故郷
薄っすら感じた肌寒さで目が覚める。いつの間にか蹴り飛ばしていた布団やら毛布を手繰り寄せると、心地いい温かさに包まれた。
カーテンで遮られた窓の下より差し込む日光はまだ薄暗い。もうちょっと寝ていられるかと考えるが、ここは自分が長年1人暮らしをしていた賃貸ではなく、実家の2階、しかも自分の部屋だった事を思い出して枕元の携帯を掴んだ。どうにもこの感覚が抜けきられない。
「……5時過ぎか」
光量を落としたディプレイが5時15分を映し出す。そして微かにテレビの音が聞こえる。両親のどちらかは分からないが、もう起きているようだ。別に生活のリズムを無理やり合わせる必要はない。しかし、自分も暇な人間ではないのだ。行かなければいけない所があるため、起き上がって居間へと向かう。
ギィギィとなる階段を降り、風呂場の隣にあるトイレでまず用を足す。その後は居間に足を踏み入れた。
「おざます」
「おはようさん」
父がテレビを見ていた。朝のいつもの番組。一緒に住んでいた頃は自分もそれを毎朝見ていた。1人暮らしになってからはトンと見る事も無くなったが、こうして実家で再び見ている現状を思うと、嫌に懐かしさを感じる。
「どうだ。訓練校は」
「まだ座学……いや安全講習かな。実習は来週からだそうで」
「懐かしいね。昔はバスが2つ手前の停留所までしか行かないから、残りは歩いたもんだ」
「……2つも手前だと結構距離あるんじゃ」
「んー、あの頃はそんなに遠いと思わなかったなぁ」
俺、長沢翔太。34歳。東京で12~3年の生活を経た後、3か月前に地元へUターン。今月の頭から公共職業訓練校に通所し始めた"無職"である。
父親は昔、その職業訓練校がまだハローワークと連携していなかった時代の、ただの学校だった時代の卒業生である。ひょんな所で父親の後輩になったものだ。
「ま、バスの学割も効くし、半年は交通費込みで失業手当が出るんだ。ゆっくり決めればいい」
それまでの一切を捨てた自分に残されたものは、やはり大した事ない経験だけだった。何も下地のない状態でよく分からない世界に飛び込むより、ある程度は知識を持っていた方が再就職に有利だと思ったから、職業訓練を受ける事にした。
「おはよー」
母親も起きて来た。そして朝食が終わると時刻は5時50分。家を出るまでは残り1時間半ぐらいある。
「明日は飲みに行くんだっけ?」
「夕方ぐらいに出るかな」
「じゃあ夜は何も用意しておかなくていいね」
「うどんの1玉でもあると有難いです」
「冷凍庫にあるから食べたければ食べて」
「ウス」
両親の身支度が終わった後、歯を磨いて髭を剃った。自分が家を出るのは7時半前。それよりも前に両親が出る。なので戸締りをしなくてはならない。まぁ、玄関だけだけど。
「んじゃ、行って来ます」
「へい」
父、出勤。約10分後に母も出勤。
「戸締まりよろしく」
「心得ました」
そこから10分後。俺も出勤。いや、出発か?
施錠ヨシ。近くのバス停まで歩いて5分。待つ事2~3分。駅行きのバスに乗る。
流れゆく街並みに然程の変化は感じられない。いや、一部は記憶が薄いせいで、何が変わったのかも分からないんだろう。
『次は、〇〇駅。〇〇駅。お降りの方は、ボタンを押して、お報せ下さい』
毎度思うがバスのボタンはどのタイミングで押せばいいのだろう。誰も押さないから自分が押そうと手を伸ばした瞬間に「ピンポーン」と鳴って、妙な気恥しさに襲われた。
東京程ではないが、それなりの人でごった返すバスプールから駅に入る。改札を通ってホームに降りると、既に人が並んでいた。
地元に戻って来て不思議に思ったが、どうして皆さんは電車が来る10分も前から並んでるんですか。隣のホームから先に出発する電車が出るぐらいにはもう並んでる計算になる。そして、どうしてそんなに間隔を広く開けて並んでるんですか。間に入っても良いって事ですか?
