8
謹慎処分にある者は、宿舎と食堂、そして鍛錬場以外の場所に出入りすることを禁止される。その期間は王宮騎士の証である紋章を没収され、鍛錬の他には王宮騎士の行動規範について記された書物を読むことが義務付けられる。それでも独房入りよりはずっとましな生活で、ルーティアは大人しく謹慎の日々を送った。
ミラルドにとっても、この期間はサーシャと話し合うための良い時間になったに違いない。二人の表情を伺う限り、関係はより良い方向へ向かっているようで、それがルーティアにとっては何よりの救いだった。もっとも、この頃になるとサーシャに好意を寄せている若い騎士が、夫婦同然の二人を横目に深々と溜息を漏らすなどという光景も度々目撃されるようになった、というおまけつきだったが。
ともかく、十日の間には無事に聖戦の記念式典は終了し、各国の王族達も王宮を後にしていた。
一見、エリクシュル王宮において平素と変わらぬ生活が始まったように見える。未だ不穏の足音は地層深く眠ったまま、表面化されることはないのだった。
早朝である。
この日の朝から謹慎が解けることになったルーティアは、この国の短い夏を満喫するように草原に馬を走らせていた。霧は薄いが、代わりに草の香りが身体の周りを掠め飛んでいく。
極めて薄いヴェールのような霧の切れ間に、青々とした濃い緑が目には眩しい。
「ルーティア、そんなに飛ばさなくても森は逃げないぞ」
ともすれば草に覆われて見失いそうな細い小川を飛び越えたところで、ミラルドが追いついてきた。
「十日の間、ほとんど外に出ることができなかったから、堂々と出歩ける今日の日が待ちきれなかったんだ」
手綱を操りながら、ルーティアは初めて遠乗りを許された日と同じくらい、晴れやかな気分で応じる。この風を感じるためには、やはり騎士服でなく軽装を選んで正解だ。
森の神殿跡に連れて行ってやるとミラルドが言い出したのは、昨夜のことだった。ねだった甲斐があると喜んだルーティアだが、実際には何か話があるのだということもわかっている。ルーティアもミラルドに聞きたいことや話したいことがあったので、断る理由もない。
森の入り口を覆う茂みは、以前来たよりときもずっと鬱蒼としている。それは森への扉のようなもので、潜り抜けてしまえば、草は馬の歩みを邪魔するほどではない。
細い木が乱立した領域を抜ければ、やがて木の幹は段々と太くなり、それぞれの間隔も広くなっていく。それはまるで生い茂った緑の天井を支える柱のようでもあり、半透明な霧の壁を巻きつかせた奇妙な道標のようにも見える。
今度こそ道を覚えようと意識していたルーティアだが、以前と同様に馬から降りて手綱を木の幹に預け、自分の足で歩き始める頃には、すっかり来た道も怪しくなっていた。
「そんなにあちこち見回していたら、迷子になるぞ」
迷わないために道を覚えようとしているというのに、ミラルドはわざと意地悪く笑う。
「ミラルド殿は、どうやって目的の場所を見極めているんだ?」
「気をつけろ。霧は晴れてきたが、滑りやすいからな」
どうやら、答えてくれる気はないらしい。にやりとあまり上品でない笑みを浮かべたまま、ミラルドはそれとなくルーティアの足元に注意を促す。
仕方なく、ルーティアは目を凝らした。
やがて白い視界が晴れ、その先には大きな石柱が横たわっている。
「見えた……」
薄っすら露を含んだ緑色の絨毯の上に、白亜の廃墟は静かに佇んでいた。
崩れ落ちた瓦礫や、倒れた柱に巻きついた蔦や苔、そして何よりルーティアの目を惹き付ける、一本だけ真っ直ぐに立ったままの柱――。
自然の一部と化したその廃墟は、かつて存在しただろう神聖さや荘厳さは失っているが、そのありのままを受け入れている姿は、どこか孤高であるようにも見えるし、もの悲しくも凛々しい。
柱の上を小動物が走り抜け、小鳥達は突然の人間の登場にも驚く様子もなく、朝のさえずりを交わしているのだった。
