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28「夕映え」

 空が晴れ渡ったまま無事放課後を迎えることができた。

「なあ、どこか行かないか。いつもとは違うところだ」

「ほんじゃま、たまには遠出しますか」

 子龍とりんかは電車とバスを併用して移動すると海が見える堤防に場所を移した。

 平日である。

 日が暮れる、ちょい前で、季節外れの海辺には人がまばらだった。

「海……」

「ここなら静かだろ。金もかからんし」

 松林を抜けて堤防に上がる。

 犬の散歩をしている老人が足を止めて空を見ていた。

 子龍は速足で堤防の石階段を下りるりんかのあとを追った。

「あんまはしゃぐなよ。足元悪いぞ」

「ははっ」

 りんかは砂浜を軽やかに駆けると浪打際にまで至った。

 子龍はのそのそと足を取られないように、歩く。

 浜のあちこちには打ち上げられた流木やら漁具の一部が静かに横たわっていた。

「海、入れるかな」

「まだ、春だぞ。冷たいからやめとけば」

「もう、子龍は冷たいな。ゆとり世代ってやつか」

「同い年だろ」

「それもそうだったな」

 りんかはそういうと素早く靴を脱いで、躊躇なく素足で海に分け入った。

「ひゃあっ」

 そして震えた。

「言わんこっちゃない」

「びっくりするな! これは!」

「初めて海を見た犬みたいだぞ」

「子龍もやってみないか」

「俺は遠慮する」

「そんなこと言わずに」

「海水が入ると錆びるんだ」

「ロボットみたいに?」

「ああ、そうだ。それに海坊主とかが出ると怖いしな」

「ねえ、そう言わずにお願い……」

 普段はほとんど見せないりんかの甘えるような声と上目遣いに子龍はあっさりと自説を曲げた。

「仕方がないな。りんかのお願いだからな。恩に着ろよ」

「あはっ。着る着る。一生恩に着るぞ」

「それはそれで怖い」

「いいから、早く入って」

 子龍は腕を掴まれてざんぶと海に片脚を突っ込んだ。

 靴ごとである。

 ざざっと波打ち際を寄せては返す海水に浸った右脚が冷たい。

 靴の中でつま先を動かす。脚の指が海水を吸った靴下をなぶるように動き、気色悪かった。

「あのな……」

「あはっ、ごめん!」

 両手を合わせて片眼を瞑り謝るりんかの姿は燃え立つような夕映えに包まれ、子龍はそれを美しいと感じた。

 それからふたりは仲良く波打ち際を逍遥した。

 潮の匂いに揉まれながら子龍はいつになくころころと笑うりんかの表情を記憶に焼きつけた。

 しばらく経って――。

 ふたりは海から上がると、堤防の下にある階段にそろって腰を下ろして夕日を眺めていた。

「あのな子龍。ちょっと恥ずかしいのだけれど、わたし、男の子とこうして夕暮れの海をそぞろ歩きするのが夢だったんだ」

「そっか。じゃあ、もう夢叶ったな。完」

「勝手に終わらすな。それでな、ミシェルのことなんだけれど、昨日話したんだ。ごめん、自分でもなにを言っているかわからないけど、とにかく、彼女もとりあえずはわたしが呼び出さない限り、表に出てこないことを約束してくれたんだ。ああ、今の状況か? こうしている間は彼女もわたしの内側で意識があって、子龍とわたしの会話を聞いている。なんというか、奇妙な共存というか……そういう感じだ」

「じゃあ、特になにもしなくてもオッケーってことなのか?」

「うん。そう。だけど、ひとつ問題ではないけれど、そのう、あの……」

 りんかは不意に表情を翳らせると、上目遣いで子龍を見ながら言い出しにくそうに、視線をさ迷わせた。

「なんだよ、ここまで来たら遠慮するなよ。靴もグチョグチョだし」

「う、靴はすまなかった。そんなふうに言うと、余計に言い出しにくいじゃないかあ」

「わかった、靴は一旦忘れる。じゃあ、言ってみろ」

「わたしのご主人さまになってくれ!」

「……は?」


 子龍は脳の動きが止まった。

 いや、正確に言えば止めざるを得ない状況にあった。

 ――このシチュでそう来るかね?

