ兄は、兄のいない勇にとって、ちょうど一回り上の兄貴のような存在だった。

 「おお。勇か。大きくなったな!」

 しげ兄は胸板がますます厚く、たくましくなっていた。軍服が凛々しく、勇は彼の作り出す軍人そのものの姿かたちに見惚れてしばらく声も出なかった。

 「伍長殿!」

 しげ兄の肩の階級章に、金色の線を認めて勇は挙手の礼をした。

 「ははは。俺もやっと下士官だっぺよ」

 勇はしげ兄に肩を抱かれ、彼の腕周りの力強さを思いっきり感じた。見上げるとちょうど伍長の階級章が、金色の糸を光らせていた。勇はその輝きの変化をじっくり目で追い、たまらずに息を塊で吐いた。勇の目には金色の線が、綺麗に形作られ過ぎて、光沢も帯び過ぎていたのでつい瞳を細めた。

 「満州は、どうだっぺよ?」

 「初めての冬はすごかった、しょんべんが凍るくらいだべ」

 「歩兵第五十九連隊第一大隊は関東軍最強だっぺ? 中国兵を何人殺したんだ?」

 しげ兄は勇の問いには答えずに、笑いながら勇の背中を掌で叩いた。

 「もうちょっと太らねえと、立派な兵隊にはなれねえぞ」

 そう言われて自分の手足を見てみると、確かにしげ兄のそれとは余りにも違い過ぎた。

 「めしは、何杯食ってる?」

 「一杯か、食う時は二杯だっぺ」

 「三杯食え。でかくなれねえぞ」

 しげ兄の掌はぶ厚く、豆が硬いこぶとなって勇の後頭部を刺激した。そのこぶの膨らみに、勇は安心感が脳味噌にまで染み渡ってくるのを感じた。


 この時期に決まって訪れる祭は、勇が最も待ち望んでいる数日間だった。普段は口うるさく畑の手伝いをさせる両親も、祭の時だけは、酒が入っているので寛大で、帰りが遅くなってもそれ程とがめられなかった。しかし小遣いは満足にもらえなかったから、駄菓子を適当に買いながら出店を冷やかして、時には香具師に追い払われ、祭全体を包む空気を腹一杯に吸い込んだ。

 市の中心部、雑木林に面したやや開けた場所に、簡単な資材の類が運び込まれ、褌一つで真っ黒に焼けた男たちが祭の舞台を作っていく。そこかしこに構造物として出来上がった出店が、祭の雰囲気を少しずつ整えて行く。その過程を見るのが勇は好きだった。夜の間に最後の準備が終わり、翌朝完全に揃えられた祭全体の端から端までを視界に収め、勇は胸の高鳴りを必死に押さえ、いつもよりも親の手伝いをこれ見よがしにするのだった。


 しげ兄と別れ、勇は一人で夕闇の祭の渦中を泳ぐように歩いていた。友人たちはたまたまその日は都合が悪く、親にもらった数枚の十銭硬貨を、勇は手の中で揺すらせていた。材質が悪くなったのか、硬貨は数年前の物に比べ軽く、薄く、かつての十銭と同じ価値を持っていることが不思議だった。

 「あれ? さっきの子だっぺよ」

 勇は独り言を言い、視線が捉えた白地に朝顔の浴衣を追った。「あきえ」と呼ばれた少女に間違いがなく、黒い色無地の大柄な男に伴われて、祭の人混みには異質な足早さをもって、二人は雑木林に面した隅っこのやや大きな建物に入っていった。人があまり通らない場所に立つ建物を怪訝に思いながらも、勇は二人の後についてその建物に入ろうとしたが、見張りのように立っている体格の良い男に気落ちし、雑木林の一角に身を隠した。強烈な蒸した発酵する匂いを感じて顔をそちらに向けると、大きなクヌギの木がだらだらと樹液を流し、多くの甲虫類や蛾を集めていた。木に近寄ると、ヘビトンボが羽根をばたつかせ、顎を噛み鳴らせて勇を威嚇した。広範囲に広がる樹液の上部では、大あごが力強く歪曲した大型のノコギリクワガタのオスが、メスを抱え込み、尻から赤黒い器官を出して交尾をしていた。メスはオスから逃げようと前足を宙に浮かせて暴れるが、オスはそれを無理矢理押さえつけて行為を継続する。二匹の虫が出す、きしんだ鈍い音が、「ギシギシ」とか「ゴシゴシ」とかいうふうに断続的に聞こえてきた。汗が幾筋も首筋を伝った。

 虫たちが出す音の中に、勇は確かに人間の声を聞いて建物の方向を振り返った。それはやや離れた祭の中心部を練り歩く、見物客の話す声ではなくて、すぐ側から届く、わざと小さく細くしたような妙な声だった。勇は「あきえ」が消えた建物の隅っこまで足音を立てないように近寄り、近くに見張りがいないのを確かめて天幕を少しだけ開き、中を覗いた。思わず声が出てしまいそうになり慌てて空いている方の手で口元を覆った。

