蘇る記憶
久しぶりの再会から暫くが経つ。あれから俺たちは隔週程度の割合で集まるようになった。酒は飲まなくても、昔からある割には誰も入った事のない飯屋に挑んでみたり、誰かの車で県境近くにあるネットで評価の高い店に行ったりした。食い終わってから車内で美味かっただのそうでもないだのいまいちだのと言い合うのが楽しかった。何だか本当に、高校ぐらいの頃に戻ったような気分を味わう。
季節は移り変わり、夏がやって来た。もう少しで訓練校も夏季休暇に入る。その日数はなんと2週間ちょい。学生以来の夏休みらしい夏休みに、内心で心は踊っていた。
しかし、その休みをただ過ごす訳にはいかない。休み明けから就活を一気に進めるための準備が必要だ。履歴書と職務経歴書をほぼ完璧に仕上げる必要がある。
就職サポートの担当者曰く「4か月目から5か月目が就活のピークです。最後の一か月になって動き出すのは遅すぎます」だそうだ。まぁそれはそうだ。新卒の時だってすぐには決まらない。相応に時間は必要だ。
夏休みまで残り約一週間に差し掛かったその日、夢を見た。いや、正確には目覚める直前だったからいくらか意識はあった。網戸に大きなクワガタがくっ付いていたのだ。
「……何だお前」
何となくだが、クワガタが中に入ろうとしているのを感じた。しかし網戸によってはそれは叶わない。暫くジタバタしていると諦めたのか、クワガタは羽を広げていずこかへ飛び去ってしまった。それを見届けてからもう数分ばかり目を瞑る。完全に覚醒したのはその後だ。
「…………夢、か?」
夢なのか現実なのか自分でもよく分からないまま起き上がる。まぁいい。さっさと飯食って準備しなければ。この時はそう考え、クワガタの事は一時忘れてしまっていた。
当日の帰宅途中、古い記憶が頭に蘇る。確かあれは中学1年の夏休みだ。全員で示し合わせて部活を1日だけサボり、自転車であちこち回って遊び惚けた日の帰り道。郊外の農道で1匹の大きなカブトムシを見つけた。
「でけぇカブトムシだ」
山口がしゃがんでカブトムシを拾い上げる。全く動かない訳ではないが、どうにも弱っているように感じた。
「放っとけよ、そろそろ帰ろうぜ」
「何か弱ってるぞ。餌やったら元気になるかな」
西崎が促すも、柏田は俺と同様、カブトムシが弱っているのを感じ取ったらしい。
「……うちで飼ってみるか」
どうしてか分からないが、あの時の俺は何となくそう呟いた。特に誰も異を唱えなかったのでカブトムシをカバンに入れて持ち帰り、かなり前に小さい金魚を飼っていた虫入れを引っ張り出してそれで飼い始めたのだった。
環境を整えるとカブトムシは元気に動き回るようになった。連中も数日おきに様子を見に来ては虫用ゼリーだのを差し入れて来る。しかしそれから二週間と少しが経った頃、虫入れの蓋が中途半端だったのとたまたま部屋の窓を開けて寝ていた事が重なって、起きたらカブトムシの姿は部屋の何所にも見えなくなっていた。
連中もその話を聞いて若干落ち込むが、こういう虫を飼った時には必ず遭遇する事の1つだったせいもあり、そこまで気が重くなる事はなかった。
どうしてこの事を今になって思い出したのか不思議だったが、恐らく今朝の出来事が関係しているに違いない。
だがもう1つ、忘れていた記憶がここで思い出された。カブトムシの出来事から1年後、中2の夏。隣県に住んでいる小学生のいとこ軍団が遊びに来た時、全員を引き連れてそんなに遠くない所の山に行った。ここはカブトムシを拾った農道から北へ2キロほど行った所にある山だ。体力が無尽蔵に近い子供の足なら左程の距離感を覚えずに辿り着いただろう。自分自身、遠かったと言う感覚はなかった。