 健康的で精神においては極一般的な男子である子龍はここまでの振りと状況で「ワンチャンあるかも」と密かに、しかし高い確率で願っていたのだが、それらは180度違う方向に転換していった。

「ちょっと待った。なぜにマスター認定を?」

「わたしの中のもうひとりが言うんだ。子龍がご主人さまでなければ嫌だと。そして、わたしもそれを望んでいる」

「いやいやいや。自分でなにを言っているか理解してるのかい、ベイビー」

「理解しているぞ。その上、満場一致、賛成多数で子龍はわたしたちの主人としても選ばれたのだ。了解して、もらえるだろうか……?」

「ちなみにそれはどんな特典がつくんだ」

「すべてをかけてあなたに尽くします」

「よっしゃ仕方ないなそうまで言われちゃ任しとき」

 子龍はあっさりとりんかの条件を快諾した。

「うれしい」

 りんかの笑み――。

 脳が爆発しそうになるほどキュートだった。


「んで、それでどうなのよ。進展はあったわけ?」

「なにが」

「もーう、隠さなくていいじゃん」

「意味がわからん。そこ、どいてくれますう。下駄箱行きたいんで」

「質問に答えないのは、愛しのりんかちゃんが気になって仕方ないからっスかー?」

「なにが?」

「いや、なにがって。昨日、あんたたちめっさイチャイチャしながら帰ってたじゃん。しかも、いつもとは違う路線使って」

「ああ、それならな。どうもりんかの中のミシェルと平和的合意に至ったらしいから、無理に除霊とかしなくても大丈夫そうだぞ」

「だーかーら、あたしが知りたいのはそんなトンチキなロンドン幽霊っ子のことじゃなくて――え? ミシェルちゃんそれじゃいなくなったの?」

「正確にはいなくなったわけじゃなくて同居してるらしい。りんかの魂魄にな。内なるインナースペースというか。とりあえずは、もう、不意の出現に悩まされそうなこともなさそうだ」

「ああ、それはよかったわね。……ん? なにかあたしごまかされてる?」

「そんなことはない。これも今まで桃花くんの助力があったからこそだよ。おお、お兄さまに伝えておいてくれ、あの壺はいいものだ」

「なんか微妙にパクってるけど、ところどころ違っててもやもやしたものが止まんないんだけど」

「リスペクトって言っとけばすべて許されるらしい」

「んなわけあるか! ――って、子龍、あんたの上履き」

 子龍が自分の靴箱を開けると、上履きにみっしりと黒土が詰まっていた。

 極めて陰湿な嫌がらせだ。

「ふふ……身に覚えがありすぎるわ……」

「ありすぎるわじゃないでしょ! 誰よ、こんなセコイ嫌がらせするやつは! いくら子龍が斜に構えててキモくてツッコミがしつこくてもこんな嫌がらせされる覚えはないわよっ」

