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27「願い」

「そんでまあ昼休みなんだが……おまえはどうしたい?」

 子龍は椅子の足を不安定な二本で立つように両足を机の上に乗せながら気のない感じでりんかに訊ねる。

「アンタ、もう、すでに飽きてるでしょ」

「まぁな」

 作戦参謀といった体で、本来のグループを抜ける形でつき合ってくれている桃花がツッコミを入れる。

「私は、ご主人さまのお世話をしたいです」

「とはいえ、ここは学校だしなア。だいたい、ミシェルはなにができるんだ?」

「はいっ。私はキッチンを主に働いていました。故郷では炊事洗濯掃除、なんでもござれですっ」

「ほーう、凄いな。俺はどれもできん」

「威張るなっ」

「あ、あとっ。兄妹がたくさん居ましたので、赤ん坊や子供の面倒を見るのは得意ですよ」

「へえ、そいつは初耳だな。兄妹は弟さん? 妹さん?」

「はいっ。弟は四人、妹は五人いましたっ」

「……マジか」

「故郷では、ふつうですよ?」

「いや、あたしを見ないでよ。その、ミシェルちゃんの前世の記憶でしょ? たぶん」

「だ、だよな。びっくりしたぜ。ミシェル、パパとママ頑張ったんだな」

「? よくわかりませんけど、頑張ったと思いますっ」

「不毛な会話はこれくらにして、と。でも、ぶっちゃけミシェルにしてもらいたい仕事がここではないんだよなあ。昼飯食ったら、あとは、すぐ帰る時間になっちまうし」

「そんな……」

「子龍っ。ミシェルが悲しんでるでしょ。なんでもいいから仕事を捻りだしなさいよね」

「ンなウンコじゃあるまいし、無理やりは出ねーよ」

「うわっ。女子の前でそういうこと言う?」

「とりあえず食堂行くか。弁当は持ってっけど」

「はい、ご主人さま」

「無視をするなっての」

 子龍はりんかと桃花を従えて食堂へ移動した。

「あちゃあ、もう、どこも満席だな」

 昼休み開始から時間が経っている。

 ただでさえキャパの少ない席は、開幕ダッシュに成功した飢えた学生たちに占拠され、三人の座る場所はないかと思われた。

「仕方ないわ。出るのが遅かったのよ。パンでも買って中庭で食べるしかないわね」

「なんか俺だけ弁当で悪いな」

「構わないわ。あなたもそれでいい?」

 桃花がおとなしくしているりんかにそう告げた。

「あ、でも、ご主人さま。あの席、ちょうど空いているのではないですか?」

「あら、あなた目が良いのね。ほら、子龍。ちょうど三人分空いたみたいよ。席取っといてちょうだい」

「わかった。桃花はりんかと昼飯買ってこいよ」

「お願いね。さ、行くわよ」

「それではご主人さま、しばしここでお待ちください」

「あいよ」

 桃花がりんかを引き連れて食料を調達に行く。

 子龍は弁当箱を開けて、相も変わらずグレードが高すぎる昼のラインナップを見定めると、腹をさすった。

 ――腹減ったな。

 もとより小食ではない。

 子龍がおとなしく待っていると桃花とりんかが人ごみを掻き分けながら戻ってきた。

「ごめんね。待たせちゃった?」

「申し訳ございません、ご主人さま」

 勢いよくりんかがそう言って深々と頭を下げると、前のテーブルに座っていた女子がギョッとした目で子龍を見た。

「ちょ、声!」

「……いや、もう気にしないことにした」

 子龍の目は遠いどこかを見つめている。

 大悟を得た禅僧のそれに似ていた。

「まあ、アンタが気にしないっていうんならあたしは別にいいけどさ」

