第90節 交渉 オオトリ対ムジナ(二)
「ほほ……そのようなこと、そなたが気にせずともよい」
手筈を整えておきたいムジナだったが、オオトリにとってそれは全く無意味なことだったらしい。
「神器の力は強大じゃ。地上へと近づいてくればおのずと妾の知るところとなろう」
事も無げに言って退けるオオトリ。
もっとも、人の子であるムジナには、神器の力とやらがなんのことか分からないのだ。そう言われたところで、強引に納得するより他になかった。
「そうか。なら、オレの仕事は神器とやらと持って地上に出ること。そこから先のことは、万事お前が整えておく。そう言うことでいいんだな?」
「うむ……任せておけ」
オオトリは請け負った。
元々自分の野心のためにムジナを使おうと言うのだ。これ以上失敗を重ねないためにも、自身で動けるところは動いておきいと言うのが、オオトリの本心でもあった。
「では、もうよいな? 時が惜しい故、そなたには今すぐ地下世界へと赴いてもら――」
「待て」
話を締めにかかったオオトリを、ムジナは咎めた。重要なことを思い出したからだ。
「最後に一つ確認させろ。オレたち人の間では、死者のクニで出された食い物を口にすると、そこの住人となって未来永劫囚われると言う伝承がある。そこはどう回避すればいい?」
「ほほ……下らぬ。そのようなものは下郎の生み出したただの風説にすぎぬ」
ムジナの懸念を軽く一蹴したオオトリ。しかしムジナはその様子を穿った目で睨みつける。
するとオオトリ、ムジナを納得させるにはもう少し言葉を用いなければならないと見たようで。
「……確かに、そなたの言う通りじゃな」
「だったらどうすればいい? いくらオレでも何日も飲まず食わずじゃやっていけん。もし向こうの食い物を口にしてそのクニに囚われてしまえば、オレは――」
「じゃが安心せよ。それは肉体を失い魂だけになった者の話なのじゃ。そなたには妾が与えたその肉体がある。案ずることはない」
「その話、ウソじゃないだろうな?」
「……信じられぬならそれでもよい。そなたの腕は少々惜しいが、また別の者に頼るだけのこと。なにしろ、突然の死を受け入れられぬ者など世には五万とおるからのう……」
ことごとく足元を見てくる。ムジナはオオトリに使われることを良しとしきれなかった。
こんな奴にいい様に使われるのは癪以外の何物でもないのだ。だが……
「……貴様は本当に生き返らせることができるんだろうな?」
ムジナは諦めきれなかった。今はまだ死ぬことだけは回避しなければならないのだ。
せめて妹が……クシナダが誰か良人を見つけて嫁ぐのを見届けるその日までは。
「ほほ……つくづく猜疑心の強い男よな。そなたは実際に今こうして己が足で立ち、己が口で言葉を紡いでおるではないか」
ムジナの問いに、オオトリが誇らしげに答えていた。
「確かにそれは妾が与えた仮初めの肉体にすぎぬ。しかしの、妾の真の力をもってすれば、そなたのまことの肉体を蘇らせる事など造作もないこと。人の子でありながらその御業を身をもって実感できる奇跡、身に余る光栄だと思えよ」
「……いいだろう。その依頼、引き受けてやる。交渉成立だ」
――こうして、ミズチの支配する死者の国・ネノクニに潜ることを引き受けたムジナ。
それから彼はオオトリの導きによって、かつてミズチが大地に空けた地底へと続く大穴・黄泉平坂の入口に立ったのだった。




