15「トマトは嫌い」
「子龍、さよなら!」
「わかったわかった」
駅前の改札口でりんかが満面の笑みで手を振る。
「これじゃつき合いたてのカップルじゃねーか」
子龍は自分の顔を手で覆いながら視線を落として、帰路に着いた。
駅から自宅は近いのでそれほど帰るのに時間は有さない。
今回は、義妹の鈴に連絡をしておいたので問題はないはずであった。
だが、玄関先で猫の絵柄がプリントされたエプロンを着けてお玉を持って仁王立ちしていた鈴はかなり機嫌が悪そうだった。
「た、ただいま……?」
「なぜ自分の家なのに疑問形なのですか」
「いや、別に」
「おかえりなさい兄さん」
「は、はい」
「それでは手を洗って食卓に着いてください。私はもうおなかペコペコです」
――腹が減ってたから機嫌が悪いのか?
「なら、先に食ってればよかったじゃん」
「なにか言いましたか?」
「いえ、まったく、ただの独り言です」
鈴の作ってくれた手料理を子龍は食した。
いつもどおり、一転の隙もない、高一とは思えないクオリティである。
ちなみに子龍は料理ができないわけではないが、ひとりでわざわざ作る意味を見出せず、家ではもっぱらカップラーメンばかりであった。
朝はアンパンと牛乳。昼はラーメンとおにぎり。夜はペヤングと野菜をそれなりに。
――育ててくれた祖父も料理などできるはずもなく、思い起こせばなにを食ってここまで成長したのか自分でも謎な人生だった。
身体だけは人一倍丈夫で、特に持病もなく、風邪も滅多に引かない。
父が再婚して鈴が家に来たことで子龍の食生活は極端に改善し、体調のことだけいえば、ここ最近はすこぶる調子が良かった。
今晩のメニューは手ごねハンバーグに、つけ合わせのサラダセット、それにコンソメスープにデザートのヨーグルトケーキまでついている。
すべて自家製である。ちなみに、サラダは子龍のことを思いやってか馬に食わせるほどあった。
「俺草食動物じゃないんだけど」
「兄さんは日ごろあまり野菜をとらないので、頑張ってください」
「……」
「トマトをポイしないでくださいよ。子供みたいなことを」
「ぼくトマトきらーい」
「プチトマトを完食するまでその席から立たせませんからね」
「わかったからフォークはやめてくれ。俺は先端恐怖症なんだ」
じゃれ合いながら食事をしていると、すぐに鈴の機嫌は直った。
鼻歌まじりに食器洗いなんかをしているところは、実にかわいらしい。
「なあ、鈴さんや。食洗器あるのになんでいつも、わざわざ手洗いをばするのだ」
「いくら食洗器といっても万能じゃないんですよ。軽く水洗いしておかないと、ゴミが溜まってしまうんです。本当はふたりぶんですから、そんなに食器も出ないのですが、私は便利なものは活用する主義なので」
「いつもすまないねぇ」
「兄さん、お茶のお代わりはあったかいのと冷たいのどちらがよいですか?」
「うーん、じゃあ、ヒエヒエのやつ」
「はい」
黙っていても美少女が献身的に世話をしてくれる。
――もしかして、俺ってすごく幸福な人間なのでは?
