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光の刻印  作者: 叶 響希
第一部
10/49

「ひと睨みで他人を半殺しにしそうな気配をばら撒くのはよしてくれ」

 九割がた呆れ顔をしたジェイルが、会った瞬間にエルアレクに対して発した第一声がこれである。

「今のお前ならば、その顔つきだけで、連行の上尋問されても文句は言えんぞ。巷の娘共が今のお前を見たら、一度で幻滅するに違いない」

「放っておいてくれ」

 憮然として応じるエルアレクは、目の前の旧友を睨みつつ苛立たしげに吐息した。

 爽やかな青空の広がる午後、場所は王立学院の内部――幾つかの研究室が並ぶ廊下の片隅である。どうしてこんな場所にエルアレクがいるいかというと、学院内の通路を歩いているところを突然ジェイルに引き込まれたから、としか言いようがない。

 エルアレクがここにきて不機嫌を遠慮なく放出しているのは、強引な旧友の行動に抗議するためでもあるのだった。

「何の用だ、ジェイル。俺はお前の気紛れに付き合っている暇はないぞ」

「そう苛々しなさんな」

 好々爺よろしく言いながら、ジェイルはいたって暢気に構えている。

「そもそも、俺がいつから気紛れな男になったというんだ。自己嫌悪でお前が落ち込むのは勝手だが、それを他人にばら撒くのを八つ当たりと呼ぶんだぜ?」

「――俺は、部隊長から頼まれた急な用事の途中だ」

 せめて邪魔をしてくれるなと言外に告げて、エルアレクはほとんど無意識にこめかみを指で押さえた。

 どうやらルーティアとの今朝の一件をある程度の範囲で察しているのだろうこの男に、口論で勝てるはずもない。自分を弁が立つほうだとは間違っても思えないエルアレクは、せいぜい苦し紛れに建て前を持ち出すくらいしか逃げ道が無いのである。

「用事を終えたら、今日は従騎士達の相手をしてやることになっている。話なら夜でも良いだろう」

「夜でも良い話ならば、そうしている。俺だって、お前に心配されるまでもなく暇ではないのだからな」

 元来人懐こい灰色の瞳の奥で、ジェイルは少々意地悪く笑う。

「それから、とある書簡を学院長へ手渡すというお前の仕事は、もう終わっている」

「……どういうことだ?」

「つまり、それこそがお前の足をこの場所に向わせる口実だったというわけさ。そうなるようにこの俺が、レファリス様の名前をお借りして手配したのだからな」

 声を潜め、まるで共犯者に告げるような言い方をするジェイルに、さすがにエルアレクは苛立ちよりも困惑を強めた。本人が言っているからではないが、この第一部隊所属の男が暇な身の上ではないことくらい、友人としても客観的な立場としても、知っている。それがわざわざ、まわりくどい手段を講じたとなれば、何事かと身構えてしまうのも無理はないというものだ。

 冗談めいた顔つきを引き締めたジェイルは、無言のままでエルアレクをとある一室へと導いた。

「おい、ここは……」

 ルーティアの弟、カーシェスの研究室である。学院の内部には叙位した騎士はほとんど出入りすることがないが、研究室を構えたと聞いたときに、一度ばかり顔を出したことがあった。

 戸惑うエルアレクを一瞥して、ジェイルは構わずそのドアを開ける。

「こんにちは、エルアレクさん」

 部屋の主に通常と変わらぬ様子で礼儀正しく挨拶され、この少年が最初からこうなることを知っていたのだとわかった。

 何よりエルアレクが度肝を抜かれたのは、さして広いわけではない部屋の、書物の間に埋もれたような椅子に、もう一人少年が座っていたことだった。

「僕がここにいることが、そんなに驚くことか?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、高貴な少年はこちらを見上げる。慌てて姿勢を正し一礼をとるエルアレクを、若い王子は面白そうに眺め、やがて何事もないかのように口を開いた。

