04 冷えた指先を暖めるのは誰ですか(3)
セオドリークにとってエイレンティアは敬愛すべき師であり、この世でたった一人の女性でもある。代わりなどどこにもいない、いるはずもない、愛おしくて仕方がない最愛の人。しかしそれは雛鳥の刷り込みにしか過ぎないと彼女は一蹴してしまう。狭い箱庭にいたせいで錯覚しているだけだと、外に出ればいくらでも可能性が広がっているのだと、やんわりと突き放す。何度反発しても、まともに取り合ってくれた試しがなかった。
そうやって繰り返していくうち、気付いた事がある。彼女は恐れているのだと。
ガチャッ。扉が開く僅かな音と不安定な魔力を感じ取ったセオドリークは、やはり今回もか、とベッドから体を起こす。椅子にかけてあった黒いローブを手に取り、部屋を後にした。だから少女を一人にするのは嫌だったのだと、己の選択を悔やみながら。
「お風邪を引かれますよ、お師匠さま」
小さな背中に向かって声をかければ、びくっと肩を揺らしたのがセオドリークの目に映った。彼女はたっぷりと時間をかけて振り返る。ようやくこちらを見てくれたエイレンティアは今にも泣き出しそうで、ばつが悪そうな顔をしていた。
「せ、セオ……あ、あの」
「そんな顔をなさらないでください、お師匠さま。責めているわけではないんです」
謝罪も必要ありませんよ、と付け足して、少しずつ彼女との距離を縮めていく。極力彼女の背後にあるものに目を向けないようにしているのは、それがセオドリークには忌々しいからだ。冷え切った夜更けに何故庭の隅にいるのかなんて、今更聞くまでもなく分かりきっている。
「ここは冷えます。家に入りましょう?」
自身のローブをそっと彼女にかけ、両膝をつくと目線を合わせて問いかける。セオドリークの眼差しも声も、どこまでも優しいものだった。だがエイレンティアは何かを言いたそうに彼を見つめた後、俯いてしまう。小さな手がローブを手繰り寄せる仕草は、ひどく弱々しい。彼女の中で様々な葛藤が生まれているのが見て取れ、セオドリークは苦々しい気持ちを抱く。
彼女の心を痛めるものなんて、この世から全てなくなってしまえばいいのに。罪の意識に苛まれるエイレンティアを見る度、セオドリークはそう願って止まない。
「セオ、あの、大丈夫……です。手間をかけさせてごめんなさい」
「いえ、私が好きでやっている事です。ですが今後は私を呼んでくださると嬉しいですよ。大事な時に傍にいられないようでは、弟子失格ですしね」
「ち、ちがいますっ。セオはよく出来た子なのですっ。わたしが……っ」
「緋色の魔女だから、ですか?」
セオドリークが核心をつけば、エイレンティアが握っているローブの皺が深くなる。
緋色の魔女。国家魔法師の数が最も多いと言われる魔法大国、セレディナ国の筆頭魔法師にして、英雄と崇められる女性。多くの功績を残した彼女を恐れてセレディナに戦をしかける国はない。それほどまでに彼女の力は突出していた。また、魔女のたった一人の弟子、守護の魔法使いによって王城と城下町は魔物の侵入を逃れており、魔女は自身の地位を更に確固たるものにした。
魔女は誰よりも強く、賢く、美しく、恐ろしい。人々の魔女に対する評価は、そんなものである。しかし、彼らが見ているのは表面上のみだ。本当は繊細でか弱い少女なのだと真に理解している者は限りなく少ない。
「……わたしの力は、立派なものなんかじゃないです。誰かを傷つけるばかりで……わかっているのに、わたしには止められない。彼女に押し付けて、わたしは逃げるだけ」
そう吐露する彼女の姿は痛々しく、抱きしめたくなるのと同時にやはり彼女も同じ事を言うのだな、と切なくもなる。どちらも彼女には違いないのだから、当然なのかもしれないが。
緋色の魔女、エイレンティア・ルーン・アンブローズ。彼女には、二つの人格が存在している。出生時に持っていた人格である基本人格は心優しく穏やかな性質の少女で、後に生まれた交代人格は威厳に溢れ命を奪う事に何の躊躇もしない女性だ。世間に知られているのも人攫いを焼いたのも後者の方であり、基本人格の少女は交代している間の出来事を何も覚えていない。けれど、自分にこびり付く血の臭いも、灯火が失われていく瞬間も、決して忘れる事は出来ない。……忘れてしまったら人として生きていけなくなる気がすると、いつか零していた。だから人の命を奪った夜には必ず同じ場所に訪れるのである。遥か昔に作った、盛った土の上に木で作った十字架を立てただけの簡素な墓の前に。
「……悔しいですね」