いとこ達を統率しながら自然の中で遊んでいると、Tシャツに何所からともなくカブトムシが飛んで来てくっ付いた。最初はびっくりしつつもそのカブトムシを剥がしてその辺の木に戻してやると、カブトムシは勢いよく木を登り始める。
この時、何故か分からないが俺は「あいつ元気だったんだな」と頭の中で思った。どうしてそのカブトムシが1年前に虫入れから逃げたカブトムシだと考えたのか。何故その結論を導き出したのか。それは今になっても分からなかった。電車の外に広がる風景から逃げるように目を閉じて、あの頃の感覚を呼び戻そうとするが、そう簡単に出来る事ではない。気付けば電車は駅に着いており、危うく降り損ねそうになった。
「……なーんか気持ち悪いな」
帰宅後、押し入れを漁って見るが、あの時に使った虫入れはもう無かった。捨ててしまった可能性が高い。最も、その虫入れを見た所で、当時の感覚が蘇るのかと聞かれれば何とも言えない事だ。
モヤモヤが晴れないまま夏休みに突入。その初日。俺はあの山に向けて自転車を走らせた。
郊外へ向かうに連れ民家と信号が無くなる。広がるのは長閑な田園風景。街灯なんて1本も無い。日が暮れれば漆黒が支配する道をひた走る。降り注ぐ日光が皮膚をジリジリと熱し、体力を奪っていった。よくこんな道をいとこ達と歩いたもんだ。年を取った今の自分には苦行に近い何かでしかない。
途中に一軒だけあるコンビニで水分補給し、また自転車を走らせた。最初は低く見えていた山が次第に大きくなり始める。舗装された道から完全な田んぼ道に入り、気の木陰が大きい所で自転車から降りた。
「えーとぉ、あった、ここだ」
山と田んぼの境目には用水路があり、その上を木の簡素な橋が繋いでいる。あの頃もここから山に入ったのだ。恐る恐る渡って見るもそれなりに頑丈な作りらしく、強度は十分に感じた。
木々と緑の世界。日光は幾重にも重なる葉っぱで遮られ、柔らかい日差しとなっている。
「……まぁ何もないよなぁ」
辺りを見回していると、そこそこ大きな木の根元に目を引き付けられた。ポッカリと穴が開いている。それも不自然な事に、真っ黒だ。風に揺れる木々によって日光がチラついても、その光を吸収しているぐらいに真っ黒である。ブラックホールのようにも見えるその穴へ近づいた。
「これは――」
試しに携帯のライトを照らす。驚く事に中が見えない。あり得ない事だ。
「……小石小石」
地面に落ちている小粒な石を中に放り込む。石は穴の中に吸い込まれ、地面に落ちるような音は聞こえなかった。もう少し大きなのを放り込んでも結果は同じ。一体この穴は何なのだろうか。
「…………木の枝とかは」
長めの木の枝をゆっくり穴の中に差し込んでいく。ある程度が入った所で、枝が強い力で引っ張られた。それに驚いて思わず手を放してしまう。
「っ!?」
中に何か潜んでいるらしい。どうだ。もし手を入れたら引っ張り出せるのか。脳内が発する危険信号と裏腹に、そんな感情が大きくなり始める。
「……まさか人間より力が強いなんてわけ」
恐る恐る手を入れて見た。中は常温。手を握ったり開いたりも出来る。しかし穴の大きさ以上の範囲に動く事はなかった。そんな所にまだ物理的な安心感を感じていると、手首が入った辺りで何者に力強く手を握られる。
「うわぁ!」
驚くのも束の間、そのまま勢いよく穴の中へ引き摺り込まれてしまった。周囲の視界が穴の中へ収束していく。同時に、自分がとても小さくなっていくのを感じた。僅かに踏ん張ったものの、抵抗空しく広がっていく漆黒の世界に沈んでいく。