「楽にしてくれ。僕もそのほうが話しやすいから」

 何のことやら未だに掴めないエルアレクは、とりあえずドアの横に陣取っているジェイルを見たが、彼は心配するなとばかりに小さく頷いて見せるだけで、説明してやろうという気はないらしい。

 カーシェスが勧めた椅子にぎこちなく腰掛け、エルアレクは背を硬直させたまま両方の拳を握り締める。

 上等とは言い難い椅子に、ある種の気品すら感じさせる態度でゆったりと腰を落ち着けているレファリスは、何やら侮りがたい薄い笑みを口元に刻み、緊張しきりのエルアレクを覗き込んだ。

「実はつい先ほどまで、僕はルーティアの部屋にいたんだ。怪我をしたと聞いたから、見舞いも兼ねて」

 唐突にそんなことを言う若い王子は、まるで反応を楽しんでいるかのように見える。

「式典終了後もどうやら僕に対する監視の目が厳しくて、楽ではない潜入劇だったけど、それだけの収穫があったよ」

 エルアレクは無言のまま、意図を解釈しかねていた。

 レファリスがルーティアの部屋を訪ねるということなど普通は有り得ないが、ここで戯言を話して聞かせる意味もない。衝撃的ではあるものの、エルアレクは驚くよりも更に困惑と戸惑いを深めていた。――この王子の意図が、まるで読み取れないのである。

 助け舟を出したのは、意外なことにカーシェスだった。

「そうやって人の反応を楽しむのは君の悪い癖なんだから。それじゃあ、なんのことだかちっともわからないよ」

「……うるさいな。今から本題に入るところだったんだ」

 同い年の友人に対しては妙に年相応な態度で露骨に顔をしかめ、それでも毛の先ほどは反省したようにひとつ咳払いしてから、レファリスはエルアレクに向き直った。

「僕が誰にどういう目的で監視されているかというと、シュラン将軍が僕を自分の駒として相応しいか見極めているからなんだ。だからこうして、僕は自分の行動に回りくどい手段を講じる必要があるわけで」

 うんざりしている本音と、それをいっそ楽しんでいるようなもうひとつの本音とを、レファリスはうまい具合に声色と目元に浮かべている。

 エルアレクは、レファリスにリンバーク国の第一王女である姫君との婚姻話が持ち上がっていることを思い出した。式典の間、それは人々の中では大きな関心事であったし、この種の話には疎いエルアレクでさえ噂話を耳にしたほどである。そしてその噂の陰には必ず、シュラン将軍への賞賛とも非難ともとれる想いが交錯していたのだった。

 エルアレクがルーティアを探していたあの日、レファリスはリンバークの姫君に会うのだと言っていた。それも、どうやら本意ではないような口振りであったことを考えると、やはり周囲に何らかの働きかけや思惑が存在していたという事実は否めない。

「殿下は……婚姻には反対なのですか?」

 しばらくの沈黙の後で漏らした問い掛けに、レファリスは口元に形の良い笑みを結ぶ。なんとなく読み取るに、それは満足しているような笑みである。自分の問い掛けが、王子の用意した的を外したものではなかったことに、エルアレクは小さく安堵した。

「王族同士の結婚に、好むも好まざるも関係ない……と言えるほど、残念ながら僕は大人ではないからな。リンバークの姫君は僕より三つも年上で、思慮が深くて思いやりのある女性だけど、同じ年上ならもっと活動的なほうが僕の好みだ」

 肘掛の上で頬杖をつきながら、レファリスはまるで悪戯っ子のような目をした。しかし、エルアレクがどういう意味かと首を捻っている間に、つまらなそうに口を尖らせ、真顔に立ち戻ると同時に姿勢を正す。

 理知的な水色の双眸から少年らしさが抜け落ちて、いっそ冷ややかなほどの鋭利なきらめきが宿る。

「リンバークにとって、このエリクシュルと婚姻関係を結べば、我が国と既に親しい間柄となっているアリューダともうまくいくという計算があるのは疑いようもない。双方の国は聖戦終結以降、対面上は確執など無いように振舞っているが、実際はこの国を仲介者として成り立っているに過ぎないんだ」

