20 ブバルディアの追憶(2)
「わたしはエイレンティア・ルーン・アンブローズ。あなたのお名前は?」
その日、二人は出会った。死が二人を分かつまで、長い長い時間を共に過ごす事になる――――
「……エリセオ・オルブライト」
そういえば魔女相手に名乗るのはご法度じゃなかったか、と少年が思い出した頃には既に手遅れだった。失敗したと激しく後悔する少年とは裏腹に、少女は嬉しそうに笑う。
「良い名前なのですっ。じゃあセオっ!」
「は?」
「わたしは出かけてきますから、大人しくしててくださいね。薬が切れる前には帰ってきますけど、もし熱が上がって辛い時はこのお薬を飲んでくださいです。お水も置いておきますね。あとはえーとえーと、看病に必要なものって何があるです?」
「さ、さあ……。食べものとかじゃないの」
「たべもの! わかりましたっ。じゃあわたしは行ってくるのですよ」
「……いってらっしゃい……?」
反射的なもので返すと、彼女は一瞬動きを止めた後「うんっ」と満面の笑みを見せた。そして奥へと消えていく。その背中は薄れゆく意識の中で見たものと酷似していて、魔女に助けられたのは間違いないらしいと少年は悟った。一体何が目的なのかまでは分からなかったが。もしかしたら、元気になった後にぶくぶく太らせて食べる気なのかもしれない。確か、似たような内容の絵本があった気がする。何であれ、安易に信用はしない方がいいだろう。
人を信じたって、どうせ裏切られるだけなのだから。
◇◇◇
「おはよう、セオ」
大きな赤い目が、自分を覗きこんでいる。驚いて後ずさりたくなった少年だったが、体は言う事を聞かなかった。頭も顔も首も腹部も腕も足も全部が痛くて熱くて、どこを痛がればいいのかも分からない。
「か、体痛くないですか? 寒くないですか? あ、スープ作ったのです。たべませんかっ」
「おかあさんは……?」
縋るように彼女を見ると、目に見えて落ち込む。ああやっぱりな、と心のどこかで納得した自分がいた。
「だ、大丈夫なのです。わたしが絶対に見つけますから」
「……もういいよ、別に」
「え? で、でも」
「おかあさんは、街にいるから。僕がわすれてただけ」
「そ、そうなのです……? なら怪我が治ったら街に送りますね。スープ取ってきますっ」
腑に落ちない、という顔をしながらも、それ以上の追及はせずキッチンへと向かう少女。残された少年は、溢れ出そうになる涙を堪えて奥歯を噛み締めた。
「はい、どうぞっ」
体を起こすのを手伝ってくれた少女は、機嫌が良さそうににこにこと笑いながら温かいスープが入った器を差し出してくる。だが少年は一向に手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。
「どうしたのです? あ、動かすのがきついのならわたしが食べさせてあげますねっ」
嫌がらせなのだろうか。それともさっさと死ねという暗示なのだろうか。スープの色がドピンクなのはこの際気にしない。紫色の葉っぱが浮かんでいるのも気にしない。異臭がしているのも目を瞑ろう。……スープの真ん中でどどん! と存在を主張する巨大な目玉な一体どういうわけだろう。
「はい、あーん」
「いい、自分で食べる……」
残念そうにする彼女から器を受け取って、じっくり眺める。……あちこち視線を彷徨わせる目玉と目が合った。あまりの気持ち悪さに胃液が上がってきそうになり、背中には嫌な汗が流れる。これは、食べ物なのだろうか。
「あ、クルヴォの目玉なのですよっ。栄養満点なのです! きっとセオの怪我もすぐに良くなりますよ」
どうやら一切の悪気なく、純粋な好意らしかった。しかし余計に性質が悪い。目を輝かせながら見つめられたのでは、とてもではないがいらないと拒否出来る空気ではなかった。少年は腹を決め、おそるおそる先割れスプーンを目玉に刺す。予想外に弾力があり深くは刺さらなかったが、零れ落ちるどろっとした緑色の液体がスープと混じっていく。あーら不思議、とってもグロテスク。