「じゃあ、さっさと飯にしようぜ」

「はいはい、がっつかないの」

 桃花は三角パックの野菜ジュースをちゅーちゅー吸いながらパンの包み紙を開けている。

 子龍は今や政界から死滅した紙パック飲料を飲む女子高生を内心脅威に思いつつも箸を取る。

「ん? そういや、ミシェルは食べないのか?」

 りんかは子龍の脇に立つとニコニコと笑みを浮かべている。

 手にはハンドタオルを持ち不動の姿勢だ。

「はい。私はメイドとしてご主人さまの給仕に全力を尽くさせていただきます」

「いやいやいや、別にすることねぇだろ」

「そんなことはありません。……たぶん」

「自信ねぇのかよ!」

「あの、ご主人さま。私って具体的になにをすればいいのでしょうか?」

「そこまで曖昧なんか」

「ううう、すみません。基本的にキッチンでお料理の雑用しかしたことないので」

「あはは。それじゃあ、子龍はお弁当食べさせてもらったら? あーんでもしてもらってさ」

「あのなあ、桃花。現実を見ろよ。どんなバカップルでもこんな昼日中の、しかも学食でそんなド外道な行為に走ってるやつ見たことあんのか? 憑依状態のりんかの言動くらいならともかく、こんな人目につく状況でンなことやったら、イイ笑いもんにされちまうぞ。第一、りんかのやつに悪いじゃんかよ」

「あーあ、わかってないわね。でも、りんかは子龍と噂になっても嫌がらないと思うわよ」

「はぁ? なんでよ」

「鈍いやつ」

「ご主人さま」

「あぁ?」

 桃花との会話を打ち切って前を向くと、いつの間にか対面に座ったりんかが弁当の玉子焼きをスプーンですくって、そっと差し伸べていた。

 ――この状態で俺に食えというのか?

 りんかはどこかとろけ切った表情で目じりを下げ、わずかに頬を赤らめて腕をぷるぷるさせていた。

「あ、あーん」

「……」

「あーん、です」

「あ、あのな」

「早く食べてくれると、とてもうれしいです」

「わかったよ」

 子龍はあきらめてりんかの奉仕を受け入れた。

 具体的には幼児のように弁当を食べさせてもらったのだ。

 最初はぎこちない態度であったりんかも、慣れていくうちに従って、余裕が出たのかゆるみ切った顔で給餌を行い続ける。

 ――これじゃあ、まさしくペットみてーなもんだな。

「はい、それじゃあご主人さまあ、次はこっちを」

「いや、先にウインナーをくれ。そのあとに、ご飯を二口くらい。それがバランスがいい。うむ、もぐもぐ。よし、喉が渇いたから次は茶だ。そうだ、角度に気をつけろよ。うぶっ……気にするな。緑茶だからベタベタせん。そんでもって次はピーマンの肉詰めだ。そう、そうだ、丸ごとでいい」

 気づくと桃花は子龍たちの前から消えていた。

 周りからの好奇の視線に耐えられなかったのだろう。

 ――ふふん。自分で煽っておいてなんだ。愚かなやつよ。

 だが、勝った気はまるでしなかった。

「どうされましたご主人さま。あ、お口が」

「んー」

 りんかがハンカチを出して子龍の口元をゆっくり拭う。

 メイドと主人というよりも、ただのラブラブバカップルである。

 食堂のあちこちからヤジが飛ぶ。

 あたりまえだ。

 子龍も白昼に堂々とこのような真似をしている男女がいれば、率先して囃し立てただろう。

「……ふふ、ふふふ。笑え。笑えよ」

「どうかいたしました、ご主人さま?」

「なんでもない。今日の飯は格別うまい」

「それはおめでとうございます」

「ありがとうございます」

 ――なんだ、この会話は?

