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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

笑ってるから、大丈夫

作者: 星乃瑠璃☆
掲載日:2026/07/07

明るい人。

優しい人。

いつも周りを笑わせている人。


そんな人ほど、「大丈夫そう」と思われてしまうことがあります。


でも、人は笑っている時でも、悩んだり、苦しんだりすることがあります。


この物語の茉那は、特別な女の子ではありません。


どこにでもいる、誰かを大切にできる普通の女の子です。


もし身近に、いつも笑っているけれど少しだけ元気がない人がいたら。


「大丈夫?」という一言を、もう一度届けてみてください。


この物語が、誰かの小さな変化に気づくきっかけになれば嬉しいです。



追記:荒らしが多発したため、ログイン制限をこの作品につけさせていただきました。感想はログインしてお書きくださいますよう、お願い申し上げます。

ご不便をおかけしますが、ご理解をお願いいたします。

「おはよう!」


教室の扉を勢いよく開けて、桃江茉那(ももえまな)はいつものように笑った。


「今日も眠いねぇ!」


そう言って友達に笑いかける。


クラスの誰もが知っていた。


茉那は、よく笑う子だった。


少し天然で、困っている人を見つけたら放っておけなくて、先生にも「元気だなぁ」と笑われるような女の子。


だから。


誰も気づかなかった。


その笑顔が、少しずつ作り物になっていたことに。


* * *


「なぁ。」


後ろから声がした。


振り返ると、文助(ふみすけ)が立っていた。


「またその髪型? 似合ってねぇ。」


くすくす、と笑い声が聞こえる。


「……そうかな?」


茉那は笑って返す。


「教えてくれて、ありがとう。」


文助は鼻で笑い、その場を離れていった。


最初は、本当にその程度だった。


少しからかわれるだけ。


少し笑われるだけ。


だから茉那も、


「まあ、いいか。」


そう思っていた。


だけど。


ある日の図工の時間。


「俺の絵の具の筆がねぇ!」


教室中に響く大きな声。


文助は真っすぐ茉那を指差した。


「おい、桃江。お前取っただろ!」


取ってない。


濡れ衣だった。


「違うよ!」


「チッ……まぁ、とりあえずトイレ行ってくる。」


文助は教室を出て行った。


数分後。


「あ、俺の筆あった!」


その声に、茉那はほっと息をつく。


けれど。


「やっぱりお前だろ。」


「え……?」


「俺がトイレ行ってる間に戻したんだろ!」


「違う! 本当に違うよ!」


「嘘つくな。」


次の瞬間。


頭に鈍い衝撃が走った。


「……え?」


目の前には、本を振り下ろした文助が立っていた。


教室が静まり返る。


誰かが止めてくれる。


そう思った。


でも。


誰も動かなかった。


「茉那なら大丈夫。」


「いつも笑ってるし。」


「これくらい平気でしょ。」


そんな空気だけが、教室を満たしていた。


茉那は笑おうとした。


「えへへ……大丈夫だよ。」


そう言った自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


* * *


帰り道。


「はぁ……。」


誰もいない通学路で、初めて笑顔が消えた。


夕焼けに伸びる自分の影だけが、静かについてくる。


家の前まで来ると、一度深呼吸をする。


そして、いつもの笑顔を作った。


「ただいまー!」


「おかえり。」


母は夕飯を作っていた。


「学校どうだった?」


「楽しかったよ!」


その言葉は、驚くほど自然に口から出た。


本当は。


今日一番つらかったことは、誰にも言えなかった。


心配をかけたくなかった。


「大丈夫。」


その一言だけが、どんどん上手になっていく。


夜。


ベッドに寝転びながら、ぼんやりと天井を見つめる。


「……明日も学校か。」


その一言だけが、静かな部屋に溶けていった。


少しだけ胸が苦しい。


でも、朝になれば。


また笑える。


笑わなきゃ。


そう思いながら、茉那はゆっくりと目を閉じた。




朝。


目覚まし時計が鳴る。


「……ん。」


茉那はゆっくりと目を開けた。


昨日ぶつけられた頭が、少しだけ痛む。


手でそっと触れると、じんわりとした痛みが残っていた。


「学校……。」


小さくつぶやいて、布団をかぶる。


今日は休みたい。


