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大陸暦520年――エリクシュル国、王都ハーザ。
四季のあるこの国において、季節は、春が終わり初夏に移り変わろうとする、その狭間にあった。
甘い香りを乗せた軽やかな風が、若々しい爽やかなそよ風へと転じるこの時期の、まだ陽の高くないこの時間帯が、ルーティアは好きだった。
礼拝堂の壁を左の視界に捉えつつ、庭園内の低い立ち木の脇に腰を下ろす。白い騎士服の上着を肩から羽織り、ブーツの両足を投げ出して両手で上体を支えつつ空を仰いだ。
文句なしの晴天である。
頭の上を飛んでいく蝶を目で追いながら頭をぐるりと動かした彼女は、礼拝堂を視界に捉えると、首を左に傾けた不自然な体勢のまま、小さく笑った。
王宮の内部に造られた礼拝堂の内部には、今頃、厳粛な雰囲気と緊張感が混ざり合って漂っているに違いない。その独特の気配が、建物の外にまで伝わってくる気さえする。
礼拝堂では、新しい王宮騎士の叙位式が、まさに行われている最中なのだった。従騎士の中から選ばれた者達が、騎士としての誓いを立てるための儀式である。
「……三年なんていうのは、意外と早いな」
十七の歳で叙位式を迎えてから、丸三年。
ルーティア・ロウズは王宮騎士唯一の女性でありながら、周囲の大半の予想に反して、辞めることなくその任に就いている。そればかりか、彼女を女だからと甘く見た結果、痛い目に遭った者も少なくない。
ルーティアは大きく伸びをすると、今度は素晴らしく手入れの行き届いた庭園へ視線を投げた。
こんな緩みきった態度を頭の固い幼馴染みに見つかれば、小言ひとつでは免れないだろう、などと密かに想像する。大股で歩み寄ってくる顔は鬼気迫る如く真剣で、若い娘達に甘い顔だと囁かれているのが嘘に思えるくらい、くっきりと眉間に皺を刻んでいるに違いない。
――と、そこへ聞き慣れた声が上がった。
「ルーティア!」
立ち木の向こうに想像違わぬ顔を発見し、ルーティアはつまらなそうに口を尖らせる。
「なんだ……もう見つかってしまったのか」
「なんだ、ではない。ここは王宮の中なのだぞ。仮にも王宮騎士が、こんなところで呆けていて任務が務まるか」
「今日、わたしは非番だ。それに、美しい庭園も愛でる者があってこそじゃないか」
「そういう問題ではない」
銀髪の幼馴染みは呆れきった態度を隠しもせず、両手を腰に当てながら、大仰に溜息をついた。
「なあ、エルアレク?」
「……何だ?」
律儀に返事をするのは、それでもこの青年が本気で怒っているのではないという証拠のようなものである。
ルーティアはのんびりと立ち上がると、礼拝堂のほうを指先だけで軽く示してから、頭ひとつ分高い幼馴染みを見上げた。
「あの場所では皆、騎士としての誓いと共に、己への誓いを立てるものだ。――三年前、お前自身は、あの場所で何を誓った?」
「ああ……今日は叙位式だったな」
エルアレクはルーティアよりも二つ年上だが、王宮騎士となったのは同じ三年前である。この青年の実力は当初より同期の騎士達の群を抜いていて、その実力を考慮すれば、十九歳にしての叙位はかなり遅いものだった。
「お前のことだから、表も裏も無く、忠義のためなら命を投げ出すことも厭わぬという誓いを立てたに違いないな」
揶揄するように、ルーティアは笑う。実際、この男の生真面目さ、実直ぶりは折り紙つきで、それを真顔で肯定しても全く不思議はない。
しかし、対する反応は、少々意外なものだった。
「それは、誓いと言うよりも我々王宮騎士の義務だ。本当の誓いは、それぞれの者にとって、もっと奥深い場所にある」
「……お前がそう言うなら、なるほど……そんな気がする」
「そんなことよりも、だ。厳粛なる叙位式が行われている礼拝堂の側で、既に騎士たるお前がだらしなく遊んでいるというのは感心しないぞ。部隊長に見つかれば、何を言われるか」
「結局は小言に落ち着くのか。この石頭め」