 決して早口ではないものの、流れるような語り口は、エルアレクの背筋を更に硬くさせた。

「リンバーク国は聖戦の後に経済的に勢いを落とし、かつ内乱の危機に晒されている。今の国王は、かの国においてはあまりにも非力だ。姫君と僕との婚約を早めたいのには、わけがあるということだよ。王位継承者である第一王女と僕が結婚すれば、僕という存在を通じてこのエリクシュルとの絆は深まるわけだし、それによって結果的にアリューダとの国交も盛んになるだろう。リンバークで豊富な宝石とアリューダの石炭が今よりも多く出回ることになれば、このエリクシュルにだって悪い話にはならない。それぞれの従国も右に倣えば、この大陸はめざましく発展するに違いないね」

 後半になるほど饒舌に言葉を連ね、レファリスはそこまで言って口を閉ざした。薄く刻んだ笑みが、この一筋縄ではいかない少年の、言葉とは裏腹な本心を覗かせている。

 むう、と唸るように黙り込んだエルアレクは、頭の中でそれぞれの関係図を組み立て、思い描いてから、レファリスのおそらく言わんとする結論に至った。つまり、それが実現するならば素晴らしい理想論に違いないが、結局はそういう建て前こそが重要であるという事実、である。

 リンバーク国の現在の国王勢力は、エリクシュル国の末の王子を婿入りさせることで理想の入り口を掲げ、その実、自らの体制の保身を図ろうとしているのかもしれない。

「理想を掲げねば夢は語れない。しかし、理想だけでは国は救えない――か」

 思わず呟いたエルアレクに、レファリスは興味深そうに目を細める。

 目の前の若い王子が細身のナイフのような滑らかな目つきをするほどに、エルアレクは自分がどこか未知の場所へ足を踏み入れていくような、漠然とした不安を覚えていた。

 ちらりと目をやると、カーシェスはこの場に緊張感など感じていない様子で、鉢植えの植物の葉を撫でている。背後の壁際に立つジェイルも、廊下には注意を払っているようだがこちらには関心を向けていないらしい。

 エルアレクは諦めて、未知なる場所へと意識を戻した。

「……シュラン将軍の策略というのは、殿下をかの国との交渉に利用するということ、ですか?」

「それは狭い意味の話だね」

 応じるレファリスは、薄い背凭れに上半身を預け、天井を仰ぐ。

「あの男は、父上や兄上の信頼を得ることで、この国を手に入れるつもりなんだ。そして、僕を傀儡にすることができればリンバーク国という大国へも勢力を伸ばすことができる。うまくいけば、大陸の三分の一も支配したも同然というわけだ」

 嫌悪感を隠しもせずに吐き捨てたレファリスは、視線をエルアレクの目の位置まで戻してから、右腕を肘掛に預けるようにして、わずかに身を乗り出した。

「覚えているだろう? あの日僕が言い当てた抜け穴のことを。あれをシュラン将軍が知っているとしたら? もしも皆に知られずに、あの男がリンバーク国の誰かと連絡を取っていたとしたら?」

「――え?」

「僕がルーティアに確かめたのは、そのことだよ。あの抜け穴は……あの時も言ったはずだけど、曽祖父の頃のもので、今は知る者も少ない。それをあの日、誰かが使ったという事実があるのはどういうことかと思ってね」

