6
本式典当日、王宮内のそれまでの華やかな雰囲気は、どこか厳めしい緊張感に塗り替えられていた。
それは騎士達にとっても同じである。近衛として最も重大な任務にある第一部隊の面々は元より、第二部隊に所属する騎士達の中で王宮内に配備されることになった者達も、各部隊長の指揮の下、緊張を余儀なくされていた。
昨日までとの違いはと言えば、実際のところは昨日の続きである一日に過ぎない。しかし、この式典の意味を理解し平和を願う者達にとっては、毎年この時期に行われる行事は重要な意味を持つのだ。この催事は列国の代表者が互いの不可侵を誓う調印の場でもあり、貿易や各国の世情について話し合われる場所でもある。
七年目にしてようやくエリクシュル国で開催されることになった式典に、王都を始めとする国中が沸いている今、先の聖戦を記憶している人々の胸には様々な想いが去来しているに違いなかった。そしてそれは、騎士達も同様なのである。
ルーティアも、当然ながらその中の一人であった。
毎年この時期になると自ら騎士を目指した少女の頃を思い出すのだが、今年はより強くより身近に、それを意識する。
もう七年も経ってしまったのか――と。
七年前に樹海近くで戦死した父の命日は、正確には聖戦の終結宣言がなされる三日前である。しかし、ルーティアにとっては、この式典の日こそが想い深い。
胸に小さな白い花を挿したのは、父を偲ぶため、そして自らの意志を促すためだった。
「……今年もこの日になったな」
ただそれだけを言い残し、エルアレクは自分の持ち場へと離れていく。意外に素っ気無いそれは、実はあまり感傷的になり過ぎないための気遣いなのだ。
エルアレクはルーティアが騎士を目指した背景を知っている良き理解者だが、未だに「お前自身が辛いと思うなら、いつでもやめろ」という基本姿勢を持っている。ルーティアがそれを言われるのを嫌うと知っているから、こんな日はエルアレクのほうから少し距離を置くのだった。
ルーティアはそんな心遣いに感謝しつつ去っていく背中を見送り、自身も反対側へ歩き始めた。
この日、ルーティアとその他数名に任されたのは、議会場から礼拝堂へ抜ける通路の周辺の見回りと、晩餐会と併せて計画されている酒宴会場の外苑の警備だった。
晩餐会や酒宴も要人達にとっては職務であり、国同士の友好を図るためにこういった場が必要であるというのも事実だろう、と理解はしているルーティアだが、莫大な費用を贅沢に費やすくらいなら、聖戦で傷ついた全ての人に花の一本でも贈って欲しいという気持ちも皆無ではない。
そんなことを考えて、独り苦笑する。こんな感情を抱くこと自体、そもそも自分には騎士が向いていないのではないかと思ってしまう。
考えを追いやるために視線を上げたルーティアは、回廊の脇にミラルドの姿を発見して、そのほうへ駆け寄った。
「ミラルド殿」
「ああ……ルーティアか」
「今日は、市街の警邏ではないのか?」
「急な欠員とかで、王宮内部の警備に変わったんだ」
まるでルーティアに話し掛けられることを想定していなかったらしい戸惑い交じりの表情で、ミラルドは応じる。
きっと考え事をしていたのだろう。ルーティアはそう好意的に解釈した。きっと、サーシャのことを考えていたのだろう、と。
そのサーシャの姿を、今朝は見かけない。それもそのはずで、彼女は今夜の晩餐会の準備のために、早朝から出掛けてしまっているのだ。
ルーティアでさえ、少しばかりサーシャのことが気懸りなのだ。ミラルドがそれ以上に心配するのは当然のことである。
いつも涼やかなサーシャでも緊張することはあるだろうし、あれだけ美人なのだから、若い騎士達が冗談交じりに危惧したように、どこかの地位ある男に目をつけられないとも限らない。王宮に仕える多くの者達の間に存在する独特の序列意識の中で、今回の例外的な採用を妬んでいる者がいたとしたら、嫌な目に遭うようなこともあるかもしれない。とにかく、心配の種を挙げればきりが無いのだ。
