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光の刻印  作者: 叶 響希
第一部
12/49

11

 王宮が見せる顔は、平素とまるで変わらない。

 しかし、リンバーク国へ王宮騎士の編成部隊派遣が決定したことに対する、シュラン将軍の強硬姿勢への懸念派と賛成派の対立、大多数の日和見主義達の挙動不審な行動とが入り混じって、中枢部では不透明な混乱が尾を引いている。

 編成部隊に組み込まれ、これから十五日後にはこの地を旅立つこととなった王宮騎士には、それぞれ三日から五日程度の休暇が与えられることになった。家族や恋人と過ごすために帰郷する者、休暇を返上して残務処理に走る者など様々だったが、騎士達には表立った動揺は見られない。

 休暇の使いかたとしては後者に近い選択をしたジェイルも、心の中は穏やかだった。

 祖先は樹海の近くに領地を持っていたものの、今では彼の実家は王宮近くにある。代々騎士の家系にある旧家にあっては、家の者も皆、今回のことを喜びこそすれ悲しむ者はいない。したがって、休暇の全てを実家でのんびり過ごすなどということは、ほとんど無意味なのだ。

 それでも、まだ朝露の残る庭園をこうして歩いているのは、しばらくの別れを残念に想う相手が彼にも存在するからである。

「どうやら今朝の君は、あまり元気がないようだ」

 隣を歩く少女を見遣りつつ、ジェイルは努めて何事もないような口振りを装った。

 そもそも、こんな場所に呼び出したのは、この少女のほうなのである。いつかの夜――舞踏会の夜以来、二人きりで会うようなことは初めてだ。もっとも、数日に一度はお互いに手紙の遣り取りをしていたという、彼女の保護者に内緒の関係があったことも事実だが。

「……わたくし、どうにも不安なのです」

「というと?」

「今回、リンバーク国へ大勢の騎士の皆さんが向かわれるというお話です。あちらの国では、何が起きようとしているのでしょう?」

 姉よりも色素の薄い、陽に透けると金髪になる柔らかい髪をふわりと揺らして、フィリアはじっとこちらを見上げてくる。そこに間違いなく姉の面影があるところは、さすが姉妹というべきだろう。

「――さて、どうなることやら」

 姉の黒曜石のような漆黒に比べると明るい、その瞳に宿る視線を受け止めて、ジェイルは笑みと吐息とを同時に漏らした。

「あちらの国王が病床にあるという知らせが、つい先日届いたものでね。それが引き金にでもなれば……あるいは、最も危惧するべき状態に陥ることもあり得る」

「また戦争になりますか?」

「国家間の、という意味では可能性は少ないと思うが、かの国においてという意味では内乱は避けられないかもしれない」

 嘘を言っても仕方がないので、本当のところを告げる。

 するとフィリアは、やはりそうかと言うように、目を伏せた。

「あなたも行ってしまわれるのでしょう? そんな……何が起こるかも知れない場所に」

「俺はレファリス様にお仕えする騎士として、行かないわけにはいかないからね」

 ジェイル自身、それは当然だと思っている。レファリスの信頼を受けているという自負の念もあるし、仮にそうでなくともこれは果たさねばならない責務だ。

 ただ、もしもこの目の前の華奢で可憐な少女が、しばらくの別れを少しでも悲しんだり心配してくれたりしているのだとしたら、それを喜んでしまう本音もある。

「ここを離れても、手紙を送ってくださいます?」

「もちろん。さすがにこれまでのようにはいかなくとも……そうだな、君の姉上はあまり筆まめとは言えないだろうから、彼女の近況も含めて書き送るとしよう」

 軽い気持ちで返事をしたジェイルは、次の瞬間、フィリアの薄桃色の頬が一気に青褪めるのを見た。

「……まさか、姉も行くのですか……!?」

「え? ……もしかして、まだ知らなかった……のか……?」

 驚いたのはジェイルも同じである。ルーティアがレファリスから直々に話を受けて、既に二十日近くが経過している。それなのに、まだ家族にすら告げていないなど思ってもみなかったのだ。

 これは――手痛い失敗、としか言いようがない。

 弟のカーシェスは最初から一枚噛んでいるようなところがあったからともかく、この妹に関しては溺愛とも呼べる情を注いでいるルーティアのことである。きっと妹が動揺することを危惧して、慎重に話を切り出そうとしていたのに違いない。