「それに……ルーティアが関係していると?」

 それまでと違った意味で緊張するエルアレクに、レファリスはくすりと笑う。

「いや、僕はそういう意味では自分の勘を信じているほうだ。彼女は無関係だと信じていたし、実際そうだったよ」

「では一体、どういう意味です?」

「結論から言うなら、あの抜け穴は十中八九、シュラン将軍の知るところにあったということだね。しかも、使われていた形跡がある」

 あっさり言い捨てて、レファリスは確信犯めいた笑みを浮かべる。

 思わず心の内で身構えるエルアレクは、この一見無邪気でかつ品のある少年が巧みに張り巡らせた網に、すっかり捕らえられてしまっている気がした。

「――信じる信じないは、任せるよ。ただ、僕はあの男にこの国を乗っ取られるのをみすみす見逃すつもりもないし、駒になどなってやるつもりもないんだ」

 真っ直ぐに正面から見据えられ、エルアレクは初めてレファリスの目の奥に、純粋な真意を見た気がした。

「殿下……」

 口を開きかけたものの、何を言えば良いのかわからない。こんなときルーティアならばきっと、素直でない王子の気持ちを言葉にして表現するか、その気持ちを汲んだ上での返答をしたに違いなかった。そのどちらもできない自分に、エルアレクは奥歯を噛み締める。

「……そろそろ、僕は戻らなくてはならない」

 不意にレファリスは、まるで遊びに飽きてしまった子供のような顔で言った。そして、何も言えないままのエルアレクに視線を投げると、さも可笑しそうに目を細めたのだった。

「ところで、これは僕の個人的な興味の範疇なんだけど、もしかしたらルーティアと喧嘩でもしたのか?」

「えっ? いえ……、そのようなことは……」

「良くないなあ、素直でないのは」

 肩を震わせて笑っているのは六歳も年下の少年だというのに、エルアレクは動揺のあまり口もきけずに視線を彷徨わせる。

「レファリス様、その朴念仁をからかっても無駄ですよ」

 助けるつもりがあるのか便乗するつもりなのか微妙なところだが、ジェイルが苦笑交じりに口を挟んだことで、レファリスはようやく笑いを収めた。するりと隙のない動作で椅子から立ち上がると、腰を浮かせるエルアレクの肩を軽く抑えて、それまでとは違う上質な微笑を浮かべる。

「僕は、自分の勘を信用している。特に、自分の味方と敵の区別についてはね」

「――レファリス殿下」

 呆然とその姿を見送りながら、エルアレクはようやく立ち上がった。

 ドアの取っ手に手を掛けたジェイルが、レファリスが廊下に一歩出たのを確認して、こちらに向ってにやりと笑みを寄越す。

「まあ頑張れよ、悩める好青年」

 小声で告げながら軽く片手を挙げると、そのまま部屋を出ていった。

 バタンと音を響かせて、ドアが閉まる。

 黙って見送ることしかできなかったエルアレクは、その後で盛大な溜息を漏らしたのだった。




 脱力したように椅子に腰を下ろしたエルアレクは、それまでの緊張から解き放たれ、無言のまま床に視線を落とす。

「まったく、素直じゃないのは自分のほうのくせに」

 声に顔を上げると、カーシェスが窓の側に立って困ったように笑っていた。

「最後のあれは、エルアレクさんのことを信用しているっていう意味なんです。自分の味方になって欲しいという意味で」

「あ……ああ」

 頷いたエルアレクは、ようやくまともに口を開いた。

「俺がわからないのは、どうしてそれが俺なのかということだ。……ルーティアはともかく、俺はほとんどまともに話をさせていただいたこともないのに」

「そんなこと関係ないんだと思うな。だって彼は、本当に相手のことを見透かしてしまう天才なんだから」

 小さく肩を竦めて、カーシェスはにこりと笑う。それから机の脇にあった陶器の水差しを取り上げると、木を深く彫っただけの庶民的な器に半分ほど注いで、エルアレクに差し出した。

「喉、渇いたでしょう?」

 素直にそれを受け取って、エルアレクは苦笑する。どうやら、こちらの緊張はカーシェスにもしっかり伝わっていたらしく、レファリスなどはそれを面白がっていたのに違いない。

「なあカーシェス、殿下は……王政に興味がおありなのだろうか? その、つまり……いずれ陛下に代わってこの国を治めるということに」

「それはないと思います」

 躊躇いがちの問い掛けに、カーシェスは頭を振る。

「レファリス――様は、あまり素直でない性格だけれど、この国を誰よりも愛しているんです。両陛下のことも、兄上や姉上方のことも。だから、シュラン将軍のことをとても警戒していて……。彼は本当は、政治の話をするときよりも、植物の話をするときのほうが、ずっと楽しそうな顔をするんです。少なくとも僕は……今日のような彼を見るのは好きじゃない」