「サーシャ殿が食堂にいてくれないと、なんだか寂しいな。食事が不味くなると皆も話していた。サーシャ殿は、もうすっかり皆に馴染んでいる大事な人なんだ」
「それを聞いたら、あいつも喜ぶだろうよ」
口の端を歪めて、ミラルドは笑った。
「ここでの仕事は、どうやら性に合っているらしいからな」
「宿舎にはいつ戻って来るのだろう?」
「まあ、今晩遅くっていうところだと思うが」
ミラルドは斜め上に視線を投げつつ、首筋を掻く。王宮内で一日過ごすこの日は、さすがに無精髭も消えていて、それがルーティアには少し物足りないように映った。
「そうだルーティア……この間の話なんだが」
「え? ――ああ」
反射的に訊き返したものの、ルーティアはすぐにサーシャのことであると察して頷く。
「悪いが、あの話のことは忘れてくれ」
思いがけず真顔でそう告げられて、ルーティアは返す言葉を失った。
忘れろと言われてあっさり忘れてしまえるような話ではないと、ミラルド自身がわかっているはずだ。それなのに、敢えてそれを言い出したということに、ルーティアは動揺していた。
「……酷いな」
他にどういう顔をすれば良いのかわからず、ルーティアは苦笑いする。
「ミラルド殿は、わたしを信用してくれていたわけではなかったのか? わたしがサーシャ殿を警戒しているように見えるから、危険だとでも……?」
「違う」
即答して、ミラルドは表情を曇らせた。いつもは不敵に挑んでいるような目が――そうでなければ揶揄しているような目が、今はルーティアを直視しようとしない。
ルーティアは逆に、ミラルドを真っ直ぐに見上げた。
「わたしは、サーシャ殿は何もしないし、することを考えてもいないと思う。それに、そんなふうに思われていると知ったら、きっと悲しむ」
「……俺もそう思うさ」
呟いて、ミラルドはわずかに眉根を寄せた。苦悩する、などという表現は本来この男には似合わない表現だが、今の表情はそれに一番近い。
ルーティアにはわからなかった。なぜミラルドが、サーシャのことに限ってはこう歯切れ悪くなってしまうのか。何が、そうさせるのか。
「二人を信じるという言葉まで無かったことにしろと言うなら、それはできない相談だな」
ことさら明るく言いながら、ルーティアはミラルドに詰め寄った。
「わたしを見くびらないでもらいたいな、ミラルド殿。わたしはそんなに薄情ではない」
「……ルーティア」
「もちろん、サーシャ殿のことは誰にも言わないから安心して欲しい」
それだけ言うと、ルーティアは背を向けた。
詮索はすべきでない、と思った。きっと、ミラルドがこんなことを言い出したのには彼なりの事情があると思うからだ。
「俺はどうかしていたようだな……。妙なことを言ってすまなかった」
背中から、ミラルドが取り繕うように言う。その声は、何かまだすっきりとはしていなかったが、ルーティアはそれには気付かないふりをして、笑顔を見せた。
「そうだ、今度もう一度、森に連れて行ってくれないか? わたしはあの場所を気に入ってしまったんだ」
「……ああ、近いうちにな」
「後で行ってみたけれど、あの場所がどうしても見つからなくて」
「そう急がなくても、あの場所はお前にやるさ」
ようやく薄い笑みを浮かべたミラルドは、ルーティアの胸元に目を留めて怪訝そうな顔をする。
「ああこれは……わたしの父が、聖戦で戦死したものだから。……この国で式典が催される今年は、なんとなく特別な気がして」
胸に挿した花を指先で撫で、ルーティアは片手を軽く挙げてから背を向けた。
小走りに自分の持ち場のほうへ向かい、途中でそっと振り返る。
「――ミラルド殿」
回廊の脇に、既にその姿は見えなかった。
ルーティアが去った後、ミラルドは柱の影に凭れながら俯いていた。
喉の奥から、嘲笑と溜息の混ざったような空気が漏れる。
「……ちくしょう」
片手で頭を掻き回し、半ば絶望的な気分に陥った自分自身を冷めた意識が傍観している矛盾を、自覚していた。