ルーティアがこの光景に惹かれるのは、そこに彼女自身の理想を見るからかもしれない。
「……お前には、大きな借りができたな」
背後で気配が動き、少し緊張を含んだミラルドの声がした。
「あのまま俺が自棄を起こして捕まるようなことがあれば、二度とここへ来ることもなかっただろう」
「それなら、わたしが無茶をした甲斐もあったというものだな。ミラルド殿に案内してもらわないと、わたしはここを探し当てることはできないのだから」
「だが、エルアレクの奴はお前が謹慎処分になったことに、腹を立てていただろう?」
「いや、違う。エルアレクは、自分が処分を受けなかったことに不満があるんだ。そういうところは無駄に律儀だから」
ルーティアがあくまで軽く応じると、ミラルドは苦笑交じりに黙り込み、やがて静かに口を開いた。
「……国が滅びるということも、この場所のようであって欲しい」
「驚いた。ミラルド殿が詩人のような台詞を吐くことがあるなんて」
「俺が詩人なら、もっとましな表現を用意したさ」
大袈裟に揶揄するルーティアを睨んで、ミラルドは大股で廃墟に近付いていく。決して小柄ではない男の体躯が、横たわる柱の前では一回り以上小さく見える。露出した二の腕は日焼けして逞しかったが、その手で石を撫でる仕草は妙に幼く見えて、いつからそこにあるのかわからない遺跡の前では、現在の生き物など全てが未熟なのだという気にさせられてしまう。
「サーシャに疑いの目を向けておいて……この俺があんなことをしでかしたことに、お前は怒りを感じていないのか?」
突然投げかけられた質問に、ぼんやりと風景に見入っていたルーティアは慌てて意識を呼び戻す。
「そういうふうには、考えたことがなかったな……少しも」
こちらを顧みたミラルドは、意味を図りかねているような顔をする。
「だって、ミラルド殿があんなことをしたのは、サーシャ殿のためだろう? そうだったとしたら、わたしが怒るようなことではないように思う。サーシャ殿が許したのなら、わたしが文句を言うことでもないから」
「……お前のそういうところが、俺にとっては救いなんだろうな」
呟いて、ミラルドは横倒しの石柱の上に飛び乗り、腰掛ける。
「ミラルド殿は、サーシャ殿に先を越されるのが嫌だったのではないのか? サーシャ殿が給仕役を引き受けたのを、リンバーク国に近付くための手段だと考えたから、それならばいっそ自分が……と思ったのではないかと」
「……お見通しというわけだ」
「いや……実を言うと、わたしも最初はサーシャ殿の行動を邪推してしまったものだから」
ルーティアが正直に白状すると、ミラルドは少し目を細めて、すぐには何も言わなかった。視線をやや上向きに逸らしたまま、何かを考えているようでもある。
ルーティアはその間に、別の石柱のほうへ歩いて行った。大きく割れた石の間から草が顔を出し、その先端に小さな薄紫の蕾を膨らませている。
「――俺自身が、あの国の終わりを知りたかったんだ。親父も仲間も雇い主もいっぺんに亡くして、サーシャを連れて逃げることだけが全てだった。そのまま振り返りもせずに、今まで来ちまった。……どっかで俺は、認められずにいたんだろうよ。元のままでは、何も残っちゃいないのに。やっと……今更ながらわかったような気がする」
ときどきどこか遠くを見る癖のあるミラルドは、もしかしたら亡国に囚われていたのかもしれない。そんなことを感じながら声のほうを見るルーティアの視線の先で、元傭兵の男は皮肉交じりに結論づける。
「国が終わるっていうことは、こういうことなんだろう」
それでルーティアは、先ほどのミラルドの台詞を改めて思う。
この場所のようであって欲しいというのは、もしかしたら――いやきっと、それはミラルドの祈りなのだ。
ひっそりと崩れ、静かに運命を受け入れて、雨風に晒されながらいずれは朽ちて消えていく。それも、永遠と同じだけの年月をかけて、ゆっくりと。
それはルーティアの単なる想像だったかもしれないが、全く外れてもいないだろうという気がした。