「カーシェスは本当に、殿下のことを良くわかっているのだな」

「エルアレクさん、僕は……怖いんです。なんだか、皆が何処かへ行ってしまいそうで。レファリスもエルアレクさんも――姉さんも」

 いつの間にか、律儀にレファリスにつけていた敬称を忘れてしまったことも気付かない様子で、カーシェスは目を伏せた。

「僕は、もしも何かが起こったとき……それが何かまだわからないけれど、でも、そのとき僕は、きっと自分の無力さを呪うと思うんです。僕には学者としての力もまだ無いし、剣を振るう力も無い」

「そんなことはない」

 水を飲み干した器を片手に持ったまま、エルアレクは立ち上がる。それを机の上に戻してから、まだルーティアよりも低いカーシェスの、細い肩に手を掛けた。

「レファリス殿下には、カーシェス、お前のような心を許せる友人が必要だ。俺が――俺やルーティアやジェイルが、いくら忠誠を誓ったとしても。それは、友情とは違うものなのだから」

 同い年であっても、カーシェスとレファリスとでは存在感が全く違う。その原因の一つが、否応無しに存在する身分や立場の差から意識してしまうこちらの心の問題でもあることを、エルアレクは認識している。だからこそ、そういった違いに惑わされない純粋な感情が必要だということも。

 カーシェスが無邪気な笑顔を取り戻したことを確認して、エルアレクはこの部屋に入って初めて部屋の中をぐるりと見回した。広くはない部屋は巨大な本棚とそれに収まりきらない分厚い本、鉢植えの植物で埋めつくされているばかりだ。どちらも、普段の彼の生活には縁の薄いものである。しかしその中で異質に思えた見慣れない植物に、エルアレクは目を惹かれた。

「ああ、あれは……樹海の木の苗なんです」

 視線に気付いたカーシェスが、言いながらその鉢植えを運んできた。

 それはひょろりと細く、そして白い。葉のようなものがいくつか伸びているが、縦長のその葉は、良く見れば銀色をしている。

「少し前にレファリスが種を手に入れて、それで育ててみているんですけど。何を養分にして育っているのか謎なままで、生育状態は良くありません。これ以外は枯れてしまったし」