そもそも、ルーティアを森に連れて行ったのは、本当にあの場所を見せてやりたかったからだ。子供の頃、自分に良く懐いていた妹――戦渦に巻かれた町で瓦礫の下敷きになって死んだ妹と、少し重ねて見ているからかもしれない。泣き虫のくせに負けん気が強くて、そういう勝気な顔が、時々驚くほど似ているように見えることがあるのだ。
だからつい、気を許してしまう。
サーシャのことを話したのは、後から思えば、きっと甘え以外の何ものでもなかっただろう。そして、今頃になってそれを取り消すなどということ自体、愚かしい。子供が思いつきで何かを口にして、自分の都合が悪くなったからあれは嘘だと言う、それとまるで変わらない。
本当は、サーシャが王宮へ来てからずっと、気持ちは揺れていた。
なぜここへ来たのかと問えば、あなたに会うためだとサーシャは笑う。そんな彼女を一人の女として愛しいと思う気持ちが無いわけではない。
――ただ。
ミラルドは、あまりにも鮮明に覚えている。
王女たるサーシャと、宮殿の一室で初めて逢ったときの衝撃を。
彼女の父親の死に際に、涙ながらに交わした約束を。
誰が何と言おうとも、サーシャは王女なのだ。今や消滅してしまった国の、しかし紛れも無い後継者なのだ。
しかし、傭兵として剣を振るい、血肉を切り、戦場を幾つも潜り抜けたこの手には、血生臭さがこびりついてしまっている。そんな生活を何年も前に断った今でも時々、生きるか死ぬかの境界線で感じる底なしの緊張感を快感として求める気持ちが、奇妙な焦りとなって身体を走るのだ。
だから、曖昧にしたまま、実はルーティア達が考えているほど、ミラルドとサーシャの仲は深いわけではない。
いいのよ、と。少し哀しげに微笑むサーシャの肩を抱いてやることさえ、罪悪感が伴う。
「どうしようもねえな、俺は」
自棄な気分で毒づいて、ミラルドは柱から身体を離した。
きっと、これから自分がしようとしていることを知ったら、ルーティアは許さないだろう。
もしかしたら、全てを失うかもしれない。
愚かなことかもしれないと、気付いていながら――それでも。
どうして、他の選択肢を選ぶことができないのだろう。
ほとんどの騎士達が晴れやかで誇らしい気分に浸るこの日、ミラルドにとってはいっそ呪わしい日になることを、彼自身は心の底で理解していた。
本式典と位置づけられている調印式は、普段は国王の謁見の間として使用されている荘厳な広間において行われる。上級貴族や国の重職にある者達を立会人としてこの儀式は行われ、その内部の様子はほとんど知らされることがない。
王宮の最も中枢にあるこの場所には、騎士達でさえ、許された者以外は立ち入ることは許されないのだった。
ルーティアが任された場所は、その中枢部から四方に伸びる回廊よりも外側の領域である。
議会場から礼拝堂までの通路には人気はない。聞こえるのは、屋根の上でさえずる小鳥の声くらいのもので、その他はまるで静寂だった。
夕刻になれば、晩餐会の会場のほうから、多少のざわめきや室内楽の演奏が漏れることがあるかもしれないが、今はまだそれには早過ぎる。
「……こちらは異常なし、と」
ぐるりと回廊を見渡し、少し離れた所に同じ部隊の騎士の姿しかないことを確認すると、ルーティアは礼拝堂に近い通路へと身体を反転させ、そのほうへ数歩ばかり移動した。
さっと視線を礼拝堂側に向け、その途中で視界に入った人影に、驚いて視線を戻す。
「サーシャ殿っ?」
思わず声を上げたルーティアは、慌てて口を押さえ、周囲を見回した。
幸い、他の者が気付いた様子はない。
ルーティアの驚きをよそに、サーシャはいつもと変わらない柔らかな表情で、人影のない通路に立っている。いつか鍛錬場でもそうだったように、気付いてもらえることを確信していたように、微笑みを浮かべているのだ。
「ごめんなさいね、ルーティアさん。お仕事の邪魔をしてしまって」
「それよりも、どうしてこんな所へ? 今日は晩餐会の準備で忙しいはずではないのか?」
「ええ、それはそうなのだけれど、少しだけ休憩をいただけたから」
いつもの白いエプロンとは違う王宮の使用人姿をしたサーシャは、涼やかに微笑み、小さく首を傾げるような仕草をした。
「ここでお話をしていたら、迷惑?」