 男が身をかがめて、その下に倒されている「あきえ」が、昆虫観察で暗闇に慣れた勇の目には見てとれた。二人は何も着ていなかった。男は「あきえ」を抱え込むように身体を密着させたり、起き上がって正座に近い姿勢になったり、小刻みに身体を前後に揺すっていた。二人の流す汗が、暗がりに唯一の明かりの元となっているのか、たまにうっすらと光って見えた。時折男が出すうめくような声で、それがしげ兄だと分かり、勇は口元を押さえる手が小さく震えるのを感じた。「あきえ」が声の代わりに出す鼻息や吐息が、首筋を濡らす汗を余計に助長させ、夏の夜の息苦しさがもう耐えられなくなった。

 勇は足音が響いてしまうのも構わず走った。下駄の歯が、トツコン、トツコンと踏み固められた土に食い込んで鳴った。親指と人差し指の間に鼻緒が食い込み、痛んだが無理して走り続けた。汗は風で吹き飛ばされ、一瞬の爽快感は確かに訪れるのだが、汗は次から次に止まることなく溢れてきて、額や首筋はずっと不快に湿ったままだった。


 「変な子だねえ、本当に」

 初日に行ったっきり、祭に見向きもしない勇を、母はいぶかしがった。祭が近付くと、勇は毎年毎年決まってそわそわし、待ち焦がれる感情を体中で表現した。しかし今年の祭は二日目以降、決して浮かれた雰囲気がくぐもっている辺りに行こうとはせず、勇は盆の数日間を家に閉じこもりっきりで過ごした。だからこそ母は、生気を失ったとしか思えない息子を最初こそ心配したものだが、思春期の子どもはこんなものだという姉、千代子の声に、ああそうなのと段々気にも留めなくなった。

 電灯も点けずに、月明かりだけの二階の部屋で勇は寝転がっていた。壁に掛けてある標本箱の、特に蝶を入れている一箱が暗がりに輝きを目立たせていた。コムラサキ、スミナガシ、ルリタテハ、カラスアゲハ、ヒメウラナミジャノメ。蝶の羽を埋める鱗粉の小さな粒が、暗い部屋に粒粒の微かな明かりをほんのりと灯していた。勇は黙ってそれを見て、頭の後ろで腕を組み、畳に転がったままだった。


 祭囃子が八月中旬の空に通る。その音は祭の初日に比べてどこか威勢良く聞こえる気がしたが、線香が消える前の最後の勢いというか、打ち上げ花火が闇夜に消える前に鮮やかに咲くのというか、そんな切なさをどこかに秘めた威勢の良さだった。勇は部屋にこもりっきりのまま、窓からぼうっと外を見ていた。祭はまだかろうじて終わってはいないことを、賑やかな最後の囃子で表現しているようだった。夕方、眼下を通り過ぎる人の群れに、勇は「あきえ」を認めた。すぐさま立ち上がったが、寝転がってばかりいたためか足がなまっており、もつれた。階段を数段下りたところで、慌ててまた自分の部屋に戻り、勇は蝶の標本箱を壁からはぎ取って外に飛び出した。

 「おい」

 集団の真ん中にいる「あきえ」に声をかけ、予想以上に返って来てしまった視線に、勇は耐えられずに下を向いた。ただ手に握った、蝶の標本箱から取り出したルリシジミの一つだけを、潰れないように和紙に丁寧に包んで何とか差し出した。一瞬の間があり、「あきえ」がそれを手にする一部始終の行為を、強面の取り巻きが何も言わずに成し遂げさせてくれたことが何よりも幸いだった。手に持っているルリシジミに力が加えられたことを察し、勇は下を向いたままだった顔を上げた。「あきえ」は、まん丸の瞳を彼の目に向け、淡い紅が透き通る唇を、いつかと同じく指一本入るくらい開けていた。

 「これ、やる」

 勇の声に「あきえ」は白い歯を見せて笑った。ルリシジミがどんな蝶であるか、標本になっているそいつを捕まえたのはいつどこであるのか、勇はたくさん話してやりたかったが、そんな時間は勿論なかった。二人はお互いの息が吹きかかるくらいの距離で見つめ合った。それは随分長い時間に思われたが、良く考えてみればほんの数秒間に過ぎなかったのだろう。

 「行くぞ」

 一人の男が「あきえ」の肩を強引に手繰り寄せて、勇のせいで一旦止まってしまった集団はまた動き出した。離れ離れになる瞬間、「あきえ」の瞳の端が、より一層強く自分を捉えたのを、勇は確かに感じた。感じたけれども二人のつながった視線はすぐに遮断され、二度と再びつながることはなかった。戊辰戦争で焼けた宇都宮城址には、鯉や鮒が泳ぐ堀だけが、無意味に残されたままだ。その堀の周りをなぞるように集団は、勇の視界の中で小さくなっていった。祭囃子の笛や太鼓の音と、ヒグラシの高い鳴き声を耳に入れながら、勇は集団が点になってゆらゆらと蜃気楼に飲み込まれていくのを、夏の夕暮れにいつまでもじっと見つめていた。

肉弾三勇士とは、日中戦争で自分を犠牲にして武勲を立てた三人の兵士のことで、その三人を称えてお祭りなどで度々彼らを演じる催し物があったそうです。

勇の姉の身長、五尺四寸は約162cmです。今ならやや高いくらいですが、当時の成人女性の平均身長は150cm程度なので相当な長身となります(現在に換算すれば175cm近く)。ちなみに、私の祖母(大正三年、1914年生まれ)は158cmあり、高等女学校でバスケ部の主将でしたが、背が高いことを非常に恥じていました。

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