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目の前にいるのは、ただの人である。
全身から不気味なオーラを放っていないし、恐ろしい仮面も被っていない。それどころか、目の前の子供を怯えさせないよう懸命になっている姿には心正しい優しさを感じる。
だが、怖い。
まるで何かに胃袋のあたりをギュッと掴まれたような、嫌な緊張感に襲われる。考えるより先に体が反応するのだ。
「……」
気まずい沈黙。チョコザインの額から、冷や汗が浮かぶ。私は相手を睨み据える。ガルザは、少し驚いているようだった。不審者の正体と、私の態度に。
チョコザインが、不意に動いた。その動きに「ヒッ!」引きつった悲鳴が喉奥から飛び出した。なんとも情けない。チョコザインは、少し屈んだだけである。
下唇を噛みながら、落ち着け、と心の中で自分に言い聞かせる。
チョコザインは、しゅんとした表情を浮かべて「そこまで怯えられるなんて……しょんぼり……」と呟いた。さみしげな様子である。
状況を見かねたように、不意にガルザが私の手首を取った。
「行くぞ」鋭い言葉には、有無を言わせぬ迫力があった。
力強く、体を引っ張られて、私はホッとしてしまった。止まっていた時間が動き出したように、体の中を温かいものが駆け巡る。
勝手に感じていた恐怖が胡散していく、あの恐怖は一体何だったのか、チョコザインへの先入観によるものか、それとも。ドクドクと心臓が鳴っていた。
このまま裏路地を出れば、安全な場所へ逃げられるだろう。チョコザインは、追っては来ない。うなだれているチョコザインは、そんな素振りすら見せない。
私は足を止めた。私の手首を掴むガルザの手に力が篭った。
「……チョコザインさま」
ぎこちなく声を絞り出す。私は聞かなくてはいけなかった。
「どうして、此処へ来たんですか」
この裏路地は私とガルザの場所である。どうしてこの男がいるのか。偶然にしてもゾッとする話じゃないか。ごくりと唾を飲みこむ。
「おお、よくぞ聞いてくれた!」
返ってきたのは、先ほどとは打って変わって実に朗らかな声である。
「実は私はとても大事な用があって、このナンテ―ネにやって来たのだ。しかし、何かと自由の効かぬ身ゆえ。こうして、こっそり逃げ出し――ではなく! お忍びでここまでやって来たのだよ」
振り向けば、チョコザインは人差し指を立てて、胸を張っている。なんだその妙に自身に溢れたポーズは。えっへん、と咳払いする姿がコミカルである。
「迫る追手もなんのその……それもこれも、使命のため。気がつけばこの路地へ、私はたどり着いていた。君達も、私の事はナイショだぞ」
人差し指を口元にやり「シー」と囁くチョコザイン。
カニ歩きでここに潜んでいた事といい、なんだこの面白い大人は。こんなのが裏で、世界をどうこうしようと画策してても、気が付けないかもしれない。いや、この態度はあくまで子供の前だから、ちょっとお茶目に振舞っているだけだ。そうに違いない。
「それで、頼みたい事とは、なんなのでしょうか」私は思い切って単刀直入に言った。
「ぬ。君はズバリものを言うのだな……そう、私が君達に頼みたい事、それは」
チョコザインが、私とガルザを勢いよく指差し。
「私とともに、マジマージの国へ来て欲しいのだ!」と言い放った。
「嫌なこった!」ガルザが即答した。
「そこをなんとか!」チョコザインが粘る。
「いきなり訳の分からねえ事を言うんじゃねえ! 誰がてめえみたいな、怪しい奴について行くかってんだ!」
「怪しくないぞ少年! これでも私は、巷でナイスガイと評判なのだ!」
「知るか!」
「この目を見なさい。一点の曇もないこの眼差しを、さあさあ」
自称ナイスガイが、真っ直ぐな瞳で私達を見つめる。確かに綺麗な瞳だ。
「なぜ、会ったばかりの子供を、連れて行きたいのですか?」私は正しく質問した。
「おいっ、ばか! まともに相手するんじゃねえ!」ガルザがもっともな事を言う。
チョコザインの行動は、神託によるものに違いない。そしてそれは恐らく、ガルザに関することなのだ。ナンテーネの国の裏通りにいる子供を、神官直々にマジマージ王国へ連れて行こうとする。その理由は。
「君は……。いや、そうだな。まずは説明せねばなるまい」
その時、私とチョコザインは、奇妙な視線を交わした。チョコザインは何かを感じ取ったように、神妙な顔つきになる。
私は手首を掴んだままのガルザの手に、もう片方の手を重ねる。苛立たしげに、ガルザはきつく眉を寄せて私を睨でいる。
「心配するな」と私がささやくとガルザは気に入らなそうに、舌打ちをした。
その瞬間、私はまたあの恐怖に襲われた。後ろから何かが勢い良くぶつかって、体に巻き付く。振り払えないほど強力な力で、ギュウと私とガルザは締めあげられた。
今度の恐怖は錯覚ではなく、巨大なイカの触腕がにゅるっと襲いかかってきたせいだった。