やれやれと肩を竦めつつ、ルーティアは横髪を掻き上げる。この銀髪の幼馴染みは、とにかく融通が利かない。顔が柔らかい割には言うことが固すぎる、と本当のことを言えばまた叱られるに決まっているが。
それでも、他の者には無口だとすら称されるこのエルアレクが自分の前では饒舌なほどに口やかましいという事実を、心を許しているが故だと理解はしているルーティアである。
「エルアレク、お前も今日は非番だろう? どうせ暇なら遠乗りに付き合わないか?」
たとえ非番であろうとも、王宮内にあるときは騎士服のボタンのひとつ緩めることがない、この歩く模範生は、「どうせ暇」などという言い草に、ぴくりと眉を跳ね上げる。
「嫌か? 嫌なのか? まあ、嫌なら仕方ない。気にするな。わたし一人で行くからな」
相手が口を開く前に畳み掛けるというのは、対エルアレクに限っては最も有効な手段だ。
「……誰も嫌とは言っていないだろう」
「なら、行こう。よもや、わたしの誘いでは不満というわけでもないだろう?」
エルアレクの襟首を力任せに引き寄せて、ルーティアはにっこり笑う。
銀髪の青年は、声もなく肩を落とす。
――勝敗の行方など、最初から決まっているようなものだった。
王宮は、王族の住居区はもちろんのこと、礼拝堂や図書館、王立学院を始め、貴婦人の集うサロン、劇場、騎士達の宿舎や鍛錬場などで構成されている。それぞれの建物の間には庭園や広場が設けられ、ひとことで王宮と言っても、そこだけで街の縮図といった様相を呈しているのだった。
これらの多くが、大陸聖戦などと呼ばれる先の戦の後に建築されたものである。聖戦で滅んだ国もあれば、繁栄した国もある。この国はどちらでもない――強いて言えば、国内での戦乱が始まる前に戦を終わらせたために、貧困に陥ることもなければ大国に取って代わる国力を得ることもなかった。結果、大陸全体を見渡したときには比較的裕福な国となったという、ルーティアに言わせれば「それだけのこと」だった。
「遠乗りというと、森の先まで行くか? 昼には着けるだろう」
「そうだな。この時間ならば霧で迷うこともないだろうから」
ルーティアは機嫌良く、思案顔のエルアレクに応じる。こういった場合、どこへ出発してどれくらいの時間を過ごせばいつ頃までには騎士宿舎に戻れる、などという計算を働かせるのは、大抵エルアレクの仕事だった。ルーティアにそういう能力が欠けているというより、これはいつの間にやら出来上がってしまった習慣のようなものだ。
敷地内には幾つもの通路があるが、礼拝堂から厩舎のある宿舎のほうへ行くには、王立学院と図書館の間を抜ける道が一番早い。
「今日は、あまり遅くならないうちに戻らなければ。夕刻過ぎには、新米騎士との対面式がある」
「対面式というよりも歓迎会だろう、あれは」
「俺は、そういう軽々しい言い方は好まん」
「ああ、そう」
実にくだらない会話をしているにも関わらず、軽やかな足取りのルーティアと背中に板でも入れて歩いているかのようなエルアレクには、学院生や騎士見習い達の視線が集中する。彼等の視線には強い憧憬とささやかな畏怖の念が混ざり合っており、皆、遠巻きに二人を見送りながら、目を輝かせているのだった。
王宮騎士は、その道を目指す者にとっては目指すべき場所であり、学問で身を立てようとする者にとっても、少なからず憧れの対象となる。二人も、数年前まではそうだった。
「相変わらず人気者のようだな、エルアレク」
「何を言う。あの者達はほとんどお前の支持者だぞ」
妙な擦り合いをしつつ、学院の中庭の脇を通りかかる。そこで何気なく花壇のほうを見たルーティアは、分厚い本を広げながらしゃがみ込んでいる小柄な少年に気付いて足を止めた。
「熱心だな、カーシェス」
その声に、ルーティアと同じ亜麻色の髪をした少年が、弾かれたように顔を上げる。
「姉さん!」
驚きの表情を浮かべた少年は、瞬時にそれを笑顔に変えて、二人のもとへ駆け寄ってきた。おはようございます、と礼儀正しく挨拶することも忘れないが、屈託の無い笑みはまだ幼さを残している。