「ミラルド殿、ひとつ気になっていることがあるんだ」
思い切って口に出したルーティアに、ミラルドは視線だけで応じる。
「あの日、シュラン将軍の娘――シュゼリーナ殿を見かけた。もしかして、彼女とは何か関係があるのではないのか?」
ルーティアはあの日、ミラルドと共に彫像の下から這い出した後で気付いたのだ。館に潜入する前に見かけたシュゼリーナが逃げるように立ち去った場所、それこそがその彫像の前だった、と。
ミラルドはこの質問にわずか瞠目したが、すぐに観念したらしい。
「あいつは……シュゼリーナは、俺の昔馴染みだ。我侭で虚栄心が強くて、きっとルーティアのような人間からは好かれない人種だろうが」
「え……」
「今回のことは、俺が頼んだ。あいつは俺の頼みを聞き入れて、侵入のための手筈を整えただけだ。……このことは、サーシャも知らない」
「そう、だったのか」
およそ結びつかない二人の関係を、当たり前のように「昔馴染み」だと言うミラルドに、ルーティアは自分で意識するよりも衝撃を受けていた。
王宮騎士としてのミラルドとは親しいほうだと自負しているものの、実際には彼のことを表面的な部分しか知らない。それは認めざるを得ない事実だと、受け入れるしかなさそうだ。
「俺がまだガキで傭兵稼業に足を踏み入れる前、シュゼリーナと同じ村に住んでいたことがあったんだ。――聖戦より前、樹海の側に連なっていた小国のひとつさ。村は貧しくて……あいつは十二の頃、娼館に売られていった。この国の将軍の養女になった今じゃあ信じられねえだろうが、汚い服を着たまま、嫌だ嫌だって泣いていたのが忘れられねえよ。それも……もう、十五年も前になる」
あの妖艶な美女の少女時代とミラルドの少年時代に共通の記憶があることなど、今のルーティアにはとても想像できないことだ。
そもそもルーティアは、両親こそ早くに亡くしたものの、貧困を知識としてしか知らない。他国の、しかも階層違いの人々の生活がいかなるものであったかなど、推し量ったとしても感じることは難しい。そしてそれこそが、ミラルドなどとは決定的に異なる部分であり、相容れない何かであることに薄々気付いていた。
「……もしかして、ミラルド殿はシュラン将軍とも面識があるのか?」
「いや、直接会ったことはない。噂だけなら、王宮にいる以上は嫌でも耳に入るが」
あっさり否定するミラルドを信用することにして、ルーティアはそれ以上追及しなかった。
ミラルドは、ミラルドだ。過去に何かがあったとしても、今目の前で話す男を信用している自分の気持ちまで疑いたくはない。
ルーティアはこの話を切り上げ、全く別の話題に切り替えた。
「それにしても、この神殿はいつ頃に建てられたものなのだろう?」
「さあな。でもまあ、この国の始まりよりは前だろうよ」
「……数百年以上前、か。凄いな」
単純に感動して、ルーティアは瓦礫の上を慎重に歩き回る。ここに白亜の建造物があった頃を脳裏に描く作業は、なかなか楽しいものだ。
「――なあ、ルーティア」
しばらくの沈黙の後、硬い声色がルーティアの空想に切り込んだ。見ると、石柱に腰掛けたまま、ミラルドは妙に慎重な顔つきをしている。
「俺ん中で、妙な胸騒ぎがする」
「……というと?」
「あの日、お前も通った地下の抜け道のことだ。あれは俺が最初通った時点で、最近人が出入りした形跡があった。あんな場所を、そうそう頻繁に使うと思うか? ……あったとしたら、リンバーク国の誰かに対して内密に誰かが接触したか、あるいはその逆か」
「この国で……何かが起こるかもしれない、と?」
それに対して、明確な返答は無かった。
ただ、やけに眼光鋭いミラルドの双眸が、ルーティアの不安を突如として煽る。
式典の忙しさやサーシャとミラルドのことがあって忘れていたが、それよりも前にエルアレクが漏らしていたことを、唐突に思い出していた。
――樹海に花が咲いたらしい。