「桃花、犯人はおまえか?」

「なんであたしなのよ? ちゃんと擁護してるでしょう」

「擁護だったのか。そいつは恐れ入ったぜ」

「ま、本当のことでもあるわね。あたし、嘘がつけないタイプだしね」

「地味に効いてくるんだが」

「あ、でもでもつ。別に子龍のこと嫌ってるわけじゃないのよ。これもホントよ」

「フォローありがとな」

「おはよう子龍、桃花。うわっ、それどうしたんだ?」

 子龍が絶望に打ちひしがれていると、りんかが現れた。

「な! これはひどい。わたし、こういうことする人間を絶対許せない。子龍が線路に身投げしたらどうするんだ」

「そうよ! 鉄道会社にすごい損害賠償要求されるのよ」

「違うぞ桃花そこじゃねえ」

「とにかくだ。今日はわたしのスペアを使うといい」

「サンダルね。ありがたいけど、ちょっと入らないかな。俺、二十九センチあるから」

「そんなデカいの!? ほとんどゾウじゃない」

「馬鹿言うなゾウさんはもっと大きいぞ」

「じゃあ、ちょっと待っててくれ子龍。理由を言って職員室で借りてくるから」

 りんかは素早く靴を履き替えると急いで職員室に向かって走ってゆく。

「いやあ、甲斐甲斐しいですなあ。あんな美少女に尽くされて、ええ。このお、この果報者ぉ。昨日、まじでどこまで行ったん?」

「昨日主従の契りを誓い申した」

「ファッ!」

「俺がご主人様な」

「……それってちょっと健全な男女交際からかけ離れてるんじゃないかしら」

「理解してなかったのか? 俺たちの関係を普通の尺度で測るなよ」

「いや、斜め上過ぎて理解が追いつかない」

「よかったな。おまえは呑み込まれんなよ。この世界に」

「どこに向かっているのよ、あんたたちは」


「おはよう。おっ、どったんだシリュー。朝っぱらからフン詰まりみてーなツラして」

「ああ、エロ下か。おはよう。今日も朝から一発抜いてきたみたいな爽やかな顔してるな」

「ちょ、まっ、ちょ……! なに、朝イチでぶっこんできてんだよ、テメェ!」

 江下は慌てふためいてあたりを見回し、モロに動揺した。

 近くの席の女子は子龍の声が聞こえていたのだろうか、青ざめた顔つきでガタガタと自席を江下から離す。

「ほらぁー! 彼女信じちゃってんじゃん。シリューちゃんよう、朝からそういう下ネタやめようぜい。なあ?」

「必死に取り繕っても無駄だぞ」

「ンだよ。ああ、そうだよ! 手も握らせねぇおまえら雑魚ビッチどもに用はねぇ。あっちいけ、ぺっぺっ。で、実際どったんよシリューちゃん」

「陥れといてなんだが、おまえ鋼のメンタルの持ち主だな。俺ならとっくに自殺しとる」

「で、マジでどったのよ」

「いや、ちょっと上履きに土詰められててな」

「おい、そいつはマジかよ。許せねぇな」

「江下、俺のために怒ってくれるのか?」

「俺が粘土詰められねぇじゃん。次からはさすがに子龍も警戒するだろうし」

「普通にクズだな」

「まあ、気にするなよ。なんなら孔明並みの罠を仕掛けとくか? それとも、明日、張っといて、犯人見っけたら切り刻んで薬品で溶かして便所に流すとか」

「おまえは俺をなんだと思ってるんだ」

「東洋のジェフリー・ダーマー」

「誰がミルウォーキーの食人鬼だ。とにかくだ。ンなめんどいことはしないよ。明日も続くようなら、センセイに相談して告訴の手続きを取る」

「普通に怒ってるじゃんか。まあおまえがいいなら、いいけどよ。敵がしつこいようなら俺を呼べよ」

「江下……」

「おまえのべそヅラを動画で撮影してSNSに投稿するからさ」

「マジでおまえが犯人じゃないだろうな?」

 子龍が江下と無駄話をしていると、隣の席のりんかが心配そうな顔で身体を寄せてくる。

 ふんわりといい匂いがして子龍は多幸感に包まれた。

「なあ子龍。本当に後藤先生に相談しないのか? つらくなったらいつもでわたしに言うんだぞ。抱きしめてあげるから」