「また何かの研究でもしているのか?」
「この間植えた新しい花の種から、初めて芽が出たところなんです。僕の予想だと、綺麗な空色の花が咲くはずで――そうだ、もしも咲いたら姉さんにも種を分けてあげますよ」
「わたしは種よりも花のほうが良い。うまく育てる自信が無いからな」
ルーティアは笑いながら、寝癖のついた弟の髪を撫でつけてやる。どうやら今朝は新しい花が気になって、身なりに構う余裕もなく飛び出してきたらしい。
身体があまり丈夫でないカーシェスは、姉とは違う道を選び、学院では優秀な成績を修めると同時に、既に学者の卵として活躍しているのだった。
「姉さん、今日は非番なのでしょう? 屋敷には顔を出してくれないんですか?」
「いや……まあ、今日はこれから出掛けるんだ。夕方からは別の用事が――なあ、エルアレク?」
「……そうですか。でも、僕はこうして会えるけど、フィリア姉さんやばあやは、あまり王宮に来る機会はないし……僕だって、たまにはゆっくりお話ししたいんです」
カーシェスは、少しだけ拗ねたような顔をした。この顔にルーティアが弱いということを知っているわけではないだろうが、まったく効果的にそれを繰り出す達人である。
「わ、わかった。次の休みには必ず戻るようにする。それなら良いだろう?」
「本当に? 約束ですよ? エルアレクさんも、聞いたでしょう?」
「ああ、しかと」
それまでは無言を決め込んでいたくせに、こういうときばかり、エルアレクは至極真面目に頷く。
ルーティアはそんな幼馴染みの左腕をカーシェスにわからないように抓ると、何事も無かったように笑みを浮かべた。
「じゃあな、カーシェス。熱心なのは良いが、無理はするなよ。皆にもよろしく伝えてくれ」
「姉さん達も気をつけて」
手を振るカーシェスに右手を挙げて応えながら、ルーティアは再び宿舎に向かって歩き出した。
「遠乗りなど、いつでも行けるではないか」
顔をしかめて左腕を擦りながら、エルアレクが非難めいたことを言う。
「たまには帰ってやらないと、屋敷の者も心配するのではないのか? カーシェスもああ言っているし――」
「お前はわたしと出掛けるのは嫌なのか?」
エルアレクの意図をわかっていて、ルーティアはわざと意地悪く問い掛ける。
「だから、嫌ならわたし一人で行くと言っているだろう。お前こそ、実家にはご無沙汰じゃないか。母君は寂しがっておいでだろうに。帰りたいなら遠慮せずに行くと良い」
「ルーティア、お前はそうやってすぐにはぐらかす。悪い癖だ」
「お前はいつも、わたしに干渉しすぎる。それも悪い癖、か?」
「ルーティア!」
意外と気の短いエルアレクは、焦れたような声を上げてルーティアの前に回り込んだ。
「……冗談の通じないやつだな」
肩を竦めて、ルーティアは長身の銀髪男を軽く押し退ける。
「わたしが帰らないのは、わたしの我侭だよ――わかっている、そんなことは。わたしは皆が思うほど強い意志の持ち主ではないんだ。王宮騎士を務めることに不服は無い。ただ……何と言うかな、毎日繰り返される単調で平穏な日々……そういうものに、慣れてしまう自分が怖い」
「確かに、ここのところは目立って我々が動くような事件は無いが……俺は、お前が惰性や慣れに溺れて緊張感をなくすような者だとは思わんぞ」
「それは、お前の買い被りだ。いや……お前が王宮騎士たる男だからさ。わたしのように、何かが起こって欲しいなどと心の中で願っているような者は、そもそも騎士を志願するべきでないんだよ」
少々自虐的な言い回しをしたルーティアは、直後、慌てて笑顔を取り繕った。
こんなことを口に出すこと自体、自分らしくないと思い直す。エルアレクは、ルーティアが騎士を目指した理由を知っている数少ない人間だ。弟や妹にも伝えていない事実を、知ってくれている者がいることは心強い。しかし、下手に弱音を吐くようなことがあれば、辛いならばやめろと言い出すに決まっている。