ジェイルが、そのことを気がかりだと言っていたということ。更に、サーシャもどうやら何か感じているのではないかということ。
そういったことを、ここしばらくの間に、無意識に追いやってしまっていた。
「おいルーティア、そこは危険だ!」
瓦礫の脇を歩いていたルーティアは、ミラルドの厳しい声を聞いた瞬間、足元が崩れる気配を感じた。
「うわ……っ!?」
突然に足の自由を奪われて身体の均衡を失うも、どうにか転倒は免れる。
しかしその直後、一抱えもあるような石が横から滑り落ちて来ることを察した瞬間、緊迫した声が響いた。
「――ルーティア!」
咄嗟に身体を反転させ、直撃を避ける。
直後、右足に激しい痛みが走った。
今朝から謹慎処分が解けて通常任務に復帰するというのに、ルーティアの姿が見えない。こういう時は決まってミラルドも姿を消しているのだから、エルアレクの心は穏やかではなかった。
「怖い顔ね、エルアレクさん」
サーシャはというと、全く気にもしていないような涼やかな笑顔だ。これが、想い人の愛情を疑わないでいられる余裕の差なのかと思えば、自らの不甲斐なさを思い知ったような気がして、朝から気が滅入るエルアレクである。
仕方が無いので独りで簡単に朝食を済ませ、一度自室へ戻ろうと食堂を出たところで、エルアレクはぎょっとして立ち止まった。
「まあ、大変っ」
いつの間にいたのか、サーシャが声を上げて小走りにそのほうへ向かう。それでエルアレクは、慌てて後に続いた。
そこには、ミラルドにほとんど抱きかかえられるようにして運ばれているルーティアの姿があったのだ。
「ミラルド殿が大袈裟なんだ。わたしは自分で歩けると言っているのに」
「何が大袈裟だ。馬にだってろくに乗れなかったくせに。大体、あんな瓦礫の中を不用意に歩き回る奴があるか」
「あんなに足場が脆いなんて、知らなかったのだから……あ、痛っ!」
「ほら見ろ」
宿舎の二階にある自室のベッドに下ろされたルーティアは、布できつく縛っただけの応急処置を施された足を投げ出して、眉をしかめている。
「お医者様を呼びに行きましょうか?」
「いや、サーシャ殿、大丈夫だから……」
「打ち身と捻挫だ。頭を打っているわけでもないし、心配は要らん」
すぐにでも戸口に向かおうとするサーシャに、ルーティアとミラルドがほとんど同時に応じる。
とりあえず大きな怪我でもなさそうで胸を撫で下ろしたエルアレクは、しかし、代わりに、説明しがたい強い怒りに襲われていた。
「謹慎処分を食らうような無茶をしたと思ったら、性懲りもなく今度は不注意で怪我か」
驚いたような三人分の視線に晒され、初めてそれを声に出してしまったことに気付く。
沈黙が訪れる前に穏やかな声を発したのは、サーシャだった。
「ミラルドもルーティアさんも、反省なさいね。やっと謹慎が解けたばかりで問題を起こしたりしたら、今度こそ大変なことになるのよ。エルアレクさんが心配するのも無理はないわ」
二人を庇うわけでもなく、エルアレクの機嫌を取るというわけでもない。
「わたし、薬草と包帯を持ってくるわ。それから足を洗うには、水桶も必要ね」
サーシャはそう言いながら、さり気なくミラルドの腕を取って廊下へ出ていく。
「あまりルーティアさんを叱らないでやってね。ミラルドにはわたしから、ちゃんと注意しておくわ」
耳打ちされて、エルアレクは初めてサーシャが気を遣ってくれたことに気付いた。
ドアの向うでミラルドが何か抗議しているようだったが、やがてその声も遠ざかると、気まずい沈黙が降りてくる。
「……すまない。心配ばかりかけて」
ベッドの上で素直に詫びるルーティアは、エルアレクの怒りが自分にあると疑わず、どうにかその怒りを鎮めようとしているらしかった。
それが手に取るようにわかるから、一度は静まりかけた苛立ちが余計に大きくなる。なぜならルーティアは、エルアレクの本当の不機嫌の理由を知らないからだ。――気付くはずもない。
「どうしてもっと、慎重に行動しようと思わない?」
