17「伏兵」
子龍がおとなしく料理を食べ終えたあと風呂に入ったのを見計らって、鈴はそっと脱衣所に足を踏み入れた。
ガラス戸の向こうで子龍がのんきに鼻歌を歌っている。
しばらく耳を澄ませてハミングにうっとりする。
脱衣所には脱ぎ棄てられた子龍の衣服があった。
とはいっても、まだ、鈴への遠慮があるのか、折り畳まれてはいないものの、まとめてはある。
「仕方がないですねえ、兄さんは」
ブツブツと心の中でつぶやく。
だが、これはポーズだ。
鈴は子龍の衣服を抱え上げると、顔を埋めてスッと匂いを吸い込んだ。
くらくらするような陶酔感に鈴はしばし酔いしれながら、ちょっと他人には見せられないような恍惚の表情を浮かべる。
匂いフェチというわけではないが、鈴は子龍の匂いを嗅ぐと精神的に安定するのだ。
犬になったような気持ちでフンフンスンスンと鼻先を突っ込んで顔をグイグイやる。
いつまでもやっていると、さすがに気配から異常を察知されるかもしれないので、素早く切り上げる。
以前、子龍は風呂に入る際、きちんと衣服を畳んで籠に入れるという最低限のマナーが備わっていたが、それでは鈴が困るので「男は服を脱ぎ散らかす。いちいちみみっちく畳まない」という欺瞞情報をすり込むことで、ナチュラルに衣服を手に取っても不審がられないという状況を作り出した。
――下着はとりあえず回収しておきましょう。
子龍がどのようなブランドメーカーの下着を着用しているか、サイズまで調査済みだ。
着用済みである子龍の下着はすでに回収済み。
抜かりはない。
「おーい、鈴、そこにいるのか」
いきなり声をかけられてびっくりした。
どうやら自分は子龍のトランクスを広げながら見入っていたらしい。
さすがに、この行為は猛省。
その後、鈴はガラス越しに子龍とたわいない会話を楽しんだ後、リビングに戻った。
無論、子龍が風呂を出たあと、渇いた喉を潤せるよう飲みものを用意するためだ。
カルピスを二杯作る。一杯目は薄めでグイッと一気に飲み干せるものと、二杯目は丸く削った氷に原液をほどよくかけ回して、チビチビ飲めるものの二種類である。
このために鈴はわざわざ美味いと評判の氷を取り寄せ、グラスにきっちり氷が入るようアイスピックで丸く削るスキルを習得した。
――ふう、できた。気に入ってもらえるかしら。
この技術ならバーテンダーにでもなれるだろうかと上機嫌でいると、机の上に兄のスマホが放置されているのが目に入った。
「……ダメよ、鈴。いくらなんでもそんなことをしてはダメ。あの人にもプライバシーというものが存在するわ」
子龍の個人情報が詰まった魅惑のデバイス。
――正直、凄く見たい。
「んん、これは興味本位ではなく、兄さんの交友関係を知っておくのも、万が一のことがあったときにすぐ動けるよう家族としてのつとめですから」
そんないいわけをしながらスマホをタップする。
暗証番号の入力が求められたが、鈴は子龍がナンバータップする際にZの文字を描くように打っていたことを記憶していたので特に問題はなかった。
鈴はなんら躊躇なく、写真のアルバムフォルダに突入したところでカッと両眼を見開いた。
急激に鼓動が早まり、背筋に毒虫がのたうったような悪寒が走った。
「か……はっ……」
意味がわからない。
写真には、あきらかに事務所兼倉庫の一室でメイドのコスプレをしているひとりの女が写っていた。
鈴は素早くスマホを動かすと、アルバム内を検索してゆく。
幸か不幸か、メイドコス女の画像は今日のみの日付に限定されていた。
残らず処理しようとしてからすぐに思い止まった。
子龍にスマホをこっそり盗み見したことがバレてしまう。
――この女は子龍の彼女のなのか?
すぐさま鈴はその考えを打ち消した。
居れば、子龍は黙っていないだろう。
それに、時々顔を見せる子龍の祖父である京志郎が知っていれば話題に出さないはずがない。京志郎は人の色恋沙汰を野次馬半分に面白がるのを無上の喜びにしている節がある。
子龍の女っ気のなさを嘆いていた京志郎ならば、猫かわいがりしている孫に彼女ができれば黙っているはずもない。
となると、この画像の女はここ最近で子龍と仲良くなったと考えるのが正しいだろう。
残念ながら女子校で長らく廉潔の精神で洗脳され続けてきた鈴は恋愛強者ではなく、こういった場合の対応方法は持ち合わせてはいない。
今、鈴ができることといえば、画像の女の顔を記憶に強く焼き付け、どこで出会おうがすぐに思い出せるようにすることだった。
鈴は記憶力に優れており、特に人の顔を覚えるのは得意なほうだった。
近ごろのスマホにおける画像の解像度は素晴らしいもので、従ってアルバムに登録された女の容姿が鈴に強烈な焦りと警戒心を持たせるのに充分なものだった。
鈴は自分の容貌のレベルを冷静に把握している。割り引いてみても、自分の学年では三本の指に入るはずだ。
もっとも、容姿もある程度のレベルに到達すると、その先は個人の好みになるのでなんとも言い難い。