屋敷に帰らないのは、自分が最も気を休めることのできる環境に身を置きたくなかったからだった。
「……カーシェスとも約束した手前、次は戻るさ。いい加減に顔を見せてやらないと、フィリアなどは抗議の手紙を寄越しかねないからな。わたしのことを心配してくれるのはありがたいが、わたしとしては、早く何処ぞの殿方と婚約でもしてくれるほうが嬉しい」
「フィリア嬢というと、舞踏会の華と噂されているのではなかったか?」
「求婚の申し込みが幾つか来ているんだ。それをフィリアは片っ端から断っているのさ。何が気に食わないのか、殿方には興味がない、などと言っているのだからな。我が妹ながら、あれは時々頑固で手に負えない」
いつの間にか本気のぼやきになってしまい――いや、なんだか落ち込んでしまいそうで、ルーティアは苦笑する。
「こんな話はもうやめよう。せっかくの遠乗りなのに、気分が台無しだ」
勝手に告げて、足を速めた。
軽く上体を反らせば、太陽がさっきよりも高い場所に見える。これから準備をして出発し、森には昼頃に着いたとしても、のんびり湖のほうに足を伸ばす余裕くらいはあるだろう。
「食堂に行って、何か包んでもらおうか。森の中での昼食というのも悪くない」
言いながら後ろを振り向いて、ルーティアは首を傾げた。
エルアレクが何やら難しい顔をして、こちらを見ていたのだ。切れ長の青い瞳に浮かぶ感情は不機嫌とは少し違うようだが、悩んでいるというよりは、腹を立てているというようにも見える。
「お前は、女を捨てたのか?」
「――は?」
唐突な質問に、ルーティアは間の抜けた声を出した。
エルアレクといえば、そんな突拍子もない質問を投げたとも思えないほど、真剣な顔をしている。
「お前は……確かに剣の腕は立つし、乗馬の腕前も並みの男よりも上だろう。だが、だからといっても、お前は女だぞ。俺は、お前が自分の幸せを顧みないことが、不安でならない」
何をくだらないことを、と喉まで出た台詞を、ルーティアは声に出すことはできなかった。
エルアレクは、薄々気付いているのだろう。自分とは全く違う少女らしい少女として育った妹――三つ年下で十七歳になるフィリアに、自分自身の女としての部分を託そうとしている、この屈折した姉心というやつを。
ルーティアは、心配性の幼馴染みにことさら明るく答えるしかなかった。
「わたしが女であることは、紛れもない事実だよ。ただ、わたしが自分で望んで今の道を選んだというのも事実だ。舞踏会だのドレスだのというものには、興味もない。お前の言う通り、並の男ではわたしの相手は務まるまいよ。そもそも、こんな女を選ぶ男などいるものか」
「……そんなことはわからないではないか」
「わたしのことよりお前自身はどうなんだ? 銀髪の騎士殿は、巷の娘達から大人気だと聞くが。ああそうだ、お前にならばフィリアをやってもいい。お前さえ乗り気なら、わたしが妹を説得してやるぞ」
「……もういい。訊いた俺が馬鹿だった」
言うなり、エルアレクは猛然とルーティアを追い抜いて、すぐ近くまで迫った厩舎へと歩いて行ってしまう。
「なんだよ、もう」
振り向きもしないエルアレクに悪態を吐きつつ、ルーティアは後を追い駆ける。
時々、この幼馴染みのことが理解できない。それこそが、自分が女である理由のような気がして、少し癪だった。
市壁に囲まれた王都の中央に、王宮はある。宮廷からは広い石畳の道路が八方に伸び、その道路の間を細い路地が張り巡らされている。王宮に近い場所には貴族の屋敷が立ち並び、離れるほどに庶民の生活の場所となっていく。
街をぐるりと取り囲む壁はここ数年の間に改築が進み、かつて見る者に圧迫感を与えるほどであった姿は、王都の象徴としての静かな佇まいに変わりつつあった。
壁には、四つの出入り口がある。そのうちのひとつ、西側の門から、二人の乗った馬は外へ出た。
王都の外側に広がる景色を色でたとえるなら、土色と緑である。道は石畳から土に変わり、近隣の町へと延びている。農地の間を駆け抜け、土手を越えれば草原が広がり、その道なき道を走れば森へと辿り着くのだった。