そんな気持ちが、ほんの少しだけ浮かんだ。


でも。


「茉那ー! 朝ごはんできてるよ!」


母の明るい声が聞こえる。


「はーい!」


いつもの声で返事をして、ベッドから起き上がった。


鏡の前に立つ。


口角を少しだけ上げる。


「よし。」


笑顔。


これなら大丈夫。


誰にも気づかれない。


* * *


「いってきまーす!」


「いってらっしゃい!」


玄関を出る。


空はきれいな青空だった。


小学生くらいの子が、お母さんと手をつないで歩いている。


犬の散歩をしているおじいさんが、「おはよう」と笑いかけてくれた。


「おはようございます!」


茉那も笑って返す。


学校へ近づくにつれて、足取りは少しずつ重くなっていく。


校門が見える。


昇降口が見える。


教室が近づく。


教室の前で、一度だけ深呼吸をした。


「よし。」


ガラッ。


「おはよう!」


いつもの笑顔。


いつもの声。


誰も昨日のことには触れなかった。


まるで、何もなかったかのように。


「桃江。」


その声だけで、胸が小さく縮こまる。


振り返ると、文助が立っていた。


「昨日、大丈夫だった?」


一瞬だけ。


心配してくれたのかと思った。


だけど。


「本一発で泣きそうになってたじゃん。」


笑いながら言う。


周りからも、小さな笑い声が聞こえた。


茉那は少しだけ目を伏せる。


それでも。


「昨日はびっくりしちゃっただけ!」


そう言って笑った。


「ほんと?」


「うん! 全然大丈夫!」


その言葉を口にした瞬間。


胸の奥で、小さな何かが音を立ててひび割れた気がした。


その日、茉那は何度「大丈夫」と言ったのか、自分でも覚えていなかった。



「起立。」


「礼。」


「「「「「「「「「ありがとうございました」」」」」」」」」


一時間目が終わる。


先生が教室を出ていくと、あちこちで椅子を引く音がした。


茉那は次の授業の教科書を机に並べる。


その時だった。


ドン。


背中に鈍い衝撃が走る。


「っ……。」


思わず息が漏れる。


振り返ると、文助が何事もなかったように通り過ぎていった。


目も合わせない。


謝ることもない。


まるで、それが当たり前みたいに。


茉那は何も言わなかった。


いや。


言えなかった。


「……。」


教科書を開こうとした、その時。


また。


ドン。


今度はさっきより少し強い。


制服で隠れる場所。


誰にも気づかれない場所。


文助はそういうところばかりを狙っていた。


「文助、早く行こうぜ。」


友達に呼ばれると、


「あ、今行く。」


何事もなかったように笑いながら教室を出ていく。


残された茉那は、小さく背中をさする。


痛い。


でも。


「茉那?」


隣の席の子が声をかけた。


「どうしたの?」


一瞬だけ。


「助けて。」


その言葉が喉まで出かかった。


だけど。


「ううん!」


茉那は笑った。


「ちょっとぶつかっただけ!」


「そっか。」


その子は安心したように笑って、自分の席へ戻っていく。


違う。


ぶつかったんじゃない。


わざとだった。


そう言えたら、何か変わったのかな。


そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。


昼休み。


廊下ですれ違う。


ドン。


移動教室へ向かう途中。


ドン。


掃除の時間。


ドン。


もう数えるのもやめた。


「……今日もか。」


そう思うだけになっていた。


帰り道。


ランドセルを背負った小さな男の子が、転んだ友達に手を差し伸べていた。


「大丈夫?」


その一言が、胸に刺さる。


私は。


今日、一度もその言葉をかけてもらえなかった。



「今日は体育だから、運動場に集合なー。」


先生の声で、教室が一気に賑やかになる。


「鬼ごっこやるって!」


「よっしゃ!」


みんなが笑いながら外へ走っていく。


茉那も、その輪の中へ入っていった。


久しぶりに。


今日は少しだけ楽しいかもしれない。


そう思えた。


* * *


「じゃあ、鬼決めるぞー!」


鬼が決まり、笛が鳴る。


「スタート!」


一斉に走り出すクラスメイト。


茉那も走っていた。


けれど。


「はぁ……。」


何周も逃げているうちに疲れてしまい、立ち止まる。


「少し休も。」


その瞬間だった。


「うわっ!」


真正面から文助が突っ込んできた。


ドンッ!!


