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08「日常への回帰」

 ――相変わらずふざけた先公だ。


 後藤の連絡とも愚痴ともつかないホームルームをやり過ごす。


 なぜか後藤は「だるい」という一点で朝からは絶対に小テストを行わないので子龍は気が楽だった。


 そして普通に一限が始まる。


「ん?」


 古典の早川が(〔1〕)メロ映画に出てくるゾンビさながらのスローモーな動きでゆっくり教壇に立った時、子龍は違和感を覚えた。


「あ、忘れた」


 ぽつりとひとり言を呟くとりんかが素早くこちらを向く。

 まるで全神経を子龍に集中していたかのようにだ。


「平山くん、古典の教科書を忘れたのか」

「いや……」


「ノート?」

「違う、ぜんぶだ」


「ぜんぶと言うと?」

「そもそもカバンを持ってくるの忘れた」


 義妹である鈴が持たせてくれたカワイイうさぎの絵柄の弁当が入った巾着袋は持ってきたが、学生の本分である教化書類の詰まったカバンを忘れたのだ。


 ――てか、ぜんぶ事務所だな。


「……仕方のないやつだ。先生! 平山くんが教科書を忘れたというので見せてあげても構いませんよね!」


 朝の煮え切らなさが嘘のように、りんかは椅子から立ち上がるとそう宣言した。


 なぜか周囲からは「おおーっ」とどよめきが起こり、同時に盛大な拍手が上がった。


「な、なんなんだよこのクラス」

「ううむ、見上げた心がけ。白石、許可する」


「早川先生、感謝します」

「ううむ」


「というわけで平山くん。先生から許可が出た。今日一日、わたしの教科書を見せてあげよう。ほら、そんなに席が離れていると見にくいだろう。もっとくっつけよう」


「うーん、悪いな白石」

「気にするな。お隣さんじゃないか」


「近所の家みたくいうんだな」

「違わないだろう?」


「とりあえずありがとうと言っておくよ」

「素直でよろしい。そういうところは平山くんの美徳だぞ。それとノートがないならば、このメモ帳を良ければ使うがいい。まだ、ほとんど白紙だ」


「マジで感謝する。明日、新しいのを買って返すよ」

「だから気にしないでくれ。メモ帳はたくさんあるし、どうせ姉からの貰い物だ」


「姉ちゃんいるのか」

「大学生の姉がいる」

「そっか……」


 りんかの姉など想像したくもなかった。

 隣の女以上に強烈なキャラだろう。


 ――考えすぎると頭が痛くなる。


 とりあえず子龍は授業に集中することにした。






「開始五分で寝るとはなにを考えているんだ」


「すまない。なぜか不思議な呪文が教卓から聞こえてきたんだ」


「あれはお経に近いが……。さすがに失礼過ぎるだろう」


 一限目が終わると同時に子龍は目を覚ました。


 そして貴重な休憩時間だというのに、りんかよりありがたい指導を受けていた。


「昨日寝れなくてな」

「なんだ。なにか、悩みごとでもあるのか」


 心配そうにりんかがずいと顔を寄せてくる。


「……いや、この国のことを憂いて片時も心が休まることがないのです」

「なんと……」


「猖獗する昨今の流行り病。各国は己の利だけを貪ることに忙しく、人心は惑うばかり。そのことを考えると、とてもではないが、安らぐことはできかねるんだ」


 子龍はどこぞの古代の聖人のように両手を膝に落として目を伏せた。


 あくまで冗談である。


 寝られなかったのは希望コミックスの(〔2〕)国志全六十巻を再読していたからにほかならなかった。


「そうなのか……いや、すまない。浅慮なわたしが口を出していいことではなかった。きみのような大丈夫ならば、当然のことだろう」


 りんかはどこか上気した頬に自分の手を添えながら、どこかうっとりとした目つきで子龍を見つめる。


「いや、あの、その、うん。そうなんだ」


 今さら嘘だばーかとも言えなかった。


「将来は議員を目指すのか?」

「あ、すいません。そんな目でボクを見ないでください」


「なぜだ? (〔3〕)大夫の就くべき職は政治家以外にないだろう?」

「なんという中華的思想」


「おじいさまがそうおっしゃられていた」

「今は職業選択の自由」

「ちょっと、りんか!」


 ふたりの間に割って入るように、ひとりの女生徒が声を上げた。


 やや吊り上がった猫のような目が印象的なセミショートの子は佐藤桃花という子龍たちのクラスメイトだ。


 ――ああ、そういや、どっかで見たな。