発した声は、自分でも驚くほど冷ややかだった。
「この間の一件で懲りたかと思えば、謹慎が解けたその日の早朝から王宮を抜け出して、その上怪我をして戻るとは。お前には自覚が無さ過ぎる」
ルーティアは反論しようとしない。シーツを握り締めている両手が、彼女の緊張した心理状態を表していた。
おそらく、今の自分はいつにないほど厳しい顔をしているに違いない。それを自覚していながら、サーシャに釘を刺されたことなど、今のエルアレクの歯止めにはならなかった。
いっそ、ルーティアが反論や言い訳をしてくれた方が楽かもしれないと、身勝手な念を抱く。
「お前は父上の死の真相を知りたくて、騎士になったのではなかったか? それを、目の前の事件や楽しみに捕われて捨てて良いとでも? ――そうだとしたら、当初の目的など騎士であるための単なる詭弁だ」
「……そんなっ……わたしは、そんなつもりは……」
思わずといったふうに声を上げたルーティアは、身体を浮かせかけ、直後に顔をしかめてそれを断念する。
エルアレクは、それでもルーティアが憤然として食って掛かってくるだろうと思った。ところが、それきりルーティアは、激昂するどころか項垂れてしまったのだ。
視線を膝の辺りに漂わせたまま、まるで放心状態にでも陥ったように、顔からは表情が消え、同時に色が失せていく。
「好きにしろ。俺は元々、お前が王宮騎士になることに賛成ではなかったのだから。俺に隠れて何かを企てるのがお前のやりかたなら、たとえ除名処分になるような事態になったとしても、自分で身の振りかたを考えることだ」
「……エルアレク……」
「集合の時刻だ。俺はもう行く。サーシャ殿に、きちんと手当てをしてもらえ」
言うだけ言って、エルアレクは部屋を出た。
最後にこちらを見上げたルーティアの、どうしようもないほど頼りない顔が胸に刺さる。逃げ出した、というほうが近かったかもしれない。
ただ傷つけるためだけに吐いた台詞は、叱責でも心配でもあり得ない。反論もしない相手に、しかも怪我をしている相手に――誰よりも一番大事にしたはずの相手に、ただ自分の憤りを吐き出しただけだ。
言葉尻こそ正論を崩していないが、エルアレク自身、自分がぶつけた台詞こそ詭弁だと知っている。
これは、嫉妬だ。
ルーティアがミラルドに対して寄せている感情が、エルアレクには時々、友情以上のものに思えてしまう。
最も浅ましく、醜い感情だ。
そして、それとわかっていながら優しくなれない自分自身の懐の狭さが、情けなくて腹立たしい。
「……くそ……っ」
後悔の波は、時間の経過と共に激しくなりそうだった。
なぜならエルアレクは、呆然とこちらを見上げるルーティアを見て、気付いたのだ。
この自分が、反論も抵抗も封じてしまうほど深くルーティアを傷つけてしまえるのだ、ということに。
それがたとえ、彼女が弟や妹に向ける信頼と変わらない種類のものであったとしても――自分に対して常に無防備に晒されていた心を切りつけてしまったこと、それこそが、エルアレクにとっては赦し難い罪に思えてならなかった。
「……あんな……頭ごなしに言うことないじゃないか」
取り残された部屋の中で、ルーティアはようやくそれだけ呟いた。
しかし、声に出した言葉は虚ろなまでに、空気の上辺だけを滑って部屋の隅に消えていく。
ルーティアは途方に暮れていた。
本気で怒っているエルアレクなど、初めてだったのだ。言われた言葉そのものよりも、そこまで彼を怒らせてしまったという事実のほうが、ルーティアにとっては辛かった。
他の人間から言われた台詞なら侮辱だと思っただろう言葉も、エルアレクがわざとそんな言葉を選んだのだとしたら、それは恐怖以外の何ものでもない。
軽率な行動を咎めるのであれば、いつものエルアレクならばもっと違う言いかたをしたはずだった。そしていつもなら、言うことは厳しくても態度や瞳の穏やかさが逃げ道を用意してくれている。それなのに、先ほどのエルアレクの青い双眸には、ほとんど憎悪に近いほどの強い感情があった。
