遅い毒
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まもなく迎える婚儀――それを祝うパーティーにおいて、王太子は私になかば怒鳴ったのである。
「シェイラ・アウヴェス、この場において、おまえとの婚約を破棄する!!」
ほぅ、いきなり言ってくれるではないか。どうして、王太子――凛々しきクラウディオ殿下、あなたはなぜそう考えるに至ったのか。より美くしい女とめぐりあったとか、そういうこと? あるいは私よりも胸の大きな女性と出会ったということ? ――ああ、そうだ。クラウディオ殿下は胸の大きな女が好きだ。私もそれなりに大きいのでベッドの上などにおいては著しくああだこうだといじられたことを覚えているし、そのへんはまだ記憶に新しい。揉まれた吸われたもてあそばれた。子どもだ、まるで、クラウディオ殿下は。
私は「クラウディオ殿下、かまいませんわ! 私は身を引きます!」と大きな声で発した。クラウディオは驚いたように身を引いた。まさかすんなり物言いが通るとは思っていなかったようだ。「すまない、シェイラ……」などとうつむいたりした。そんな言葉など要らないのだが、そしてなんのフォローも必要ないのだが、クラウディオは壇上から階段を下り、私の目の前にまでやってきた。私にプロポーズしてくれたときよりもずっと緊張した面持ちである。しかし、いまさらなにを言うのか。私との約束を破ったのだ。だったら、私が優しい顔を向けてやる理由も義理も義務もない。だから私は「お幸せに」とだけ言い、微笑んだ。クラウディオは泣きそうな顔をした。そんな顔をするくらいなら、いろいろとうまく事が回るよう、もう少し頭をひねって考えれば良かったのに。
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新しいパートナーを選び、その結果としてのハッピー――その場にまた呼んでくれた神経には正常性を疑う以外にないのだが、とにかく、私は今度はクラウディオの改めての「婚約パーティー」に招かれたのである。みんな馬鹿なのかあるいは私が馬鹿なのか、みながみな、クラウディオの新たな婚約を喜んでいるのである。まあいい。そも、私はクラウディオに興味なんてなかった。クラウディオと結婚するくらいなら長らく我が家に仕えてくれている執事長の老人と結婚したほうがかなりマシだ。ああ、そう言ってしまうのは失礼か。執事長の老人は早くに妻を亡くし、以来、独り身を貫いているのだから。尊敬できるニンゲンはそばにいて、そうでないニンゲンも案外近くにいたりする。
それにしても、壇上で祝福を受けたクラウディオは幸せそうだ。彼の隣で微笑むどことなく冴えなくていもくさい婚約者――ナタリアの胸はやはり大きい。純白のドレスからあふれだしてしまいそうである。巨乳好き巨乳好き巨乳好き。もはやクラウディオは私にとって忌むべき存在であったりもする。
クラウディオが私のもとにまで来てくれた。こたびもまた、「その折は、その……」などと申し訳なさそうな顔をする。どの口がそれを言うのか。私はおまえに公衆の面前で婚約破棄を突きつけられたんだぞ。この上ない恥をかかされたんだぞ。ほんと、いまさらなにを謝罪しようというのか、この恥知らずめ――というか礼儀知らずめ。
――とのたまうのはよしてやった。私だっていい大人だ。公衆の面前で殿方をいたずらに辱めようなどという気は微塵もない。「幸せに」とだけ言い、そしてそばにいた給仕の男――初老の男性が手にしていたトレイから赤ワインを手にした。こくこくと喉を鳴らして飲み、改めてクラウディオに微笑みかける。彼は「私は失敗を犯したのかもしれない」などといまさら述べた。「いいえ、クラウディオ様、あなたはより胸の豊満な女性が好きなのでしょう?」という皮肉は言わなかったけれど、そんなふうに思い、考えるものだから、殊の外、彼のことが幼稚で滑稽に感じられた。
クラウディオの死は翌々日の朝刊で知った。
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刑事を名乗る男が訊ねてきた。無精髭が汚らしい男である。トールというらしい、トール刑事。勇ましい名だ。おともに野暮ったい後輩を連れている。
客間に通した。「どうして私に?」とは思いもしたが、会いたいと言うのならやぶさかではない。興味もある。
いっとき、私に婚約を申し込んでくれた彼に、いったいなにがあった?
