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26「愛は惜しみなく」

 鈴が台所に飲みものを取りに行って戻ると、子龍は深い眠りの中に落ちていた。

「かわいい……」

 ソファからずり落ちながらも寝入っている。よほど疲れているのか、鈴がゆすっても子龍は起きる気配もない。

 テレビの画面には『あに森』のプレイヤーたる分身が、所在なさげに立っている。

 鈴は手に持っていたグラスをテーブルに置くと、子龍の前にそっと膝を突いた。

 寝ている顔は安らかである。印象的な切れ長の目も閉じられいつもより柔らかな感じだった。

 子龍の顎にまばである顎鬚を見つけ鈴は胸が高鳴るのを感じた。

 こうしてじっくり見ると子龍の鼻梁は日本人にしては高いほうだ。

 そっと顔を近づける。若い男の汗ばんだ匂いに鈴は自分が興奮していることに気づき、そっと胸に手を当てた。

「今日は、なにをしていたんんですか」

 寝ているので答えないことをわかっていながら訊ねる。

 昨晩、子龍のスマホを盗み見した時にあったメイド姿の女と会っていたのだろうか。

 鈴は先ほどまでのことを振り返って、我ながらよくやったと自分を褒めた。

 実は、今日、学校に登校した際、鈴は心許せる友達に義兄である子龍に女の影があることを話した。

 その友達には鈴が子龍に対して好意を抱いていることを話してあり、どうしていいかと相談したのだ。

 無論、子龍のスマホのロックを無断で解除したことは伏せてだ。

 友達が言うには、やはり鈴は同じ屋根の下にいる地の利を生かし、積極的に攻勢に出るべきだという意見が強かった。

 自分では馴れ馴れしいくらいに身体的接触に出たのだが、子龍は嫌がらなかった。

 鈴は子龍の手を取ってそっと握った。当然ながら、自分の手よりもずっと大きい。鈴自体、女性にしても手は小さいほうだが、子龍の手は極端に大きく肉厚であり、男を感じさせるものだった。

 この太くてたくましい腕で力尽くにされたら、到底かなうものではない。

 あっさりと押し倒されて意のままにされてしまうだろう。

 そして、実質的に義理の兄妹とはいえこの家にはふたりしかいないのだ。

 どのようなことをされても抗うことはできない。

 そして力尽くで始められた隷属関係はどこまでもエスカレートするだろう。

「ああ、兄さん……」

 想像するだけで身体中に電流が走り、ゾクゾクする。

 鈴は思わず子龍の胸に顔を埋めた。

 気づかれることはないだろう。

 ――だってこんなふうに寝入っているのだから。

「しゅき……兄さん、しゅき……しゅき……」

 そうやってどれだけの時間抱き合っていたのだろうか。

 不意に鈴は我に返ると、名残り惜しそうに子龍から身体を離すと、未だ眠りに落ちている男の顔に熱の籠った視線を注いだ。

 鈴も最初から子龍をここまで慕っていたわけではない。

 それどころか、鈴は母の再婚には反対ですらあった。

 義父である平山正太郎に対する第一印象はそれほど悪くはなかった。

 だが義兄になるべき人物である子龍に対する印象の最初は悪すぎた。

「平山子龍だ」

 まず、名前からしてヤバかった。そして寝不足のせいか目つきも良くなく、義父とはまったく似ていない独特のオーラは女子校育ちであった鈴には異質であり、恐怖感さえあった。