「あ、先にお風呂入っちゃってください。沸かしておきましたので」
「あ、うん。いつもありがとな」
「いえ、妹として、このくらいは当然ですから」
促されて風呂場に行くと子龍はバサバサと服を脱ぐ。
無論、綺麗に畳んだりなどしない。
かつてはそれなりに、脱衣所のマナーを守っていたのだが、一度着替えを持ってきた鈴に「兄さん、男のくせにちまちました真似はやめてください」と強烈に怒られたので、子龍の中にあった服を綺麗に畳むという習慣は見事に破壊されていた。
シャワーで身体を洗ってから湯船に浸かる。鈴は子龍が帰宅して食事をしたのち、湯を使うまでの時間を綿密に計算しており、ぬるすぎずも熱すぎずもない絶妙な湯加減だった。
「あー、なんちゅうか、妹ってすごく親切な存在だな」
未だに鈴といる時間はどことなく緊張するが、こうして至れるつくせりだと、自分がダメな人間になっていく気がする。
脱衣所でガサゴソと音がする。子龍は鈴が下着とパジャマを持ってきてくれたことに気づき声をかけた。
「おーい、鈴、そこにいるのか」
ガタガタッと凄い音がした。
「ど、どうしたんだ? なんかあったか?」
「だ、大丈夫ですから。兄さんは気にしないでください。ちょっと、ちょっとだけ手がすべっただけですから。それよりもいきなり大きな声を出さないでください! びっくりするじゃないですか!」
「あ、ああ、悪いな。そんなつもりじゃなかったんだが。いや、な。いつもいつも食事を作ってくれたり、お弁当を用意してくれたり、掃除洗濯までしてくれて、ありがとうなって、感謝の言葉を伝えたくて――」
ガラス戸の向こうで鈴が押し黙ったのがわかった。
「あ、あの、なんか俺、また余計なこと言っちゃったか?」
「余計と言えば余計ですよ。それに兄さんが気を遣うことはありませんよ。私は、いえ、妹は兄の面倒を見るのが、ごく普通のことなのですから。これはいわば家族として当然のことなのです。気にしないでください。でも、うれしいです、すっごく……」
熱の籠った鈴の言葉に子龍はどこか照れ臭くなり、そのまま顔を湯船に沈めブクブク息を吐き泡を形成する。
「そうなんか。いや、俺には妹がいなかったから、ちょっと世間さまの普通がわからなくてな。けど、鈴が料理も掃除も洗濯もしてくれるから、俺はもうこの家から出らんないなぁー。快適過ぎて」
「そ、そうですか? じゃあ、ずっと家に居ればいいじゃないですか。私は、ここを出ていく予定もありませんし。将来的には就職もこの街でするつもりです」
「お、そうか? 俺も都会に出たいとかないからなー。オヤジと美穂さんはほとんど家に寄りつかないし。兄妹でずっと仲良く暮らすかぁ」
「……? はいっ!」
「おお、なんかいい返事だ。けどこれじゃあ嫁さんはいらない思想の人間になってしまうな。鈴がぜんぶ家のことやってくれるし」
「兄さんには私がいるからいらないんですよ」
「ん? なんか言ったか?」
「いえ、別に。それじゃあ、私はやることがありますので、ゆっくり一日の疲れを癒してください」
「おお、ありがとなー」
昼間はメイドの謎関連で疲労したので、義妹である鈴の完璧な仕事は子龍の心を和ませた。
「ふーっ。よい湯じゃった。んなっ?」
風呂から上がり、ホクホク顔でリビングに行くと、そこには先ほどの慈母のようなオーラを放っていた人物とは、逆に位置する悪鬼羅刹にも似た形相で立っている鈴の姿があった。
「ど、どうした? なにがあった?」
鈴は無言で乳白色の液体が入ったグラスを渡してきた。
カルピスだ。
一杯目は薄く、量は多めに。
子龍は動揺したまま一気にカルピスを飲み干した。
「う、うまいぞ。あ、ありがとうな。けど、なんか、あったのか?」
鈴は無言でグラスを差し出すだけだ。
二杯目は、わざわざ購入した氷を器用に丸く削ったものをグラスにぴっちり入れてあり、濃いめの液がかけ回されている。
子龍は風呂上りにこの氷を溶かしながらチビチビ飲むのを無上の楽しみとしていた。
「おいしいですか、兄さん」
「う、うまいよ」
「……」
――なんとかいえよ!
だが、鈴はじっとりとした視線で恨めしそうに子龍を睨むだけだ。
ついさっきまでは上機嫌だったはずなのに――。
子龍はわけがわからない。
「兄さん、今日は――いえ、なんでもありません。私も少し疲れたので、お風呂に入ってから休みますね」
「今日はあに森やらないのか?」
「はい、今日はお休みします。日課の案内所で貰える海里は惜しいですが」
「そうか。カイリは『りょけん』や『アイテム』と引き換えにできるからな。けど、俺は鈴の自由意思を尊重するよ」
「はい、すみませんが」
すすす、と鈴はすべるように自分の部屋に戻ってゆく。
「まあ、女心はむつかしいからな。気にしないが吉か」
グラスを傾けてカルピスを飲む。
解けた氷と濃い液が合わさってなんともいえない玄妙な味わいが口中に広がった。
子龍はまだ濡れている自分の髪をタオルでわしわしと拭った。