 聞き耳を立てていた江下が指笛を鳴らす。

 甲高い音がぴゅーぴゅーと教室内に響いた。

「江下、うるさいよっ」

「あ、スンマセン」

 気の短い女生徒に怒鳴られて江下は頭を掻きながらスゴスゴと押し黙った。

 沈み切った表情でうつむいている。

 子龍はこいつにこそ癒しが必要なのではと思った。

「あ、そうだ。子龍、今日の家庭科の調理実習でクッキーを焼くんだ。わたし、焼き菓子は得意なんだぞ。楽しみにしててくれ」

「そっか。くれるんか」

「ああ、子龍にぜひ食べてもらいたいんだ。ダメか?」

「いや、ダメじゃないぞ。楽しみだ」

「そうか。楽しみにしていてくれ」


 ――うん、美味いな。

 放課後、子龍はりんかがクッキーをパッケージしていそいそと持ってきたのを受け取ると、校舎裏でひとり隠れながら食べていた。

 りんかは「わたしのは美味いぞ」と豪語するだけあって、店で売っているのとなんら変わりのないクオリティで子龍は満足していた。

「だが、やっぱ粉モンは喉が渇くな」

 チョコが混ぜてあり、すべての授業を終えた子龍の疲れた脳には覿面に効果があったが、やはり口内から水分を奪うのはいたしかたない。

「なんか飲みもん買うべ」

 小銭をチャラチャラさせながら小走りで移動し始めると、人目につきにくい場所で話し合う声が聞こえてきた。


「だから、僕のいうとおりにしてくれたら、金は払うよ。引き受けてくれないか?」

 吉川康太は四人の男子生徒にそう言い放つと、ポケットに入れた紙袋から十枚の万札を取り出して突きつけた。

「マジかよ。この十万、そんなんで貰っちまっていいんかよ」

 茶髪の男がひゅうと口笛を吹くと、残りの三人は下卑た顔で広げられた万札に舌なめずりをした。

「ああ、嘘は言わない。僕のいうとおり、この子を通学路で襲う振りをしてくれれば、この金は君たちのものだ」

 吉川はスマホの画像データに写った白石りんかの写真を男たちに見えるよう差し出した。

 聖命学園では数少ない不良グループの四人は、吉川がクラスでちょっとだけワルな雰囲気を出している少年に駄賃を握らせてようやく渡りをつけた貴重な人材だった。

 ――絶対にりんかはあんなDQNに渡さないからな。

「ほーう、これって園芸部の白石じゃね? ハハッ、おまえよう、白石に惚れてたんか? で、おれたちに襲わせる振りをして、ギリギリでおまえが颯爽と現れ華麗に撃退と。いまどきこんな猿芝居に騙される女がいるもんかねぇ?」

 三白眼の男が嘲るように吉川を見た。

 ――構うものか。こんなやつらにどう思われても、僕は彼女を手に入れられればそれでいいんだ。

「いいんだよ。僕のプラスのイメージを彼女に焼きつけることができれば。あとは、長年の信頼でなんとかしてみせる。とにかくこのために彼女の通学ルートは僕が調べに調べ抜いたんだ。マップを見てくれ。この児童公園の裏手は寺で、まず、十八時すぎれば人は通らない。そこをきみたちは、白石さんが通ったところ、無理やり公園に引き込んで脅すんだ」

「うっわ、コイツ、マジストーカーっすよう。寺さん。マジもんの犯罪者っておれっち生まれてはじめて見ちまったっす」

 三下っぽいエテ公に似た男がはしゃぐ。

 吉川は図星を突かれて赤面したが、言い返せない。

 代わりに黒々とした怒りの情念が燃え立った。

 思えば、あの平山という男が現れるまでは、りんかと自分はいい感じだったのだ。

 吉川は、夕暮れ時まで仲良く園芸部で活動に励んでいた彼女との蜜月を想い、歯噛みした。

 彼らに渡した金は吉川が両親の財布からキャッシュカードを拝借し、秘密裏に下ろした虎の子の金であった。

「もう一度、確認するぞ。今日の夕方、彼女が家の用事でどこかには寄らず帰ることを知っているんだ。白石さんは、今日から園芸部の活動を再開するからどうしたって、公園の前を通る時間はそれくらになる。そこで待ち伏せて、合図をしたところで僕が助ける。これでいいな?」