 だが、義父と鈴の母の関係は傍から見ても良好であり、自分ひとりの我儘で周囲の幸せを壊す決断ができず鈴は妥協するしかなかった。

 子龍は親族であったが、親戚の集まりで何度か見かけた程度。

 それも鈴が幼い頃だったので記憶はほとんどなかった。

 両親が家を空けがちなのも悪かった。

 子龍の祖父である京志郎は人当たりが良く、度々両親が不在がちな鈴と子龍を見に来てくれたが、基本は兄妹だけで過ごすことがほとんどだ。

 鈴はクラスメイトにこのことを相談したが、女子校の彼女たちは面白がるか本気で鈴の身を案じ、悪戯に余計な情報を与えるので混乱に拍車がかかるだけであった。

 同じ家に居ても鈴は必要以上に子龍をさけた。子龍はそれなりに歩み寄ってくれようとしていたが、すでに頑なになりつつあった鈴はどうすることもできずに、ひとりで食事をとり、ひとりであらゆる身の回りの支度を行い、余計に孤独さが身に染みる日々が続いた。

 転機が訪れたのは、冬の特に冷え込みが厳しかった夕方だった。

 久々にクラスメイトたちと街でショッピングやお喋りに興じて帰宅が遅くなった夜のことである。

 時刻は十九時を過ぎていた。両親もまずこの時間に帰宅することはなかったので、慌てる必要もなったのだが、なんとはなしに身についた癖で家路を急ぐ鈴であったが、途中の繁華街で三人の男に絡まれたのだ。

「そんなこといわずにつきあってくれよ。な、な?」

「いえ、結構ですので」

 鈴はその容姿ゆえに街でナンパされるのは日常茶飯事である。

 だが、その相手はあくまで自分同じ学生か、せいぜい二十そこそこであるが、その日に声をかけてきた男たちは明らかに種類が違った。

 着ているもの、髪型、アクセサリ、そして身体から発する気配が彼らをアウトローだと明確に示していた。

「本当に迷惑ですので! どいてくださいっ!」

「な、な、な。そう言わずによう。おれたちとちょっとだけ飲みに行こうや。な?」

 言葉だけはそれほど乱暴ではないが目つきが異常だ。猛禽類に狙われた小動物のように鈴は内心怯えていたが、必死で拒否の言葉を張り上げる。いつもなら、ここまで明確に断ればまず食い下がる男はいないのだが、鈴の気持ちなど意に介さずに自分たちの意志だけを押しつけてくる。