「それっ」
額に星のある栗毛の愛馬を巧く操りながら、ルーティアは細い小川を飛び越えていく。
最初は手綱を握るだけで危なっかしかったとは思えない、とエルアレクはこっそり思う。剣術にしてもそうだ。剣の扱い方さえあやふやだった少女が、今では王宮騎士の中でも上級の部類に入る腕の持ち主になるなど、誰が予想しただろう。
エルアレクは、ルーティアのことをずっと幼い頃から知っている。父親が共に将軍の地位にあり、また旧友同士であったために、互いの家の行き来も多かったのである。今に思えば、ルーティアの父親であるロウズ将軍は、母親を早くに失った子供達を不憫に思い、寂しい想いをさせないよう、尚更子供達にとって過ごしやすい環境を用意しようとしていたのかもしれない。
突然、長かった髪をばっさりと切り、剣術を指南してくれと言って現われたルーティアを、エルアレクは絶望したような気持ちで眺めたのを覚えている。あの長い髪を、少年の頃のエルアレクはとても好きだったのだ。
――しかし今は。
今は、短い髪も良く似合うと思う。
健康的に日焼けした肌には、光を受けて薄茶色に透ける髪が軽やかに跳ねる様子が良く似合う。あの髪はきっと太陽の香りがするに違いないと、そんなことを思うようになったのはいつの頃からだろうか。
「森に入ったら休憩しよう。千年樹の辺りが良い」
「ああ。あそこなら、近くに湧き水の出る場所があるからな」
「野苺は、もう実をつけているだろうか?」
「ちょうど食べ頃かもしれないぞ」
こういう会話だけは、子供の頃からほとんど内容に変化がない。ルーティアは昔から森が好きだし、そんな彼女に付き合わされたお陰で、エルアレクも随分詳しくなったと言える。
エルアレクは、半馬身ほど先を走るルーティアの顔を盗み見た。
真っ直ぐ前を見据える瞳には、今は嬉々とした表情が浮かんでいる。まるで、何かに熱中している子供の顔だ。
しかし実際は、お互いに子供ではないのだ――もう。
父親の死に疑問を抱き、剣を覚え、王宮に入り込み、そして真実への手掛かりを探そうとしているルーティアの信念は、きっと髪を切ったときから変わらない。
「……変わらなさ過ぎる」
駆け抜ける風の音に紛れるように、エルアレクは思わず恨み言を吐いた。
変わらずにいられるルーティアに尊敬の念さえ抱きつつ、それ故に、自分の抱く感情が酷く浅ましいものに思えてしまう。彼女のある種の鈍感さに救われていると感じながら、苛立っているのもまた事実なのだ。
「あっ」
突然、ルーティアが声を上げた。
「エルアレク、あそこ……あれは人ではないか?」
「なんだって?」
緊張したような声に、エルアレクは慌てて自身の思考の海から飛び上がる。
ルーティアの指差す緑の草原の先には、確かに人らしき影が倒れていた。この距離では、男か女か、老人か子供かさえわからない。
二人は同時に馬の腹を蹴り、その人影に向かった。
やがてそれが、若い女性であるということがわかった。金糸のような長い髪は強い巻き毛で、周辺の若草にも絡まり、彼女自身の顔も覆っている。身につけている緋色の服は、少なくとも近隣の都や村のものではなさそうだった。荷物らしきものは、抱きかかえている布袋ひとつである。
「おい、しっかりしろ」
馬から飛び降りたルーティアは、女性の顔に掛かる髪を払い、その頬を軽く叩く。
「……う……ん」
反応は、やや遅れて訪れた。しかも予想外なことに、彼女は煩そうに眉を潜め、そのままごろりと横に転がったのだ。
「まさか……寝ているのか?」
ルーティアのこの質問に、エルアレクは即答できなかった。しかし、女性には一見して外傷は無く、その上顔色も悪くない。ここが、周囲に何も無い草原の真ん中であることを前提としなければ、眠っているという表現が一番正しいように思える。
「……見る限りは……恐らく」
自信なく応じると、ルーティアはお前もそう見えるか、とばかりお手上げの仕草をして、今度は女性の肩を揺らした。
「おい、起きろ」
