25「メイドの秘密」
「お邪魔します」
「邪魔するぜ」
「……どうぞ」
憤懣やるかたないといった態度で桃花が扉を開ける。
「うわぁ、こざっぱりしてるな」
「まだ玄関でしょうが。だいたいアンタの性格がわかってきたわ」
「桃花の家に遊びに来るのも久しぶりだな」
「そうよそうよ。りんかもちょくちょく顔出しに来てよ。お母さんも会いたがってたわよ」
「ちゃんと家族づきあいしてるんだな。感心感心」
「なんで、親戚のオッサンみたいになってんのよ」
三和土でグダグダやっていると、二階の階段からドドドッと音を響かせて駆け降りる足音が聞こえてきた。
「そんなっ? いつもなら寝てる時間なのにっ!」
「はぁ?」
桃花の慌てる声に子龍は首を捻る。
駆け降りてきたのは、若いころの江口洋介のようなオールバックにロン毛の眼鏡をかけた二十歳そこそこの青年だった。
「お、お帰り桃花ちゃん。それときみは初めてだね」
「クラスメイトの平山です」
「おお、きみが噂の子龍くんか! あの、催眠アプリの!」
「たぶんそんなものはない」
「ええー、本当はあるんでしょ? あとで、こっそり教えてよ。とと、自己紹介が遅れたね。僕は桃花の兄の大樹だよ。ゆっくりしていってくれ」
「お兄ちゃん! いちいち出てこないでっていつもいってるでしょ!」
「へ、へへへ、桃花。ま、まあ、そんなつれないこというなよ。お兄ちゃん、家族以外の人と喋るの半月ぶりくらいなんだから。お、お、お?」
大樹はりんかを見つけるとオタクのスタンダードのように眼鏡のツルを持ってクイッとかけ直すと、げへげへ笑いながら近づく。
「大樹さん、お久しぶりですね」
「りりり、りんかちゃん。りんかちゃん、久しぶりィ。何年ぶりかなァ。綺麗になったねぇ」
大樹が「ニチャア」という笑顔を浮かべるとりんかは後ずさる。無理もないと子龍も目の前の奇人を注意深く見守る。
「ほ、ほんと見違えたよ。うちの桃花とは大違いだ」
「あ、ありがとうございます」
りんかが珍しく引いている。
――つか、まあ、ちょっとインパクトありすぎだもんな。
「もう、それくらいでいいでしょ! とっとと引っ込む。いくわよ!」
「はいはい」
「邪魔すんぜ」
桃花に促されて二階に移動する。
「いいお兄ちゃんじゃないか」
「やめてよ」
「桃花にそっくり」
「喧嘩売ってるのね? ねえ、そうでしょ?」
「桃花、狭いところで子龍をいじめないでくれ」
「そうだよ。早くおまえの部屋でくつろがせてくれよ」
「あーもう。勝手にものをいじらないでよ」
桃花の部屋は思ったよりも簡素だった。ベッドに小さなガラステーブル、かわいらしいラグに勉強机を除けば特筆する家具はない。壁にも子犬の写ったカレンダー以外には趣味嗜好を端的に表すようなポスターも張っていなかった。
「なんだ、桃花ならてっきり壁一面に観光地土産のペナントが山ほど張ってあると思ったのに」
「アンタの中であたしってどんな人間なのよ」
「綺麗に片付いていていいじゃないか」
「適当になところに座ってくれや」
「アンタが指示すんなや……」
桃花がカバンを机の上に置いているうちに子龍はドカッとラグの上に尻を据えた。
そこはかとなく女の子独特の匂いが部屋に漂っており、見かけよりも子龍は緊張していた。
ノックの音と共に大樹が扉を薄く開く。
「お待たせしました。お茶をお持ちしましたぞ」
「いや、お兄ちゃん。いっつも勝手に入らないでっていってるよね!」
「いや、ちゃんとノックしたじゃんか」
「答える前に開けたら意味ないんですけど」
「ま、まさかおまえ、お兄ちゃんに言えないようなことをしていたんじゃ」
ニチャアと再び大樹が粘液質な笑みを浮かべる。
「え、あ、あの、その……」
これから現れるかもしれないメイド霊のことを想ってか、りんかがわずかに顔を背けて不自然な受け答えをした。
途端に、大樹は顔を蒼くして額に汗を浮き上がらせる。
「は? あ、いや、りんかちゃん。僕、冗談で言ったんだけど、え、まじ? まじで、自分の妹が今から3P……」
「二度と来んな!」