「誰か……」

「き、きみたちぃ。その子は嫌がってるじゃないかぁ」

 見かねた五十過ぎくらいの中年男が仲裁に入った時点で、空気が一変した。

「ああんっ。おれたちゃ、この子と話をしてんだよっ。なに割り込んでんだ、くらあっ」

 有無を言わさず男は中年男の顔面を殴りつけた。

 鈴は声も出ない。

 無理もなかった。

 女子校育ちで、喧嘩といえば女同士の言い合いくらいしか見たことがない鈴だ。

 成年に達した男が放つ生の暴力など目にしたのは初めてだろう。

 中年もまさかいきなり自分が殴られるとは思っていなかったのか、拳を受けるとその場にぺたりと座り込んだ。

 男のパンチは大した威力でなかったのだろうが、中年男の鼻腔から出血を促すには充分だった。

 パッと真っ赤な鮮血が垂れる。

 血は本能的に人間の恐怖心を呼びおこす。

「あ、テメェ! さてはパパ活目当てだな。おらあっ、おらあっ。せーばい、せーばいいいっ!」

 男は鬼の首を取ったように、もはや恐怖で動けなくなった中年男を蹴りつけ出す。ふたりの仲間をそれを見て、どうということもない様子でスマホをいじっている。

 鈴はもはや声も出すことができず、その光景を眺めるだけだった。

「じゃ、ま。悪党退治のお礼に茶でもしばくべぇ」

 太い腕に肩を抱かれて無理やり路地の裏手にある怪しげな店に引っ張られる。

 男たちは無関係なお節介をいたぶることで間接的に鈴から拒否の言葉を出すことを封じたのであった。

 極めて巧妙なやり口である。

 目の縁には涙が盛り上がり、これからどうなってしまうのだろうという恐怖感で身体が縛られている。

「待てよ」

「あ?」

 聞き覚えのある声――。

 振り返った鈴の目には、今朝方見た起き抜けでコーヒー缶を手にしていた義兄である子龍の姿が映っていた。

「ああん? なんだぁ……」

 男が口を開くよりも素早く子龍は動いていた。

 子龍の長い腕が蛇のように伸びたかと思うと、男は鈴から離れて後方に吹っ飛んでいた。

 目の覚めるようなストレートだ。

「な、なにをいきなりしやがんだっ。テメェ!」

「おまえらこそ俺の妹をこんな怪しい肥溜めに引き込んでどうしようってんだよ」

 言うが早いか子龍はスマホをまだ手にしていたスキンヘッドの男の顔面を左フックで薙ぎ倒した。

 子龍も長身だがスキンヘッドの男は一九〇近いだろう。

 だが、その左フックでたたらを踏んだスキンヘッドは、続けざま距離を詰める子龍の動きに抗することはできずに、次の瞬間顔面を殴られると、仰向けになって動かなくなった。

「テメェ! お、おお、おれたちゃスカルボーグの鳥居さん知ってんだぞ! こんなことしてただ済むと思っ――」

 長髪の男は膝蹴り一発で身体をくの字に折ると、頭をむんずと掴まれ高々と吊られた。

「知らねーよ。今すぐそいつを呼んで来いよ。さっさとしねーと間に合わねぇぞ」

「す、すみまっ、もうかんべんしてくらはいっ」

「やだね」

 子龍は長髪に頭突きを食らわせると、ゴミを捨てるようにポイと投げた。

「てめーら、次にこの辺で見たら骨も残らねぇぞ」

 男たちは、まるでか弱い女性のような甲高い悲鳴を上げながら、転がるようにその場から逃げていく。

「おう、大丈夫だったか。怪我ないか?」

 ニッとしゃがみ込んで笑う子龍の顔に安堵し――。

 同時に鈴は異常なほど全身が熱く火がついたようになっているのを隠すように、子龍に抱きついて声を上げて泣いた。

 見惚れていたのだ。

 それと同時に圧倒的な強さで圧巻を蹴散らす子龍に対し異様な興奮を覚えていた。

 鈴は思う。

 自分でもわかりやすいほどテンプレ通りの女であると。

 女子校育ちの女がわかりやすい不良に惚れるその過程――。

 以前ならば、そんな女が現実に居れば一笑に伏していただろうが、今はまったく笑えなかった。

 あとになってなぜ鈴の居場所を見つけることができたかと聞くと、子龍は帰宅が遅くなったことをひどく心配したらしい。

 子龍は学校の担任に電話をかけ、そこから鈴が日頃親しくしている友人にあたりをつけ、おおよそどのあたりで別れたかを聞き、しらみ潰しに居所を探していたらしい。