ぽつり、と本音が漏れる。エイレンティアにしてみれば予想外の発言だったのか、目を丸くしてセオドリークを見つめた。視線が絡んだセオドリークは、情けなそうに笑う。
「だってそうでしょう? 私と出会った時お師匠さまは既に緋色の魔女で、そうじゃなかった頃の貴方を私は知らないんです。私はそれがとても悔しい」
「ど、どうしてです?」
全てを説明したところで理解を望むのは難しいでしょうね、とセオドリークは苦笑いを浮かべる。曖昧に返して、ローブを握り締めている彼女の手を両手で包み込む。彼女は元々薄着だったせいか、随分と冷たくなってしまっていた。
「俺が、貴方の傍にいられたなら。絶対に一人にはさせなかったのに。……一緒に、背負ったのに。なんて事を考えてしまうのですよ」
彼女は恐れている。自分の手で誰かを傷つける事を。結果、一人になってしまう事を。
「だ、だめですっ! セオを戦場に出すなんて……っ」
当時の光景を思い出したのだろう、エイレンティアの顔から血の気が引いていく。彼女が戦場に放り込まれた時まだ十歳だったとあっては、トラウマになってしまったのも無理はない。別の人格を生み出してしまったのも、幼い彼女にはどうしようもない事だった。彼女の傷は、百年経っても尚癒えていないほどに深い。けれど。
「そうですね。どれほど願っても過ぎ去った時間は戻りません。でもね、お師匠さま。これからの時間を共に生きていく事は出来ます」
「これから……?」
「はい。私はいついかなる場合でもお師匠さまの隣にいますよ。ご存知の通り私はしぶといので、簡単にはいなくなりません。……ですからどうか、一人で泣かないでください」
左手を彼女の頬に添え、親指で涙を掬う。我慢していたようだが、一度零れると次から次へと流れ落ちていく。こういった時は必ず声を押し殺して泣く彼女を見ていると、やりきれない気持ちが芽生える。家族にも愛されなかった少女は、甘え方を知らない。
傷ついた心がせめて少しでも安らげばいいと、少女が泣き止むまで青年は傍にいた。人が入り込む事のない森には風が木々を揺らす音だけが響き、赤い月と青い月がただ静かに二人を見守っていた。
「あの、セオ、今度こそ大丈夫、なのです」
「よかったです。では、そろそろ家の中に入りましょう? 温かいミルクティーを淹れますよ」
「わあ、セオが淹れてくれるミルクティー大好きなのです! あ、でも、だめですっだめなのですっ!」
「駄目、とはどういう意味でしょう?」
目を腫らしながらも必死にぶんぶんと首を振るエイレンティアに、セオドリークは不思議そうに尋ねる。違う種類の方がよかったのだろうか? という彼の考えとは大きく異なり、彼女は聞き捨てならない台詞を発した。
「セオはわたしを甘やかしすぎなのですっ! わたしお師匠さまなんですからっ。そ、それに見た目はこんなですけど、立派な大人なのですよ!」
「はい、お師匠さまが私より年上の方なのは存じておりますよ?」
――立派な大人と言えるかは、少々怪しいところですが。その言葉は飲み込んで、セオドリークは何気なく頷いてみせる。子供扱いされたのが嫌だったのだろうかと思ったからだ。
「そ、そうなのです! だから……ああっ! 本を買うのを忘れてしまったのです……」
落ち着いた今になってやっと思い出したようで、がっくりと肩を落とす。その姿は誰がどう見ても子供そのものだった。ここで指摘するのはよくない、と学んでいるセオドリークは突っ込んだりはしないけれど。
「本、ですか? そういえばお師匠さま、手ぶらでしたね」
「ジェシカさんを追いかけるのに夢中で頭から飛んでたのです……。あうう、お料理の本をたくさん買おうと思いましたのに」
「料理、ですか。そのご様子ですと私に……ではなさそうですね」
「もちろんです、セオのお料理はすっごく美味しいのです! わたしにですっ」
「有難うございます。ですが、お師匠さまが作られるものも美味しいですよ?」
素直に褒めてみても、彼女の顔は浮かない。どうやら根底は別のところにありそうだと、セオドリークは冷静に眺める。
「だ、だめなのです。ひとりで色々作れるようにならないとセオが……っあ」
「私が、なんでしょう。お師匠さま」
失言だった、と慌てて口を押さえたエイレンティアに、セオドリークはにっこりと笑いかける。女性なら誰もが見惚れる美しい笑みだったが、後ろめたい事があるエイレンティアにしてみれば威圧感しか覚えなかった。
「わたしが、ひとりじゃ何も出来ないから……。セオがお外に出られないのです。安心してもらえるように頑張ろうと決意したのですけど……うう、わたしってどうしてこう不恰好なんでしょう」