勢いよくぶつかり、二人とも地面へ倒れる。


「いたた……。」


茉那は慌てて起き上がる。


「ご、ごめん!」


すぐに文助へ手を伸ばした。


「大丈夫?」


文助は何も答えない。


曲がった眼鏡を外し、じっと見つめる。


その表情が、少しずつ変わっていく。


「……お前。」


「え?」


「眼鏡曲がったじゃねぇか。」


「ご、ごめん……でも、私……。」


立ち止まっていただけ。


そう言おうとした。


でも。


最後まで言えなかった。


文助は立ち上がると、拳を握る。


「お前のせいだからな。」


ゴッ。


鈍い衝撃が頭に走る。


「っ……!」


思わずしゃがみ込む。


周りで遊んでいた子たちも、その音に振り向いた。


「え……。」


「文助?」


誰かが名前を呼ぶ。


でも。


「ぶつかったの、桃江のせいだろ。」


文助はそれだけ言った。


「そうなの?」


「事故だったんじゃない?」


そんな声が聞こえる。


茉那は痛む頭を押さえながら、小さく首を振った。


「えへへ…私が悪かったの。」


気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


文助は何も言わず、そのまま歩いていく。


先生は笛を吹いた。


「ほらほら! 遊びを再開するぞ!」


体育は、そのまま続いた。


誰も、さっきの出来事には触れなかった。


* * *


体育が終わり、更衣室。


制服に着替えながら鏡を見る。


頭は少し赤くなっていた。


茉那は前髪を整え、そっと隠す。


「これで大丈夫。」


そう呟いて笑ってみる。


だけど。


鏡の中の自分は、少しだけ泣きそうな顔をしていた。


「……。」


目に涙が浮かぶ。


だめ。


泣いちゃだめ。


茉那は唇を噛み、涙をこらえる。


「茉那…?大丈夫?」


「ありがとう、(あや)。でも、大丈夫!」


(親友)が大丈夫?って声をかけてくれた。でも、私は大丈夫。大丈夫。


教室へ戻る前に、何度も何度も笑顔の練習をした。


「よし。」


その笑顔は、少しだけぎこちなかった。


そう思った瞬間。


笑顔のまま歩いていたはずなのに、視界が少しだけ滲んだ。


数日後。


茉那はいつものように笑っていた。


「彩、おはよう!」


「おはよう!」


親友の彩だけは、毎朝変わらず笑いかけてくれる。


休み時間。


「茉那。」


「ん?」


彩は少し困ったような顔で茉那を見つめた。


「……本当に大丈夫?」


その一言に、茉那の心臓が大きく鳴った。


「え?」


「最近、無理して笑ってない?」


「そんなことないよ!」


いつものように笑う。


でも。


彩は笑わなかった。


「私にはそう見えない。」


その言葉が、胸に刺さる。


気づいてくれた。


彩が初めてだった。


「……ありがとう。」


小さくそう言うと、茉那はまた笑った。


「でも、本当に大丈夫だから!」


彩は何か言いたそうだった。


だけど、それ以上は聞かなかった。


「困ったら言ってね。」


「うん!」


そう返事をした。


その約束を守れないことを、茉那はもう知っていた。


* * *


放課後。


帰ろうとした彩を、茉那が呼び止める。


「彩。」


「ん?」


茉那は制服のポケットから、小さな白い封筒を取り出した。


「これ。」


「手紙?」


「うん。」


彩は首をかしげる。


「今読んでいい?」


茉那は慌てて首を振った。


「だめ!」


その声に、自分でも少し驚く。


「……ごめん。」


少し笑って、言い直した。


「もし……私が学校を休んだ日があったら、その時に開けてほしいな。」


「え? なんで?」


「その時のお楽しみ!」


そう言って笑う。


彩は少し不思議そうな顔をしたあと、封筒を大事そうにカバンへしまった。


「分かった。でも、休まないでよ?」


「うん。」


茉那は笑ってうなずく。


「たぶん、大丈夫。」


その笑顔を見て。


彩は胸の奥に、小さな違和感を覚えた。


だけど、その正体を言葉にすることはできなかった。



「起立。」


「礼。」


午前の授業が終わり、教室は昼休みの賑やかさに包まれた。


「購買行こうぜ!」


「俺も!」


あちこちで笑い声が響く。


茉那もお弁当を取り出し、机の上に広げた。


その時。


「おい、桃江。」


文助が近づいてくる。


「な、なに?」


「そこ、どけ。」


「え?」


茉那が席を立った瞬間だった。


ドン。


また背中に衝撃が走る。


思わず机に手をつく。


「っ……。」


「ぼーっとしてるからだろ。」


文助は笑いながら通り過ぎていった。


何事もなかったように。


そのまま友達の輪へ戻っていく。


「文助ー! 早く食おうぜ!」


「あー、今行く。」


笑い声が響く。


茉那は何も言えなかった。


制服の上から、そっと背中を押さえる。


痛い。


でも。


見える場所じゃない。


見えないから。


誰にも分からない。


「茉那。」


振り向くと、彩だった。


「大丈夫?」


その一言に、茉那は少しだけ目を見開く。


「え?」


「なんか最近……元気ない気がして。」


茉那は慌てて笑顔を作る。


「そんなことないよ!」


「ほんと?」


「うん!」


笑う。


笑う。


笑う。


「昨日ちょっと寝不足だっただけ!」


「そっか。」


彩は納得したように笑った。


でも。


どこか心配そうな表情は消えなかった。


* * *


午後の授業。


先生が黒板に字を書く。


教室は静かだった。


コトッ。


茉那の消しゴムが床に落ちる。


拾おうと手を伸ばした、その時。


コン。


誰かの靴が消しゴムを蹴った。


転がっていく。


教室の後ろまで。


茉那は立ち上がり、静かに歩く。


拾おうとする。


その瞬間。


また。


ドン。


文助が横を通り過ぎる。


何事もなかったように。


「……。」


もう驚かなかった。


もう振り返りもしなかった。


ただ。


「今日もか。」


そう思うだけだった。


その日の帰り道。


茉那は夕焼けの空を見上げた。


「……いつからだろ。」


学校へ行くのが怖くなったのは。


明日も。


また笑えるかな。


そうつぶやいた声は、誰にも届かなかった。



昼休み。


教室はいつものように騒がしかった。


茉那は一人、次の授業の準備をしていた。


ドン。


また背中に衝撃が走る。


「っ……。」


振り返る。


文助が笑っていた。


「なんだよ、その顔。」


また。


まただ。


まただよっ!!