「樹海の木を王宮に植えるつもりなのか?」

「それは難しいです。あまりにも謎の多い植物だもの」

 カーシェスはそう応じてから、不意にエルアレクを見上げた。

「それよりエルアレクさん、ルーティア姉さんの怪我の具合はどうですか?」

「あ、ああ……」

 途端に苦い気持ちを思い出したエルアレクは、努めて平静を装う。

「捻挫と打ち身だそうだ。今日は大事をとって部屋にいるが、心配ない」

「じゃあ、フィリア姉さんやばあやには、黙っていたほうが良いのかな。あの二人、きっと宿舎に押し掛けてルーティア姉さんを連れ帰ってしまいかねないから」

「違いない」

 思わず口の端を綻ばせたエルアレクは、窓の外の景色がほとんど夕暮れに近いことに気付いた。そろそろ鍛錬場に顔を出さないと、余計な詮索をされないとも限らない。

 エルアレクは従騎士達と約束があることを告げ、部屋を後にすることにした。

「またな、カーシェス」

 よくルーティアが弟にするように、その亜麻色の髪を軽く撫でてから、エルアレクはドアに向かう。

 少し幼い笑顔を見せたカーシェスは、その後で口元を少し引き締めた。

「エルアレクさん、姉さんのこと、よろしくお願いします」

「……ああ、心配するな」

 笑って見せて、エルアレクは部屋を出る。

 今夜ルーティアに謝ろうと――心は既に、決まっていた。




 夜が訪れると、部屋の中には急に静寂が降りて来る。

 飽きもせずに窓の外を見つめていたルーティアは、黄昏色の空の縁が完全に闇に変わるのを見届けて、部屋の中へ視線を戻した。

 暗がりの中、薄い月明かりが輪郭の曖昧な影を落としていて、見慣れた空間を少し違うものに見せている。

 結局、一日中部屋の中で過ごすことになってしまった事実に、ルーティアは吐息を漏らした。

 身体を動かさずにいると、思考は無限の坩堝の中に引き込まれていってしまう。ミラルドの明かした事実や、レファリスが突然の訪問で残した疑惑と緊張――。こういう混乱を、いつもならばエルアレクが支えてくれるはずだった。決して多弁ではなくとも必ずそばにいて、寄りかかるための場所を提供してくれるはずだったのだ。

「……エルアレク」

 まだ怒っているのだろうか。そう思うと、子供のように気持ちが竦む。

 今日ほどエルアレクを遠くに感じたことは、なかった。

 部屋の窓から見える鍛錬場の一角に偶然エルアレクの姿を見つけ、妙に悲しい気分に陥ったのは夕方のことだ。おそらく従騎士達の相手でもしていたのだろう。声はここまで届かなかったが、叱責するような素振りや切れのあるいつもの動きに、言いようのない寂しさを感じてしまった。そしてそんな自分にも、困惑してしまった。

「もう……部屋に戻ったかな」

 もしもそうなら、謝りに行くべきだろうと、ルーティアは真剣に考える。本気で反省していることがわかれば、エルアレクは渋々ながらでも許してくれるのではないだろうか、と。

 ちょうどそんなこと考えてドアへ足を向けたときだっただけに、突然そのドアが叩かれる音が響いて、ルーティアは飛び上がるばかりに驚いた。そして、耳慣れた叩きかたの癖から、それが誰であるかということを察し、二度驚く。

「……入っても良いか?」

 躊躇いがちな声に慌ててドアを開くと、簡素な燭台と皿を乗せた盆を片手に、エルアレクが立っていた。

「食事をしていないと聞いたから」

「ああ……ありがとう」

 おそらく、サーシャが持たせたのだろう。盆の上には、数切れのパンと干し肉、小さな林檎が乗っている。

 エルアレクはぎこちなく礼を言うルーティアの脇を通り過ぎ、机の上に盆を置くと、戸口を振り返った。

「……今朝は悪かった。大人気なかったと思っている」

「あれは、わたしが悪い。……軽率だった」

 ドアを閉め、ルーティアはエルアレクのほうへ一歩を踏み出す。本当は、言おうとした台詞を先に言われて焦っていたが、だからといって何も言えないのでは余りにも情けない。

「今から、部屋へ行こうと思っていたんだ……謝りに。ただでさえ、いつも心配ばかりかけているのに、今回ばかりは愛想を尽かされたのではないかと……それが怖くて」

「――ルーティア」

「わたしは……エルアレク、お前がいなければ、騎士としてやっていく自信さえ危ういんだ。自分がいつも甘えていたのだと、今日ほど思い知らされたことはない」

 懺悔するようなつもりで言うと、エルアレクは予想外に困惑した表情で、こちらを見ていた。不安になるルーティアの視線の先で、その表情が柔らかく変化する。

「何を言う。お前はこれまで、自分の力で騎士としてやってきたではないか。俺はただ、お前のすることを見ているだけだった……」

 いつになく穏やかに微笑むエルアレクが、今のルーティアにはとても頼もしい存在に思えた。こうやっていつも、許してくれる存在があるから――だから、自由でいられるのだ。それを失ってしまうことがあってはならない、そう素直に思える。

「足の具合はどうだ? カーシェスも心配していた。その様子では、痛みは軽くなったようだな」

「サーシャ殿の薬草が効いたらしい。明日はちゃんと任務に戻る」

 薄く笑ったエルアレクは、ルーティアに向かって盆の上の林檎を放った。

「ちゃんと食べろ。それから無理はしないことだ」

 まるでいつもと変わらない口振りに、ルーティアも手の中の感触を確かめながら、笑みを漏らす。

 ベッドの端に腰を下ろしたルーティアは、エルアレクがまだ行かないのを確認して、昼間の出来事を話すことにした。

 レファリスがここへ来たという事実とその口から語られたことについて、意見を聞きたかったのだ。しかし、その概要を語ったところで、驚いたのはルーティアのほうだった。なぜなら、エルアレクも同じような話に巻き込まれていたからだ。