「……すまない。俺の口から告げることになるなんて」

「いいえ……いいえ、姉様はそんなこと、一言だっておっしゃっていないわ。……そんな大事なこと、教えてくださらないなんて……!」

「きっとルーティアは、これから話すつもりだったんだ。君が一番傷つかないように、心配をかけまいとして」

 宥めるようにジェイルは言ったが、フィリアはそんな言葉など耳に届いていないような、この世の終わりのような顔をしている。

「昨日になって、今夜は屋敷へ戻ると連絡がありましたわ。……きっと、このことを告げるために」

 ルーティアのような姉を持ってしまったことは、もしかしたらフィリアにとっては不運と言えるのかもしれない。

 この少女が幼く我が侭な故に姉離れできないというのであれば、叱りつけるなり諭すなりの方法もあるというものだが、ルーティアが信念を持って王宮騎士を目指したとするなら、フィリアは姉がその身を犠牲にすることがないよう、そしていつでも騎士を辞めて家に戻って来られるよう、常に神経をすり減らしてきたのだ。

 それを、度を越した姉妹愛だと切り捨てることに、ジェイルには躊躇いがあった。仮に、彼の育った家の家訓を基準にすれば、フィリアのような考えはむしろ断罪されるべきである。それを間違っても口に出せないと思うのは、この少女を憎からず想っているからなのか、あるいはジェイル自身が実家の古めかしさに閉口することがあるからなのか、判断が微妙なところだった。

「ルーティアは立派な王宮騎士だ。俺が言うことでもないが……姉上を信用して、何事もなくここへ戻るよう祈ってやって欲しい。それがつまり、君の幸せならばなおのこと」

 わかっていたつもりだが、どうやらフィリアは今のところ、世界中の誰よりも姉のことが大事なのだ。こうしてほんのひとときを共に過ごすことは許されていても――俗な言いかたをすれば、確実に脈があるとは言い難い。そもそも、冬を越えるまではこの国に戻らないだろう現状で、あまり深い期待を抱くのも間違いだというものだろう。

 高く澄んだ空を見上げてひとつばかり吐息を漏らすと、ジェイルは近衛と呼ばれる騎士に相応しい、上流階級用の笑みを顔に貼りつけた。

「お送りしましょう、フィリア嬢」

 少しばかり畏まった申し出に、フィリアは硬い微笑を浮かべる。

「ごめんなさい。姉のことばかり気を取られてしまって……せっかく、お忙しい時間を割いて来ていただいたのに」

「いや。君が姉上を心配する気持ち、わからないでもない」

 ジェイルはさらりと応じたが、これは社交辞令というわけでもない。わざわざフィリアに告げて心配を煽るわけにもいかないが、ルーティアが時に無鉄砲なことをしでかすということは、古い友人としても知るところだ。

「しかし、君が受け取ってくれるなら、手紙は送るとしよう。さっきも言った通り、俺は姉上の近況を仕入れるには苦労しないだろうから」

「ジェイルさん、あなた自身のことも、どうぞお書きになってください。わたくし、きっと楽しみにしておりますわ」

 フィリアは一見いつもと変わらない様子に戻ったが、それが本意なのかこれこそ社交辞令なのか、ジェイルには良くわからなかった。

 しばらくは他愛のない会話をしながら庭園を抜け、やがて王立学院の研究所が見える場所までやって来ると、フィリアはふと立ち止まって哀れな一騎士を見上げた。

「わたくし、弟の所に寄って行きます。ですから、送っていただくのはここまでで結構ですわ」

 良家の娘らしく、膝を軽く折るお辞儀をして柔らかく微笑む。それがたとえ礼儀としてのものであったとしても、その上品にほころぶ口元を見るだけで、ジェイルにしてみればこの時間を過ごした甲斐はあったというものだ。

「では、ここで」

「きっとご無事で……戻っていらしてくださいね。わたくしは、大事な人をただの一人も失いたくないのです」

「無事に帰ろうと思わずに、行く者はいない。……また逢いたいと想う人が胸の内にあればこそ、かの地での冬越えも苦労と思わずにいられるだろう」

 この期に及んで悪あがきのつもりではなかったが、突いて出てきた言葉は後からは取り消せない。

 フィリアは少しばかり考えるような素振りを見せると、どこか思い詰めた表情のまま、顔を上げてこちらを見た。

「ではわたくし、春になるのを楽しみにしていますわ。冬の厳しさも、春の日差しを信じていればきっと、耐えられると思いますから」

 言い残して去って行く姿を見送って、ジェイルは自嘲の笑みを浮かべる。

 結局、最後の言葉さえ、それが表面上のことなのかあるいは含みのあるものだったのか、どうも曖昧なままだった。エルアレクのことは言えないな、などと自分を揶揄してみてもどうしようもない。