毎日。


毎日。


毎日。


気づけば、茉那の体は勝手に動いていた。


「もうやめて!何が楽しいのっ!?」


文助の肩を強く押し返す。


文助は大げさによろけ、その場に尻もちをついた。


「いてっ!」


教室が静まり返る。


「桃江!」


ちょうど教室へ入ってきた先生が、大きな声を上げた。


* * *


放課後。


職員室の隣にある小さな相談室。


茉那と文助は並んで座っていた。


先生はため息をつく。


「桃江さん。」


「はい……。」


「理由があったとしても、人を押すのはよくありません。」


茉那は唇を噛む。


「でも……。」


先生は続きを促した。


「何か理由があったの?」


茉那は小さく息を吸う。


「文助くんに……ずっと。」


声が震える。


「後ろを通るたびに叩かれて……。」


「図工の時間も、私が取ってないのに盗ったって言われて……。」


「体育の時も……。」


話しながら、胸が苦しくなる。


やっと言えた。


今まで誰にも言えなかったこと。


全部。


全部。


先生は黙って聞いていた。


茉那は少しだけ安心した。


これで。


信じてもらえるかもしれない。


助かるかもしれない。


そう思った。


先生は文助を見る。


「文助さん。本当ですか?」


文助は困ったような顔を作り、首をかしげた。


「そんな前のこと、覚えてないです。」


「それに、鬼ごっこの時は事故でした。」


「事故じゃないっ!」


「毎回毎回毎回っ!後ろ通るたびに殴って!頭殴って!じゃあ、これは何っ!この痣は何っ?!体育の時だって、クラスの子が、あんたが私のこと殴ったの見てるんだよっ!?」


「本のことも、桃江さんが嘘ついてると思って……。」


先生はゆっくりとうなずいた。


そして、茉那へ向き直る。


「桃江さん。」


「はい、なんですか?!」


「そんな前のことを今持ち出されても、文助さんも困ってしまいますよね。」


隣で文助が、少しニヤニヤしながら、大きく何回もうなずく。


その姿を見て。


茉那の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


「先生までっ!!誰も信じてくれないのっ!」


先生は穏やかな口調で言う。


「これからは、お互い仲良くしましょう。」


「もう、いいです。」


「文助さんも、もう少し言い方に気をつけてください。」


「桃江さんも、感情的にならないように。」


「うるさいですっ!」


それだけだった。


相談室を出る。


廊下を歩く。


後ろから文助の声が聞こえた。


「先生、ありがとうございました。」


「最低っ。」


そう呟くが、振り返ることはできなかった。


その日。


茉那は初めて思った。


「助けて」って言っても。


誰も助けてくれないんだ。


その夜も。


鏡の前で笑顔を作る。


「大丈夫。」


そう言った声は、自分でも信じられないくらい、小さかった。



次の日。


茉那は教室へ向かう足が止まった。


昨日のことを思い出す。


先生の言葉。


文助の笑顔。


もう、教室へ入りたくない。


気づけば、保健室の前に立っていた。


「失礼します……。」


ガラガラ。


「はい、どうぞ。」


白衣姿の永野先生が、優しく笑った。


「桃江さん?」


「……少しだけ、ここにいてもいいですか。」


永野先生は何も聞かなかった。


「もちろん。」


その一言だけだった。


茉那は保健室のベッドへ腰を下ろす。


気づけば、涙があふれていた。


「……ごめんなさい。」


「謝らなくていいよ。」


永野先生は静かに隣へ座る。


「昨日、何かあった?」


茉那は首を横に振る。


「……言っても、信じてもらえないから。」


その言葉に、永野先生は少しだけ表情を曇らせた。


「私は聞くよ。」


「最後まで。」


「それで、信じる。」


その一言で。


張りつめていた糸が切れた。


茉那は泣いた。


今まで我慢してきたこと。


文助のこと。


担任に相談したこと。


全部。


全部話した。


永野先生は、一度も話を遮らなかった。


話し終えたあと。


「少し背中、見せてもらってもいい?」


制服の上着をそっとめくる。


永野先生の表情が変わった。


「……これは。」


制服で隠れる場所には、いくつものあざが残っていた。


茉那は小さく笑う。


「見えない場所だから、大丈夫かなって。」


永野先生はゆっくり首を振る。


「大丈夫じゃない。」


その言葉を聞いた瞬間。


茉那はまた泣いた。


「……やっと、言ってもらえた。」


* * *


それからだった。


毎朝、登校すると最初に保健室へ行くようになった。


「おはようございます。」


「おはよう、茉那ちゃん。」


少し話をしてから教室へ向かう。


授業中、どうしても苦しくなった日は保健室へ。


永野先生は何も責めなかった。


「今日はプリント整理、手伝ってくれる?」


「はい!」


薬棚を拭いたり。


ハンドソープの原液を薄めて、詰め替えたり。


プリントをそろえたり。


花に水をあげたり。


そんな時間だけは、心から笑うことができた。


保健室だけが、茉那にとって、学校の中で安心できる場所になっていた。


ある日の五時間目。


ガラッ。


保健室のドアが勢いよく開く。


「桃江さん、またここですか。」


担任だった。


「授業を抜け出して、毎日保健室ですか?」


「それではただのサボりですよ。」


茉那はびくっと肩を震わせる。


その前に。


永野先生が静かに立ち上がった。


「違います。」


その一言だけで、保健室の空気が変わる。


「桃江さんはサボっているわけではありません。」


「必要だから、ここにいます。」


担任は少し眉をひそめる。


「ですが、いくらテストの点数が取れているからと言って、授業には……。」


「この子の話は、きちんと聞きましたか。」


永野先生の声は穏やかだった。


だけど、まっすぐだった。


担任は何も答えられない。


「保健室の利用は、私が判断しています。」