「おうおうわかったよ。じゃあ、場所のグーグルマップをラインで送ってちょうよ。一応、こんだけの料金貰ったらおれらもきちんと仕事したいからよ」

「ああ、わかったよ。それと、これはあくまで振りだからな。彼女を怖がらせればいいんだ。それだけは順守してくれよな!」

「りょーかーい」

 茶髪の男がニッと歯を見せて笑う。

「話は終わりだ。きみたちといっしょに居るところを誰かに見られたくない。さっさと行ってくれ」

 ――これで、りんかは、僕のものだ。

 ぽっと出の半端な不良崩れである平山は癌だ。

 だが、吉川が見るところ、すでに洗脳されているりんかに直接平山のクズさ加減を述べても聞く耳は持たないだろう。

 ならば、彼女のデータを吉川の素晴らしさで上書きする以外に手はないのだ。

「待ってろよ、りんか。きみを、助ける役は僕なのさ。くふふ」

 吉川は自分たちの密談を缶コーヒーを飲みながら聞いている男がいることには気づかなかった。


「そろそろ来るはず」

 灯りのつき始めた外灯から身を隠すようジャングルジムの物陰に潜んでいた吉川は、四人の不良たち目配せをした。

「へっ。じゃあ、そろそろ行きまっか」

「おい、なんで今電話してるんだよ。彼女に気づかれるだろ」

「るせーよっ!」

「あいっ」

 茶髪の男、中島に殴打された吉川は口元から血を流して吹っ飛んだ。

 ――わけがわからない。

 眼鏡を砕かれて、一瞬で戦意を喪失した吉川は闇の中にのっそりと立つ四人に対して、初めて恐怖感を抱いた。

 それもそのはずである。

 先ほどまで羊であると思っていたものが、突如として虎狼に化けたのだ。

「な、なにをするんだよう」

 抗議の声は尻つぼみになった。

 男たちは吉川を殴る蹴るの暴行を無言で加えると、完全に逆らう気力を奪った。

「テメェーの役目はここまでだよ。カスが」

 吉川は、彼らの本質を見誤っていた。

 飼いならせる犬であると決め込んでいたが、彼らは飢えたオオカミのような危険さを孕んでいた。

 恐怖におびえた吉川が次に聞いたものは、児童公園に横づけした一台のバンだった。

「あ、先輩ちっす」

「おう。中島。で、獲物は?」

「そろそろで」

 明らかに学生ではない二十代前半の危険なオーラをビリビリと放射するキャップを被った男に対して中島がペコペコしていた。

「津田さんだよ。今回の撮影に協力してくれる、いうなればおれらのOBよ」

「な、なにを――」

「おめぇが吉川か。こりゃおめぇに感謝しなきゃだな。久々に女子高生が喰えるって聞いたもんでよ」

「へへ、津田さん。こりゃ久々に楽しくなりそっすね」

「中島。今回はキッチリ撮影のプロを呼んどいたからよ。無論、おめぇーらにも喰わせてやるよ。その代わり、たっぷり働いてもらうからな」

「へへ、そのへんは、どうもです」

 ――なんだ、なにを言っている?