「へぶっ」
怒った桃花が扉を閉めると大樹のスッ転んだ音が廊下に響く。
「もう、まじでアイツなんなの?」
「りんかさんよ。誤解を招くような態度はやめていただけませんか」
「すまない、つい動揺して……」
「りんかは悪くない。お兄ちゃんが悪いの。だいたい、こんな狭い部屋でいきなり3Pなんてありえないっ。シャワーだって普通に浴びなきゃだし……あ」
「え」
「はぁ?」
桃花は自分がなにを言っているのか理解したのか、顔を真っ赤にしてぺたんとその場にしゃがみ込む。
三人の間に妙な雰囲気が生まれて、三すくみ状態になってしまう。
「……まあ、とりあえずだ。まずは時間を図ろう。りんかの状態を経過観察だ」
「そうだ、子龍のいうとおりだ。ええ、と今は17:07だな」
「そうね! このままメイド霊が出なければ問題ないもんね」
気まずさを払拭しようとはしゃぐ三人だったが、状況はすぐに動いた。
「りんか?」
「おい、どうした」
座っていたりんかの首が意識を失ったようにガクンと前に折れた。
彼女の長い黒髪がばさりと前に落ちて表情が窺えなくなる。
子龍が身構える間もなくりんかの美しい黒髪が生え際から徐々に金色に染まってゆく。
動けない子龍が瞬きをするかしないかの間にりんかは顔を上げると、どこか間の抜けた表情であたりを見回した。
「はれぇ……? ここどこ……あ、ご主人さま。私、どうしちゃったんでしょうか?」
「これは……もう疑う余地はないな」
「わ、わわわ。あたし、初めて見ちゃった。これまじもんのオカルト体験ってやつ?」
「う、うううう。なんか、この服、しっくりきませんね。あの、ご主人さま、ぶしつけですがいつものお仕着せに着替えてもよろしいでしょうか?」
「ああ、メイド服ね。だったら、そこの紙袋に入っているから、まあご自由に」
「ありがとうございます」
シュルシュルと衣擦れの音をさせてりんかがスカートを下ろす。
「って、見てないでアンタは廊下に出なさいよっ」
「わ、悪い」
頭から湯気を出して怒る桃花に子龍は追い出された。
――なんだ、あれ? なんというメタモルフォーゼだ。
りんかの変身は早着替えなどで説明がつかない本物の怪奇現象だった。
「もう、いいわよ」
ぎい、と扉が鳴って桃花が入室を促してきた。
「ご主人さま……」
そこには金髪蒼眼にチェンジしたりんかがどこか恥ずかし気に立っていた。
「おお、てか、これから俺はどうすればいいんだ?」
「あの、日が落ちてから用があるとご主人さまおっしゃいましたよね」
「ああ、言ったが」
今やミシェルという自称英国メイドの霊に憑依されたりんかはちらちらと視線を部屋のあちこちに動かしている。
りんかのメイド姿を見た桃花は驚きを隠せずに自分の目蓋を指先でごしごしこすっていた。
「その、ちょっとだけ心の準備が必要でしたが。私は、ご主人さまが望むのなら、構いません。……というかうれしいです」
「言ってる意味がわからないんだが」
「できれば、お人払いをお願いします」
「んんん? なんかよくわからんが、ちょっとコレとふたりにさせてくれないか?」
「わかったわ。けど、なんかあったらすぐ呼んでよね。一階に居るから」
「了解だ」
ぱたんと扉を閉めて桃花が階段を下りてゆく。
「ふう、やはり初めてなので緊張しますね」
「おい、なぜベッドに横になるんだ」
「こんな私でよければ、存分になさってください」
「なんで仰向けのまま自分のスカートをまくり上げて口に咥えた」
「ほひゅきに、なはってくらひゃい」
「だからなにを言ってるかわからいんだが?」
「お好きになさってくださいませ」
「パンツ丸見えだぞ」
「恥をかかせないでください……!」
「いや、超展開過ぎるだろ!?」
「じらさないでぇ……」
「いやいやいや」
――このままでは性犯罪者になってしまう。
子龍はメイド霊に憑依されたまま、いきなりベッドの上でまな板の鯉になった同級生に激しく混乱していた。
この場合はプレイに移行しても同意があったということで問題はないのだろうか?
――いや、問題大ありだろ?