「……考えてみれば、あのかたならやりかねないな」

 思わず、ルーティアは苦笑する。あの明晰な判断力と洞察力を擁するレファリスなら、二人に別の場所で同様の話をしたのも、こうして話し合うことを見越していたからなのかもしれない。

「わたし達はとんだ主君に魅入られてしまったらしい」

 笑い出したルーティアに、エルアレクが慎重に問い掛ける。

「お前は、レファリス殿下に付くつもりなのだろう?」

「……そうだな。わたしはお力になって差し上げたいと思うし、何よりあのかたにはそういう魅力がある」

「少年のようでありながら、時折刃物のような目つきをなさる。俺は今日、恐ろしかった。……殿下が、というよりも……何か……」

 うまく言葉にならないらしく、エルアレクは口ごもる。

 ルーティアはその言葉の先にあるものを、自分の感覚として捕らえていた。それは、何かに引き寄せられるような運命と、きっとそれには抗えないだろうという、直感。

「……俺は、お前と同じ道を選ぶだろう」

 長い沈黙の後で、エルアレクが告げた。

 目を瞠るルーティアの視線の先で、銀髪の騎士は静かに、微笑む。

「それがいつでも変わらない……俺の選択だ」

 この瞬間、ルーティアはもう一つの直感を抱いた。漠然の中にある、しかし確信にも似た何かだ。

 レファリスを支持することは、運命に近づくことかもしれない。その運命に出逢ったとき、長く求め続けた真実の扉をも開くことになるかもしれない。

 そしてそのとき、エルアレクには今と変わらず側にいて欲しい。

 これまでとは違う――少し違うように感じるその想いに、ルーティアは少し戸惑っていた。




 ルーティアが通常任務に戻ってから、五日が過ぎた晴れた日。

 季節は短い夏から初秋へと転じ、穏やかな夕暮れが周囲に茜色を降らせる頃、食堂の裏手にある敷地ではささやかな宴が開かれていた。

 普段は洗濯物を干すだけにしか使われない場所だが、茶色い地面の所々や立ち木の下には草花が生え、片田舎の庭先を連想させる。そこへ食堂のテーブルを運び出して料理や飲み物を並べ、この日非番の騎士や昼の任務を早めに終えた者達数十名が集ったのだった。

 既に酒が入って盛り上がっている環の中に、主役の二人がいる。

「……嬉しそうだな、サーシャ殿」

 少し離れた場所からそれを見つめながら、ルーティアは声を出さずに笑った。

 面倒くさいだの照れくさいだのと文句を言っていたミラルドを、サーシャのためだとねじ伏せて承諾させたのは、ルーティアだ。そのミラルドもまんざらでもなさそうに、やっかみ半分の祝福の言葉に何か言い返している。

 このささやかな宴は、サーシャとミラルドを夫婦だと認めるための、いわば結婚式のようなものだった。

「良かった、二人とも幸せそうで」

「そうだな」

 傍らで応じるエルアレクは、心から安堵したような吐息を漏らす。

 サーシャの着ている花模様の白いドレスは、既に嫁いだエルアレクの姉が娘時代に着ていたものを、大急ぎで縫い直したものなのだ。いささか流行遅れのものではあるが、それを実際に身に着けたサーシャの美しさは、登場の瞬間にその場の全員の目を釘付けにしたほどだった。癖の強い金髪を上手に結い上げ、レースの髪留めをつけて微笑む様子は、彼女が本来高貴な生まれであることを、それと知らない者にさえ連想させたに違いない。

 そしてミラルドは、いつもの騎士服に普段は嫌がる手袋まできっちりつけ、無精髭も伸びすぎた髪もすっきりさせていた。その男がサーシャを護るように細い背中を抱いている姿は、野性的な強さよりも洗練された凛々しさを窺わせる。