 理解できない。

 吉川は自分が大切な人を地獄の窯に投げ入れつつあることを悟り、半ば本能的にスマホを取り出しタップしようと指を伸ばした。

「おい、待てって」

 津田に人差し指を掴まれたと思った瞬間、ぐりんとそれが奇妙な方向に捻じ曲がったのを見た。

 折れた――。

 同時にスマホを取り上げられ、再び犬猫のように蹴転ばされた。

「なぁーに通報しようとしてんですかねぇ」

「おいおい、吉川ァ。津田さんは総合やってんぞ? あんまマジ怒らせんなよ」

「いいい、白石さんをどうするつもりだぁ……」

「どうって、そりゃぼくらのプライベートビデオに主演女優として出演して貰うつもりだよう」

 ――く、狂ってる。

 逃げ出そうとするが、津田に襟首を掴まれ軽く持ち上げられた。

「ダメだよう。おれはね、ゲージツカなんだぁ。今回のヒロインのクライマックスにきみも出演してもらおうと思ってるんだあ。逃げはダメ」

 野太い眉と唇を歪めて津田が笑う。

「おい、クルマ回せや。あんま時間かけんなよ」

 不良たちがいつでもりんかを拉致れるようにスタンバイする。

 絶望の中で吉川の精神が砕けそうになった時――。

「お、なんだこれ? 企画AVの撮影か? 許可取って貰わないと困るなァ」

 と、のんきな声が聞こえてきた。


 子龍はゆるりとした動きでバンの後方から姿を見せた。

「テメェ、誰だよ。とっとと、こっから消えうせ――平山!?」

 中島が素っ頓狂な声を出した。

 同時に仲間の三人と津田が子龍の前に現れた。

 ――クルマの中にはふたりか。

 七人。

 さして脅威は感じない。

 子龍が無言で近づくと、聖命学園の武勇伝を知っている四人組の不良は明らかにうろたえた。

「おっ、どーしたよ。中島」

「津田さん。前におれらが言ってた……コイツが例の平山です」

「ああ、コイツぅ? そういや軟派なウチにも結構骨のあるやつがいるとか聞いたが、雰囲気いいじゃん。タッパは結構あるじゃねーか。で、おまえはなんなんよ? ここになにしにきた?」

