05 月の花が咲く優しい夜に
シャカシャカと卵を溶き、新鮮な野菜を先に炒めておいたフライパンに流し込む。ジューっと食欲を誘ういい音が鳴った。熟成するのを待ち、今日このタイミングで一番美味しく食べられるよう調整した卵である。野菜と軽く混ぜ合わせ、蓋をしてじっくりと蒸らす。出来上がるまでの時間でサラダのドレッシングを作っておこうと考えた時、愛らしい声がキッチンに響いた。
「せおっセオ!」
「おはようございます、お師匠さま。朝食はもうすぐ出来ますよ」
「あっおはようございます!」
自分が挨拶もしていなかった事に気付いたエイレンティアは、びしっと姿勢を正して返事をする。セオドリークは朝食を準備していた手を止め、一連の流れを微笑ましそうに眺めていた。
「私に何か御用でしょうか、お師匠さま」
「え? あ、そうですそうです!」
ああ肝心の用件が頭から飛んでいたんですね、と見抜き、セオドリークは頬を緩める。彼女の容姿が可愛いのは勿論だが、こうした言動の一つ一つが愛らしさを増しているのである。――実年齢はセオドリークの倍近く生きているのもあって、本人に言えば「それってわたしの威厳がないってことですよね……?」とへこませてしまうのだろうけれど。
「あ、あのですねっ一週間後にルナディアのお花が咲くのです! それであの……」
「もうそういう時期なのですね。当日はサンドイッチでも作って昼から行きましょうか。咲くところ、見たいですもんね」
「はいっ!」
嬉しそうに目をきらきらと輝かせる彼女を見ていると心が癒され、意識せずとも笑みが浮かぶ。彼女の外見も中身もどうして子供のままなのかは、大体の予想がついている。しかし口にする気にはなれず、サンドイッチの具は何にしようかと思考を別のところへやった。
「楽しみですね、お師匠さま」
今はまだ、ごまかし続ける。少しでも長くこの箱庭が続きますようにと願って。
◇◇◇
「今日はいいお天気ですよ、セオ!」
「はい、本当ですね。ですがお師匠さま、走ると危ないですよ」
「だ、大丈夫ですっ。わたしそこまでドジじゃないです!」
そうは言いつつも、彼女の足取りは危なっかしい。何かあった時は即座に対処出来るようにと、セオドリークは警戒を怠らなかった。すぐ傍に崖があり、落ちたりでもしたら洒落にならない。交代人格の彼女ならどうにかするだろうが、基本人格である普段の彼女に同じ事を望むのは難しいだろう。そういったところもまた、彼女の魅力の一つではあるのだが。
「セオは大丈夫ですか? 荷物、重くないです?」
こういったところもまた、愛おしいと思う。転移魔法を使わず歩いてきたため、彼女にしてみれば心配でたまらないようだった。セオドリークの体力は人並み以上にあると彼女も頭では理解しているのだろうけれど、気遣いは忘れないのが実に彼女らしい。
「平気ですよ、お気遣い有難うございます」
「い、いえっ、こちらこそありがとうなのです!」
元は貴族の出だというのに――そしてセオドリークは平民である――感謝の言葉も惜しまない。そういった意味でも、出会ったのが彼女でよかったとセオドリークは心から思っている。彼女ほどの人格者は国中探し回ったところで見つかりはしない。という自分の気持ちがどこまで彼女に伝わっているのかと考えると、頭が痛くなってくる問題ではあるのだけれど。
「さあ、着きましたよ。お師匠さま」
”魔女の森”の奥地、一年に一度だけ訪れる特別な場所。去年の記憶と変わらず存在し続けるそこでは、数多くの蕾が花開く時を待っている。
「わあっ、蕾がいっぱいです! 全部咲いたらすっごく綺麗でしょうね!」
ええ綺麗でしょうね、貴方が。その言葉は胸にしまって、「そうですね」と同意する。
花の名前は、ルナディア。初代王妃がこよなく愛したとされるその花は、一年に一度、赤い月と青い月が交わり白い満月となる日にのみ咲く特別なものである。加えて月の光が強く当たる場所でしか咲かないのもあって、多くの建物が立ち並ぶ現代では滅多に見る機会のない稀少な花だ。エイレンティアの好きな花の一つでもある。
「魔物が好む香りでもありますから、昔は魔物がいっぱいだったですけど……今はセオのおかげで安心ですっ」
「よかったです。結界を張った甲斐がありますね」
