10
タライに汲んできた冷たい水で、いつもよりも念入りに顔を洗う。順番待ちをする子と場所を変わって、横にかかる手ぬぐいで顔を拭いた。そこへ後から起きてきたガルザと目が合い「おはよう」と声をかける。ガルザは軽く片手を上げて応えた。
外はきれいに晴れていた。
この日の裏通りは慌ただしく、どこもてんてこ舞いのようだった。
普段ならこんなに天気の良い日は、みんなでシーツや毛布を洗濯して外に干しておくのだが、今日はそんな場合ではなさそうだ。
朝食を食べ終わった後、玄関ポーチに私とガルザは並んで腰掛けた。
ここからだと、孤児院の門から隣近所の景色がよく見える。
「で、お前も神官様のありがたい話とやらを、聞きに行くのか」とガルザ。
「行かないよ。お前と一緒にいる」
「そうかい。俺はてっきりお前も大はしゃぎ、してるもんだと思ってたがな」
建物や路地に飾りつけられた色とりどりの布で作られたガーランドや、他の飾りを視線で示しながら、うんざりしたようにガルザが言った。せせこましく薄汚れていた裏通りの、精一杯のおしゃれだ。
たった二日でよくここまで仕上げたものだと感心してしまう。
「この間までなんの興味もありません、て態度だったのによ」ガルザはせせら笑った。
「変わり身が早いよな。たくましい」
「大人って馬鹿ばっかりだな」
通りの向こうから、ばたばたと足音がしたかと思うと<チョコザイン様 ようこそナンテーネへ>と書かれた看板を抱えた大人が、教会の方向へ走って行くのが見えた。
そんな様子を呆れながら見物できるのも、子供の特権かもしれない。
白けた表情を浮かべるガルザと一緒に、私もぼんやり町の様子を眺める。
「じいさん達も行くんだろ。お前、ずいぶん気にしてたのに、本当について行かないのか」
「うん……いいんだ」私は首を横に振った。
孤児院を運営する老夫婦――じいちゃんとばあちゃんも、今日はチョコザインの訪問の様子を見に教会へ行くらしい。「せっかくだからねえ」とのんびり言う二人に、私は気を付けるようにと忠告した。「偉い人が来て、人が大勢いたら危ないことが、起こるかもしれないんだからね」くれぐれも気を付けて、と念を押す私に、二人は「シオンは心配屋さんじゃのう」と微笑んだのだった。ここの子供達も、みんな二人に付いていくようだ。
私にとって、孤児院のみんなは家族同然だ。危険が起こるなら守りたい。
だが、それでも私の最優先はガルザなのである。
バラッドはあれから姿を見せなかった。私の方からも、教会に行かず会いにも行かなかった。手紙だけは用意して、今も懐にしまってある。今日を無事に過ごせたら、渡しに行こうと思う。
バラッドはグレーゾーンだ。この間の話からして、本人に悪気がなくても、何かに首を突っ込んでいるのは確かで、おいそれと信用していい相手ではない。
などとまた私が思案していると、ガルザに頬を指で突つかれた。
「お前は本当に、考えこむのが好きだなあ」ガルザは呆れたように言った。
「うーん」唸りながら、私は首をひねる。
「頭を使うなとは言わねえが、ほどほどにしとけ」
そう言いながら、ガルザが立ち上がる。私も後に続くと、自然といつもの路地裏に行こう、という事になった。
ところが、普段と違って賑やかな裏通り。先日のパレードの時ほどではないが、人が多い。いつもの場所へいくのにも、倍の時間が掛かり、おまけに辿り着いた先には先客がいたのだ。
その男を見て、ガルザが舌打ちをした。私は思わずガルザの腕を掴んだ。
全身を覆うローブ姿、影の掛かった顔にはサングラス。こそこそとした様子で、あたりを伺いながら壁を背にカニ歩きをしている。
不審者である。まごうことなき不審者である。
キョロキョロしていた男の顔がこちらへ向いた。目が合ってしまい、私とガルザは咄嗟にお互いをかばい合うように動く。そのまま逃げ出そうとすると、不審な男が叫んだ。
「待つのだ! 私は怪しいものではなーい!」
「どこからどう見ても怪しいだろうが!」間髪入れずに、ガルザが言い返した。
こいつは本当に勇敢というか、向かってくる相手には歯向かっていくスタイルというか。
なんにせよ、ガルザの言葉に男はショックを受けたようだった。
「ウムムム……」
そのまま男はカニ歩きの姿勢から、こちらへ勢い良く向き直る。思わず背筋がビクッとして、私はいつでも飛び出せるように身構えた。しかし男は、こちらの態度を見てそのままの姿勢で固まった。
「むむむ……。いかん、こんなに幼い子等を怯えさせてしまうとは……!」
苦悶のにじむ声であった。ついでに、はっきりとしたよく通る声だ。身分のある人物だからだろう、堅苦しい言葉遣いが板についている。
よく見ればローブ姿でも解る。がっしりとした大きな体。身なりも清潔で、落ち着いていれば威厳のある人なのだろうな、と思わせる出で立ちである。今は混乱する熊のような有り様であるが。
冷たいものが背筋を伝う。私は、自分が汗をかいているのに気が付いた。
「……やはり。変装とはいえ、このサングラスはやめておくべきであったな」
何とか私達を怯えさせないようにしたいのか、そろりとした仕草で、男はサングラスを外した。彫りの深い顔立ちが露わになる。
「私はチョコザイン。君達に一つ頼みたい事があるのだ……」
突然私達の前に現れたチョコザインは、澄んだ瞳でそう言った。