「いやぁね。カブトムシがね」

「は?」

「そこに転がってる園芸部の吉川くんが、この公園でデッカいカブトムシ取れるって言ってたんでワクワクしながら獲りにきました。オッサンも獲ってくかい?」

「――おい、中島。なんだかしんねぇがちょっと囲んでやっちまえ。ついでにクルマに乗せてアジトに運ぶぞ。このコゾーには地獄見せてやる」

「おいおい、ずいぶんと怖いことをおっしゃる。まるで見てきたような口ぶりだな」

「やかましいやい!」

 中島が真っ先に突っかけてきた。

 子龍は半身を反らして一撃をかわすと、中島の首に腕をひっかけてぶん投げた。

「わ――!?」

 いきなり投げられると思わなかった三人がたたらを踏んで止まる。

 子龍は動きの止まった三人の中央に突っ込むと、左右の拳を同時に突き出してストレートパンチを浴びせた。

 顔面を潰されたふたりが後方に吹っ飛ぶ。

 同時に子龍はカカトの裏を倒れている中島の顔面へと情け容赦なく落とした。

 ゴリッと硬質な音が鳴って中島は気絶した。

「え、あ、え?」

 残ったサル顔に向かって右肘を叩き込む。

 鈍い音が鳴ってサル顔は鼻骨を砕かれもんどりうって泡を吹く。

 味方の形勢悪しとバンに乗っていた男が飛び出してくるが、子龍はその場をほとんど動かずに迎え撃った。

「らああっ!」

 子龍の右脚が天高く上がり男の身体は弾かれたように、車両の中央に吸い込まれた。

 だが、男は車内の座席にぶつかって弾き返され地面に横倒しになった。

 顎を強かに蹴り上げられた男は地面に頬を接着させたまま白目を剥いていた。

「あ、な、バカな。この野郎が」

 津田にもはや余裕はなかった。

 あっという間に五人の男が倒されたのだ。

 ここまでものの十秒もかかっていない。

「舐めんなヨ、おれは総合をやってるんだ!」

「へぇ、じゃあ、とっととかかって来いよ」

「ああああっ」

 破れかぶれになった津田の動きはスピードこそそこそこであるが、子龍には酷く芸のないものに映った。

 子龍はトンとわずかに後方に飛ぶと、まっすぐ突っ込んできた津田めがけて右の回し蹴りを放った。

 夜気を引き裂くような鋭い音が鳴って津田の巨体は宙を舞った。

 右足の一撃は津田の側頭部に突き刺さって、意識を一瞬で刈り取った。

 一九〇センチ一〇〇キロを超えるであろう津田の巨体は軽々と吹っ飛んで地面に倒れ込んだ。

 バラバラと白いものが舞い落ちる。

 津田のへし折れた前歯だった。

「おい、そこのドライバー」

「ひ、ひいっ」

「逃げんじゃねぇ。ナンバーは覚えた。今逃げたら、地獄まで追い詰めるぞ」

 子龍はドライバーから免許証を取り上げると、命令して気絶した仲間全員をバンに積ませた。

「ヤサは割れたからな。このオッサンが起きたら言っとけ。平山子龍がナシをつけに行くから、それまで妙な真似をするなってよ!」

 追い込みをかけることも忘れない。

 このあたりの阿吽の呼吸は息をするように喧嘩ばかりしてきた子龍の当然たる処置であった。

「か、勘弁してください。おれは頼まれただけなんだぁ」

「はよいけ」

 ドライバーは涙を流しながらコクコクとうなずくと、その場をすぐさま走り去った。

 たいして時間の立たないうちに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

 これだけ大立ち回りをしたので近所の住民が通報したのだろう。

「さ、時間がない。立てよ、吉川」

「う、う、うん。ありが、ありがと……」

 子龍は吉川の顔面にストレートを入れた。

 不良たちに放ったものと遜色のない一撃に吉川の身体は宙を舞った。

「俺の上履きに土詰めたのはテメーだな」

「ひ、ひ、ひ」

「なんでこんなことした! まあ、いい。二度とりんかに近づくんじゃねぇ! いいか、こんなことするクソ野郎は誰かを愛する資格はねぇ! 二度とやるんじゃねぇぞ!」

「は、はひぃい……」

 吉川はチョロチョロと失禁すると、その場にヘナヘナと両膝を突いた。

 子龍はカバンを拾い上げると公園の裏手へとゆったりした足取りで向かい、不意に振り返った。

「あ、それとガッコにチクんなよ。俺がまた停学になると妹が悲しむからな」

「は、はいいいっ」

 最後がしまらない子龍であった。


 翌日。

 子龍はなにごともない様子で登校していた。

 このあたりは大物というか図太いというか鈍いというか。

「でな、昨日いつも帰る通学路でなにかあったらしく、パトカーがすごかったんだ」

 りんかがカバンを自席に下ろしながら言った。

 あたりまえのようにりんかの席は子龍とくっついている。

 もはやツッコむのも面倒になったのか、担任の後藤もほかの教師もなにも注意をしなくなっていたのが問題といえば問題であった。

「とりあえず怖かったから、その道は使わなかったんだが。これからどうしよう」

「そうかそうか。それじゃ、今後はその道は使わないほうがいいぞ。そのように卦が出ている」

「子龍は占いもやるのか?」

「そうじゃないが、今朝のテレビの占いでそう言っていた」

「ふぅん、近ごろはいろいろ詳しいんだな。わたし、朝は忙しいからテレビは見ないんだ」

「そーかそーか。テレビは見ないほうがいいぞ。一億総白痴化だからな」

「なにそれ?」

「大宅壮一が言っていた」

「誰?」

「さあ、誰なんだろうな。たぶんジャーナリストだ」

「そうなのか。子龍は博識だな」

「そうでもないぞ。世間知というものだ」

「それとはまた別物であると思うけれど」

「気にするな」

「気になるのだが。まあいい。それよりもだ! 今日は約束どおり例のモノを持参したぞ。なんだろう? なんでしょうか? じゃーん、わたしの手作りお弁当です」

「まだなんも聞いてないのにいきなり自分でネタバレするなよな」

「早く知ってほしくて」

「うん? そういえば作ってほしいなんて頼んだっけか?」

「うん? まあ、いいじゃないか」

「弁当、持参しているのだが」

「そちらは昼までに食べればいい。わたしのをお昼に食べれば。男ならいけるだろう」

「ぜんぜんダイジョブだが。なんか貰ってばっかしだな」

「うん、よくわからないが、昨晩夢の中でミシェルがそうしろと言ってきたんだ。マズかったか?」

「いんや、ありがたくちょうだいするよ。これからもよろしくな、お隣さん」

「こちらこそだぞ、ご主人さま」


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