「謎は謎のまま……しまっておいたほうが良いこともある、か」

 そう結論づけると、ジェイルは我が主君と認めるレファリスの姿を探すべく、来た道を引き返すことにした。




 ルーティアが屋敷に戻ったのは、陽が落ちてからのことだった。

 前回はエルアレクを伴っていたのだが、今回はさすがにそうもいかない。まだ告げていない事実を、どうしても自分の口から家族に打ち明ける必要があるからだ。いつもこういうときばかり頼っているわけにはいかないし、エルアレクはエルアレクで、実家に挨拶くらいはしておかなければなるまい。たまにはゆっくりして来るのも親孝行だというルーティアの勧めに従って、二、三日は王宮に戻らないだろう。

 幼い頃から馴染んでいる我が家というものを目にすると、ルーティアはいつも心の奥から安堵感を覚える。この日も例外なくそうだった。

 食卓にはルーティアの好物が並び、暖かな灯りの下で和やかな会話を交わし、食後には居間でのんびりと寛ぐ。それがいかに恵まれたことであるかしみじみ感じてしまうのは、これから先しばらくはここに戻ることはないという感傷めいたものがあったからかもしれない。

 ただ、ルーティアは何気ない会話を交わしながらも、妹や弟の様子を観察することは忘れなかった。二人には、どこかしら警戒心のようなものが見える。それが、姉がいつ話を切り出すのかと窺っているせいだと、気付いていた。

「大事な話があるんだ。二人とも……ああ、ばあやも、ここに来てお座り」

 ルーティアが居間でそう言ったのは、夕食後のことだった。

 ちょうどばあやと飲み物を運んで来たフィリアは、紅茶を注ぎかけた手を震わせながらも、そのまま人数分を黙って用意する。窓辺にいたカーシェスも、やはり何も言わずにソファに寄ると、ルーティアの示した右隣に、素直に腰掛けた。

「その様子だと、話の内容を察しているようだが、改めて話をさせてもらう。この国がリンバーク国に対して、数百からなる正規の部隊を送ることになったのは、きっともう知っているだろう? わたしは、レファリス殿下付きとして、現地へ行くことになった」

 ルーティアはそこで言葉を区切り、全員を見渡したが、誰も何も言わない。やはり、ある程度予想していたか、既に知っていたかのどちらかだろう。

「早ければ、冬を越えて春になる頃には、ここへ戻れるだろう。出発は十五日後だ。わたしはここに二晩泊まって、それ以降は戻らない。お前達には迷惑と心配をかけてすまないが、わたしの留守中のことは頼んだぞ」

 なるべく穏やかに告げながら、ルーティアは父親の姿を思い出していた。亡き父も、長期間どこかへ行く前には、必ず家族を集めて話をした。特に幼い子供達には、寂しい思いをさせてすまないと、謝っていた記憶がある。

 自分がそれを同じように告げる日が訪れるとは、少女だった当時には考えもしなかったことだ。

「姉様は……まるで、お父様のようなことをおっしゃるのね」

 搾り出すようにして、向かい側に座るフィリアが口を開いた。

「お父様も、そうやって留守を頼むと……そう残して、そのまま……」

「――フィリア。そんなに悲しい顔をしないでくれ。わたしはね、二度と戻らないなんて、そんなつもりは微塵もないよ。戻らないつもりで行く者などいない」

「……騎士のかたは、皆同じようなことをおっしゃるのね。でも、必ず帰るとは、絶対に口になさらないのだわ。守れないかもしれない約束は、したくないからでしょう……?」

 半ば予想していたとはいえ、いつも大人しく甘え上手な妹にこうして詰め寄られるのが、一番手強い。

 ルーティアはとにかく、穏やかに話を進める必要があった。

「そんなに聞き分けのないことを言うものではないよ。今更わたしは、この話をお断りすることはできないのだからね」

「ええ、わかっていますわ。わかっているからこそ……言わずにおけないことだって、あるのです」

 薄っすらと涙まで浮かべたフィリアは、膝の上で重ねた指に、ぎゅっと力を込めている。それを憐れだと思う気持ちは、当然ルーティアにはある。しかし、自分の決定を曲げることも、できはしないのだ。