 鈴からしてみれば、居所を告げずに夕方以降遊び回ったのは初めてのことかもしれない。

 ロクに口も利かない自分であったが義兄はそんな鈴を出会った日からずっときにかけてくれていたのだ。

 考えてみれば、鈴の母は放任主義というわけではないが、仕事が忙しく、中学に上がったくらいから、帰宅するのは相当な遅さであった。

 かといって鈴はそれをいいことに夜遊びをするタイプではなかったが、やはり寂しかったのだ。

 この日から鈴の子龍に対する態度はガラっと変わった。

「おはようございます、兄さん」

 その言葉はくすぐったかったが、ずっと口にしたかった本心であったかもしれない。

「お、おう。鈴、おはよう」

 寝癖も直さずボーッとテレビを見ていた子龍のなんともいえない爽やかな笑顔――。

 鈴はその日から子龍に心を奪われた。

 それ以降というもの鈴は子龍に細かく気を配るようになった。

 共に起居するようになってから敢えて見ないようにしていたが、子龍は食に頓着のない男だった。

 具体的にいえばカップラーメンばかり食べている。

 鈴は女子校育ちもあってか、ほぼ自炊をマスターしていたが、子龍に対して料理をしないという男の現実を知り、驚愕した。

「いや、なに食っても腹にたまればおんなじだしなあ」

 皮肉や照れからではなく、心の底からそう思っているらしい。

 といっても母親を幼いころに亡くした環境では、食事といえばできあいのものを買って食うしか知らない人生だったのだ。

 肩を丸めて麺を啜る義兄を見て鈴は今まで感じたことのないほど母性本能を強烈に刺激された。

 ――この男の面倒を見てあげないと。

 ひなに餌を運ぶ母鳥のような感情であったが、その根底に蹲っているのは女性としての好意が大きい。

 いや、今までの生活の中でも見聞きしていたのであるが、鈴は敢えて耳目をふさぐことで子龍の生活レベルの困窮を見なかったことにしていたのだ。

 罪悪感と恋情に身を焦がされながら、それこそ、長いこと会っていなかった息子に愛情をそそぐよう、鈴の生活は一変して子龍に仕える割合が大きくなった。

 家の掃除はもちろんのこと、毎食の用意や弁当に着替えや洗濯まで鈴は嬉々として奉仕した。

 事実、りんかの身体を借りて現世に降臨したメイドのミシェルが子龍の家にやってきても、まずやることはなかった。

 そのくらいに鈴の子龍に対する献身と奉仕は新婚夫婦以上の愛情をもってなされたのだ。

 だが、子龍はどこか大きな鈍さがあり、鈴の愛情に気づくことがなかった。

 この場合の魯鈍さは人格的大きさに時として人の目には映った。

 鈴としては、むしろ奉仕を当然のものとして捉える子龍に仕えるのが心地よく、両者の関係は急速に修復され、外の人間から見れば、兄妹というよりも愛し、信頼し合う夫婦としか映らないとさえ思えるほどであった。


「なあ、人生ってどうして不平等なんだろうな」

「知らねーよ」

 登校途中、クラスメイトの江下に出会った子龍は疲れたような面持ちで同行を余儀なくされていた。

 ――それよりも、なに? 鈴の昨日の行動はなんなの?

 ゲーム中に寝落ちした子龍が意識を取り戻した瞬間、あのクールな鈴がデレデレした様子で「しゅきしゅき」を連発していたのだ。

「なんだ、寝不足か? ほどほどにしておけよ」

「なにがだよ」

「なにがって、まあいい。それよりも見ろよ。あそこを行くはサッカー部の主将北澤さんではございませんか」

「相変わらず女はべらしてんな」

「ひの、ふの、みの、よの。イケメンにして高身長、そして県大会出場まで決めた我が校サッカー部のエースさまだ。天は二物を与えずというが、ツラに運動神経、さらに実家は大病院を経営しているといえば、我ら庶民が羨むのも致し方ないだろう。うん?」

「知らんがな」

「北澤、俺らと同じ二年の癖に三年をパシリに使ってるらしい。女もより取り見取りだ。北澤ハーレムの女たちは、なんでも教室の前に塩を盛って北澤の腰巾着たちが足を止めさせ寵愛を得ようとしているらしい」