「ああ……いや、少しなら」
柔らかな口調の割に何か断れないような空気さえ感じて、ルーティアは口ごもりながら応じる。
「もしかして、嫌な目に遭ったとか?」
きっとそんな話ではないだろうとわかっていながら問い掛け、ルーティアはサーシャを人影の無い礼拝堂の脇に誘導した。
その質問がわざとであると見透かしているように、サーシャは小さく首を振る。
「サーシャ殿は、時々すごいことをやってのけるんだな。この広い王宮内で、わたしの居所を突き止めるなんて」
「ここへ来る途中、別のかたに王宮のこちら側だと聞いて……後は、勘だわ」
なんでもないことのように応じて、サーシャは珍しく、その表情から微笑を消し去った。
「ルーティアさん、お願いがあるの」
「……珍しいな。サーシャ殿がわたしにそんなことを言うなんて」
「ミラルドを止めて。あの人、何かを思い詰めているわ」
その瞬間、ルーティアは鼓動がどくんと跳ねる音を聞いた。それは、朝からずっと燻っていた不安が決定付けられたことへの、強い衝撃とわずかな諦めだったかもしれない。
「……意味が……わからないな。ミラルド殿が、どうして……?」
「ルーティアさん」
動揺を誤魔化そうとするルーティアを澄んだ瞳で捕らえて、サーシャはルーティアの両腕を優しく掴んだ。
「ミラルドから聞いたのでしょう? わたしのこと」
「……サーシャ殿……」
「ルーティアさんは嘘がつけない人だわ。わたしには、わかるの」
まるで憐れむような、それ以上に労わるような目で宣告されて、ルーティアは一切の抵抗が無意味だと悟った。
同時に、ふわりと空気が揺れた気がして、サーシャに抱きしめられたことを遅れて知った。香油などつけていないサーシャの、それでもかすかに香る清々しい匂いに、不意にルーティアは泣きたくなるような胸の痛みを覚えて、立ち竦む。
「――ごめんなさい。あなたにまで、きっと苦しい思いをさせてしまったのね」
ルーティアは何も答えられず、まるで子供のように頭を振ることしかできない。
それがルーティア自身、不思議で――そしてなんとなく、ぼんやりと、頭の端で思った。もしかしたら、サーシャの放つこういう不思議な存在感こそ、彼女が王女たる証なのかもしれない、と。
そして、少し冷静な思考の一角で疑問に感じた。サーシャが滅びた国の王女なら、自国を滅ぼした諸国の王族達の晩餐をどんな想いで見るのだろうか、と。
サーシャの綺麗な若草色の瞳からは、どんな憎悪も、強過ぎる信念も、感じられない。それはあまりにも自然体で、だからそういう意味では、サーシャの考えていることがわからなくなる。ミラルドが以前に言っていた「わからない」という意味は、こういうことなのだろうか。
いや、こんなことを邪推するのは、真実を知りたいがために剣を取った――良く言えば正義感が強く、悪く言えばひどく利己主義的な自分だからなのかもしれない。
やがてそっと身体を離したサーシャは、ルーティアの心の内が伝わってしまったのかと思うような、寂しそうな微笑みを浮かべた。
「きっと不思議に思うでしょ? わたしがどうしてこの仕事を引き受けたのか」
「それは……」
「最初は迷ったの。でも、こういう経験は貴重だと思ったのよ。……本当のことを言うと、一度は身近であったはずの世界に憧れたからなのかもしれない。ほんの少し、懐かしさを感じてしまったことを否定はできないわ。でも……でもねルーティアさん、わたしがここへ来たのは、ミラルドを愛しているからよ。王族だった過去に未練などないわ」
一度目を伏せ、そしてはっきりと告げるサーシャは、ルーティアが知るどの女性よりも崇高な存在に見えた。
そしてルーティアは、突如、形振り構わず懺悔したい衝動に襲われた。
間違いなく、サーシャは知っているのだ。彼女に向けられた謂れのない疑惑――愛する者から向けられた遣り切れない想いも、当然、ルーティアの中で一時期とはいえ育っていた赦しがたい妄想も。
「サーシャ殿、わたしは……」
「ミラルドは、わたしの父のお気に入りだったの」