「お前には一番心配を掛けるな。わたしは良い姉ではないらしい。……だた、お前が誰よりも幸せであることを祈っている。お前をちゃんとした男に嫁がせて、世界一幸せで美しい花嫁にするまでは、わたしは安心できないし、父上や母上もきっと同じ気持ちだよ。ああそうだ、さっきばあやから聞いた話によると、わたしに内緒で誰かと手紙を交わしているそうじゃないか。わたしが次にここに戻るときには、相手を紹介してくれるだろう? どんな男か、わたしも会ってみたいからね」

 愉快な想像をするようなルーティアの言葉に、フィリアは表情を凍りつかせて目を見開く。

「だから次の春までには――」

「姉様が、お父様の真似をする必要なんてないんだわ!」

 それ以上聞きたくないと言わんばかりに両手で顔を覆って首を振り、そして突然、フィリアは叫んだ。

「どうして姉様でなくてはならないのっ? どうしてお父様でなくてはならなかったのっ? どうして……わたくしは、待つしかできないの……! 姉様にもしものことがあったら、わたくしはきっと、恨みますわ。大事な人ばかりを連れて行こうとする、殿下を恨みます……!」

「……フィリア……」

「……今夜はもう、部屋で休みます。ごめんなさい、姉様。……明日にはきっと、二度と、今のような我が侭は言いませんわ」

 ルーティアには何も言えなかった。愛する妹にこんなことを言わせてしまう現実に、打ちのめされたのだ。

 無理に笑みを浮かべ、おやすみなさいと残して出ていく姿に、胸が締め付けられる。思わず下唇を噛んだとき、それまで黙っていたカーシェスが呟くように漏らした。

「――僕、フィリア姉さんの気持ち、わかるな」

「カーシェス……お前まで」

「僕だって……僕だって、同じなんです」

 ルーティアの右隣に行儀良く腰掛けたまま、カーシェスは様々な感情の混ざり合った顔を上げた。

「僕は、レファリス――様の友人として、彼の気持ちもわかる……わかっている、つもりなんです。彼の目的を果たすためには、ルーティア姉さんが必要なんだ。だから、仕方ないことだと思います。でも……でも僕だって、本当は、行って欲しくないと思ってる。姉さんにもしものことがあったら……って、そんなこと、考えたくもないけれど……でも、心配になるのは、どうしようもないんです」

 それは、カーシェスなりの本音だろう。高貴な友人を持ってしまったが故の、葛藤もあるに違いない。

 しかしルーティアは、あえて最悪の事態のことを口にした。

「そのときは、お前がこの家を守るんだ」

 その瞬間、カーシェスの瞳に絶望としか表現できない色が浮かぶ。

「わかったな?」

「……はい、姉さん」

 項垂れるように俯いた弟の髪を、いつものように撫でてやりたくて右手を伸ばしかけ、しかしルーティアはその手を拳にして膝の上に戻した。――家を任せる約束をした以上、もう、子供扱いするのは相応しくない。

 代わりにルーティアは、三人姉弟にとって共通して頭の上がらない唯一の人物に、声をかけた。

「ばあや、済まないが……後でフィリアの様子を見てやってくれないか?」

「ええ、そう致しましょう。温かいお飲み物でもお持ちしてみましょうかね」

「……頼むよ。あの子は、ばあやの前では泣けるだろうから」

 弱く微笑んで、ルーティアは腰を上げた。

「わたしも、今日は早目に休むとするよ。久しぶりの我が家のベッドは、きっと寝心地が良いに違いない」

 笑みを浮かべたまま良い残すと、居間から廊下へ出る。無意識に大きな溜息を漏らしたルーティアは、階段を上って自室へ進みかけ、途中で思い直して、父親の書斎を訪れることにした。

 二階にある父の書斎は、生前のまま残っている。庭を見下ろせる廊下の突き当りの扉には、いつも鍵は掛かっていない。ルーティアは時々、誰にも邪魔されず、この部屋で独り過ごすのだ。

 部屋の壁には、両親の肖像画が残っている。暗い部屋で二人の視線を受けながら、ルーティアは言葉を投げかけた。王宮騎士としてでなく――娘として。

「……父さまも……こんな気持ちになったことはあるのですか?」

 両親の肖像は、何も答えない。ただ、昔と同じようにこちらを見ているだけだ。

「わたしは今日……初めて、騎士になったことを……後悔しました」

 これが一時的なものであり、またそうでなくてはならないことを、ルーティア自身知っている。しかし、自分が選んだ道のために妹と弟を傷つけているのだとしたら、やるせない。