ふと我に返って今の状況を再確認する。
メイド服を纏ったりんかの露になった白いショーツと太もも、長くすらりとした脚が子龍の目にまぶしく映った。
「落ち着くんだ子龍。まずは素数を数えて……意味ねぇな、おい」
「ねえ、さっきからなに騒いでんの……あーっ!」
「あーっ!」
「おい、桃花。今、尋常ではない声があーっ!」
桃花と大樹が部屋に入り大声を上げた。
さもありなん。
このあとメチャクチャてんやわんやした。
「だって、昼間は来るな夜に奉仕しろとおっしゃられたではありませんか。なら、意味はひとつしか……」
りんかはグチグチいいながら自分の髪を弄んでいた。
「真実はいつもひとつじゃないんだよ。探せよ、言葉の無限の可能性を」
子龍がりんかの額を人差し指でつつく。
りんかはぷうっとハコフグのように頬を膨らませた。
「じゃなくて! あたしの部屋でなにする気だったの!?」
メイド霊ミシェルに憑依されたりんかはメイド服のまま部屋の中央で正座をさせられていた。
同じく子龍も同様である。
「しかし、にわかには信じがたいことだが。まるで別人じゃないか」
大樹は変わり果てた姿になったりんかをしげしげ見つめながら、もっとも普通な反応を示した。
「子龍くん、マジでネットで仕入れたり謎の老人から譲り受けた催眠アプリの効果とかそういうことはないんだね」
「いい加減謎アプリから離れてくれ」
「いや、悪かったよ。しかし、そんなことが本当にありえるのか? クラシカルなメイド服を着たことによって残留思念体とも思われる大英帝国時代のメイドの霊に憑依されるなんて……本当にりんかちゃんじゃないよな?」
「あの、どちらさまでしょうか」
「忘れちゃったの? 僕はきみの恋人である佐藤大樹だよ」
「ええっ。そうだったんですか!」
「お兄ちゃん、シレッと妄想をぶち込んでこないでよ」
「ええっ、嘘なんですか!」
「この反応。本物のりんかちゃんなら、はは、冗談はやめてください……みたくマジでドン引きした反応をみせてくれるはずなのにな。このメイド霊は本物だ」
「すっげーガバガバな対応」
「しかし彼女が本当に英国由来のメイドなのかな。ふむ、ちょっと確かめてみてもいいかな?」
「ん。なにするのよ」
大樹は眼鏡を一度外して曇りをハンカチで拭うとかけ直して、また外した。
「今の行動になんの意味が」
子龍がそう思ったと同時に大樹は流暢な英語で喋り始めた。
子龍は英語は得意ではない。一般的な日本人程度に苦手だ。だが、大樹に呼応するようにりんかも特に動じることなく応じている。
――どういうことだ、これは。
桃花の兄の大樹についてはよく知らないが、適当な英語ではないだろうということがなんとなく理解できる。
それにメイド霊に憑依された今のりんかが大樹の妄言会話につき合う必要性も意味合いもないだろう。
子龍がふたりの会話を静観していると脇に立っていた桃花が裏返った声を出した。
「ええ、そんな、りんかが英語を喋ってる!?」
「そんなに驚くようなことなのか? りんかの成績はかなりよかったはずだろう」
巷の噂と推測を突き合わせた断片的な情報だが、子龍が知る限りりんかは学年でも上位にランクされる成績優位者であるはずだ。
「英語以外はね。あの子、リーディングとライティングは抜群だけど、リスニングとトーキングはまったくなのよ」
「はぁ? マジでか」
「なんでも外来語に対する拒否反応らしいわ。りんかが英語喋ると、おじさんのカタカナ語みたになっちゃうのよ」
「カタカナ英語か。日本人が陥りやすい罠だな。けど、おまえの兄ちゃん英語上手いのな」
「お兄ちゃん、アメリカにホームステイしてたことあるから、普通に喋れるはずよ」
「桃花はどうなんだ?」
「……うるっさいわね。あたしは日本語のおーそりちーなのよ。英語なんて不要よ」
「カタカナ英語のプロだな」
ふたりの会話を静観していると、りんかはおおげさなジェスチュアで手をフリフリすると子龍の背後に隠れた。
大樹は息を荒くして肩を上下させている。
異文化コミュニケーションは終了したかに見えた。
「うっさい! あ、終わったみたいよ」
「長々となにを話してたんだろうな」
「ねえ、お兄ちゃん。ミシェルっていう霊となにを話してたの?」