「ですから、桃江さんを責めないでください。」


しばらく沈黙が流れる。


「……分かりました。」


担任はそう言い残し、保健室を出ていった。


ドアが閉まる。


茉那は小さな声でつぶやく。


「先生……。」


永野先生はいつもの笑顔に戻った。


「大丈夫。」


「ここでは、無理に笑わなくていいからね。」


その言葉に。


茉那は少しだけ安心したように笑った。


その笑顔だけは、作り笑いではなかった。



夕暮れ。


「ただいまー!」


いつもと変わらない声が、家の中に響く。


「おかえり。」


母は笑って迎えた。


「今日の晩ご飯、茉那の好きなハンバーグだよ。」


「やった!」


茉那は嬉しそうに笑う。


家族と食卓を囲む。


テレビではバラエティ番組が流れ、父が笑い、母もつられて笑う。


茉那も一緒に笑った。


その笑顔は、誰が見てもいつも通りだった。


「学校どうだった?」


「うん! 楽しかったよ。」


また、その言葉を口にする。


本当のことは、最後まで言えなかった。


* * *


夜。


自分の部屋。


机の引き出しから、一枚の便箋を取り出す。


震える手で、ゆっくりと書き始める。


封筒には、ただ一言。


『お母さんへ』


書き終えると、机の上の一番目につく場所へ、そっと置いた。


部屋を見渡す。


本棚。


制服。


家族写真。


小さい頃から大切にしていたぬいぐるみ。


どれも、思い出ばかりだった。


窓を開ける。


夜風が静かに部屋へ流れ込む。


空には、小さな星がいくつも輝いていた。


「……もっと、生きたかったな。でも、もう疲れちゃったよ。」


ぽろり、と涙がこぼれる。


「彩……。」


「永野先生……。」


「お母さん、お父さん……。」


会いたい人の顔が、一人ずつ浮かんでは消えていく。


「ごめんね。」


その小さな声だけが、夜の静けさに溶けていった。


耳が風を切る音を捉える。


時計の針は、ゆっくりと進んでいく。


やがて部屋は静まり返り、


夜は、何事もなかったように更けていった。





朝。


カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込む。


キッチンでは、味噌汁の湯気が立ち上っていた。


「茉那ー!」


母がいつものように声をかける。


「朝だよー! 起きなさーい!」


返事はない。


「あれ?」


少し笑いながら、もう一度呼ぶ。


「茉那ー! 遅刻するよー!」


いつもなら。


「はーい!」


少し眠そうな声が返ってくる。


だけど。


その日は違った。


静かだった。


母は手を止める。


「……寝坊かな。」


エプロンで手を拭き、階段を上がる。


一段。


また一段。


茉那の部屋の前で立ち止まる。


コンコン。


「茉那。」


ノックをする。


「入るよ。」


ゆっくりとドアノブに手をかける。


部屋の中は、しんと静まり返っていた。


母の視線は、ふと机の上へ向く。


そこには、白い封筒が一通。


『お母さんへ』


見慣れた娘の字だった。


母は小さく息をのむ。


「……茉那?茉那?」


その名前を呼ぶ声だけが、静かな部屋に響いた。


窓の外では、小鳥がさえずっている。


昨日と何も変わらない朝。


それでも、この日を境に、桃江家の時間は大きく変わることになった。


## 第十一話 いつもと同じ朝


「おはよう!」


教室には、いつものように朝の賑やかな声が響いていた。


「宿題やった?」


「やばい、忘れた!」


笑い声。


机を動かす音。


チャイムまで、あと数分。


いつもと変わらない朝だった。


ただ一つ。


窓際の一番うしろの、桃江茉那の席だけが空いていた。


「茉那、まだ来てないんだ。」


彩は教室の後ろを振り返る。


「あの子が遅刻なんて珍しいな。」


そんなことをつぶやきながら、自分の席へ座る。


昨日、別れ際の笑顔を思い出す。


『またねーっ!』


また明日、はなかったけど、いつもと同じだった。


だからこそ、胸の奥に小さな違和感が残る。


「……。」


彩は無意識に、カバンの中へ手を入れた。


指先に触れたのは、一通の白い封筒。


昨日、茉那から渡された手紙。


『もし……私が学校を休んだ日があったら、その時に開けてほしいな。』


その言葉が頭をよぎる。


「まさか……。」


彩は小さく首を振った。


「そんなわけないよね。」


そう自分に言い聞かせる。


その時だった。


ガラッ。


教室の扉が開く。


担任が入ってくる。


いつもなら、


「はい、席につけー。」


そう言うはずだった。


だけど今日は違った。


教室を見渡したまま、何も話さない。


その表情は、ひどく硬かった。


教室の空気が少しずつ静まっていく。


「先生?」


誰かが声をかける。


担任は一度目を閉じ、小さく息を吸った。


「……今日は、みんなに話さなければならないことがあります。」


その一言で。


教室の空気が、張りつめた。


彩は封筒をぎゅっと握りしめる。


嫌な予感だけが、胸の中で静かに膨らんでいった。



教室には、重たい沈黙が流れていた。


担任はしばらく言葉を探すようにうつむき、ゆっくりと顔を上げる。


「……桃江さんは、今日、お休みです。」


それだけでは終わらなかった。


「そして、しばらく学校へ来ることはできません。」


教室がざわつく。


「え……?」


「どういうこと?」


誰も状況が分からない。


彩は担任の顔を見つめたまま動けなかった。


担任は震える声で続ける。


「詳しいことは、今は話せません。」


「ただ……みなさんには、桃江さんやご家族のことを考え、静かに過ごしてほしいと思います。」


それだけ言うと、教室は再び静まり返った。


昨日まで、そこにいた。


笑っていた。


「おはよう!」


そう言って教室へ入ってきた。


その姿が、もう目の前にはない。


彩の手が震える。


カバンの中から、白い封筒を取り出す。


表には、見慣れた字で書かれていた。


**『彩へ』**


昨日。


