前半
彼は、私と同じ町に住んでいました。
生まれは遠くにある大きな街であると誰かが言っていました。本当かどうかは分かりません。
私が彼の存在に気付いた時、既に彼はこの街の一員でした。
彼は店の客の一人で、いつもフォトフ(穀物の粉のパンに味付けした肉と野菜を挟んだもの)とカプロ (ローの実を使ったお菓子)を買って町の自警団へ出勤していました。
笑顔での挨拶。
短い時間の間の日常会話。
彼と私の関係は、そんな少しのものです。
特に親しいわけでも、特別な絆が2人の間にあったわけではありません。
ただ、唯、私が彼の笑顔が好きで、彼の存在に心が動くだけ。私の一方的な想いがあっただけなのです。
しかし。
いつもと変わらない始まりをしたある日、彼の日常を変えてしまう出来事が起こったそうです。
その次の日、彼は私たちの町から姿を消しました。
いつもの時間を過ぎても来ない事に疑問を抱いていると、彼の住んでいる所の大家さんが、買い物にやって来ました。
それとなく彼の話を振ると、大家さんはすらすらと彼の事を話してくれました。
彼は昨日の夜、大家さんに旅に出ると言い、見知らぬ少女と一緒に町を出たそうです。
その話を聞いた時、私はとうとう起こってしまったのだと思いました。
私は常々、いつか彼がこの町から消えるのではという恐怖を感じていました。
だから、幼馴染のトーネに彼に思いを伝えるようせっつかれても、頑として首を縦に振りませんでしたし、行動を起こそうとも思いませんでした。
私は、いつか自分の場所から消えてしまう人に想いを告げる勇気や、思い続ける根気を持っていないのです。
だから、私はこの想いを忘れる事を自分自身に願いました。
だから…彼の事を忘れる努力をしました。
彼が町から去って、二月程経った頃。
私が彼の存在を無意識に探すことを、しなくなった頃。
町に、ある噂が流れ始めました。
私たちが住んでいる国の第二王女が、一人の無名の剣士と共に国を旅していると。
彼らは国宝を持ち去った賊を追いかけ、見事取り戻したと。
その話を聞いた時、何故か私はその無名の剣士が彼であると思いました。
困っている人の悩みを、共に背負う事を苦と思わない人だから。
彼が生きている。同じ空の下のどこかに彼がいるのだと分かった瞬間、私は歓喜と同時に恐怖を感じました。
彼の存在から逃れられない自分の心に、恐怖を感じました。
また、いくつもの日が過ぎた頃のことです。
この世界で彼の成した事を知らない者はいないのではないかと言うほどに、彼は大きな事を成し遂げていました。
そんな彼が、去った日と同じように、突然町に帰って来たのです。
彼を見たと、興奮しながらトーネが私に報告して来ました。キラキラと輝く彼女の瞳や表情を、私は羨ましく思いました。
私は彼女と違って、彼が帰って来た事に対して恐れをなしていたのです。
その日の夜、町の有名人が帰って来たと、町全体で彼の無事を祝う祝賀会をすることになりました。
小さな町ですから、当然私も手伝いに駆り出されました。
祝賀会は町の広場で行われ、出される料理は町の祭りのときと同じように広場の隅で作ることとなったのです。
私は料理を作る役割に徹しようとしましたが、配給が間に合わないとそちらの方に回されてしまいました。
そちらに回された時は彼と対面してしまうかもしれないと心配したのですが、彼は町の人や彼の仲間に囲まれており、自分からそちらの方に行かなければ姿ばかりか声さえ聞く事が困難な状態でした。
その事に安心しながらも、多くの人に囲まれている彼はあの頃と同じ笑顔を浮かべているのだろうかと、更に不安が増していく私の心。その矛盾に、私は胸を焼かれる感覚を覚えました。
夜が更け、宴会が終盤に入る頃。
私は皆より一足先に家路に着きました。
その途中でふと思い立った私は、久しぶりにある場所へと向かったのです。
私が昔から好きな、町を見下ろせるあの場所に。
夜遅い時間ですから、当然その場所には誰もいないと思っていました。
しかし、そこには人が立っていました。
二度と会いたくない人が。
一生傍にいたい人が。
ずいぶん久しぶりに目にした彼は、変わっていました。
少し痩せ、背も伸びていましたが、一番変わっていたのは、彼の雰囲気でした。
私が知っている頃の彼は何時も誰かを優しく包み込む、穏やかな雰囲気をまとった人でした。
今の彼からは、人と戦った時に彼がまとっていた雰囲気を、私は感じました。
いつも私の店でしか会う事の無かった彼ですが、一度だけ…別の場所で会う事がありました。