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消えたボタン

作者: 眞基子

「消えたボタン」


 私の父は茶色にくすんだ写真の中だけにいた。父は二歳下の孝が産まれると間もなく招集され戦地に赴いた。その後、日中戦争や太平洋戦争が開戦され、真珠湾攻撃などが新聞を騒がしくしていた頃、南西諸島で戦っていた父の戦死の訃報が舞い込んだ。渡された白い布に包まれた箱の中には、石ころが入っていただけ。母は一晩中箱を抱きしめ嗚咽を漏らしていた。それから暫くして、母は私達二人を前に話し始めた。

 「お母ちゃんは、この家でお父ちゃんを待つつもりだったけれど、お父ちゃんは帰って来ないんだよ。今日、群馬のお祖母ちゃんから、こっちに来るようにって手紙が届いたんだ、食べるのに困らないからってね。白い御飯も食べられるかもしれないよ」

 「本当?」

 孝が嬉しそうな声を上げた。

 「孝。そんなに喜ぶんじぁないよ。きっと、お父ちゃんは何も食べられずに死んだんだ」

 私は孝を睨み付けた。

 「いいんだよ志津子。きっと、お父ちゃんは最期にお前たちが元気でいてくれることを願っていたんだから」

 母は、そう言いながら目頭を濡らしていた。

 住んでいた東京の下町から母の実家の群馬県に疎開した時、私は十四歳になっていた。いざ出発の日、三人で持てるだけの荷物を担いだ時、近所に住んでいた母の親友に、息子を連れて行ってくれと平身低頭して懇願された。お互い戦争や関東大震災を乗り越え、一緒に生き抜いてきた親友だ。息子は私の幼馴染みの駒沢慎治で一学年上だった。彼の父は戦地に赴いたまま、消息不明だった。母の親友は、激化する戦争に不安を感じつつ夫の帰りを信じて、この場所で待ちたいと。慎治は母を残して去ることに躊躇し、一緒に行くことを拒んだ息子に母の一言。

 「生きて、生き抜いて」

 暫くしたら必ず迎えに行くので宜しくと母に頼んだ。母と私と孝と慎治も含めて四人で祖父母の家に行き、みんなで一生懸命田畑を手伝い、滅多に食べられなかった白い御飯に感激した。私達子供は、手伝いの合間を縫って学校にも行かせてくれた。そして、私と慎治お互いの思いは、自然の中で育まれていった。学校の帰り道にある神社の石段に座り、色々な話をした。

 「早く戦争が終わらないかな、勝っても負けてもいいから」

 私は小声で言った。

 「しっ、駄目だよ、非国民って言われるよ」

 「うん、分かっているけれど、アメリカの空襲が、あちこちで続いているって聞いたよ。ここらへんにも、爆撃機が来るかも知れないから怖いわ」

 私は真っ青な空を見上げた。

 「大丈夫だよ。俺が命に変えても志津子を守るから」

 慎治は照れくさそうに言い、志津子の手をそっと握った。私は幸せだった。そして、いつか戦争が終わったら東京の家に戻り、慎治と一緒になる。そんな私の夢は、東京が大空襲に襲われ、壊滅状態になったらしいとの一報で粉々に崩れた。 

 「俺、東京に戻って母ちゃんを助けなくっちゃ」

 慎治は一報が伝わってきた時、慌てて帰り支度を始めた。

 「慎治君、私も心配だけど、今東京は焼野原だよ。もう少し待ってから」

 母の言葉は慎治に届かなかった。母は、慌てて手拭におにぎりを何個も包んで慎治に持たせた。私は駅まで慎治を送るからと一緒に行った。駅には東京から逃げて来た人々が右往左往している。

 「ねぇ、戻って来るよね。絶対だよ」

 私は駅の片隅で慎治に言った。

 「ああ、お母ちゃんを連れて戻ってくるよ」

 「うん」

 私はそれ以上何も言えずに、ただ慎治の服の端を掴んで泣いていた。

 「約束だよ。そうだ、これを預かっといて。必ず取りに戻って来るからね」

 慎治は、いきなり学生服のボタンをちぎると志津子に渡し、初めての口づけをした。慎治を乗せた東京行きの列車は涙で霞んでいた。

 あれから、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争が終わった。でも、慎治が二度と戻ってくる事は無かった。二人の行方すら分らない。私が、母と孝の三人で東京に戻ったのは大分経ってからで、家の場所すら判別できなくなっていた。それでも、住んでいた下町の貸家で三人の生活が始まった。

 あの大空襲で大火が発生し、大勢の人々が亡くなり、身元の判別も出来ない状況だったと聞いた。 

 私は慎治のボタンを握りしめて呟いた。

 「約束したよね。必ず取りに戻って来るからって」

 あれから、何十年経ったのだろう。いや、あの時から私の時間は止まったままかも知れない。ただ、茫茫とした時間が目の前を通り過ぎ、九十四年の歳月が私の身体を駆け抜けた。

 「お母さん、ねぇ、お母さん」

 娘の智子が大声を張り上げて私を呼んでいる。子守歌のように、うっすらと聞こえた。

 「お父さん、大変だわ。有田先生を呼んで」

 娘婿の洋介がバタバタと部屋に入ってきて、慌てて出て行った。それから、主治医の有田先生が死亡を確定した。

 智子は葬儀の手続きを夫に任せ、母の側で座って母の顔を見ていた。死に顔は安堵したような穏やかな表情をしている。もうすぐ葬儀屋が来て、バタバタとするのだろう。智子は母の左手がふっくらしているのに気付いた。慌てて少し硬くなりつつある手のひらを開けるとボタンを握りしめていた。智子は、そっとボタンを取り出すと母のタンスの引き出しに仕舞った。

 母の弟である孝は、二十歳の時に交通事故で亡くなっている。コロナ禍のこともあり、葬儀は家族葬にした。息子の豪太郎と嫁の涼子、二十歳になる孫の慎太郎。それに娘の絵里花と婿の圭、二十歳になる孫の快と十五歳の怜花。それに嫁の家族と婿の家族。母が九十四歳で天寿を全うしたとのこともあり、さほど湿っぽくならずに、お互いの近況などを話した。

 その後、四十九日の納骨をするに当たり、智子は急にボタンの事を思い出した。最期に母が握りしめていたボタン。何か思い入れがあるのかと思い、母の引き出しからボタンを取り出すと誰にも言わず、骨壺の蓋を開け、お骨の上に少し押し込むように入れた。

 時の経つのは早く、孫達の大学や高校の話、智子夫婦の健康など話題は尽きない。母の一周忌が過ぎ、三回忌は嫁や婿の家族は呼ばず、息子や娘の家族だけにした。智子は、三回忌の準備で墓の管理会社から掃除に来た人に墓石を少しずらしてもらい、母の骨壺の蓋を開けてもらった。一人でボタンを入れた事が気になっていたからだ。でも、蓋を開けてもボタンは無かった。確かお骨の上に置いたはずだ。しかも、転がらないように少し押し込んだ。智子は訳が分からなかったが、いつまでも眺めていられない。蓋を戻し、お坊さんが来て法要が始まったが、智子は気もそぞろだった。だが、夫にも誰にも言わずに入れたので確証がなく、自分自身の記憶力に自信が揺らいだ。

 

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