ルーティアはその激しさに萎縮し、戸惑うしかなかったのだった。何があの無口で穏やかな幼馴染みを、あれほどまで追い立ててしまったのだろう。
「……どうしよう……」
心許なくて、無傷の左足を抱き寄せる。
深く呼吸を繰り返しても、胸の奥に占める重石は少しも軽くならないまま、息苦しさが増すばかりだ。右足の痛みよりも、そちらのほうがずっと堪える。
「ルーティアさん、入っても良いかしら?」
「あ……ああ」
柔らかな声に慌てて顔を上げると、サーシャがにっこりと微笑みながら部屋に入ってきた。水の入った桶を右手に提げ、薬草や包帯の入った籠を左手で胸に抱いている。
「さあ、足を出してちょうだい。先に水で洗うわね」
「……サーシャ殿、自分でできるから」
「あらルーティアさん、わたしが痛くするのじゃないかと疑っているの? 大丈夫、これでも慣れているのよ」
「いや……そうではなくて」
「この薬草は良く効くの。軟膏にしたものは、特にそうなのよ」
サーシャは、ルーティアの遠慮や躊躇いをあっさりと退けて、ベッドの脇に跪いた。
ミラルドが巻いてくれた応急処置の布を細い指で外し、澄んだ水と一緒に患部を優しく撫でる。
「腫れているわね。痛みは酷い?」
「いや、大丈夫だ」
「ちっとも大丈夫そうじゃないわ、ルーティアさん」
澄んだ若草色の瞳で見上げられ、思わず目伏せたルーティアに、サーシャはそれ以上何も言わずに手早く手当てを済ませ、ふわりと立ち上がった。
綺麗に巻かれた包帯が、慣れていると言った言葉を証明している。
「今日は歩き回らないほうが良いわ。ミラルドが部隊長さんに話をしてくれるから、心配しないで」
「……ありがとう」
サーシャは微笑んで、ルーティアの隣に腰を下ろした。そして腕を伸ばし、まるで小さな子供にするように、ルーティアの亜麻色の髪を撫でる。
「心配することはないわ」
「……でも」
「そうね、エルアレクさんは心配をし過ぎて、ついあなたに辛く当たってしまったのよ。今頃きっと、とても後悔しているわ」
まるで全てを見透かしたように、サーシャは優しく言いながら、繰り返し髪を撫でる。
決してそれは不快ではない。サーシャのそういうさり気なさや自然な言動は、不思議な安堵感をくれる。もしかしたら、それは母性に近い。
だからルーティアは、泣きたくなるような衝動に駆られるのかもしれなかった。
「それでも……エルアレクを怒らせたのは、わたしの落ち度だ。……どうしてかな、わたしはどこかで思い上がっていたんだ。……エルアレクが、わたしを嫌うはずがないと」
口に出して言ってしまった後で、いかにそれが子供っぽい幻想であるか、わかる。同時に、それがいかに自分にとっての支えであったか、わかったような気がした。
「今回ばかりは……愛想を尽かされた、というのかな……」
少しおどけた口ぶりを作ったルーティアに、サーシャは意外にも真顔になる。
「そんなことないわ、絶対に」
「……不思議な人だな、サーシャ殿は」
気がつけば、いくらかは和らいだ気分で、ルーティアは薄い笑みを浮かべた。
「ミラルド殿があなたを大事に想う気持ちが、わかるような気がする」
「そう?」
「正直に言うと、二人を見ていて……ときどき羨ましいと思うよ。わたしは男ではないし、かといって、女として生きることも難しいのだから」
それは、つい気持ちが弱くなっていたからか――それとも、相手がサーシャだったからだろうか。
普段ならば決して誰にも言わない本音が、するすると口から飛び出してしまう。
「わたしは……父の死んだ理由を見つけたくて騎士になったんだ。父は聖戦終結の直前に、樹海近くの戦地で死んだ。……わたしは、どうしてもそれが納得できなくて。だから、この道で実力を認められるようになれば、いつか真実に辿り着く機会もあるかもしれない、と。そう思ったんだ」
それが今、揺らぎそうになっているのかもしれない。