 子龍は形容し難い表情で万物の創世と世界の終わりを想った。

「それは良かったです。これからは、この私が、ずーっと、ずーっと、命の続く限りご主人さまをやしなってあげますからね」

「うん。でも、その前に俺の命がもつかどうか」


 社会的に抹殺される世界を恐れて子龍は授業が終わると、早々と帰宅した。

 無論、メイド霊に憑依されたままのりんかも一緒である。

「あー、空がキレイだ」

「アンタ、まためんどくさくなってるでしょ」

 当然のように同行する桃花が減らず口を叩く。

「うるさいな。裏切り者め」

「んなっ。なにを人聞きの悪いことを。なんで、あたしが裏切り者なのよ」

「昼飯ン時食堂から俺たちをほっぽって逃げたじゃん」

「あんな空気の中にいられるわけないでしょ。あたしは

 ないーぶなのよ」

「ハンッ」

「鼻で笑うなあっ」

 メイド霊ミシェルが憑依状態のりんかは無言であるが楽しそうな顔で、一歩下がった位置で子龍についてくる。

「ホラ、おまえのキャラの濃さでメイドちゃんが困ってるだろ。わきまえろよな、まったく」

「あたしは善意で協力してんのよっ」

「きみを巻き込んだことを本当にすまないと思っている……!」

「ジャック・バウアー!? 古くない? しかもそれ、まったくすまないと思っている時に限って言うセリフよね!」

「なんで今ドラマの話するんだ? しかも微妙に古いドラマの話を」

「どうしてあたしが空気読めないアホみたいな感じになってるの?」

「わかったよ。とりあえず2ブロック先まで移動するぞ」

「ホントは子龍、あたしのこと嫌いでしょ……」

「そんなことはないぞ」

「で、どこに向かってるのよ」

「……うん」

「うんじゃないが。もしかして、またなにも考えてないとか?」

「あのな、そんなわけないだろう。腹案くらいちゃんとある」

「じゃあ、言ったんさいよ」

「実はな、じいちゃんから連絡があって、その筋の霊媒師的な? 人を見つけることができたんだってよ。だから、もし、本当に困ってるっていうんだったら連絡をつけるって、そういう話よ」

「でかしたじゃない。あ、でも、それだとミシェルちゃんが消えちゃうってことなの?」

 子龍と桃花は示し合わせたように振り返った。

「あの、どうかされましたかご主人さま?」

 ぽけーっとした表情のりんかを見つめる。

 どこまでも平和そうだ。

 ――くそ、俺らの気も知らんで。

 平常時のりんかであれば、もっと近寄りがたいほどのクール&ビューティーの気を放っている。

 入れ物が一緒でも中身が違えば、これだけ印象に差が出るものなのか。

 ミシェルが劣っているというわけではないが、普段を見慣れている子龍からすれば、やはり別人と思えるほどの差がそこにあった。

「あの、ご主人さま。私、わかってますよ。今の状況が普通じゃないってこと」

「え……」

「耳が聞こえないわけじゃないんです。こんな近くでお話しされたら……ああ、でも、ぜんぶがぜんぶわかってるわけじゃないんです。私、学もないですし、正直、今日一日座っていても、聞いていることちんぷんかんぷんでした。だけど、ここが私の住んでいたところじゃなくっても、あなたさまの姿かたちが変わっていても、ご主人さまであるってことは変わりはないんです。だから、なんとなくですけど、私が私でいる間は、おそばにいさせていただけないでしょうか……? むつかしいことも、誰かに納得していただくことも話せませんけど、私は、一緒に居たいです。ご主人さまと、もう少し、もう少しだけ……」

「……」

「おいっ。なにいきなり情にほだされてんのよっ。りんかの手を握るな爽やかにサムズアップするなあ!」

 子龍は結論を後回しにした。


「実のあったようなそうでもないような一日だったな」

 子龍はりんかと桃花を引き連れ、もはや常連となりつつある喫茶店で文字通りお茶を濁した。

「クソ、帰宅途中に物思いに耽ろうと思ったのに近すぎてなにも考えれん」

 子龍の自宅は近く、すぐにたどり着いた。

「おかえりなさいませ。兄さん、今日はお鍋です」

「――は?」

 出迎えてくれた義妹を前に子龍は自分の目を疑った。

 玄関先に現れた鈴はメイド服を着て登場したのだ。

 ――これは、一体全体どういうことなのだ。天地自然の理が知らぬ間に崩壊したのか?

 朝、家を出たときの鈴はいつもどおりだった。

 だが、今の彼女はどうだろうか。

 子龍が知る限り、鈴はあくまで控えめでありつつ年齢に合った慎ましいファッションを好んでいた。

 ふたりの関係がそこまで年月を重ねていないことあってか、鈴はどんな状況でもだらしない恰好や姿を見せたことはなかったし、子龍もまたほとんどクラスの女子と一緒に居るような心構えで生活していたので、自堕落なところは見せなかった。

 ――だが、なぜメイドなのだ?