言い募るルーティアを目線だけで制して、サーシャは柔らかく微笑んだ。
「兄が戦死してしてから、父は生き残ったわたしを溺愛したわ。傭兵だったけれど腕の立つミラルドを、わたしの側に常に付き従わせて。……あの人は、息を引き取る間際の父にわたしのことを頼まれたのよ。だから、わたしが側にいることを許してくれるだけ」
サーシャは淡々と話しながら、少し遠い目をする。
「ミラルドは、本当はわたしを働かせることも嫌なの。だから、わたしがここへ来る前は、ここでのお給料のほとんどを送って寄越していたわ。……わたしがそんなこと、望んでいないとは思わずに」
「……で、でもそれは、ミラルド殿なりの想いがあるからで……」
「もちろん、彼の愛情を感じているわ。あの人なりに、わたしを大事に想ってくれているの。でもルーティアさん、あの人の中では、わたしはまだ王女なのよ。わたしがミラルドを選んだ時点で、そんな肩書きは捨て去ったのに……。笑ってしまうでしょう? 財産の全てを失っても、古着を着て住み込みで働く身になっても、あの人の目にわたしは、ただの女としては映らないんだわ」
自嘲するでもなくおどけるでもなく、サーシャの言葉はただ、柔らかかった。
ルーティアはもう何も言えずに黙るしかなく、ただ悲しかった。ルーティアの知るミラルドも、そしてサーシャも、お互いのことを一番大事に想っているのに、想い合うだけでは通じないのだ。
「あなたがわたしに謝ることなんて、ひとつも無いのよ。だから、そんな顔をしないで」
そう言われて初めて、ルーティアは自分がとても情けない顔をしていることに気付く。慌てて表情を改めたが、成功したかどうかはわからなかった。
「ただ、あなたには知って欲しかった。ミラルドの行動はいつも、あの人自身の私利私欲のためではないって」
「……ミラルド殿は、一体何を……」
ルーティアが漏らした呟きに、サーシャはわからない、と目を伏せる。そして訪れた沈黙の後、彼女はするりとルーティアの側から離れた。
「……わたし、もう戻らなくちゃ」
「あ、ああそうだな。こんなところで話し込んでいるところを見つかれば、わたし達は二人とも、ただでは済まない」
ルーティアは無理に笑顔を作ると、来たときと同じように周囲を伺いつつ、サーシャを促して通路まで戻った。
「わたし、あの人を孤独にはしたくないの。だからルーティアさん、ミラルドのことを見放したりしないでね」
「そんなこと、当たり前だ」
いつか――そう、ミラルドにも同じようなことを言った。そのときと、ルーティアの気持ちは何も違っていない。
「わたしは、ミラルド殿もサーシャ殿も好きだから。二人には、きっと幸せになってもらいたいんだ」
「ありがとう、ルーティアさん。あなたはわたし達にとって、一番大切なお友達よ」
心から嬉しそうに笑って、サーシャは小走りに去っていく。
その姿を見送るルーティアの心は、静かに熱を帯びていた。何かを植えつけられたように胸の奥が疼き、そして熱い。
思考が凄い勢いで回転し、幾つもの可能性が浮かぶ。そして思い至ったひとつの可能性に、ルーティアは弾かれるように顔を上げた。
「……ミラルド殿を探さないと」
既にサーシャの姿はない。それを確認する間にも、焦れた身体はほとんど駆け足に変わる。
同僚の騎士が何事かと問い掛けたが、それを適当な言葉でかわし、ルーティアは思い当たった場所に向かって走り出した。
今朝のミラルドの気がかりな態度や、サーシャの柔らかくて消えてしまいそうな微笑みが、目の前にちらついて離れない。
ルーティアは、この悪い予感が外れてくれることを強く祈った。
上級貴族や国の重職にある者達を立会人とする調印式が終了すれば、夕方前には、賓客達は晩餐会会場へと移動することになっている。
第一部隊と行動を共にしているエルアレクは、謁見の間へ続く絨毯の敷き詰められた廊下に立ち、その三階の窓から晩餐会の会場となる離れの建物を見下ろしていた。