目的のためばかりでなく、ルーティア自身が騎士としての生活を楽しんでいることも事実で、エルアレクはそういうことも見抜いた上で批難したのかもしれなかった。ずっと近くで見ていたエルアレクの目には、さぞ愚かに映ったことだろう。
「そ、そうだ……サーシャ殿」
このままずるずると沈んでいきそうで、ルーティアは顔を上げてサーシャに向き直る。
「本当は今朝、ミラルド殿に提案するつもりだったんだ。……ええと……結婚式を。サーシャ殿とミラルド殿を、皆で夫婦だと認めようと……そういう話があって……」
言い始めてから、こんなときに持ち出す話題ではないと気付いたが、しかし、サーシャは艶やかな白い頬を薔薇色に染めて、少女のような華やかな笑顔を見せた。
「まあ、本当?」
「もちろん、盛大にはできないのだけど――」
言いかけた途中で、ルーティアは視界を塞がれた。身を乗り出したサーシャに抱きつかれたのだと、遅れて気付く。
「大好きよ、ルーティアさん」
「……い、いや……」
「嬉しいわ。わたし達のこと、そんなに思ってくれているなんて」
されるまま、ルーティアはしばらく、温かくて良い匂いのするサーシャの腕の中にいた。
「ねえ、ルーティアさん。あなたは優しくて、そして強い意志を持てる人だわ」
やがて腕を解いたサーシャは、ルーティアを覗き込んで微笑む。少女のように嬉しそうな声を上げたサーシャは、今はもう、聖女のように穏やかで和らいだ表情に変わっていた。
「だけど、いつでも強くある必要はないのよ」
「……わたしは、強くなどない」
呟いたルーティアに、サーシャの瞳はあくまで優しかった。
「あなたが騎士を夢見るだけじゃなく、それを自分の手にすることができたのは、あなたが強い人だからに違いないのよ。でも、そうあろうと思うあまり、忘れてしまったことがあるんだわ」
「……え?」
「あなた自身が、幸せになるということよ。だってルーティアさん、あなたはとても素敵な女性だわ」
見つめ返すだけのルーティアに、サーシャはまじないをするような仕草で軽く額に唇を押し当てると、するりとベッドから降りた。
「朝食、まだでしょう? もう少し後になるけれど、ここに運んでくるわね」
来たときと同じように、桶と籠とを持って、サーシャはドアに手を掛ける。
「ルーティアさん、無理に動き回ったりしては駄目よ。こういう日は諦めて、余計なことも考えないのが一番だわ」
明るい口調で言い残し、サーシャが部屋を出ていった。
ドアの閉まる音が、さほど広くもない部屋に余韻を残して響く。
ルーティアは後ろ手に支えていた両腕を外し、仰向けに倒れた。
「……まるで、子供だな……」
自嘲気味に呟いて、天井を眺める。
騎士を目指したときから、人前では涙を堪えてしまう癖がついてしまった。
もしかしたらサーシャは、それに気付いていて、わざと出ていってくれたのかもしれない。
嗚咽も声もなく、涙を拭うこともしないまま――ぼんやりと天井を眺めながら、ルーティアは泣いた。
エルアレクのつけた傷を、サーシャの言葉と涙とで、埋めてしまえれば良いと思った。
午後になって、ルーティアは少し眠ってしまったらしかった。
気持ちは落ち着いて、足の痛みも、動かさなければほとんど感じない。
寝転がったまま明るい窓の外を見上げ、ゆっくりと雲が流れていく様子を見るともなしに見ていると、それだけで時間は過ぎる。
こうしてぼんやりと一日を過ごすのは、案外、貴重な経験かもしれないと、ルーティアの思考はいくらか前向きなものに変わっていた。
サーシャは自分の仕事の合間には必ず顔を出し、言葉を掛けてくれる。そういう構われかたをするのは子供のときに風邪をひいて寝込んだとき以来で、妙に新鮮だ。
不意にドアを叩く音がしたのは、ルーティアがまどろみの中に意識の半分を置きながら、うつ伏せの状態から仰向けに寝返りをしたときだった。
「……ん……?」
それが現実のものなのか夢の中のことなのか判断しかねてドアのほうに視線だけを動かした瞬間、今度ははっきりと音が響く。