 眉に唾を付けるという言葉があるように、子龍は拳でゴシゴシと目元をこすった。

「どうしたんですか兄さん。眠いのですか?」

「い、いや、ずいぶんいつもと違った格好をしているなと思ったんで」

「? これですか?」

 鈴は不思議そうにスカートの裾を手に持つとその場でくるりと回って見せた。

 ――くそ、かわええ……!

 子龍は普通に思春期真っ盛りの青年なので、アイドル顔負けの容姿を誇る義妹の魅力に打ち勝つことはできなかった。

 ――てか、スカート短っ。犯罪だろ、ほとんど。

 鈴はいつもどおりの冷静な表情で子龍を見つめている。

 メイドといっても彼女が着用しているのは、りんかが装備した呪われたメイド服のようなクラシカルなものではなく、ぶっちゃけて言うといかがわしい店でしかお目にかかれないようなシロモノだった。

「あの、なにか勘違いしていませんか? これは普通に作業用の服ですよ。エプロンもついてますし」

「どう見ても防御力低そうなんですが……」

 確かにエプロンはついているが、ちろっと申し訳程度であるし、さらにいえば胸元はぐりっと開けてあるので、小ぶりではあるが形のいい鈴の上乳がしっかりくっきり見えている。

 由々しき事態である。

 子龍は自分がエロスの世界にいつの間にか紛れ込んでしまったのではないかと疑い左右を見回すが、そこにあるのはいつもと変わらない、ちょっと疲れた壁だけだった。

「兄さん。おかしなこと言ってないで、早く手を洗ってきてください。お夕飯にしますから」

「――!」

 くるっと回転した鈴のスカートは普通にまくれて、ぷりっとした尻と下着が見え、子龍は手にしたカバンを落とした。

 キッチンから楽しげな鈴の鼻歌が聞こえる。

 テレビでよく流されている住宅メーカーの歌だ。

「家、建て直せと? ……いや、考えすぎか」

 頭を振る。

 のれんをくぐると今日も両親は不在の我が家だった。

 テーブルの卓上コンロの上には鈴が運んできた鍋がぐつぐつと煮えていた。

「いつもながら、俺の帰宅時間を予測したようなジャストタイミングで出るな」

「ふふ。兄さんの行動はお見通しですから」

「う」

 目元をやわらかくして、小指を口元に持ってゆく鈴の表情はゾクッとするほど魅力的で子龍は言葉に詰まった。

「ほら、席に着いてください。今日は鯛しゃぶ鍋ですよ」

「おお、こりゃ豪華な」

 新鮮な春野菜がたっぷり入ったスープにこれまた新鮮な鯛の刺身をしゃぶしゃぶして食べる逸品だ。

「これは食わなくてもうまいとわかるな」

「なんですか、それ。食べてから判断してください。でも、ありがとうございます」

「お、おお。なんか悪いな。いっつも食事の用意させちゃって。たまには俺がやろうか?」

「兄さん、なにも作れないじゃないですか」

「なにもということもない。そうだな、お湯くらいは沸かすことはできる。というかお湯沸かしのオーソリチーだ」

「そうですか? なんだかよくわからないですけど、結果、できるのがカップラーメンだけでは私、ご免こうむります」

「むう。万策尽きたわ……」

「早いですよ」

「自分でもそう思う」

 鈴は子龍と会話をしている間にも、次々に配膳を行ってゆく。

「前、失礼しますね」

「う、うん」

 子龍の飯茶碗を置いた際に、鈴が前かがみになるので露になりそうな胸が迫る。