「ううん? うん、彼女は僕の予想どおり処女だそうだ」
「ご主人さま、この人怖いです」
「お兄ちゃんの変態!」
「ちょ、桃花。お兄ちゃんは学究の徒としてこの奇妙な現象を解き明かそうとだな。ぐぶっ」
桃花の投げた雑誌の角が鼻面にクリーンヒットしたのか、大樹は四つん這いになって呻く。
これは相当に痛そうである。
「とりあえずはりんかの佯狂ってわけでもなさそうだな」
「ああ、子龍くん。彼女は訛りがあるが普通に英語を喋っていた。僕はアメリカに居たからわかるが、これはちょっと学生が勉強したから喋れるレベルじゃない。日常的に彼女が英語を使用していなければ、これだけ喋るのは難しいな」
「なるほど。よくわからんがなるほど。で、自称英国メイドの線はどうなんですか」
「うん。彼女、つまりはりんかちゃんに憑依しているらしいミシェルちゃんと話をした断片的な情報によると、彼女は一九世紀後半のヴィクトリア朝でとある没落貴族に仕えた下級メイド、LOWER SERVANTってやつだったらしい。会話をしてみてそれほど情報が引き出せなかったのは彼女自身にそれほど教養がなかったからだろうね」
「ほーん、詳しいですな」
「子龍くん、それに桃花。きみたちはメイドといってまずなにを想像する?」
「お兄ちゃんの好きな萌え萌えってやつでしょ」
「使用人かな? 俺は駅前でビラ配ってる三文メイドしか知らんけど」
「イエス。ま、メイドといっても近世以降のメイドの職種は細分化される。料理を担当するキッチンメイドに、家政を担当するスティルルームメイド、ハウスメイド、ランドレス、育児担当のナースメイドに、主人の世話をする侍女など、いろいろとね。ミシェルはコックの下働きのキッチンメイドの見習いだったらしい」
「おまえのお兄ちゃんメイドに詳しいな」
「……ノーコメントでお願い」
「とりあえず、ミシェルが本格的な英国メイド霊である可能性が強まったのは確からしいが、コイツはどうやったら成仏するんだろうか? おい、ミシェル。おまえさんの心残りはなんだ」
「んなストレートな」
「ご主人さま。心残りといっても。私はご主人さまに仕えて生きて行ければそれだけで……ほかになにも望みません」
「要望が抽象過ぎてなんともいえないね」
「あーもう、陰陽師みたいなのに払ってもらうしかないの?」
「桃花、それはお兄ちゃんやめたほうがいいぞ。僕も、当然学生であるきみらも中途半端な知識で怪しい霊媒屋に依頼するのは危なすぎる。こういう筋の人間はよほど信頼できる人間からの紹介じゃなきゃ、ぼられるか、それとも余計に変なものをつけられて悪化しかねない。幸い、ミシェルちゃんから邪悪なものを感じない」
「そうなのか?」
「……お兄ちゃんはちょっとだけ霊感みたいなものがあるみたいなの」
「ま、僕は専門家じゃないからね。けど、困ったな。こうまで鮮明に意識が乗っ取られているのを見るとねえ。けど、これって方策もないし」
「俺のじいちゃんが確かな筋に依頼してるんで、本職が来るまで適当に静観してるしかないんじゃないかな」
「僕は子龍くんの意見に賛成なんだが、けど、りんかちゃんの生活もあるしねえ。うーむ」
「なあ、ミシェル。とりあえずは、夜は適当に時間があれば俺が相手してやるから、昼間は休んでてくれないか?」
「休むっていうのがよくわからないですが、あ、そもそも、今日はなにもしてません」
「うーん、メイドっぽいことかあ。なにさせればいいんだろうか」
「えっちな要求は絶対しないでよね!」
「誰もそんなこと考えてない」
「お年頃だなぁ」
「あ、あたしは別に……ああ、もう全部子龍が悪いんだからね!」
「お兄ちゃんはすぐ人のせいにする桃花は悪い子だと思うぞ。第一、今、子龍くんの発言になんら咎められる問題点はなかった。断言する」
「うるさい、理詰めで言うな! お兄ちゃんは痴漢物の動画をPCフォルダに目いっぱい詰め込んでるくせに! お母さんに言いつけてやる」
「ふっ。栄誉あるヒキの僕にはなんらノーダメだが?」
「うう、お兄ちゃんは反社会的人間だった」
「いや、そこまででもねぇだろ。だいたい、おまえの兄ちゃんいっつもなにしてんの?」
「二十五歳、ピチピチの大学生で日銭はFXで稼いでおります。フヒヒ」