「王太子が亡くなられた旨は存じ上げています。しかし、私にはなにも心当たりなんて――」
「いえ、そりゃそうでしょう。ウチらもね、どうにもわからないことが多すぎるってんで、あちこちしっちゃかめっちゃか洗っているところでしかないんですよ」トールは言う。「が、死因だけはわかりましてね。そのへん、なにかご存じないかなぁなどと思ってですな」
「なるほど」そう言い、それから私は眉根を寄せた。「しかし、私がなにか知っていると本気でお思いに?」
「まさか。思っていませんよ」とトールは言い。「形式的な質問だとお考えいただきたい。あなたは……まあ、立場が立場だ」
「ええ、そうです。情けないまでに王太子に絶縁状を突きつけられた女です」
「自虐は感心できませんな」
「やかましい。そう一喝されたいと?」
トールは小さくばんざいをして、隣に立っている後輩とやらは不機嫌そうに顔を歪めた。特に後輩の態度が気に入らない。だから私は「お帰り願えますか?」と少々衝動的に告げた。すぐに「すみませんな」と謝罪したのはトールである。トールは身なりはともかく利口そうな人物であり、だから私がなにについて腹を立てたかも把握しているようなので、見逃して、そう、見逃してやった。そうだ、思い出した、私は短気なのだった。
私はレモンティーを一口飲み、それから「王太子はどうして死んだのですか?」と肝心要を率直に訊いた。トールは「毒です」と答えた。
「毒?」
「ええ、毒です。ただ、毒だとしかわかっていません。これまで見られなかった毒なのでね」
「しかし、毒だとわかっていれば、それを解析して、そこから考察と判断をくり返せば、やがては犯人の目星もつくのでは?」
「それ、結論、いつ出ますかね?」
私はあらためて眉をひそめた。
「知りませんわ、そんなこと。警察のお好きになさってください」
「そうもいかないから、俺は俺の仕事として、まずは犯人を挙げようってわけですよ」
「ご武運を」
「おや。ご協力いただけませんか?」
「王太子が亡くなられたのはいつなのですか?」
「朝刊が出た前の夜ですよ。たとえば婚約パーティーからは一日以上が経過している。だからね、選択肢がもう多すぎて多すぎて」
「選択肢もなにも、そういうことであれば翻って、なおのこと、絞り込めるのでは?」
トールはレモンティーをすすると、誰もいない右方を向いて「はは」と笑った。
「あの夜、あの晩、あなたが出席されたパーティー、あなたをフッた王太子が主催し新たな婚約者を迎え、それを発表したパーティー――以降、王太子はこれといった人物とは会っていないらしいんですよ」
「と、いうと?」
「いや、言い方に正確性を欠きましたな。王太子はあのパーティー以降、執事以外のニンゲンとは会っていない」
「でしたら、その執事が犯人なのでは?」
「どうして執事が主人を殺すんですか?」
「知りませんわ、そんなこと。お任せします」
トールは「失礼しました」と椅子から腰を上げた。「迷宮入りだなぁ、このぶんだと」と言って、肩をすくめた。「お邪魔しました」とだけ言って、いちいち憎たらしい顔をする後輩とやらを連れて部屋から出ていった。王太子・クラウディオの死なんてどうでもいい。興味もない。なんだか腹が立った。もう一度寝てやろう、二度寝だ、ある種の不貞寝だ。そんなふうに考えた矢先に、今度は我が家の執事――老人が近づいてきた。
「シェイラ様、たったいま、王太子のお父上、すなわち王からの召喚命令が」
私は三度、眉をひそめた。今度はしかめ面のようになったかもしれない。
「どういうこと?」
「息子、すなわち王太子の死について真相を知りたい、と」
「私が犯人の候補に挙げられているということかしら?」
「話がしたい。しつこく確認いたしましたが、その旨しか知らされません」
「どういうこと?」
私は顎に右手をやり、首をかしげる。
「失礼ながら、シェイラお嬢様」
「言ってみなさい」
「要するに今回の事件について、なにかヒントが得られたということでは?」
「ヒント?」
「思うところを申し上げただけです」
「やはり、他殺なのかしら」
「そのあたりが、これから明らかにされるのでしょう」
「警察も……来るのでしょうね」
「それはまあ。先ほどのトール刑事を筆頭に訪れるのでは?」
私は二つ三つとうなずき、「行ってみます」と発した。