そんな事を考えていると時間が経ち、自分が乗ろうとしている電車がやって来た。その電車に揺られる事、約20分。目的地の駅で降りてそこからまたバスに乗って訓練校に到着。建物の中に入った。
集まるのは実習場に併設されたPC室だ。出欠は9時20分。あと10分ぐらいだが、自分を含めてまだ数名しか居なかった。
「おはようございます」
疎らに帰って来る返事を聞きながら席に着く。それからポツポツと人が集まり始め、2分前ぐらいには全員が着席した。この辺で指導員の人がやって来る。
「はい、おはようございます。出欠を取ります」
今日も訓練に励むとしよう。昨日に引き続き安全講習だ。それと訓練で使う工具や器具類の取り扱い講習も始まる。
夕方、訓練が終わった頃に同級生から連絡が入った。明日は夕方5時に駅前集合となる。会うのは実に7~8年ぶりだ。帰省はしててもタイミングが悪く、中々に会う事も出来ていなかった。
「了解、と」
返信して携帯を仕舞う。同じルートで帰路に着き、家に戻ったのは6時前。夕飯と入浴を手早く済ませる。眠くなるまで求人を探すとしよう。
PCを立ち上げ、ハローワークインターネットサービスを開いた。
「16~23万……土日祝休み……何だよ経験者のみか」
未経験での募集はそれなりにあるも、いまいちと言った感じだ。どれもこれも一長一短。給料が良いと就業場所が遠くなり、逆に就業場所が近いと給料が低くなる。
「これは……契約かぁ」
そこそこ良い条件だと思っても契約社員の募集だったりする。大方、この手の求人は正社員になれないものが殆どだ。
「寝るかなぁもう」
やる気が無くなって来た。実際の所、まだ履歴書や職務経歴書も何も出来ていない。求人も日々更新される。焦る気持ちはあれど、今一歩踏み出す気にはなれなかった。
PCを落とし、部屋の電気も消して布団に寝転ぶ。時刻は22時。この時間になると、近所は静寂に包まれる。別に過疎地域ではないが、地方の夜はこんなものだ。出歩く人も殆ど居ない。地方でこんな時間に出歩いていると常識のない人間だと思われるだろう。東京だと常に何かしらの音が聞こえるし、人の話し声も耳に入るが、ここではそれがなかった。
何も聞こえなさ過ぎて耳鳴りのような状態になる。でも今はそれが心地いい。本来、夜はそういうものだ。なんて考えている内に、意識は沈んでいった。
翌日の夕方。4時が過ぎたくらいに家を出た。バスに乗って駅に到着し、ATMで金を下ろす。集合までは時間があるので駅の本屋に寄った。10分前ぐらいにゆっくり歩いて集合場所を目指す。
「お、来たな」
先に来ていたヤツが居る。同級生の1人こと、山口佳一だ。職業はネット回線の工事業者である。小2で同じクラスになってからの長い付き合いだ。
「おーす」
「取りあえず五体満足で戻って来れた訳か」
「精神はズタボロだけどな」
「そんなの何所だって同じだろ。俺なんてお前、仕事してるとたまに耳鳴りして来るぞ。ストレスに違いないぜ」
適当に駄弁っていると、残りの2人も姿を現した。こうして小中高とつるんでいたメンバーがこれで揃う。
「懐かしい面子だなおい」
柏田正人。正規ディーラー勤務でそこそこの高給取り。何年か県外に住んでいた事がある。小4でクラスメイトになった時から仲良くなった。
「よう、久々」
西崎卓。コイツだけ既婚者で子持ち。仕事は移動式クレーン運転士だ。中学に上がった時に俺を含めた3人と同じクラスになり、それからの仲である。
こうして再び4人揃って顔を突き合わせた俺たちは、予約していた店に入った。これまでの事を曝け出し合い、懐かしい話に花を咲かせ、しこたま飲んだ挙句にラーメンを食らい、調子に乗ってカラオケでオールしてグロッキーになりながら明け方に帰宅。
その後、動く気になれないだの1時間ばかりトイレに篭っただの久しぶりに戻しただのと報告し合った。感覚は昔のままでも、やはり老いているのを改めて実感する。