エイレンティアが困っていたのを知っていたセオドリークは、結界について勉強すると真っ先にこの場所に張った。加減が分からずあらゆる効果を込めたものを現在もそのままにしているため、実のところ最も強固だったりする。
「はいっ。ってああっ、こういうところがだめなのですよね……!」
「何がでしょう、お師匠さま」
彼女の考えなど全て分かった上で、セオドリークは敢えて問いかける。何故こんな事を言い出したのか読めているとはいっても、彼女の口から直接聞かなければ意味がないと思っているためだ。案の定、エイレンティアは言いにくそうに口篭もる。
「うう……こうやってセオを頼りにしてしまうのがいけないのです。わたしはいい加減弟子離れをしなくてはです」
彼女に信頼してもらえるように自ら望んで作り出した状況だとはいえ、せめてもうちょっとくらいは想いが通じてもいいんじゃないかとセオドリークは苦笑いを浮かべそうになる。彼女は悪い意味に取ってしまうと分かっているので、表情に滲ませたりはしないが。
「弟子は師の役に立ってこそ、ですよ。ベランジェ様のところの……ロストア様でしたか。あの方も嫌がっている風に見えましたか?」
いつか街中で偶然見かけた、国家魔法師の一人とその弟子の名を挙げる。美女に付き従う弟子の青年は、フードを深く被っているせいで表情こそ見えづらいものの至って機嫌が良さそうにしていた。
「え、えっと……楽しそうだった気が、します?」
「でしょう? 弟子の役目を奪っては駄目ですよ、お師匠さま」
「で、でも……」
セオドリークはランチボックスを置くと肩膝をつき、エイレンティアの毛先を指に絡めてくるくると回し始める。
「俺がティアに拾われた頃、俺は貴方のために何も出来なかった。あの頃の俺には何もなかったし、どうしようもないガキだったから。貴方に恩返し出来る力を持てたのが私は本当に嬉しいのですよ」
始めこそわざと昔の口調にしていたものの、途中から自然と戻ってしまっているのに気付き、最後に慌てて軌道修正する。彼女が持っている負い目を失くしてもらいたくてこうして模索を繰り返している事など、彼女は知りもしないだろう。
「わ、わたしもっ」
「はい」
「わたしも、セオに恩返しをするのです! だからセオっなんでも遠慮せずに言ってくれていいのですよっ」
ああ何でそういう発想に行き着くんでしょうね、と内心思いつつも、嫌な気はしない。彼女なりの誠意と優しさで返してくれたのだと思えば、充分に心地よいものだった。そんな彼女だからこそ、これから先も共に生きたいと願ったのだから。
「そうですね……では、私が作ったサンドイッチを召し上がってくださいますか、お師匠さま」
「もちろんですっ。……え、あれっ?」
「有難うございます、準備しますね」
「ち、違いますよっそういうことじゃないのです! それじゃわたしが得するだけなのですよ!」
あたふたする彼女に笑顔を返して、セオドリークはせっせと準備を整える。シートは当然の事、ティーセットやスコーン、ジャムなども用意していた。終えると、蓋を開けたランチボックスを彼女に差し出す。
「お師匠さまのために作ったものですから、お師匠さまに召し上がって頂いて、あわよくば美味しいと言って頂ければ私にとって何よりの幸福なんですよ」
どうぞ、と勧めれば、彼女はまだ納得がいってなさそうな顔でゆっくりとシートの上に腰を下ろす。スカートを抑えた後、膝の上に両手を置いた丁寧な動作は、誰が見ても貴族の令嬢だった。
「むうう、セオはわたしに甘すぎる気がするのです……」
「それはそうですよ、好意を持つ相手には甘くしたくなるものです」
「そうなのです? 男は好きな子をいじめたくなるものだって、ルノが言ってたのですよ」
さらりと告白したセオドリークだったが、しかし相手はエイレンティア、これまたあっさりと流してしまう。更には別の男の名前――エイレンティアの旧友の魔法使いだ――を出されたのでは、流石のセオドリークも眉間に皺を寄せそうになった。彼女に悪気は一切ないのだと分かってはいても、面白くないものは仕方がない。
「性格にもよると思いますよ、お師匠さま。少なくとも私は、好きな人には優しくしたいですしね」
滅茶苦茶にもしたくなりますが。本心は必死に抑え、しかしあの方はろくな事を喋りませんね、と心の中で悪態づく。余計な知識をエイレンティアに教えるのは止めてほしいところである。性格の悪い彼の事だ、セオドリークが返答に困る事まで見越してやったに違いなかった。