「おともいたします」
「いえ、いいわ。私一人で、事は済むはずですから」
「承知いたしました。夕食は?」
「食べます。待っていなさい」
「重ねて、承知いたしました」
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王太子・クラウディオの屋敷に入った。パーティーに使われた会場である。多くのヒトが集められている。意図はわかる。濃淡は関係なく怪しいニンゲンを集め、クラウディオの死の原因と彼に死をもたらした人物を特定しようというのだろう。ほんとうに多くのニンゲンがいる。いたずらに容疑者を増やしては捜査が難しくなるのではないのか。そんなふうに思っていたところで、まるで同じ顔をした二十歳そこそこであろう二人から声をかけられた。「シェイラ様」と。
私は結構図太く、また横柄なニンゲンなので、二人に「あなたたちは双子ね」とごくあたりまえのことを述べた。「ええ、そうです」と微笑んだのは女性で、次に「ええ、そうです」と微笑んだのは男性だろう。女性のほうは赤いドレスを、男性のほうは緑色の背広をまとっている。なお、二人とも目元を覆うような白い仮面をつけている。アゲハ蝶を模したようなデザインだ。「たった二人で仮面舞踏会?」と問うと、二人はまさに声を揃えて「気の利いたお言葉ですね」と言い、クスクスと笑った。
そして二人は両手を広げて、まるで同じようにして、くるりと駒のように回転するのである。二人は笑った。しばし笑い続けた。「あはは」と、「あはははははっ」と。
――トールが声を放ったのである。
「残念ながら、いろいろと目処がつくまでのあいだは、みなさんここにいてください! ご承知おき願います!」
場内がざわめくのもやむなし。
トールが「おい、よくは知らんが双子殿、仕事、してくれるって聞いたぜ?」と訊ねた。
「この世は悲しい!」と言ったのは女のほうだ、姉だろう。
「悲しいのです!」と言ったのは男のほうだ、弟だろう。
まどろっこしいのは嫌いなので、私は双子に「あなたたちには犯人がわかっているの!」と大きな声で問いかけた。
姉のほうが、「毒と聞いた時点でわかりました」と答え、やはり手を広げてくるくると回る。愉快そうだ。ほんとうに愉快そう。
「しかしだ、毒を食らえばすぐに死ぬはずだ。なのに、王太子はそうじゃなかった。その理由はどうしてなんだ?」
そう訊ねたのはトールである。
もっともな言い分だと私も思う。
「簡単です。必然です。すぐに死なない毒だからです」双子の姉はまだくるくる回る。「速効性という言葉があるいっぽうで、この国において遅効性という言葉はあまり一般的ではない。そういうことです。トール刑事!」
そう言った双子の姉がくるくるをやめ、弟と腰を抱き合った。間違いなく双子であるはずだ。けれど、そこにはなんとも言えない性に関する背徳感が窺える。平気で寝るのではなかろうか、二人は。
「要するに、どういうことなんだ?」
「お答えしましょう、トール刑事。姉さまに代わって」弟のほうが弛緩させた口元で述べる。「王太子の妃となられる予定だった女性――ナタリア様ですね、端的に申し上げてしまうと、彼女が犯人です。もはや言わずもがな、現場はかのパーティー会場です」
場内はざわつき、トールは「はぁ?」と呆れたような声を発した。「どういうことかね、弟殿。手っ取り早く話してくれんかね?」
「遅効性の毒だと申し上げました。そのとおりです。ナタリア様から仕掛けたということです」
「どうやって仕掛けたってんだ? パーティー中だってんだろ? フツウに考えると、そんな隙も暇もなかったように思うんだがね」
「警察はぬるい。きちんと捜査すればわかったはずですが?」
「だから、ってぇと?」
「赤ワインにクスリが入っていた。間違いない。お調べには?」
「いや。遅効性か? そんな毒は聞いたことがないからだ」
「やはりね、ああ、やはり」
「わからんな。王太子をピンポイントで狙えるとは思えない」
「でしたら、ワインを提供するニンゲンがナタリア様の側仕えだとしましょうか」
場内全体が絶句したような雰囲気に包まれた。
「まさか。そんなことが?」
「裏を取りました。王太子にワインを提供したのは、ナタリア様の家の執事長です。詳細は省きます。どうでもいいことですから。とにかく彼はうまくやったのですよ。王太子にうまいことワインを渡した」
