第103節 イブキトラノヲ
「まだ分からぬと言うのなら、教えてやらんでもないが……」
ムジナの誰何にそう答えたのは、宰相でも侍女神でもなく、今し方部屋に入ってきた三人目だった。
「お前……」
三人目に意外そうな目を向けたムジナ。
しかし実際、意外だった。
部屋に入ってきたのはあのトラノヲだったのだ。
蔵盗人であるはずの彼は、挙動不審になるわけでもなく、堂々と宮殿の一室に入ってくる。
「まったく、あれだけしてやればいい加減気付きそうなものを」
一方のトラノヲは、そんなムジナにこそ意外だったようだ。呆れた視線をムジナに向けるとそんなことを言い出す。
「あらかじめ言っておくが、これはおれの案ではないからな」
ムジナの元へとやって来たトラノヲが最初にしたことは、誰に批判されたわけでもないのに、まず予防線を張ることだった。
「そう言われても何のことだかさっぱりだ。」
なんでもいいからさっさと話せ。と、ムジナ。
すると、後ろに控えていた宰相から、わずかに怒りのような気配が感じられて、
「相変わらずせっかちな奴だ。何事にも順序と言うものがあろうに」
そんな気配をかき消すように、トラノヲが肩をすくめたのだった。
トラノヲの勧めに従って宮殿の外へと出たムジナ。
そこには一言も発さず黙って付いてきた宰相と侍女神の姿もあって……
「さて。何から話したものか分からんから、まずは自己紹介から始めようか」
ムジナに正対したトラノヲが尊大に言っていた。
「農夫のトラノヲだろう?」
と、そういった格式張ったことを嫌う傾向があるムジナ。彼は、物事は本質さえつかめればそれでいいと考える種類の人間のだ。
ゴテゴテと飾り付けてみたところで、そんなものは所詮不要なものでしかない。
すると、またしても宰相の方から不穏な気配が感じられて――
「改めて名乗るが、我が名はイブキトラノヲ。近ごろこの地の住人になった農夫よ」
ムジナが宰相に気を取られるよりも一瞬早く、トラノヲが自己紹介を述べ始めていた。
「……」
無駄なことを。――そう思うも、始まってしまった以上は、黙って聞きに徹するムジナ。
するとトラノヲ、次にこんなことを言い出す。
「――そしてまたの名をアラダマノホデリノミズチ。貴様がこの世に誕生する遥か以前にこの地底世界に降り立ち、そして覇を唱えた大蟒蛇なり!」
「……?」
あまりに突然の告白に、ムジナがその言葉の意味を理解すうまでもう少しだけ時を要したのだった。
「我が名は他にもネノクニヌシだのミツクビジライカだの色々あるが……どうじゃ? 聞いてみたいか?」
「やめておく」
トラノヲの誘いをムジナは断った。
彼こそがこの地底世界の王・ミズチだった。そのことが未だに信じられないムジナだ。
だいたいオオトリから聞いた話では、ミズチの正体はおぞましい姿をした三つ首の蟒蛇だったはず。
それがどうしてこんな長身痩躯の美男になると言うのか?
「おぞましいかどうかは知らぬが、正体は貴様の言う通り三つ首の大蟒蛇よ。貴様、どこでそのことを知ったのだ?」
「……まあ何となく風聞で」
つい口を滑らせてしまったムジナは、そう答えるしかなかったのだった。