「あ――はい、どうぞ」
午後の仕事の区切りに、またサーシャが来てくれたのだろう。気にしないでと笑っているが、気を遣わせていることには変わりない。
そんなことを考えながら、ルーティアがゆっくりと上半身を起こしかけたところに、予想とは違う声が届く。
「なんだ、思ったより元気そうだな」
「え?」
見ると、部屋の入り口には顔も見えないくらいの大きな花束を抱えた少年が一人、立っていた。
「……まさか……カーシェス、か?」
まさかと疑いつつも、体格と花束から咄嗟に思い浮かぶのは弟くらいだ。
しかし少年は、つかつかとルーティアのほうへ歩み寄ると、花束をベッドの上に置きながら、信じられない台詞を吐いたのだった。
「この僕を見間違うだなんて、随分失礼な話だね。それとも、しばらく会わない間に僕のことなんてすっかり忘れてしまったとでも?」
「でん……レファリス様っ!?」
殿下と言いかけるも、この少年がその呼ばれかたが嫌いだということを思い出し、慌てて言い直す。おまけに飛び起きた反動で右足に力を入れてしまい、うずくまりそうになる痛みに耐えるルーティアである。
レファリスは、してやったりという会心の笑みを浮かべると、部屋の中をぐるりと見渡した。
「殺風景な部屋だな。ベッドと机と造り付けの棚がひとつ、なんて。壁もこんな土色じゃなくて、明るい色にすると良いのに」
「ここは宿舎ですから……」
「ああ、立たなくて良いよ。僕も座らせてもらうから」
言いながら、レファリスは机と対になっている椅子を引き摺ってくると、ベッドの脇に据えてそこへ腰掛けた。
「あの……それよりも、どうしてここへ? ここはレファリス様がわざわざいらっしゃる場所ではありません。用であれば、わたしのほうから参上しますのに」
「僕が見舞いに来ては迷惑か? 折角ほら、こんなに大きな花束を用意したのだぞ。ここへ来る途中、カーシェスの研究室に寄って貰ってきた」
機嫌が良いときに浮かべる悪戯っぽい笑みを濃くして、金髪の王子はわざとそんなことを言う。
大きな花束は顔を見られないための工作に違いなかったが、そうまでしてここへ来る理由が見舞いだとは思えない。
ルーティアが考えあぐねていると、レファリスはすらりとした足を組み、その膝の上で両手の指先を付き合わせながら、少々人の悪い顔つきをした。
「十日間の謹慎が明けたら、まず真っ先に僕の所へ来てくれると思っていたのにね」
「……申し訳ありません。処分については口添えを頂いたというのに、お礼もまだ申し上げていませんでした」
「そんなことは、大した問題ではないんだ」
あっさり言い放って、レファリスはすっと悪戯っぽい笑みを消し去る。
「それよりも、僕にはちゃんと説明してくれないと嫌だな。あの日、一体何があったのか」
「それは……」
「先に言っておこう。僕は我が国が抱えている王宮騎士の中で唯一の女性騎士を、信用しているんだ。もしも国に関わる重大な事件に関与したことであれば、何をおいても申告してくれるとね」
水色の瞳が、理知的な光を放つ。そうすると実年齢よりもずっと大人びて見え、日頃の自由奔放で時に破天荒な王子ぶりのほうが、虚像に見える。
「僕が知りたいのは、どうしてあの抜け道のことを知っていたのかということだ」
両手の指先を膝の上で付き合わせたまま、レファリスはゆっくりと背凭れに上半身を預けた。
瞬間、ルーティアの脳裏にミラルドの語った話が蘇る。
シュゼリーナが関わっていたということを他言するのは、ミラルドに対して後ろめたい気持ちもある。しかし、それを言わなければレファリスの質問に答えることはできないのも事実だ。
処分を軽減させたばかりかリンバーク国滞在の棟への侵入行為にまで目を瞑ったのは、気を許してくれているとか信頼されているとかいう理由の他に、この王子の計略めいた何かがあったのかもしれない。
ルーティアは、覚悟を決めなければならなかった。