「司馬炎かよ……ありえんだろ」

「噂だよ噂」

「そんな噂を吹聴するやつとはつき合わんほうがいいぞ。脳が膿んでる」

「とはいえ世評も馬鹿にはできない。なにせ、実力に裏打ちされた上の口八丁だ。婦女子はああいうイケメンが好みらしい」

「それで不平等云々言ってたわけか。もう、ほっとけよ」

「ほっとけねぇよ! あいいう男のせいで富は、女は独占されてんだぞ! 怒れよ!」

「別にいいじゃん。本人たちが同意してるんなら」

「ああいう腐れイケメンのせいで、二〇五〇年くらいには日本人口は一億くらに減るんだぞ」

「それって少子高齢化だろ。結婚率が低いのはイケメンのせいじゃない気が」

「あーあ、やるせねぇな。イケメン爆発しねぇかな」

「はは、俺のことは爆破させないでくれよ」

「子龍は絶対大丈夫」

「……そうハッキリ否定されてもムカつくんだが」

「顔面に不自由してる国民は税金を減らすとかしてくんねぇかな、国」

「おまえが言うと嫌味だからな。後難を恐れろよ」

「っと、アホなこと言ってるうちに富める者のワイフがご登場だ。それじゃおいらはこの辺で……どぴゅんっ」

 アホ過ぎる効果音を口にすると江下は去っていった。

「なんだぁ?」

 下駄箱のほうに視線をやると笑顔でりんかが手を振っている。

 あの表情からどうやら調子は悪くなさそうだ。

 子龍は無警戒にりんかに近づくとあいさつを行った。

「おす、おはよう」

「おはようございます。ご主人さま」

「……え」

 ――なにかの聞き違いだろうか。

 目の前のりんかはいつもと変わらず金髪でも蒼眼でもない。

 黒髪黒目の日本人的風貌だ。

 いつもとの違いを上げるならば、流している髪をハーフアップにしてお団子を作っている。

 ――いとかわいや。じゃなくてだ。

「もしかしてミシェルか」

「そうですよ、ご主人さま」

 違和感に気づくべきだ。

 通常ならばりんかの表情はきりりとした感じであるが、ミシェル化した状態では、どこか、構えを解いたゆるふわな感じになっていることに。

 幸か不幸か、今までもふたりの会話は誰にも聞かれていないようだ。

「あ、どちらへ行かれるのですか」

「こっち」

 子龍はりんかの手を引くと校舎裏に連れてゆく。

 今日こそは遅刻もせず平穏な一日が迎えられると思ったのに。

「で、いつの間に入れ替わったんだ」

「いつの間に、と申されましても。気づけば道を歩いていましたので、同じ年恰好の人たちと行けばご主人さまに会えるんじゃないかなぁと」

「――まあ、いいや。とりあえずは学校に来たんだからな。おい、ミシェル。とっとと身体をりんかに戻せ。おまえの感覚はよくわからんが、なんとかなるだろ?」

「――や、です」

「は? なに? 聞こえないぞ」

「いやです」

「んなっ」

「ご主人さまに逆らうことはよくありませんが、このままじゃ終われないです。だって、私は昨日だってぜんっぜんご主人さまのお役に立ってないんですもの! 断然、拒否です」

「あのなぁ。それじゃあ、どうすりゃ気が済むんだよ」

「今日一日、ご主人さまのおそばに仕えさせてください」

「そうすりゃ気が済むのか」

「はい」

「――まあ、りんかには泣いてもらうしかないか。メイドのおまえにどこまで演技ができるかわからんが。目立つようなことしないのなら、今日だけは目をつむってやる」

「本当ですか!」

 りんかはそういうと口元を手で押さえて目元を潤ませた。

「お、おいおい。泣くなっての。これじゃあ俺がイジメてるみたいじゃんかよ」

「だって、ご主人さま。わけのわからないことばかりおっしゃられていたけど、ようやく私の存在を認めてくれたんですもの」

「いや、最初から認めてるよ。認めざるを得ないというか」

「あの、ひとつお願いがありまして……」

「なんだよ、金目のものならあんましないぞ」

「そうじゃありません。そんなもの必要ありません。それに、ご主人さま、金子がお入り用でしたら、ミシェルに申しつけてくれればいかなることをしてでもご用意いたします」

「それは後が怖いからやめてくれ。で、お願いってなんだ」

「あの、抱きしめてください」

「はぁ!?」

 子龍は自分の耳を疑った。十七年近く生きていて、このような美少女とふたりきりになり、あまつさえ「抱いて……」などと言われたことは初めてなのだ。

 最初はなんらかのドッキリ撮影かとあたりを見回したが、すでに一時限目の始まる時刻寸前なので、周囲には人影はなかった。

 ――え、ええと、落ち着け。そもそもこいつは英国人の霊が憑依している。ということはだ。ハグくらい普通の行為、むしろあいさつ程度に違いない。なんか、そういうのネットで見たことがあるぞ。

