第53節 神殺しの皇子 其之二
振舞われた酒を飲んでいるうちに、左の首に妙な違和感を覚えたミズチ。彼はその部分を掻こうと思い、他の首を上げようとしていた。
(お、おお……いかん。このままでは首を掻けぬ。)
だが、いざそうしようとしたミズチは、今は首を上げようとしても上げることはできないのだとすぐに気付いていた。
彼の三つある頭は今、そのすべてがそれぞれ別の門と柵によって囲まれ、自由に動かしていいような状態ではなかったのだ。
――ほほ……兄上よ……。一体どうなされたというのじゃ……?――
そんなミズチに問いかけたのはオオトリだった。
オオトリは、地上へと昇って来たミズチと和解したいようなふりをしてミズチに取り入っていたのだ。
そして今ミズチが首を突っ込んでいる門も柵も、オオトリがタケハヤに命じて用意させた物。
(ほほ……この荒神ずれが贄を送り込む前に地上に昇って来る気配を感じた時は焦りもしたが、こうして妾の掌の上で踊っている様を見ていると、なかなかどうして愛いものよのう……。)
内心でほくそ笑んだオオトリ。
彼女は、本質的に他者を疑うことを知らないミズチをその殊勝な態度でまんまと騙し果すと、仲直りの証と称してミズチに八塩折之酒を飲ませることに成功していたのだった。
「いや。ちと首が痒くてな。掻きたいのだが、何しろこの門が邪魔で……。」
――ほほ……兄上よ……。それは妾の反省の証じゃ……。こうして兄上を歓待するために建てた門……。それを壊すなどよもやあるまいのう……。――
「う……うむ。それは勿論だが……。」
まあ仕方がないかと諦めたミズチ。
色々と我儘が過ぎる妹だが、それでもこうして成長している所を見せられれば、ちょっと首が痒いぐらいのことは辛抱して当然のことだと思ったミズチ。
だがそうして我慢していると、左の首がいよいよむず痒くなってきて……。
「う……うむ……うむむむむ……。」
――ほほ……兄上よ……。先ほどからどうなされたというのじゃ……?――
モゾモゾゴソゴソと身をよじっているミズチにオオトリが問いかけていた。
「おお、妹よ。すまんが我の首に何が付いておらぬか見てはくれぬか?どうもさっきからこそばゆい感じがするのだ。」
――ほほ……兄上よ……。首と申されても兄上には三つもあるではないか……。一体どの首を見ればよいのかの……?――
「む、それもそうか。左の首を見てほしいのだが……いや、待てよ。今は右の首が痒い気がするのう。」
――ほほ……そうかえ。では両方見ることにしようかの……。――
そう言ったオオトリはミズチの首の様子を眺めるために、ツンとしました顔で天高くに舞い上がっていた。
だがその実、笑いをこらえるのに必死だったオオトリだ。
それはそうだろう。ミズチが痒いのなんのと言っている首には、オオトリの命を受けたタケハヤが密かに剣を振るっていたのだから。
ミズチが最初に痒いと言っていた左の首は既に亡く、やっぱりこっちだと言っていた右の首も、今タケハヤが憑りついて剣を振るっている所だった。
「どうじゃ?何かついておらぬか?」
――ふむ……いや、何もついてはおらぬ……。そう、何ものう……。――
そう答えたオオトリ。
確かにミズチの左右の首の先には何もついていなかった。
オオトリがそうやってミズチの首を確認しているようなふりをしているうちに、タケハヤは二つ目の首も斬り落とすことに成功していたのだ。
タケハヤはオオトリが宙に舞っているのを見つけると、頷いてその戦果を誇っている。
――ほほ……安心せよ兄上……何もついてはおらぬ……。何もかも気のせいではなかろうかの……。――
「そうか。いや、山鳥か何かが我の首に悪さでもしておるのかと思ったのだが……。」
我が身にこんな重大事が起きているというのに、それで済ませてしまったミズチ。
実はミズチ、酒を飲むのは今日が初めてのことだった。
だからミズチ自身も気づいてはいなかったが、彼は今相当な酩酊状態にあったのだ。それこそ己の首を失っても気付かないほどに。
オオトリはそんなミズチを見て嗤いが止まらない。
(ほほ……巨体が過ぎるのじゃ……。そのように大きすぎる図体では首が落ちたことにも気付けぬのであろうな……。)
ミズチのことをそう侮ったオオトリ。だが、今のミズチはそこまでの巨体という訳ではなかった。
以前のミズチは掛け値なしに山のような巨体を誇っていたものだった。だが、今のミズチは森に身を隠すことができる程度にまで縮んでいる。
(ほほ……神威を遷したと聞かされた時には焦りもしたが……まあ良い……。このぐらいの量が残っているのであれば、妾が天に昇るには十分であろう……。)
自主的に神威の移譲を行ったことがミズチの命取りになるのだ。
天恵は妾にこそ与えられるもの――だからオオトリは笑いが止まらなかった。こんなに上手くいっていいものだろうか。
いかにタケハヤがオオトリの助力を得て一人前の国津神になったからと言っても、所詮人の子は人の子。自分の持てる武器よりも太い首を斬り落とすことなどできはしなかったのだ。
それが神威を移譲したことによって自らの体を縮めてしまったミズチだ。
それこそ、こうしてタケハヤでも斬れる程度の太さになってしまっているではないか。
(ほほ……どこまでも愚かな荒神よ……。死して妾の糧となれるのが、せめてもの救いというものよの……。)
こうしてオオトリは、己の策が嵌る痛快さを感じながら、兄の首が一つ、また一つと失われてゆく様を楽しんで眺めていた。