逃げる道はないと悟ったエイレンティアは、正直に白状する。今度は、セオドリークが目を丸くする番だった。
「ひょっとして、近頃お師匠さまが思い悩まれていたのはそのせいですか?」
「だ、だって……このままじゃいけないと思ったのです。だから……」
尻すぼみしながら、ぽつりぽつりと語るエイレンティア。彼女が言いたい内容の全貌を把握したセオドリークは、盛大な溜息をつきたくなるのをかろうじて堪えた。彼女は分かっていないのだ、セオドリークの世界はエイレンティアを中心に回っている事を。彼は疑問すら抱かず、幸せと喜びで満ち足りている事を。
(……確かに、隠している部分はありますが。にしても鈍いですよ、お師匠さま)
セオドリークの想いがきちんと伝わっているならば、こんな事を言い出すわけはない。気付いていない上に、勘違いを重ねているのだろう。しかそれすら可愛いと思う自分は、完全に彼女に参ってしまっている。
「お師匠さま、エイレンティアさま。私は自分の意思でここにいるのですよ」
「で、でも……っわたしが頼りないせいでしょう? セオの実力を考えれば、本当は離宮に住むべきなのです。わたしは、いけないですけど……」
エイレンティアは再び目線を落とし、ローブをぎゅ、と握り締める。
エイレンティア・ルーン・アンブローズ。セオドリーク・ルーン・オルブライト。セレディナでさえ数少ない国家魔法師に与えられる「ルーン」の名を与えられた二人がこんな場所でひっそりと暮らしているのには、当然事情がある。通常国家魔法師は離宮の一角に住むのだが、エイレンティアにはその権限がないからだ。
百年前に大戦が終結した際、味方にすら恐れられていたはずのエイレンティアは突如英雄と持ち上げられた。立場は一転し、少女を一目見ようと人々が押しかけ、少女の容姿が整っていたのも相まって多くの人間が彼女の後見人になりたがった。王族も例外ではなく、世界最高峰の力を持つ魔女を管理下に置こうとしたのだ。ほとんどが自分の利用価値を考えての行動だと知っていたエイレンティアは争いを嫌い、唯一落ち着いていた宰相の助言を受けて必要な時以外の干渉は禁止するという契約を取り付けると森に引き篭もったのである。
争いの火種になるくらいなら、自分から一人を選んだ方がずっと楽だった。例え、どれほど哀しい道であっても。
「……お師匠さま、エイレンティアさま」
セオドリークは低く囁き、左手をエイレンティアの頬に添え、なめらかな肌をゆっくりと撫でる。彼女を慰めるためでもあったし、自分の気持ちをごまかすためでもあった。
セオドリークは、エイレンティアの家族に何の思い入れもない。少女を捨てた連中を憎いとも思う。傷ついた少女を助けなかったどころか、利用出来るだけ利用した国は不愉快極まりない。大した事もしていないくせに、死して尚彼女の心に残り続ける人々は鬱陶しい。彼女が許すなら、何もかもを葬り去ってしまいたかった。二人きりの楽園で長い時を生きられれば、これ以上ない幸福を手に入れるだろう。いっそそうしてしまいたいと、セオドリークは強く望んでいる。だが、それでは意味がないのだとも分かっている。本当に手に入れたいものは、犠牲の上では咲かない。
どうか、気付いて欲しい。けれど汚い想いも抱く自分を知ってほしくはない。矛盾だらけの中で、セオドリークはただただ彼女の傍にいたかった。
「せ、せお……?」
セオドリークの様子がいつもと違うのを感じ取ったエイレンティアは、どうしたのかと彼の顔を観察しようとする。しかしそれよりも早く、セオドリークは彼女の額に触れるだけの口付けを落とした。
「ど、どうしたのです、セオ」
「お慕いしておりますよ、お師匠さま」
誰よりも、何よりも、ひたすらに貴方だけを。
申し訳なさそうな表情をしていたエイレンティアだったが、セオドリークの告白を聞いてぱあっと顔を輝かせた。
「はいっわたしもセオが大好きですよ!」
「……今は納得しておきましょう。そういうわけですから、私はお師匠さまのお傍を離れませんよ。お師匠さまが私を破門にでもされない限りは」
「は、はもん……っ!? あ、ありえませんっ」
「ではずっと一緒ですね、嬉しいです。さて、ミルクティーを飲みましょう? 腕によりをかけて淹れますよ」
セオドリークは音もなく立ち上がり、ズボンについていた汚れを気にかける事もなく、エイレンティアに手を差し伸べる。一瞬迷ったエイレンティアも、彼の手に重ねた。互いの熱で温まり、風が吹いても寒さは感じない。