「うううん……」
セオドリークの心境など気付きもしないエイレンティアは、真剣な顔で何かを考え込む。
「それは家族に対するものとは違うのでしょうか……? むずかしいのです」
どうにもこうにも、エイレンティアは恋愛感情というものが致命的に欠けてしまっている気がしてならない。彼女が育った環境を考慮すれば責められない事であり、だからこそ長期戦になってしまったわけだが。
「ずっと傍にいたくて、いてほしくて、自分だけを見ていて欲しい。他の誰の目にも映ってほしくない――――……恋心とはそういうものですよ、お師匠さま」
彼女を想って話していたらつい本音が漏れてしまっていたものの、込められている危うさには彼女は気付かないだろう。……それはそれで複雑ではあるのだが。
「わたしもいつか……知る日がくるのでしょうか?」
「はい、必ず」
ふっと世界に闇が落ちる。やがて白銀の月明かりが満ち、周囲を照らし出す。人々にひと時の希望を与えるかのように、愛を告げるかのように、緩やかに浸透していく。
ある作家は、物語内でこう記した。「まるで女神が降りてくるかのような神々しい光景だ」と。
月の光をたっぷりと浴びて、固く閉じられていた蕾は花開いていく。ルナディアの花は咲き誇った後も美しいが、真に人目を惹くのはまさに花開くその瞬間だった。月の下で幻想的な光を放つ虫、ルハトが何匹も舞い、謡い、応えるようにして一斉に目覚める。
そうして、世界は純白で染められた。
「わあ……!」
黙って見守っていたエイレンティアから、感嘆の声が上がる。
「見てください、セオ! とっても綺麗なのですよ!」
「はい、見事ですね」
「摘んじゃうのはもったいないのですけど……でも立派な薬にしてみせますっ」
ルナディアの花は観賞用としての人気も高いが、貴重な薬の材料としても価値を持っていた。扱いがデリケートな上に調合が極めて難しいのもあって、薬を作れる者は国家魔法師の中でも限られているけれども。セオドリークも、こんな面倒くさい花を使うのは避けたいのが本音である。
「わたしはこっちを摘みますから、セオはそちらを任せてもいいです?」
「はい、勿論ですよ」
「お任せしましたです」
籠を手渡す。通常ルナディアの花は摘んだ先から萎れていってしまうため、長持ちさせる特別な魔法をかけて編みこんだエイレンティア手製だ。潰れないよう気をつけながら手際よく一つ一つ重ねていく。他の国家魔法師ならば魔法で一瞬で収穫してしまうし、その方が早いのだとエイレンティアも分かっている。しかし日常生活で魔法を使うのは躊躇われ、来年用に残しておく花にも影響が出そうだと毎年手作業で摘む事にしていた。
「うんっ、このくらいでいいでしょうか」
籠いっぱいに詰められた花を見て、エイレンティアは満足げに零す。
「セオもお疲れさまなのですよ」
「有難うございます、お師匠さまもお疲れ様でした。大丈夫ですか、疲れてはいませんか?」
「平気ですよっ。えへへ」
「お師匠さま?」
エイレンティアがにっこにこと満面の笑みを浮かべているため、セオドリークは不思議そうに聞き返す。どことなくいつもとは様子が異なっていたからだ。
「この日が来ると、セオとまた一緒に見られたって、とってもあったかい気持ちになるのです。わたしは幸せ者なのですっ」
曇りなく純粋に、本当に幸せそうに言うものだから、セオドリークも面食らった後、思わず赤面する。……ほんと、お師匠さまは魔性の女ですよね。
「無自覚とは恐ろしいものです」
「う?」
「いえ、何でもありません。お師匠さま、こちらを向いてください」
なんでしょう? と疑いもなく首を向けたエイレンティアの髪に一輪の花を挿す。寄って来るルハトの淡い光が彼女を照らし、純白の花が漆黒の髪にいっそう映えた。
「ああ、思った通りです。よくお似合いですよ、エイレンティアさま」
花に自身の想いを託して、嘘偽りない賛辞を述べる。きっと彼女は、気付かないだろうけれど。
「ありがとうです、セオ!」
「いえいえ。来年も見に来ましょうね」
「はいっ」
セオドリークが贈った花はその後プリザーブドフラワーに加工され、エイレンティアの部屋に長く飾られる事になる。
――――ルナディアの花言葉は「貴方を愛しています」
彼の想いが彼女に届くのは、いつの日か。