『もし……私が学校を休んだ日があったら、その時に開けてほしいな。』


あの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


「……。」


彩は封筒を胸に抱きしめた。


今は、まだ開けられなかった。


教室の後ろでは、文助がじっと茉那の席を見つめていた。


昨日まで当たり前だった机。


そこだけが、ぽっかりと空いて見えた。


文助は何も言わない。


笑いもしない。


ただ、視線を落としたまま動かなかった。


その日の教室には、いつもの笑い声は一度も響かなかった。


## 第十三話 白い花


五時間目は、移動教室だった。


先生の話を聞いていても、誰も授業に集中できなかった。


彩も、ノートを開いたまま、一文字も書けずにいた。


チャイムが鳴る。


「教室へ戻るぞ。」


先生の声で、生徒たちはゆっくりと歩き出した。


ガラッ。


教室の扉が開く。


一番最初に入った生徒が、足を止めた。


「……え。」


その声に、みんなの視線が集まる。


教室の一番後ろ。


窓際。


桃江茉那の机の横。


窓の縁に、小さな花瓶が置かれていた。


そこには、一輪の白い花。


誰が置いたのか。


いつ置かれたのか。


誰も知らなかった。


教室は静まり返る。


さっきまで聞こえていた話し声も、笑い声も消えていた。


彩はゆっくりと茉那の席へ近づく。


昨日まで、そこには茉那が座っていた。


「彩、おはよう!」


そう笑っていた姿が、今にも見える気がした。


彩は震える手で、机にそっと触れる。


まだ、そこに茉那のぬくもりが残っているような気がして。


「……。」


言葉は出なかった。


文助も、自分の席から動けずにいた。


ただ、茉那が好きだった白い花を見つめている。


何かを言おうとして、口を開く。


でも、声にならない。


担任は静かに教室へ入り、その花を見つめた。


しばらく目を閉じると、小さくうつむく。


誰も話さない。


誰も笑わない。


教室に響くのは、窓の外を吹き抜ける風の音だけだった。


その日、初めてクラス全員が気づいた。


茉那の席が空いていることではない。


もう二度と、あの笑顔で「おはようっ!」と言う声は聞けないのだということに。



教室には、静かな空気が流れていた。


彩は自分の席へ戻ると、震える手でカバンを開く。


昨日、茉那から渡された白い封筒。


『もし……私が学校を休んだ日があったら、その時に開けてほしいな。』


あの言葉が頭の中で何度も繰り返される。


「……茉那。」


封筒を胸に抱きしめる。


指先が震える。


ゆっくりと封を開く。


中には、何枚かに折られた便箋が入っていた。


見慣れた丸い字。


間違いなく、茉那の字だった。


彩は便箋を開く。


読み始めた瞬間、ぽろりと涙が落ちる。


一枚。


また一枚。


読み進めるたびに、涙で文字が滲んでいく。


「……ばか。」


彩は便箋を抱きしめた。


「そんなこと、一人で決めないでよ……。」


教室の窓から風が吹き込み、白い花が小さく揺れた。


昨日まで笑っていた親友は、もうそこにはいない。


彩は声を押し殺して泣いた。


あの日。


「大丈夫?」


そう聞いた。


だけど。


本当の意味で、その言葉は届いていなかった。


もっと話を聞けばよかった。


もっと一緒に帰ればよかった。


もっと、手を伸ばせばよかった。


その「もっと」は、もう届かない。


彩は静かに便箋を閉じる。


そして、茉那の机に向かって、小さくつぶやいた。


「ありがとう。」


「親友になってくれて。」


風がもう一度、教室を吹き抜けた。




放課後。


誰もいなくなった教室。


彩は一人、茉那の机の前に立っていた。


窓際には、白い花。


夕日の光を受けて、静かに揺れている。


「……茉那。」


名前を呼んでも、返事はない。


いつもなら。


「彩、どうしたの?」


そう笑ってくれた。


「一緒に帰ろ!」


そう言ってくれた。


だけど。


今は、静かな教室が広がっているだけだった。


* * *


保健室。


永野先生は、机の上に置かれた一枚の紙を見つめていた。


そこには、茉那と過ごした日々の記録。


毎朝、保健室へ来たこと。


少しずつ笑顔を取り戻していったこと。


花の水やりをしてくれたこと。


「先生、今日も手伝います!」


そう言って笑ったこと。


永野先生は、そっと目を閉じる。


「……気づいてあげられなかった。」


小さな声が、保健室に響く。


もっと早く。


もっと強く。


守ることができていたら。


そんな思いが胸に残る。


でも。


同時に思う。


茉那が過ごした保健室の時間まで、嘘にはしたくない。


ここで笑っていた時間。


ここで安心していた時間。


それだけは、本物だった。


* * *


翌日。


教室はいつもより静かだった。


誰も、大きな声で話さない。


文助も、ずっと下を向いていた。


机の中。


黒板。


窓際の席。


見る場所すべてに、茉那の姿を思い出す。


「なあ……。」


誰かが小さくつぶやく。


「俺たち、何してたんだろうな。」


返事をする人はいなかった。


誰もが分かっていた。


見えていた。


でも。


止めなかった。


「いつも笑ってるから。」


「大丈夫そうだったから。」


その言葉が、今になって胸に刺さる。


「俺が、守ってあげられればよかった。」


茉那と幼馴染だった颯汰(そうた)が呟く


笑っていたことと。


苦しくなかったことは。


同じじゃなかった。


教室の窓から風が入る。


白い花が、静かに揺れた。


まるで。


最後まで伝えられなかった何かを、代わりに届けるように。




数日後。


学校の中には、少しずついつもの時間が戻り始めていた。


だけど。


茉那がいた場所だけは、まだ時間が止まったままだった。


窓際の机。


白い花。


そして。


毎朝、誰かがそっと水を替えていた。


「……今日も綺麗だな。」


花瓶を持った少年が、小さくつぶやく。


名前は、神谷颯汰(かみやそうた)