 ちなみに子龍とは一年時に同じクラスであったが、記憶になかった。


「りんか! あたし話がある!」


「なんだ、桃花。今は話の途中だ。できれば次の時間の休憩のときにでもしてくれると助かる」


「いーまっ。今、あたしはあなたに話があるの」


 桃花はりんかの腕を引くとかなり強引に立ち上がらせた。


 ――どーぞどーぞ。


「ぎろり」


 子龍としては厄介払いしたいところだったので、内心ホクホクだったのだが桃花に強く睨まれた。


「フンだっ。りんかのあとで平山くんにも話があるからね」

「別に場所を変えなくともここで話せばいいのでは?」


「いいから、くるっ!」


 首根っこを掴まれたりんかはずーるずると桃花に引っ張られ廊下に消えてゆく。


「ふむ」


 子龍が首を左右に動かして凝りをほぐしていると、横からにょきっと伸びた腕で首を抱きかかえられた。


 このような馴れ馴れしい態度を子龍に取る人間はクラスの中でも数は知れている。


「なんだ、エロ下か」


「江下だよっ。まったく人の名前を好き勝手改変する野郎だよな、おまえってば……」


 やけに前髪の長い江下は学園内でも有名なゾンビ映画マニアであり、男子女子を構わずおすすめのグロ作品を勧めるもので、一時期『変態ネクロフィリア野郎』という子龍ならば自殺モンの称号を頂戴していた悲劇の人物であった。


「シリューよ。とーっくりとここ最近のおまえを観察させてもらった。停学明けのおまえは、やはり以前とは違うな」


「別に変わらないぞ」


「カーッ。言うじゃねェか。一年のときはまったく女っ気がなかったおまえが、あのお堅いことで知られる白石を速攻で口説くとはよ。その秘訣、教えてくれや」


「ひどい言いがかりだな。そもそも彼女が欲しきゃエロ下も適当に作ればいいだろ?」


「いやぁ、頑張ったよ。いつだって頑張ってるのさ、おれぁ……」


「ああ、はいはいすごいすごい」

「ちゃんと聞いて!」


「やめろよ、デカい声出すな。おまえは束縛癖のあるアメリカ女性か……」


「いやあ、おれってばさ。シリューよりルックスは上じゃん? 初対面なら一応は話を聞いてくれるんだよ。んでもってある程度仲良くなったあとな、おれっちの部屋に招くんだわ」


「んで、お決まりどおりゾンビ映画のフルコースで愛想を尽かされると」


「おれは一緒にゾンビ映画を楽しんでくれる彼女が欲しいんだよっ!」


「未だにそんなことやってるのか……ハハッ」

「さわやかに笑うなぁ!」

「笑ってねぇよ。これは蔑んだだけだ」


「余計ひでぇじゃんかよ! てか、さ。第一、ゾンビ映画とか、ゾンビ映画じゃなくても百歩譲ってホラー映画のなにが悪いんだよ。おうちでホラー映画鑑賞。いいじゃねえか? 女は怖いの好きなんだろ? なんで怖い映画がダメなんだよ!」


「そりゃ初見から(〔4〕)ーターズとかグロテスクとかソドムの市とか鑑賞させられたらどんな女でもひくだろう」


「なぜだ。間を取ってルームも挟んだのに……」


 江下は机に両腕を突くとガックリと肩を落とす。


「監禁されると思ったんじゃね?」

「馬鹿な……外の世界なんて偽りだらけじゃないか」


「そういう狂った思想が女性の恐怖心を煽るんだ。てか、久々に変態映画談義でもしたいのか? 俺は最近目が疲れるからあまり映画見ないことにしてるんだが」


「そんな話をおれはしてるんじゃねぇ! 白石は最初おまえにメチャ辛く当たってたじゃんか。なんで、今の距離関係まで進めたのか、後学のために聞きたいんだよう! なあ、みんな!」


 江下がそういって背後を振り返るとクラスの男子生徒全員が「応!」と鬨を作った。


 女生徒も明らかな興味本位でニヤニヤと子龍を見つめていた。




〔1〕ジョージ・アンドリュー・ロメロ。言わずと知れたゾンビ映画の祖。3部作、ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド、ゾンビ、死霊のえじき。これだけ見とけばあとは見なくてよい。

〔2〕掲載誌の都合で対袁紹戦の官渡の戦い以降北方攻略戦を端折った。真面目に書けば3冊以上費やしただろう。また、この時、劉備は汝南で活動し、許を窺い、曹操が差し向けた蔡揚という将を撃破している。その活躍を描いて欲しかった。

〔3〕古代中国では政治家以外は士大夫の就く職業ではないとされた。

〔4〕全部気持ち悪いので見る必要なし。

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