 白い肌にむっちりとしたそれをダイレクトに捉えてしまい、子龍は目を白黒させた。

「どうしたんですか?」

「い、いや。なんでもない。いただきます」

「はい、いただきます」

 ふたりきりの食事であるが、別段寂しくはない。

 華やいだ雰囲気の中で、子龍はほどよく火の通った野菜の滋味を噛み締めながら、その味に感動していた。

「うまいな」

「よかった」

「なにがだ?」

「だってこうでもしないと、普段兄さんお野菜さん食べないじゃないですか」

「そんなことはないぞ。なんなら馬車馬くらいいつも消費しとる」

「嘘おっしゃい。トマトいつも残そうとするじゃないですか」

「トマトはそんなに好きじゃないんだ。ケチャップは好きだが」

「難儀な方ですね。あ、そういえば、今日――」

 鈴が楽しそうに今日、学校であったことを面白おかしく子龍に語って聞かせる。

 ――よく話すようになった。

 正直なところ、鈴が子龍をさけていたように、子龍自身も鈴を苦手にしているところがあった。

 いくら美少女が相手でも、ロクに口を利かないような相手と長時間いることは苦痛だ。

 だが、時間を重ねることによって、それなりに鈴の信頼を勝ち得ることができたのだろう。

 鈴聞き上手でもあり、話上手でもある。

 そもそもが、コロコロとしたかわいらしい声で語られれば、年頃の子龍の表情がだらしなくゆるむのも仕方がないことである。

「なに見てるんだ?」

「え? いや、兄さんの食事風景ですよ」

「おまえも食べろよ。もっと食わんと育たないぞ」

「そんなことありませんよ。これでも少しは自信あるんですよ?」

 鈴はそういうと上目遣いで子龍を見ながら、そっと自分の両胸に手を当て持ち上げる仕草を見せた。

 ――ぐっ、かわいすぎて死ぬわ!

「どうしたんですか?」

「いや、刺身の王さまはやっぱ鯛だなって思ってな」

「へー」

 どこか挑発するような視線を送る鈴は蠱惑的であった。

「なんだよ、そのへぇーは」

「気にしないでください。細かい男は嫌われますよ」

「嫌わないでくれ……」

「大丈夫ですよ、大好きですから」

「へ……?」

「あ、お野菜足りないみたいですね。ちょっと取ってきます」

 パタパタとスリッパを鳴らして鈴がキッチンに移動する。

 ――深い意味はないよな。

「考えすぎか」

 確かに、ここ最近、諸事忙しく、ゆっくりと食事を楽しむゆとりもなかった。

 ――これはいかん。

 精神を統一して、鈴が調理してくれた夕食を今は楽しむのが肝要だろう。

 あとは、くよくよ考えずにたっぷり寝ること。

 そして勉強のことは忘れる。

 寝る前に頭を酷使すると快眠できないことを子龍は知っていた。

「それが長生きの秘訣……にしてもこの鯛うめぇな」


 一時間後。

 夕食を終えた子龍はベッドにはベッドに入らず、居間でゲームに興じていた。

「なぜ?」

「なにか言いました? 兄さん」

「いや、別に」

 鈴がほぼ日課である『あに森』をプレイしている。

「あ、あの、鈴さん。宿題などはやらなくてもよいのでせうか」

「兄さんが帰ってくる前にすませましたから」

「あ、そう」

 ソファにいる子龍は鈴を股の間に座らせながら抱え込むような姿勢で動揺していた。

 つい先日までは、仲が良くなったとはいえ、並んで座る程度だったのだが、気づけば子龍はこの状態になっていた。

 ――何故?