茉那とは幼馴染だった。


家が近くて。


小さい頃から一緒で。


茉那が転んだ時には手を差し伸べて。


茉那が笑っている時には、一緒に笑った。


でも。


一番近くにいたはずなのに。


気づけなかった。


「茉那。」


花に水をあげながら、颯汰は窓の外を見る。


「お前、最後まで笑ってたんだな。」


返事はない。


それでも。


颯汰は毎日、水を替えた。


茉那が大切にしていた場所を、誰かが守らなければいけない気がした。


* * *


教室の隅。


文助は、以前より少しだけ静かになっていた。


授業中に騒ぐことも減った。


誰かをからかうことも少なくなった。


だけど。


それだけだった。


「……。」


茉那の席を見る。


何か言いたそうにする。


でも。


何も言わない。


周りから向けられる視線。


距離を置かれる空気。


それを感じながらも、文助は下を向くだけだった。


「俺は……。」


小さくつぶやく。


でも、その先の言葉は出てこない。


謝る相手は、もうここにはいない。


* * *


放課後。


颯汰は一人、窓際の花を見つめていた。


「なあ、茉那。」


「お前さ。」


「ずっと、大丈夫って言ってたよな。」


その言葉を思い出す。


いつも笑って。


いつも周りを気にして。


自分より誰かを優先して。


「……気づけなくて、ごめん。」


「もっと早く言えばよかった。茉那。俺さ、ずっとお前のこと、好きだった。」


夕日が教室を赤く染める。


花瓶の水面が、静かに揺れる。


誰かが覚えている限り。


その人がいた時間は、消えない。


颯汰は、次の日も。


その次の日も。


花に水をあげ続けた。



放課後の教室。


颯汰は、いつものように花瓶の水を替えていた。


その時。


「……颯汰くん。」


後ろから声がした。


振り返ると、彩が立っていた。


「彩。」


二人は少しだけ気まずそうに目をそらす。


茉那がいなくなってから。


何度も顔を合わせているのに。


ちゃんと言葉を交わすのは初めてだった。


「いつも、花の水替えてるんだね。」


「……うん。」


颯汰は花瓶を見る。


「茉那、この花好きだったから。」


彩は小さくうなずいた。


「知らなかった。」


その言葉に、颯汰が顔を上げる。


「え?」


「私、親友だったのに。」


彩は机を見る。


「茉那が好きだったものも。」


「苦手だったことも。」


「どれだけ我慢してたのかも。」


「何も知らなかった。」


声が少し震える。


颯汰はしばらく黙っていた。


そして、小さく言う。


「俺も。」


「幼馴染だったのに。」


「ずっと一緒にいたのに。」


窓の外を見る。


「茉那は、昔から笑うやつだった。」


「転んでも笑って。」


「失敗しても笑って。」


「誰かが困ってたら、自分のことより先に助けるやつだった。」


颯汰は少しだけ笑う。


「だから。」


「大丈夫なんだって、勝手に思ってた。」


彩は唇をかむ。


教室に静かな風が入る。


白い花が揺れた。


「ねえ、颯汰くん。」


「ん?」


「私、もう二度と同じことを繰り返したくない。」


彩はまっすぐ前を見る。


「笑ってる人を見て、大丈夫って決めつけたくない。」


颯汰はうなずいた。


「……俺も。」


「茉那がっ、教えてくれたことっ⋯無駄にしたくないっ⋯⋯!」


ぽたり、と花弁の上に雫が落ちる。


二人は茉那の机を見る。


そこには、今も白い花がある。


もう声は聞こえない。


でも。


茉那が教えてくれたことは、残っていた。


笑顔の奥にある気持ちを。


誰かの「大丈夫」を、そのまま信じすぎないことを。


その日から。


彩と颯汰は、少しだけ周りを見るようになった。


誰かが一人でいないか。


誰かが無理して笑っていないか。


小さな変化を、見逃さないように。





季節が少しずつ変わっていく。


教室の窓から見える景色も、少しずつ色を変えていた。


それでも。


窓際の花だけは、毎日きれいに咲いていた。


颯汰が水を替える。


彩が机の周りを整える。


誰かが花を持ってくる。


それが、いつの間にか当たり前になっていた。


* * *


ある日の放課後。


永野先生は保健室の掃除をしていた。


棚の奥から、一冊のノートが出てくる。


「あ……。」


それは、茉那が手伝いをしていた時に使っていたものだった。


花の水やり当番。


保健室の整理。


先生へのちょっとしたメモ。


ページの端には、茉那らしい小さな絵が描かれていた。


永野先生は、ふっと笑う。


「本当に……最後まで茉那ちゃんだったね。」


明るくて。


優しくて。


周りを大切にする子だった。


でも。


永野先生は同時に思う。


笑顔だったから。


元気そうだったから。


それだけで判断してはいけなかった。


誰かの笑顔の奥にも、言えない気持ちが隠れているかもしれない。


* * *


その日の帰り道。


彩と颯汰は並んで歩いていた。


「ねえ、颯汰くん。」


「ん?」


「茉那ってさ。」


彩は空を見上げる。


「本当に優しい子だったよね。」


「うん。」


「でも、優しい子ほど、自分のこと後回しにしちゃうのかもね。」


颯汰は少し黙る。


そして、小さくうなずいた。