「どうでもいい情報をありがとう」
「いや、なに。家族以外と会話したのは久しぶりでね。はしゃいでしまった」
大樹はクイッと眼鏡のツルを持つと位置を直した。
「けど、それじゃあこの状態どうすんのよ……」
「ご主人さま、私はどのようにすればよいのでしょうか」
「子龍くん、どうすればいいかな」
「いや、全員でいっぺんに聞かないでくれよ」
ひとつ基本に立ち返って考えることが必要だと子龍は思った。
「ここはまず、俺んちじゃない。となるとメイドであるミシェルの行うべき業務のほとんどは消失する」
「え……ここご主人さまのお屋敷ではないのですか」
「ここが俺の部屋なわけないだろ。違和感ないんか?」
「そう言われてみれば……」
「ま、とりあえず今日のところは茶でも全員に振舞ってくれないか? おまえができそうな仕事は、また明日以降に考えておくよ」
「わ、わかりました! お任せください」
「桃花、手伝ってやれ」
「うん、わかった。りんか……じゃなかったミシェルちゃん。お台所はこっちだから。ついてきて」
「わかりました。ああ、それとあなた」
「あなた? ああ、桃花よ」
「モモカですか? 私はあなたの先達なのですからミシェルさんと呼びなさい。それでは、場所の案内を」
「え、あ、うーん、ちょっと納得いかないんだけど。まあ、いっか」
桃花はりんかと連れ立って階下に茶を淹れに行く。
「どったんだ、あいつ。まさかマウントをいきなり取るとは」
「イギリスは階級社会だったからな。ミシェルちゃんは桃花を新米だと認識したんだろう。とと、それよりも茶が入るまで暇だな。子龍くん、僕と今期覇権アニメについて語らないかい?」
「まったく興味ないけど語るのは勝手なのでご存分になさってください」
「よしきた」
――BGM代わりにするか。
しばらく経つと桃花を従えたりんかが茶器一式を携えて戻ってきた。
平均的に日本家屋の平均的な女子高生の一室で奇妙な茶会が始まる。
「ミルクティーか」
「子龍くん、イギリスでは伝統的な茶だよ」
大樹に言われて子龍は茶を手に取り馥郁たる香気を楽しむ。
喉も渇いていたので口をつける。
想像以上にちゃんとした味わいで子龍は目を見開いた。
「すごいっしょ。ミシェルちゃん、お茶淹れるの上手なんだよね」
「ご満足いただけたようでなによりでございます」
にっこりとりんかが微笑む。顔かたちは普段と寸分変わらぬが、金色の髪と蒼眼が子龍の現実感を曖昧にした。
「おお、さすが英国メイドの淹れた茶だ。これが十九世紀の香りか。僕は今、歴史をこの舌で再現している……」
「お兄ちゃんのはあたしがティーバックで淹れた安いやつよ」
大樹と桃花はもの凄い形相で睨み合った。
子龍は激しい脱力感に襲われた。
「兄妹でメンチを切りあうのはよそうな」
子龍は添えられたスコーンにジャムを塗り塗りしながら小腹を満たす。
「――と、まあ、今日はこんなところでお開きにしようじゃないか。遅くなってもあれだし」
「ええっ。私、まだほとんどなにもお仕事してないですよ」
「いやあ、俺にも予定ってもんがあるからさぁ」
「もっとご主人さまにサーヴしたいですう」
子龍のシャツをりんかがグッと掴む。メイドとしてはあるまじき行為だ。
「ねえ、このあとどうすんのよ? ミシェルちゃん納得してないみたいよ」
「僕からしたらあのりんかちゃんが彼氏とイチャイチャしたいがために引き止めているだけのような気がしてならない」
「ええと、困ったな」
「あ、そうです。ご主人さまのおうちにこのままついていってお世話をすればいいのです!」
「りんか、じゃなかったミシェルちゃん。それはマズいわよ。また、大騒ぎになっちゃう。あ、そうだ。子龍、アンタがまた例の催眠術でなんとかしなさいよ」
「ええ? あのテキトーな術でか?」
「な! まさか子龍くんは本当に催眠アプリを……」
「そんなもんじゃないっての。ああ、もう時間も押してるし、イチかバチかやってみるか」
「なんですか?」
「ええと、ミシェル。まずは大きく深呼吸をして、リラックスするんだ。それからこの五円玉をだな――」
子龍の俄か催眠術はものの五秒でりんかの内に潜むミシェルを眠らせた。
「ん……ここは」