「よ、よおし。どんとこい」

「はい……」

 子龍が両手を広げるとりんかは迷いなく飛び込んできた。

 思った以上に弾力があり、おまけにいい匂いもあり、子龍は一気に飛び込んできた情報を処理し尽くせずに棒立ちになった。

 なんとなく抱きしめないのは作法に外れるような気がして、りんかに手を回してギュッと抱きしめた。

「んっ」

 艶めかしい声に膝がガクガクと揺れる。ハグをする前はなにかエロい想念に囚われて醜態を晒すのではないかと、チラと思ったが、初めての経験は強烈過ぎた。

 首筋があたたかい。りんかは子龍へとさらに力を込めてギュッと抱きつくとついばむようにキスをしているのだ。

 ――こ、これはいささか度が過ぎるんじゃないか?

 だが、突き放すことも本能的にできなかった。

 あわわ、と脳内で泡を食っているうちにどれだけの時間が経ったのだろうか。

 やがて、ふたりともどちらと言わず身体を離す。

 両者とも無言である。

「や、やあ。いい天気だな。日本晴れだ」

 無理をして話題を作るがりんかは切なそうな表情で子龍を見上げたまま、わずかに乱れた自分の髪を指先で直していた。

「と、とにかくだ。教室に行くぞ。遅れちまう」

「はい」

 異常なまでに従順なりんかを引き連れて子龍は日常の光景である教室を目指した。


「平山、白石。ギリセーフにしといちゃる。けど、今回限りだからな。あんま学内でイチャイチャするんじゃないぞ」

 担任の後藤がそう言うとクラスの皆が一斉に囃し立てた。

「ヒューヒュー、熱いね熱いねアチチだねえ。おふたりさぁーん。うらやましいぞ、コンチクショウ!」

 どこかネジが飛んだように机の上に乗って朝から騒ぐ見慣れた男がいた。

「コラ江下。あんまり調子に乗るんじゃない。あとで反省文五十枚な」

「んげっ、そんな。酷いっスよ、センセイー」

「あはは、それじゃ百枚にまけてやろう」

「増えてるじゃないっすか」

「おれなりの慈悲だ」

 毒にも薬にもならないホームルームが終わって通常授業が始まる。

 子龍は真面目な学生とは言い難かったが、とりあえず時間中椅子に座っている忍耐力程度は持ち合わせているので、今日も今日とて時の流れに身を任せる。

 ――さて、件のメイドはどうしているものやら。

 隣を見る。

 完全に放心状態に陥っていた。

「やっぱダメか……」

「あのおご主人さま。私はこの時間なにをしていればいいのでしょうか?」

「今は数学だから、数の英知に身を委ねればいいんじゃないか?」

「無学な私にこのような尊い学問は無用ですっ」

「それじゃあお帰り願うしかないな」

「ご主人さまのフォローに万全を尽くしますっ」

「どうでもいいが、おまえ本当にヴィクトリア朝時代のメイドなのか? 俗っぽすぎやしませんかねえ」

「ふふん。こう見えても私は新しもの好きなのですよ。どんなことでも寝て起きたらだいたい忘れます」

「それはダメな能力なのでは……」

 子龍はこそこそと喋っているがミシェルが憑依したりんかにはそのような感情の機微がわからず通常音声で喋っているので、周りからしたらいい迷惑だ。

 数学の教師も、子龍がアンタッチャブルな生徒だと知っているので、よほど積極的に授業妨害をしない限りは放っておくプランらしい。

「とりあえずみんなの邪魔になるから私語は厳禁な」

「わかりましたご主人さま」

「なっ、授業中にそんなプレイを!?」

 子龍の左斜めに座っているオタっぽい生徒が驚愕した声を出した。

 反応するとつけあがるので無視した。


「さあ、終わりましたね。これからが私の本領発揮です」

 一限目終了のチャイムが鳴るとりんかだった者は明るい笑顔でそう宣言した。