 今夜は眠れそうもなかった。




 出発までの日々は、そのための準備と通常の任務をこなす間に、当たり前に過ぎ去っていく。

 いよいよ出発を翌日の早朝に控えた午後、ルーティアは、王宮内の礼拝堂の脇にある庭園の植え込みの影に両足を投げ出して、空を見上げていた。

 透き通るような高い空に、薄い雲が流れる。ただ、それだけのこと。

 白い騎士服の喉元のボタンを緩めていると、もう、少し肌寒い。春の頃はここで良く時間を潰していたのだが、あれから半年くらいのことで、随分と身の回りが変わった気がする。

 そういえば、サーシャがここへ来たのもその頃だ。思うに彼女の出現以降、まるで何かの符号が意味を持って、運命の方向を示し始めたかのようだ。――そうやって安い詩人のような言葉を浮かべてみるものの、実際は偶然でしかないのかもしれないし、ここに至るまでの原因を、漠然と求めているからなのかもしれない。

「ルーティア」

 不意に、立ち木の向こう側から見知った顔が覗く。

 見つかることを予想していたルーティアは、余裕の素振りでひらひらと片手を振ったが、エルアレクは困ったような顔をした。

 最近、妙に優しい顔をするこの幼馴染みは、少し前ならばこんなところでさぼっているところを見つけるなり、眉間に皺を寄せて小言の雨を降らせていたに違いない。

「明日は出発だというのに、お前のように暢気に構えている者は、王宮中見渡しても他にいないぞ」

 一応は釘を刺すようなことを言いながら、エルアレクはルーティアの横まで来ると、そのまま覗き込むように見下ろしてくる。

「また、考え事か?」

「いや――まあ、なんとなく」

 歯切れの悪い返事をして、ルーティアは痒くもない頭を掻いた。

「わたしは普段、あまり長く思い悩む性分ではないからな……悩もうと思っても、悩みかたが良くわからないんだ」

「なんだそれは」

 呆れたように眉をしかめたエルアレクは、右手を差し出してルーティアを引き立たせると、先に歩きだしてから振り返った。

「家のことなら心配するな。カーシェスもあれで、お前が思っているよりしっかりしている。それに、何かあれば、いつでも俺の実家を頼ると良い」

「ああ、それだけが心強いよ」

 父親が他界してからというもの、エルアレクの実家――ラドル将軍には、常に後ろ盾となってもらっている事実がある。その助力がなければ、今頃ロウズ家は没落貴族としてこの都での生活の場所を失っていたかもしれない。親友の残した家族の面倒をみることくらい当然の務めだと言って憚らないエルアレクの父は、今回の作戦には加わらず、王宮に残ることになっている。表立った争いがあるわけではないが、シュラン将軍と不仲であることは知られた事実であった。

「フィリアとカーシェスも、結局は納得してくれているしな。わたしは、本当に恵まれている」

 喉元のボタンを閉めながら、ルーティアはエルアレクの後を追う。

「少なくともわたしは、誰かを見送る辛さからは解放されているのだから」

「……どういう意味だ?」

「つまり、だ。ミラルド殿を見送らねばならないサーシャ殿は、きっと辛いだろう。フィリアも自分は待つしかできないのだと……そんなふうに言っていた。わたしは、そういう経験をせずに済むだけ、恵まれている」

「ルーティアらしいな」

 肯定も否定もせず、エルアレクはただ、薄く笑う。

 そういう余裕な素振りが最近多いことに、妙に釈然としない気分を覚えつつ、ルーティアは自分より高い位置にある二の腕を掴んだ。

「実は、サーシャ殿に言われたことがあるんだ。わたしは……愛する人と共に生きる術を持っていると」

「え?」

「その意味がわかるか?」

 絶句したようなエルアレクの反応に、ルーティアは肩を竦めて手を離す。なんのことはない。悪戯心で、少々困らせてみたくなっただけのことだ。

「……まあ、期待するだけ間違いだな」

「そう言うお前にはわかるのか?」

 すかさず――予想外に間髪いれずに言い返されて、ルーティアはぐっと詰まる。そもそも、この男には絶対解けないと思って言い出したことで、こちらの返答を用意していたわけではない。