二度目の反応は、早かった。女性はぱちりと目を開けると、寝転がったままでまずルーティアを見、そしてエルアレクを発見し、最後に勢い良く上体を起こした。
「あら……わたし、寝ちゃったのね」
「――の、ようだな」
応じたルーティアは、楽しそうな顔をしている。あっけらかんとした彼女の態度に、どうやら一目で好印象を覚えたらしい。
「こんなところで眠りこけているとは、良い度胸だな。わたしは死人を発見したかと思って慌てたぞ。焚き火をした形跡はないが……まさか、ここで野宿でも?」
「違うわ。今朝早くに、遠くの村から来たのよ。今日はお天気も良いし、空を見上げて歩いていたら、つまずいて転んでしまったの。もう、足が痛いのなんのって……それでまあ、草は気持ち良いし、休んでから行こうと思ったら寝ちゃったというわけ」
この説明にエルアレクは唖然としたが、ルーティアはいよいよ楽しそうに、声をあげて笑った。
「わたしはルーティアという。こっちの無愛想なのがエルアレクだ」
「サーシャよ。わたしの国の古い言葉で草原の子っていう意味」
にっこり笑って、女性――サーシャは自己紹介する。
彼女にはぴったりの名だと、エルアレクは思った。草原で眠り込んでしまうところもそうだし、何より瞼を開いた彼女の瞳は若草色だったのだ。
サーシャは、これから王都に行くのだと言った。そこに、知り合いがいるのだという。
「わたしの夫になる人なの」
何の恥じらいも躊躇いもなく、彼女は告げる。
「相手の男は、同じ国の出身者なのか?」
「いいえ、同じではないわ。でもそうね、似たようなものよ。わたし達は亡国の民――母国喪失者だから」
ルーティアの踏み込んだ質問にさらりと応じ、サーシャは微笑んだ。そして彼女は荷物を手繰り寄せ、立ち上がる。
「起こしてくれてありがとう。わたし、もう行かなくちゃ」
「王都に行くのであれば、送って差し上げるが?」
思わず、エルアレクは申し出た。ちらりとルーティアを見ると、同意するように頷いている。
「ここから徒歩だと、まだしばらくはかかる。昼間のことだから女性の一人歩きが危険だとは言わないが、我々としてもそのほうが心苦しくない」
「ご親切に、どうもありがとう。でもほら、足ももう痛くないし、大丈夫よ。何よりこんな綺麗な草原を、一気に駆け抜けてしまうには惜しいわ」
サーシャは笑いながら、縮れた長い金髪を器用に束ねる。言い終わる頃には、何やら木の棒のようなもので髪を留め、すっきりとしたまとめ髪に仕上がった。そうすると、同年代に見えた彼女が、ずっと年上に見える。
「あなた方とは、きっとお友達になれそうね。またお会いできるのを楽しみにしているわ」
平然とそんなことを言い残し、サーシャは軽やかに身を翻す。
エルアレクとルーティアは、どちらからともなく顔を見合わせた。
「不思議な人だな」
「まったく」
互いに言い合いながら、少しずつ離れていく背中を見送る。
「……亡国の民、か」
やがて、ルーティアが苦笑交じりに呟いた。
「あんな風に何気なく言われると、どきりとするよ。いつだったか……ミラルド殿がそんな風に自分のことを言っていたのを思い出した」
「ああ……確か、あの人は傭兵出身だという話だな」
努めて何気なく、エルアレクは応じる。
ミラルドというのは、王宮騎士の中でも異色な人物である。実力に関しては、周囲同様にエルアレクも認めるところだが、どうにも苦手なのだ。本音を言えば、その男のことをルーティアが気に入っているという事実が余計に面白くないという事実も、あるにはある。
「俺達もそろそろ行くか」
促すように声を掛けると、ルーティアは愛馬の手綱に手を掛けながら、小さく笑った。
「彼女とは、またどこかで会える気がする。なんとなく……会えたら良いと思う、そんな人だ」
ルーティアの予感が正しかったということは、この日の内に判明する。サーシャは、王宮騎士の宿舎に併設された食堂に雇われることが決まっていたのだ。
二人がそれを知り、思わぬ再会に驚くことになるのは、宿舎に戻った後のことである。