「あんたさぁ……」
「う? わたしのことはティアでいいのですよ」
「そういうことじゃなく……ああもういいよ」
文句を言ったところで無駄だろうと、黙ってスープを掬い口に含む。
「……あれ……?」
すっぱい、しょっぱい、にがい、まずい……あらゆる覚悟で挑んだものの、どれにも当てはまらない。寧ろほのかな甘みが美味しいだなんて、そんな。紫色の葉っぱが爽やかな後味をもたらすなんてそんなまさか。
「ど、どうです?」
「おいしい、けど」
分からない、この見た目でどうして美味しいのか分からない。変な薬でも入っているんじゃないだろうな。
「よかったあっ」
おおはしゃぎする彼女を見て、少年の心に亀裂が走る。誰かと会話をしながら湯気が立つご飯を食べるなんて、久しぶりだった。美味しいと言ったら喜んでくれる、たったそれだけの事がずっと遠かった。一人の食事は冷たく、寂しく、悲しかった。
「なんで……」
「え?」
「かわいそうな子供を助けて自己満足に浸ってそれで満足か!? 自分は優しい人だとでもいいたいのかよ!!」
見ず知らずの自分に惜しみなく薬や包帯を使って治療してくれて、タオルが温くなったら変えてくれて、わざわざ食材を選んでくれる彼女は、優しいひとなのだろう。 本当は、感謝するべきだ。けれど、……けれど。――――他人が簡単に与えられるものを母は放棄したのだと、思い知らされるだけだった。
きっと本当は、最初から分かっていた。自分への愛情がとっくになくなっている事も、帰っては来ないだろう事も。本気で父親になる男と会わせる気だったのか、ただの口実だったのかは知らない。だが、母が息子を置いていったのは魔女の森だ。生き残れる可能性など皆無の、魔物の巣窟。
「あんたなんか……っ」
分かっていた。でも認めたくなかった。まだ信じていたかった。嘘でもいいから、心の拠り所にしたかった。幻の愛情に、包まれていたかったのに。
「あんたなんか、きらいだ!!」
どうしてよりにもよって、魔女に壊されなくてはいけないんだ。
「うぅ……っ」
泣き喚きたいのに、その気力すらない。それがまた歯がゆくて仕方がない。今頃母は笑っているのだろうか。お荷物がいなくなったと清々しているのだろうか。……せめてほんのちょっとくらいは、自分を想ってくれるだろうか。
「ねえ明日はシチューなんてどうかしら。野菜をたっぷり入れてね、パンと一緒に食べるのよ。エリオ、あなたも好きでしょう?」
幸せだった日々は、二度とは取り戻せない。
「セオ……」
「さわんな。あんたなんかに、なぐさめられたくない」
触れる間際で拒絶すれば、明らかに傷ついた表情に変わる。少しの罪悪感も抱かなかったわけではないが、そんな事に構ってはいられなかった。いっぱいっぱいで、他人を気にかける余裕などなかった。だからなのだろう、彼女の行動を予測さえ出来なかったのは。
「ちょ、さわんなって……っ!!」
背中に手が伸ばされたかと思うと、彼女の方に引き寄せられた。抵抗してみるものの、抜け出せそうにもない。痛くないから彼女は力を入れてないはずなのだが、よほど自分が弱っているという事なのだろう。或いは、魔法でも使われているのか。
「それでもわたしは、あなたが生きていてくれて嬉しかったのですよ」
白いローブからする甘い香り、薬の臭い。とくんとくんと時を刻む彼女の心臓の音。あやすように背中を叩く手も彼女の声も全部が温かくて、……悔しいくらい、切なかった。
泣き疲れて眠ってしまった後、ふと目を覚ますと隣で彼女が寝ていた。よくよく見れば顔には隈が出来ていて、仕方なく毛布を彼女にもかけてまた寝た。次に目を覚ました時は、抱き枕にされていたが。