 するとエルアレクは、何やら考え込むような顔をした後、自分なりの意見だと前置きして説明を始めたのだった。

「まあ……サーシャ殿の言う意味と同じかどうかはわからないが、そうあることは理想に思えるな。俺は言葉で説明することは苦手だが、つまり……信念というか、誓いというか。そういうものに対して迷いを抱かずにいられることと、その、共に生きる術というものは、もしかしたら……似ているかもしれない」

「そういうものかな」

「いや……だから、俺にとってはそうだという話だ」

「じゃあエルアレク、お前は自分の生きかたに迷うことはないのか?」

 左隣を見上げ、ルーティアは少しばかり癪な気分で問い掛ける。

 エルアレクはまた少し考えて、それからゆっくりと頷いて見せた。

「――そうだな。俺はもう、決めたから」

 それが、この余裕の正体というやつなのだろうか。

 最近のエルアレクが醸し出す雰囲気は、ときどきルーティアを焦らせ、そのくせに安堵させ、妙な気分にさせる。

「教えろよ、その誓いとやら」

「それは駄目だな。前に……そうだ、春の頃にここで話したことだろう? 本当の誓いというものは、それぞれの者にとって奥深い場所にあると。そう簡単に口に出すものではない」

 ゆったりとした足取りで先を歩きながら、エルアレクは取り合おうとしない。少し前ならば付け入る隙をばら撒いていたくせに、それがどうにも見つからず、ルーティアは歯噛みする気分だ。

「……なんだか、腹が立ってきたぞ」

 低く呟きつつも、置いて行かれるのはもっと悔しい気がして、後を追う。

 なんとなく――そう、それは確信とは程遠い、ぼんやりとした感覚だったかもしれない。

 あのときサーシャが言った、もうひとつの言葉。

 ――かけがえのない人は、それと気付かない内に近くにいるものよ。

 その正体が、目の前の広い背中と重なって見えたような、そんな気がして、ルーティアは慌てて首を振る。

 怪訝そうに振り返るエルアレクの腹の内を、いつか暴いてやりたいと、初めて本気で思った瞬間だった。




 翌朝、エリクシュル国の王都ハーザから、隊列が幾重にも連なりながら、大陸の中心へ向って出発した。

 まずは樹海の方向を目指し、途中からリンバーク国へ入る。

 騎乗した若い王子を中央に据えた先頭の一隊の脇に、同じく騎乗したルーティアとエルアレクがいた。ジェイルは、レファリスの半馬身ほど後方につけている。彼等に新調された濃紺の騎士服の襟と袖口には、金の縁取りが施され、王子付きの騎士としての特別な立場が示されているのだった。

 先頭部隊の後方にシュラン将軍とその取り巻きが列を成し、必要物資を乗せた荷馬車が続く。その後に正規の王宮騎士達が騎馬隊として位置し、従騎士の一部が徒歩でこれらに従属した。

 総勢約二百名のこの集団は、一国から派遣される部隊としては決して多くはない。ただし、これが戦争のための戦力援助でなく、あくまでかの国の国王その人を謀反人から守るためにこの国の王が遣わせた私兵だという名目ならば、十分すぎるほどの人数であろう。

 今回の目的は、リンバーク国の王権を得ようとする一派への牽制であって、内乱勃発を煽ることではない。一万の農民兵士を募るよりも二百の騎士を派遣するほうが、より脅威となる。この国の王が隣国の王を支援し、かつ第一王位継承者の王女の婿として期待される若い王子が、これを率いて登場する。その事実こそが、かの国の国王の正当性を証明するものである、と。

 もっともらしいシュラン将軍の弁説に異議を唱える声は、あまりにも小さい。

 王都の大通りを埋め尽くした群集は、歓声を上げながらこの旅立ちを見送った。かつての聖戦を思い出した者も、少なからず存在したに違いない。

 愛する者の無事の帰国を祈りつつ。

 この国が戦渦に巻き込まれることのないよう願いつつ。

 様々な民衆達の想いをかいくぐりながら、部隊は進行する。

 進行する者達の胸の内にも、様々な想いがあった。

 限りない野望を秘める冷ややかな感情。

 陰謀を切り崩そうとする若い正義感。

 鋭気に満ちた強い心もあれば、片隅に闇を宿した心もあったかもしれない。

 それらが混然一体と混ざり合ったとき、そこから生まれるものが何であるのか。

 誰も、知る者はいなかった。

 ただ、誰もが漠然と――あるいははっきりと、感じていた予感。


 歯車が今、どこかで、動き始めた。


 それは、もはや止めようのないうねりとなって、いずれその姿を現すに違いなかった。


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