それと同時にりんか自身が覚醒する。彼女が目を覚ますと同時に、髪の色と目の色が金から黒にサーッと変化するのは圧巻だった。
魔術的であったが子龍は現実を生きている。
おまけに身分はただの学生だ。
まだ、ふらつくりんかを桃花に託して去るのは心残りであったが、そう毎日帰宅時間の延長を更新するわけにはいかない。
「ただい……うわっ、びっくりした!」
「ひどいですね兄さん。人の顔を見るなり」
玄関に入ってすぐ目の前に鈴が待ち構えていたのに気づかなかった子龍は反射的に防御姿勢を取っていた。
「おかえりなさい。夕食はもうできているので、いっしょに食べましょう」
「お、おお。いつもありがとうな」
「いえ、どういたしまして」
「……?」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
鈴はにこやかであるが、身に纏う雰囲気がいつもと違っていた。
夕食のメインはムース―ロー、いわゆるきくらげと玉子と豚肉の中華炒めである。
料理に関しては鈴はオールマイティーといえよう。
去年の冬ごろ、珍しく両親と祖父も交えて街の中華料理屋で一度だけ食事をしたが、鈴はほぼ一度きりしか食していないメニューのほとんどを覚えており、異様な力で再現していた。
鈴曰く「クックパッド見れば誰でも作れます」というが、それは嘘だ。
たぶん、子龍が同じ食材と調味料、同じ料理方法を違わずに覚えていても、同じレベルのモノは作れない。
塩ひとつ、料理の火入れひとついっても鈴には天分がある。
――そしてそれをただ黙って食す俺。
「……なにか」
「いや、別に」
食後、子龍は居間のソファに座って、近ごろ忙しくて起動できなかった「あに森」をやっていた。
――距離が近い。
鈴は子龍の隣に座ってあからさまなくらいに身体をくっつけて来たのだ。
今までとはまるで違う態度に子龍はしばし混乱していた。
風呂上りである鈴からはなんともいえないいい匂いが髪からふわりと漂い子龍の鼻腔をくすぐる。
動揺はゲームのプレイにも現れたのか子龍が操る主人公は孤島で共に暮らす罪なきどうぶつの頭を手にした虫取り網でしきりに殴打している。
「あの、兄さん。それではお猿さんがかわいそうですよ」
「いや、衣服を着る鳥獣を啓蒙しているんだ」
「そうなのですか?」
「だいたい、このゲーム、そもそもが俺のイメージと違っていた」
「というと?」
「無人島で生活基盤を作りながら動物たちと戯れるってのが謳いだっただろ。なのに、アニマルたちは二足歩行で衣服まで着てやがる。俺はもっとジャングルの王者的なアニマルアニマルした動物たちとナチュラルな生活を楽しむゲームと思ってたのに」
「もしかして、兄さんはこのシリーズプレイするの初めてだったのですか」
「まぁな。動物が衣服を着て屋根壁ある家に住むのはおかしくね? アニマルなんだから自前の毛皮で風雨をしのぎ、居住区は洞穴とか、木のうろとかに住めばよいのに」
「兄さんのいうとおりです。あとでメーカーにクレームを入れておきましょう。畜生を甘やかすなと」
「い、いや、そこまでは……」
「この島から畜生を全部追い出して私と兄さんだけのものにしましょうね」
「それは、なんか違う気が……」
「あ、もう今日は終わりですか?」
「うん、鈴、やるか?」
「はい」
プレイヤーを切り替えて今度は鈴が主体でプレイする。
本体がひとつであれば開拓するのは同じ島になってしまう。
鈴はゲームを始めると、島の一角に作られた『果樹園』で桃やリンゴ、梨やパイナップルなどの果実を斧で落とし始める。
ゲームでは果実は重要なマテリアルである。個々はそれほどでもないが、集めれば売り払ったとき結構な金になるのだ。
「果物は落としておきますね。あとで拾っておいてください」
「お、おう」
「このおサルとカエルとリスは醜悪ですね。穴に落として封印しておきます」
「そんなことできるの!?」
「冗談ですよ」
「おお、びっくりした」
「でも、こんな生命体が突然島に現れたら子供は泣きますよ」
「気持ちはわかるが」
「どうして『あに森』には武器系統を作るレシピがないのですかね。ボーガンとか……」
「マジでそれは規制されるからやめろ」
楽しくゲームをプレイしたのどかな夜であった。