 しかも、未だミニスカメイド状態である。目の前でチラチラするヘッドドレスが気になって仕方がない。

 おまけに故意かどうかは知らないが、背中を預けてくるので彼女のあたたかさを意識せずにはいられず喉がカラカラだった。

「ん、こいつ、こいつ」

 画面上の鈴が操るプレイヤーキャラはサイの亜人を網でぽかぽかと叩いている。

 ――これはそういうゲームじゃなかったはずだが。

「あ、兄さん。お喉渇きましたか。これをどうぞ」

「え、あ、うん……」

 鈴が飲みかけのジュースのストローを差し向けてくる。

 その際に、子龍の腕に鈴の小ぶりな胸がぱにぱにふよんふよんと当たる。

 ――ダメです神さま、絶息しそうです。

「んっ、早く、飲んでください。ちょっと、苦しいです」

「あ、悪い」

 身体を捻っているのでキツいのか鈴は眉間にシワを寄せて小さく呻く。

 間接キスとか嫌なじゃないんかと子龍は思うのだが、鈴があごをわずかにくいっとやって「はよ飲め」と命ずるので躊躇なくいった。

「うむ……うまい」

「もういいですか?」

 そういうと鈴は再びテレビ画面に向き直ってグラスのストローへと自然に口をつけた。

 こくこくと、彼女がオレンジジュースを嚥下している。

 なんとなくもぞもぞしてしまう。

「もう……あまり動かないでください」

 鈴は子龍の手を取ると自分の太ももの上に持ってゆく。

 張りがあり、むっちりした義妹の肌に触れて子龍は邪念をこらえることができなくなりそうだった。

「んー。んっ、んっ。島に雑草が多いですね。兄さんもたまには起動してくださいよ。ふたりの島なんですから」

「……おう、そうする」

 生返事をしながら子龍は鈴のやわらかさをこっそり堪能することにした。



 作戦は成功した。

「くふふ、やった。やた!」

 先に就寝した子龍を見送ったあと、鈴はリビングで小躍りしながら、自らの勝利を寿いだ。

 思い余って親友である姫宮梨々花に相談して正解だった。

 鈴はこっそりスマホを盗み見したことは伏せて、恋のライバルが下賤なメイド服で子龍が洗脳されそうになっていると助けを求めたのだ。

「なぁに? そういう時はね鈴。バケモンにはバケモンをぶつけんのよ!」

「いや、バケモノではマイナスなのでは」

「ようっし。鈴ちんの気迫、あたしには伝わった。ついてきなさい。本当のエロメイドってのを教えてやるわ!」

「いや、別に私はそういう方向で張り合おうとは思っていないのですが」

 なんでも梨々花は趣味でレイヤーをやっており、その手の服も多数所持しているらしく、放課後には彼女の家まで連れていかれ、拒否する間もなくメイドコスを手渡された。

「これでお兄さんを誘惑しちゃいなさいなっ。鈴の家事スキルとモノホンがあれば妊娠確実……! ってなもんよ」

「いや、それだと学校辞めなくてはいけないのでは?」

 梨々花は常々趣味の話になるとヤバいことはわかっていたが、これでも学校では品行方正の優等生であり、常に学年トップクラスの成績の持ち主であった。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとも言いますし、ここはひとつ梨々花の狂気に賭けてみますね」