「わたし達も行こうか」

「ああ」

 二人を囲む環のほうへルーティアとエルアレクが足を向けたとき、ちょうどサーシャのほうでもこちらに気付いたようだった。裾を上手に持ち上げながら、人の環を抜けて駆け寄ってくる。

「ルーティアさん、エルアレクさん、本当にありがとう。わたし、どうやってお礼を言ったら良いかわからないわ」

 幸福の絶頂にある微笑を浮かべながら、サーシャは二人の手を取った。その綺麗に澄んだ草色の瞳は、しっとりと潤んでいる。

「この最高の日を、わたしは一生忘れないわ」

 言いながら、サーシャはルーティアに抱きついた。

「わたしがどれだけ幸せかわかる? あなた達のような素晴らしい人達は、他にかけがえのない宝物だわ」

 大袈裟なほどの言葉だが、それが彼女の嘘偽りのない真意であることを、ルーティアは知っている。

 亡国の王女という誇りよりもミラルドを選んだサーシャにとって、たとえ正式なものではなくても、誰かに祝福されて結ばれることなど、望外のことだったのかもしれない。

「サーシャ殿、ミラルド殿とずっと幸せにな」

 ルーティアはサーシャの肩を撫でて優しく身体を離すと、遅れてやってきたミラルドにも声を掛ける。

「ミラルド殿、今日はとても凛々しいぞ」

「いつもだらしがないような言いかたは、やめろ」

 折角整えた黒髪の中に右手を突っ込んで掻き回すミラルドは、わざと不機嫌そうな口振りを繕うが、目は優しい。

「次はルーティアさんが、幸せになる番よ」

 にこやかに微笑んで、サーシャはもう一度ルーティアの手を握った。

「わたし、あなたには誰よりも幸せになって欲しいと思っているの。ルーティアさんにも、きっとドレスは良く似合うもの」

 真摯な瞳でルーティアを見上げ、サーシャはもう一度ゆっくりと微笑んだ。そうしてミラルドの腕に自分の腕を絡ませると、二人を待つ祝福の渦の中へと戻っていく。

 もうすぐ夜が訪れるというのにそこだけ陽の光に溢れているような、そんな優しい幻が、灯された幾つもの蝋燭によって浮かび上がる。

「サーシャ殿は、わたしが騎士だということを、ときどき忘れてしまうらしい」

「だが……俺は、サーシャ殿の言っていることは正しいと思うぞ」

 苦笑交じりに呟くルーティアの隣で、エルアレクが思いもよらぬことを口にする。

「――馬鹿者。サーシャ殿ほどでなくても、この国には花嫁に相応しい女は沢山いる。わざわざ女騎士を相手に選ぶような奇特な男がいるものか」

 呆れ顔で傍らを見上げると、エルアレクはルーティアのほうを見ないまま、真っ直ぐに宴のほうを見ていた。その青い双眸が、わずかに細められる。

「……お前がそれでも良いと言うなら」

「え?」

「俺がその相手を務めても良いぞ」

 まるで独り言のように、エルアレクは言う。

「は……?」

 唖然としたルーティアは、喜ぶべきか怒るべきか笑い飛ばすべきかわからずに、一瞬黙り込んだ。どういうわけかどきりと心臓が跳ねたが、それにはとりあえず目を瞑る。

「お……お前が冗談を言うようになるとは思わなかったぞ、エルアレク」

「……冗談かどうかは、そのうちはっきりさせてやる」

 思わぬ捨て台詞を吐いたエルアレクは、そのまま賑やかなほうへと歩いていった。

 悠然たる足取り――あくまで傍目にそう見えただけだが、ともかくそんな態度が妙に悔しくて思わず顔をしかめたルーティアだったが、すぐに諦めて後を追う。

 やがて完全に空に星が浮かぶ頃、サーシャとミラルドのための宴はより賑やかさを増し、その場に集う全てが歓びの波にのまれていくのだった。


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