「黙って座っててくれりゃそれが一番なのに」

「ちょっと子龍! もしかして今のりんかの状況って――」

 様子を窺っていた桃花が血相を変えて詰め寄ってきた。

「モモカですか。今日も元気そうでなによりです」

「いやいやいや。って、これあたしをハメてるわけじゃないわよね。髪の色も目の色のも普通なのに、意識だけがってことなの?」

「ご明察。どうやら今日はコイツの気が済むまでメイドとご主人さまをやらにゃあならんらしい」

「……悪化してない?」

「わからんが、無意識にノートはいつもどおり取ってるみたいだから、とりあえずは大丈夫じゃないのか」

「そんな無責任な」

「俺はただの学生だぞ。なにを望んでいるんだ」

「まあ、普通以上の」

「なんでだよ……」

「だって子龍、普通じゃないし。客観的に自分のこと考えたことあんの? メイドの霊とか憑依とか、たぶん、普通に生きてて遭遇しないことだよ。なのに自信満々じゃん。俺についてこいって感じで。普通ならうろたえちゃって親とか先生に相談してるよ。でもって、ワケのわからんりんかなんかはシャットアウト。それが普通じゃない?」

「そんないい加減なことできるかよ。だいたい、こいつに理解不能な雑霊を憑依させたのも、もとはといえばうちの商品のせいだしな。俺には責任がある。知らん顔できんだろ」

「ご主人さま……さすがです」

「どうでもいいけど、注目集めてるわよ」

「もう気にしても仕方ない。あきらめろよ」

「達観してるわねー」

「ちなみにいうとおまえもだからな」

「は?」

 桃花が我に返ってあたりを見回すと、クラスの皆から注がれる視線は子龍とりんかだけではないことがハッキリしていた。

「ちょ、ちょちょちょ、あたしは関係ないじゃんよ」

「冷たいこと言うなよ。りんかのダチだろ」

「そりゃ、そうだけど……」

「幼馴染みで親友なんだろ。あきらめて変わりもんトリオとしてこれからのしてこーぜ」

「いやよっ。は、ウソウソ。嘘よりんか! あたしはアンタたちを見捨てたりしないわ!」

「と、いうことだ。ミシェルさんよ。思い通り振舞ってもこの桃花おねーさんがケツを持ってくれるそうだ。良かったな」

「はいっ。なんだかわからないですが、ご主人さまが言うならそれは絶対です」

「やっぱ洗脳してんじゃん」

「人聞きの悪いこと言うなよ。これはこーいう生き物なんだ」

「んなわけあるかいっ」

 ついついムキになって桃花は叫んでから周囲の状況を窺う。

 遠巻きに見ていた野次馬たちは、桃花にも充分聞こえる声でひそひそ話をあちこちでやっている。

「やっぱ三角関係だ」

「メイドとか憑依とかオカルトまで……余計にわけわかんないっ」

「白石ちゃんかわいそー」

「けど態度からわかるっしょ。平山くんにホの字っしょ」

「だからってあのキャラ変? 女のプライドないの?」

「平山くんがメイド好きなだけでしょ。白石ちゃん悪くないわよ」

「でも、桃花もねぇ。あーいうヤンヤンしたのがタイプだったのね」

「ないわぁー」

「いえ、ありね」

「やはり催眠アプリなのか?」

「あのーねー。アンタたち! 言いたいことがあるんなら、直接言えばいいでしょ!」

「待て待て、桃花。キレんな。今は時期が悪い」

「今は時期が悪いオジサンは黙ってなさいよ! あたしはコソコソ陰口叩かれんの大っ嫌いなの!」

「大丈夫だ。みんなおおっぴらに言ってるからな」

「なお悪いわ!」

 暴れる桃花をはがい締めにする子龍。

 教室は混沌のうずに巻き込まれていた。

 


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