自然の小川を模した水路の流れる庭を挟んで建つ館は、数代前の国王の余興で造られたもので、その屋根と幾つもの小窓に施されたステンドグラスの色調から、翡翠宮などというわかり易くも単純な呼び名がつけられている。本来は、王宮内に造られた王の別宅という意味合いがあった建物だが、今では国賓を迎えるための場所として定着しているのだった。
エルアレクの眼下では、晩餐会と併せて予定されている酒宴のために、装飾用の花々が運ばれているところだった。白い小振りな花に混じって、目を惹くほどに鮮やかな濃い水色の花びらが見える。
「空色の花……か」
確かカーシェスがそんなこと言っていたと思い出して、エルアレクは目を細めた。
若い植物学者が誕生したきっかけは、十歳になる頃までは病弱で外を走り回ることのできなかった弟に、毎日のように草や花を見せて外の匂いを届けようとした姉の働きが少なくないと、エルアレクは思っている。もっとも、そのルーティアは未来を予想していたわけではないし、彼女自身がそんなに花に詳しいかというと、そうでもなかったりするのだが。
「お前に花を愛でる趣味があるとはね」
「……脅かすな」
不意に耳元で声がして、エルアレクは意地の悪い旧友に抗議の溜息を漏らす。
「他人が側に寄ったことも気付かぬほど、何にご執心かと思ってね」
「俺が花に注目することに、納得がいかないとでも?」
「そんなふうに聞こえたのだとしたら、お前は自分が思っているよりも捻くれているぞ」
余裕の笑みを浮かべるジェイルは、窓の外を肩越しに一瞥して、廊下のほうへ向き直った。
「まあ、色鮮やかな花よりは、俺は生身の花のほうが好みだが。しかも、一見すぐに折れてしまいそうに見えつつも、しなやかに風雨に耐える強さを持っているとなおさら」
「……なんだ、それは」
「お前にとっての花が陽の光の下で凛々しく咲き誇る花だとしたら、俺はその花に護られて育った可憐な一輪のほうが好みだという意味さ。昨夜の舞踏会で、そういう花に出会ったところでね」
わざわざ回りくどい言い回しだが、ジェイルが誰のことを言っているのかわからないほど、エルアレクは鈍くない。
「まさかお前……」
「この手で手折ってみたいと思うのは、本気になった証なのか……それとも一夜の夢の名残か」
「ルーティアの前でそんな軽口を叩いてみろ。ただでは済まんぞ」
場末の吟遊詩人のような台詞を吐くジェイルを見遣り、エルアレクは呆れながら吐息する。
この旧友が決して軽薄で遊び好きな男ではなく、むしろ本質はその逆だと知ってはいるが、時々飛び出すこの種の冗談を一緒に楽しむ趣味はない。
「やはり、姉を懐柔するほうが先決か」
首をすぼめるジェイルがどこまで本気なのか判断しかねて、エルアレクは渋面のまま、再び窓の外に視線を向けた。
その瞬間、視界に予想外の姿を発見して、思わず身を乗り出す。
白い騎士服姿の人物が、翡翠宮とは逆の方向から駆けてきたのだ。
「……ルーティア?」
「重症だな、エルアレク。任務中に幻想まで見るようになったのか?」
今度はジェイルのほうが呆れた声を出したが、自ら窓の外を覗いた直後、声色が変わった。
「おい、あれから先は許可された者以外は立ち入り禁止だ」
ルーティアの姿は、エルアレクの立つ窓のすぐ下を通り、人目を忍ぶようにして中庭へ続く通路を横断すると、そのまま茂みに姿を消したのだった。そのまま行けば、賓客達がこのエリクシュル国で過ごすために用意された棟へと向っていることになる。
「見つかれば規律違反どころの騒ぎじゃない。たとえ緊急事態であったとしても、処分は免れないぞ」
私語も立派な規律違反なのだが、ジェイルは自分達のことはすっかり棚に上げている。
「……ジェイル、俺も処分を受けることになりそうだ」
「お、おいエルアレクっ」
慌てるジェイルを無視して、エルアレクは突如廊下を走り始めた。
「馬鹿、お前まで……!」
何かを言いかけるジェイルの声は、エルアレクの耳には届かなかった。
ただ、直感していたのである。
何かがルーティアの身に起ころうとしている。――いや、起こってからでは遅いのだ。
エルアレクは階段を駆け下りると、ルーティアの消えた方向を目指して、建物を飛び出していった。