「だから。」


彩は前を見る。


「これからは、ちゃんと聞く。」


「『大丈夫?』って。」


「それで終わりじゃなくて。」


「本当はどうなのか、ちゃんと向き合う。」


颯汰は少し笑った。


「茉那なら、そうしてって言う気がする。」


* * *


翌日。


教室。


誰かが落とした消しゴムを、別の誰かが拾う。


一人でいる子に、声をかける。


小さな変化。


本当に小さな変化。


でも。


茉那がいた頃には、なかった変化だった。


窓際の白い花が、風に揺れる。


まるで。


「ちゃんと見ていてね。」


そう伝えているようだった。


そして誰もが、少しずつ理解していく。


笑っているから、大丈夫なんじゃない。


笑っている人ほど。


その笑顔の理由を、ちゃんと見なければいけない。


その言葉は。


これから先も、この教室に残り続けた。


## 最終話 笑ってるから、大丈夫。


春。


新しい学年になった教室。


窓際には、今年も白い花が飾られていた。


あの日から。


この場所は、ただの席ではなくなった。


桃江茉那がいた場所。


たくさん笑っていた場所。


そして。


誰にも言えない気持ちを抱えていた場所。


「彩、花の水替えたよ。」


「ありがとう、颯汰くん。」


二人は顔を見合わせて、少し笑う。


今では当たり前になった光景。


誰かが困っていたら声をかける。


一人でいる人がいたら、隣へ行く。


小さな変化だけど。


確かに、茉那が残したものだった。


* * *


放課後。


彩は窓際の机に手を置く。


「ねえ、茉那。」


誰もいない教室。


それでも、話しかける。


「私ね。」


「あの日まで、ずっと思ってた。」


「茉那は笑ってるから、大丈夫って。」


少しだけ目を伏せる。


「でも、違ったんだよね。」


笑顔は、苦しくない証明じゃなかった。


助けてほしいと言えない時にも。


誰かを心配させたくない時にも。


人は笑うことがある。


「だから、もう決めた。」


彩は窓の外を見る。


「誰かの笑顔を見て、勝手に大丈夫って決めない。」


「ちゃんと聞く。」


「ちゃんと見る。」


「その人が本当に笑えているのか。」


* * *


その日の帰り。


颯汰は花瓶の水を替えていた。


「茉那。」


小さく名前を呼ぶ。


「お前がくれたもの、ちゃんと残ってるよ。」


優しさ。


思いやり。


誰かを大切にする気持ち。


それは、消えていなかった。


「だから。」


「俺たちは、もう同じ間違いをしない。」


窓から風が入る。


白い花が、静かに揺れた。


* * *


数年後。


誰かが言った。


「あの教室には、昔すごく明るい子がいたんだって。」


「いつも笑ってた子。」


「だから、みんな思ってたんだって。」


「大丈夫だって。」


でも。


その言葉を聞いた人は、首を横に振った。


「違うよ。」


「笑ってたから、大丈夫だったんじゃない。」


「笑ってたからこそ、誰かが気づかなきゃいけなかったんだ。」


「みんなそう思ってたからね、あの子の席にはお花があるんだって」


窓際に飾られた白い花。


そこには、今も小さな文字が残っている。


『笑顔を大切に』


それは、茉那が最後に教えてくれたこと。


笑顔の奥にある気持ちを。


誰かの小さな変化を。


見逃さないこと。


そして。


本当の意味で、


「大丈夫?」


と聞ける人になること。


白い花は、今日も静かに揺れていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


この作品を書こうと思ったきっかけは、「笑顔の裏側には、その人にしか分からない気持ちがあるかもしれない」という思いでした。


周りから見れば元気そうでも。

いつも笑っていても。

本当の気持ちは、本人にしか分からないことがあります。


だからこそ、簡単に「大丈夫」と決めつけないこと。


相手の言葉を聞くこと。


小さな変化に気づこうとすること。


それが大切なのだと思います。


茉那の物語は悲しい出来事だけではなく、彼女が残した優しさや、周りの人たちが変わっていく姿も描きたくて書きました。


この作品を読んで、少しでも誰かを思いやるきっかけになれば幸いです。


最後までありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
@鯖鯖 AIチェッカーなんて精度終わってるもの信用してるんですか? そんなもので言い逃れできないなんて言えるわけないんですが AIチェッカーはそもそもAIを使っているかどうかを判別するのではなく、各生…
2026/07/15 06:22 名無しさん
通りすがりの一読者です。作品は心情描写が繊細で良い作品でしたが、感想欄のマナー悪化と不適切な利用が酷いため書き込みます。現在、批判側・擁護側の双方が感情的にぶつかり合っていますが、どちらの立場であって…
2026/07/13 21:06 匿名希望です
@魚魚 先ほどの件についてですが、全く共感できませんね 20分も考えて送るのが賞賛じゃないんですか そも振られたってなんですか それこそあなたがそう思ってしまっているだけで星乃瑠璃さんは迷惑なアンチを…
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