「弟殿、どういうことだ?」
「簡単なことです」と発したのは姉のほうだ。「王太子に見初められはしましたが、ナタリア様は結婚を嫌がっていらしたのです」
「それだけの理由で殺した?」
「それだけの理由、でしょうか? 王家に嫁入りしたが最後、死するときまで王族なのですよ?」
「それはまあ、そうかもしれんが……」
なるほどと唸りながら、私は話を最前列で聞いている。姉と弟が揃って私のほうに顔を向けた。
「王族はむやみやたらに傲慢です。婚約をするもそれを破棄するも自由。選んだニンゲンが自動的に見初められることもまたしかり。ナタリア様はそんな王族を、ひいては王太子を嫌った。ただそれでも面と向かって結婚を断ることはゆるされない。だからこそ、それを逃れるために相手を殺そうと考えた。至極、フツウの考え方です。誰にも咎めようがない。ナタリア様には想い人がいらっしゃるのかもしれませんね。いえ、恐らくそうでしょう。事件を解決するにあたりそこまでの情報は必要がありませんので、調べていませんが」
姉のほうがそう言い、双子は今度は手をつないで、「ナタリア様!」と声を揃えた。王太子の未亡人(仮)として誰よりも高いところにいたナタリアがゆったりと階段を下りてきた。
双子はまた、声を揃えた。
「かくも美しい殺人が過去にあったでしょうか。私どもは感動いたしました。どうかお元気で、そしてお幸せに」
ナタリアは涙を流しながら微笑んだ。
「ヒトを、しかも王族を殺したニンゲンにどんな未来があるというの? だけど、彼のモノにならないで済むことはできました。これほどの幸せはありません。シェイラ様」
唐突に呼びかけられたわけだが、私はさほど驚きはしなかった。
「ナタリア様、なにか?」
「私はあなたより美しくないと思います」
「王太子は胸が大きな女性が好きでした」
「ええ、ええ、そうね」
ナタリアはぽろぽろと泣き、私たちはおたがいにしょうもない男に見初められたものだなあと笑い合った。
*****
トールが「最後の挨拶」ということで、我が屋の客間をまた訪れた。
「阿呆みたいな事件でしたが、まあ、こういうこともあるのかと勉強させていただきましたよ。なにせ我が国は豊かで平和ですからね。殺人事件すら珍しい」
「ナタリア様の処遇は?」
「新聞は? お読みでない?」
「読みはしましたが」
「死刑ですよ。あたりまえでしょう?」
「やはりそうですか」
私は落ち込む――なんてことはせずに、ただ小さく肩をすくめた。
「自らもそうなることをわかって付き合った執事長。彼の忠犬ぶりったらないですな」
「忠実なのは当然ですが、ヒトを犬呼ばわりですか。気に入りませんね」
「それは申し訳ない」
私はレモンティーに口をつける。
「私にもその選択肢はあったのですね」
「は?」
「ですから、王太子と一緒になるのが嫌であれば、その話が持ち上がった時点で殺してやればよかったな、と」
「そうしていれば、ナタリア様が事に及ぶ必要もなかった?」
「考えようによっては」
トールはがははははと豪快に笑った。
「まったく、女性が考えることはわかりませんな」
「言葉を慎みなさい。無礼ですよ、トール刑事」
「失礼した。そして、失礼します。辞去というやつです」
「ええ。あなたが二度と我が家を訪れないことを祈って」
「がははははっ」
トールと部下の後輩は出ていった。
入れ替わるようにして、執事の老人が入ってきた。
「まさか、例の遅効性の毒薬、すでに手に入れていた方がいらしたとは……」
「えっ、そうなの、ロバート、あなたは知っていたの?」
「それなりに長く生きておりますゆえ」ロバート――白髪に白髭の老人はにこりと笑んだのである。「たとえばなにか相談していただいた折には、提案させていただくつもりでございました」
「ほんとうに?」
「はい。王太子殿下はくそったれでございましたからね。お嬢様、私はあなたと王太子殿下のご婚儀には最後まで反対だったのでございますよ」
私は目を丸くした。
なんだか呆れてしまった。
そうか、我が家の執事はここまでギルティな男だったのか。
「お嬢様の幸せなご結婚を見届けるまで、私は死ぬわけにはまいりません」
「なにを言っているの、ロバート、あなたはいちいち大げさね」
私がクスクス笑ってみせると、ロバートはふたたびにこりと微笑んだ。