「善意のレンタルに関してそれは言いすぎじゃね?」

 だが、策は鈴が思っていた以上に絶大な効果を発揮した。

 確かに、着替えてみて姿見を見た鈴はその破廉恥さ加減に自死したくなったが、すべては兄の心を虜にするためである。

「それに、いつまでも関係が壊れることに怯えていたら、前に進めないもの……!」

 おそらく鈴の容姿と性格のよさならば、正攻法で攻めれば子龍は熟した柿が落ちるように手に入ったはずであったが、恋に盲目になった鈴は間違った方面に突き進んでいた。

「今日はいっぱいイチャイチャできました。それに、兄さんも私の脚を……くふっ」

 先ほどのことまで思い返す。

 義兄である子龍は間違いなく自分のことを性的対象と見ていたに違いない。

「どうしましょう……もしかしたら、今夜、私」

 メイドコスに身を包んだ鈴はいそいそとカバンの中から避妊具を取り出すと口に咥えたまま、照れるように顔をいやんいやんと振った。

「それにしても兄さんがメイドフェチだとは……! 今になっては感謝しかありませんよ。見知らぬ、負け犬さん」

 鈴はバレリーナのようにその場でくるくるとひとしきり舞うと、シャワーを浴びに風呂場に向かった。

 ちなみに子龍はぐっすりと眠りに入り朝まで起きることはなかった。


 子龍はぐっすりと眠って気分よく起きると、爽快な心地でリビングに向かう。

 ――登校まで時間はあるし、ここはひとつ朝のモーニングコーヒーとでも洒落込むか。

「おはようございます」

「ゔ! お、おはよう」

 キッチンを除くとそこにはドロンとした目つきの鈴が恨みがましい目で味噌汁を作っていた。

 セクシーな黒のベビードールにエプロンを羽織っている。

 頭には昨夜の名残りかメイド服のヘッドドレスが乗っており、どこか物悲しかった。

「どうしたんだ? どっか体調でも悪いのか?」

「ええ、誰かさんのおかげで一睡もしておりません……」

「マジか? きょ、今日は学校休んだほうがいいんじゃないか?」

「このくらいじゃ休めませんよ。それより、そろそろ朝食にしますので、兄さんはゆったりとリビングでおくつろぎください。え、そうですとも。私のことなどお気になさらず」

「そ、そうか。なんか、ゴメン」

 逃げるようにリビングに移動する。

 アイボリーのマグカップが置いてある。

 視線を落とす。

 ドロドロと地獄のマグマのように煮詰まったコーヒーが怨嗟の声を上げながらブクブクと泡を吐き出していた。

「なにこれ……俺、死ぬの?」

 死にはしないが、心底煮詰まったコーヒーに子龍は泣いた。


「うぐ、まだ、喉に詰まっている感じだ」

 最悪な感じでコーヒーを飲み干した子龍は、そのあとに出された鈴の朝食の味も満足にわからぬほど味覚を憔悴させていた。

 なぜだか理由はわからぬが、朝からお冠の鈴をなだめ、次の休みに買い物につき合うという条件でなんとか機嫌を直してもらった。

「やけに今日はカラスが多いな」

 登校途中、塀やごみの集積場付近にやたらとカラスを見かけ、否応にも気分が下がってしまう。

 子龍は塀に並んでこちらをジッと見ているカラスに対し素早く動くと視線を合わせた。

 カラスは見かけよりもはるかに知能が高く、そして推測能力がある。

 急接近した子龍を恐れてカラスはがあがあと鳴きながらその場を去ってゆく。

「あとはあいつらか……よし、たまには一掃しておくか」

 子龍はカラスの警戒音である鳴き真似を高らかに響かせる。

 ほぼ同時に電線に並んでいた上空のカラスたちは一斉にその場を飛び立っていった。

「ふ、相変わらず無敵だ」

 ひと仕事終えてフーッと息を長く吐き出すと、路地裏から黒猫が軽やかな動きで飛び出してきた。

「く、黒猫? 不吉な」

「さっきからなにをやっているんだきみは」

 振り返るとそこには呆れた表情のりんかが立っていた。

 ――今日はどっちだ? りんか本人か? それとも?

「心配しなくても、いつものわたしだよ、子龍。おはよう」

「あ、ああ。おはよう。って、うわっ、黒にゃんこが」

「そのように怖がらずとも。黒にゃんにゃん。おいで」

 りんかが座って優しく呼びかけると黒猫はととっと近寄り、足元に猫なで声ですり寄ってくる。りんかは黒猫の頭をやさしく撫でさすった。

「毛並みがいいから飼い猫か?」

「近ごろ外飼いは珍しい」

「しかし黒猫かあ」

「黒猫が不吉というのは西洋の言い伝えだ。日本では福を招いたり商売繁盛を呼び寄せたり病気を治したり、とにかく子龍が思っているようなアンラッキーはないよ」

「そっか。ひとつ勉強になったな。ラッキー猫よ。ひとつ俺も幸運のおすそ分けを貰うとしよう。ぐりぐり」

「にゃーんもかわいいものだろう」

「りんかは猫好きなのか」

「うん。動物全般好きだ」

「そっか。そんな感じだよな」

 やがて満足したのか黒猫はにゃーんとうれしそうに鳴き、再びどこかへ走り去った。

「なあ、子龍。今日、放課後、わたしのために時間を作ってくれないか」

「構わないぞ」

「そうか」

 りんかが顔を上げる。

 子龍も同じく空を仰いだ。

 天の蒼が深い。

 今日も晴れそうだ。


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