18「メイド再び」
――少なくとも、兄さんは私の顔を嫌ってはいない。
それどころか意識しているだろう。その証拠に、子龍がリビングでくつろいでいるとき、偶然を装って何度か隣り合って座り、ここぞとばかりに行った実験で実証済みだった。
ソファで寝落ちした振りをして子龍の肩に頭をもたれさせたときに、彼は間違いなく顔をわずかだが赤らめていた。
「うぐぐ、けど、このスタイルはずるい」
画像に映る怨敵のメイド服の上からでもわかる女性的なボディは鈴に取って少々分が悪いことがすぐわかった。
「……はっ。なにをやっているのよ」
鈴は無意識のうちに自分の胸を両手でむぎゅむぎゅと揉みほぐしていた。
――ここは戦略を練らねばならない。
「まさか、第一次五か年計画の変更を余儀なくされるとは思いもよりませんでした」
どれだけ悠長なことを考えているのか。鈴はこの後、風呂から出てきた子龍にどう対応していいかわからず、会話を変なところで打ち切ると自分の部屋になんとか逃げ込んだ。
「さて、今日はどうすっかな」
子龍は家を出て登校途中、根幹的な問題が一切解決していないことに思い至り、しばし考え込む。
要点は絞られる。
まず、りんかがメイド服を着たことで謎の人格改変を行うようになったのかということだ。
単純に、ミシェルと名乗った別人格の言葉を信じれば、メイド服になんらかの霊魂というか意識集合体のようなものが宿っていたのだろう。
その目的はなにか――?
「普通に考えてメイドの責務をまっとうしたいのか」
だが、子龍の知る実際のメイドに関しての情報は酷く少ない。
せいぜい駅前の妙なコンセプトのお店で若い娘がコスプレしながら割高の金を取って営業を行っているというくらいだ。
「そして日本にメイドは存在しない。お手伝いさんくらいはいると思うが」
「いよう、シリュー。おはようさん。どうしたんだ、朝からンな暗い顔してからに」
「なんだ、エロ下か。あ、そういやつかぬことを聞くがな。おまえのメイドってどんなことするのが仕事か知ってるか」
「ああん? 彼女持ちになったらなったで、いきなりんなマニアックなプレイを白石に強要してんのかよう」
「しとらん、そもそも前提条件から間違っているのだが」
「ああ、そうだな。白石関連じゃなきゃ、うーん、そういうメイドが出てくるゾンビ映画なんてパッと思いつかないなあ。どっちにしてもアルバトロス社並みのZ映画確定の題材だしな」
「誰も朝からゾンビ映画の話はしとらんよ」
「じゃあ知らん」
「ゾンビ以外には冷たいな」
「クソばかり量産するへっぽこ会社が悪いんだ」
「きっと予算が少ないんだろ」
「俺が許せねぇのはそれだけじゃねぇ。Z級ゾンビ映画だからって吹き替えでふざけるのは心底視聴者を舐めてるよ。聞いてんのか? そこのアホ関係者! あああっ!?」
「誰に対してキレてんだよ。沼から出て来いよ、いい加減」
「ダメだ。俺は完全に囚われてしまった側の人間なんだ」
「さよか」
そもそも江下に相談すること自体が間違いだった。
「ま、昨日も普通にお喋りして親交を深めたくらいだから、今日も案外大丈夫だろ」
そう思いながら教室の扉を開けた子龍の前には、朝だというのにもかかわらず、人の群れでごった返していた。
「ちょ、過密すぎだろ」
見れば、違うクラスの人間がかなりいる。
「ちょ、どいてもらっていいか? 自分の席に着きたいんだ」
子龍がそう言うと振り返った女子生徒はギョッとした顔で即座に距離を開けた。
「なんだよ……モーゼの十戒か?」
人の波がサッと左右に別れ子龍の前に道ができる。
そして子龍は自分の席の隣にいる人物を見て思わず回れ右したくなった。
「あ、おはようございますご主人さま」
そこには金髪蒼眼のメイドにジョブチェンジした白石りんかが立っていたのだった。
「なにやってんだよ、おまえは」
「なに、と申されましても。そういえば、ここはご主人さまが通う学舎でございましたね。どうして私はここにいるんでしょうか?」
「いやいやいや、それはこっちが聞きたいわ」
子龍が呆然としていると、周囲のガヤたちが好き勝手なことを言い始めた。
「おいおいおい、いきなり学校でメイドプレイとか……平山のやつ、どんな調教してるんだよ」
「うっそ、白石さん平山くんとつき合ってたの? でも、なんでいきなりメイドコス?」
「白石さんのコス、レベル高すぎ!」
「さすがに草生えるわ」
「マイルドヤンキーのやることはわからん」
「白石さん、平山に弱み握られてるんじゃないか?」
「なに、なに? これってまさかAVの撮影??」
――いかん、もはや収拾がつかん。
「ちょっと、白石。こっちこい」
「あんっ、強いですご主人さま」
このやり取りを聞いた周囲の野次馬がワッと歓声を上げる。
「おいシリュー。おまえ普段白石とそんなプレイしてんのかよ? 親友の俺に隠すなんてどういうこった!」
「なにげに親友キャラ立てようとすんな」
「あばばばっ」
江下が進路妨害をしたので子龍は顔面を鷲掴みにして弱らせると、ポイと投げ捨てた。
「ちょっと子龍! アンタ、りんかになにやらせてんのよ!」
「げ、桃花」
とにかくりんかを連れたままフェイドアウトしようとした子龍を、必死の形相で立ちはだかった桃花が止めた。
「げ、じゃないわよ。ああ、もう、朝からこんなメイド服着せて。ほら、りんか、こっち着て。このままじゃまじでヤバいことになっちゃうから」
「ご主人さま、この女は誰ですか?」
「しりゅううううっ」
「泣くな! 俺はなんもやってねぇ!」
「やっぱりお兄ちゃんが言うように秘密の催眠アプリでりんかを洗脳したのね!」
「おまえの兄貴、はよ格子のついた病院に連れてけ」
ゴチャゴチャやっているうちに時間はみるみる過ぎてゆく。
「催眠アプリ……?」
「そういうのもあるのか」
「ねぇよ!」
やり取りを耳にしたクラスでも絶対的に童貞であろうことを裏切らないであろうオタ男子ふたり組が強い興味を示したので即座に子龍は否定しておいた。
人の意志を操る外道のアプリなどこの世に存在してはならないものだ。
「おーい、いきなり学級崩壊か? とっとと席に着いて先生の心の安寧をだなァ。うおぃ! 白石、なんだその恰好はぁー! 平山、白石になにやらせとるんじゃあああっー!」
「だから知らないっての! ああ、もう、行くぞ!」
「ご主人さまにどこまでもついていきます」
「走れ白石!」
「ミシェルです」
「源氏名ミシェルついてこい」
「どこまでも」
子龍はメイド服を着たりんかを引っ張りながら、廊下を駆け出した。