「うん、包帯外していいかな。よく頑張ったのです」
それから数日が過ぎて、動き回れるほど回復すると少女は自分の事のように喜んだ。どれだけの薬代がかかったのかと頭に過ぎったが、彼女が勝手にした事なのだからと気に留めないようにした。
「街に送るっていう約束でしたよね。ええとおうちの場所いえます?」
「……帰る家なんてないよ」
「え?」
「僕を待ってるひとなんて、いない」
母と自分の道は、分かれてしまったのだから。少女は難しい顔で考え込んだかと思うと、名案が思いついた! とでもいう風にぽん、と手を叩いた。
「じゃあこのうちで暮らせばいいのですよっ」
「は?」
「弟……は年離れすぎてるし、息子でもないし……あ、そうだ、「弟子」っ。わたしの弟子になってください、セオ」
彼女の事は、決して好きではなかった。でも何故だかそれはとても魅力的な誘いに聞こえて、気付けば頷いていた。そして、彼女との生活が始まる。
「セオ、パンが焼けたのですよ。ミルの実いっぱい入れてみたのです!」
「いや、入れすぎだろ……」
「あうう……そうですか。わたしって何でこうだめなんでしょう」
「次がんばれば」
「そ、そうですねっ。次回は減らしてみるのです! ということでセオ、あーん」
「ちょ、つっこむなっ。あつっ!」
部屋の片隅で静かにうずくまる事が多かった少年に、少女は飽きる事なく食事やおやつを差し入れた。充分な食事が与えられず、同年代の子供よりも細かった少年だが好き嫌いがあったわけではないので、出されたものを食べているうちに大分肉もついてきていた。太らせて食べる気なんだ、という考えは未だ捨てきれないまま。
「おいしいです?」
「……おかあさんのパンの方が美味しかった」
彼女は弟子という名目で自分を引き取ってくれたけれど、気兼ねなく家にいられるようにという配慮なだけで、薬や薬草などには近付けさせなかった。危険な事もなく、何を望まれるでもなく、ただただ愛情を注がれて過ごした。
「何でこの家鏡ないの?」
ある日、ずっと気になっていた事を尋ねる。
「ううんと、棚の奥にしまったと思うのですけど……使うのです?」
「そもそも何であんたは使わないんだ」
「鏡、あんまり好きじゃないのです。その……見ても自分が映ってるっていう実感がわかなくて」
「ふうん? 変なの」
彼女は顔を曇らせて、しかしすぐに立て直す。
「今度買ってきますね。セオが使いやすそうなの探してみるのです」
「家にあるやつでいいんだけど」
「あ、でもその……さがすのが」
「このきたない家じゃむりだろうな。掃除くらいしたら」
「う、うう……がんばります……」
自分は相変わらず素っ気ない返事ばかりで、ひどい時は八つ当たりを繰り返したけど、彼女は常に一生懸命だった。その度に心は冷えて、絶対に心を許したりはしないと頑なになるだけだったけれど。
後から思い出してみれば、命の恩人に取る態度としては最低だった。売られていたっておかしくはないだろう。だが記憶の中のどこを探しても、その事について彼女から怒られた記憶はない。粗相をしただとか、そんな時は叱られたが、理不尽すぎる八つ当たりに対して彼女が言い返した事はなかった。やさしいひとだったのだ、彼女は。当時の自分はその優しさを受け入れなかっただけで。
だって、幼い子供にとって母親とは世界の全てだった。絶対的な存在だった。失ってしまった時、どうすればいいかなんて分かるはずもなかった。彼女がどんな思いだったのか知ろうともしない、ただの子供だった。
「あれっ?」
キッチンをごそごそと漁りながら、彼女は素っ頓狂な声を上げる。
「なに、どうしたの」
「うー。買い置きしてたと思ったのですけど、見当たらないのです」
「あっそ。てかそのくらい魔法でなんとかならないわけ? あんたってすごい魔女なんだろ」
きょとん、とした顔をして、その後すぐに淀みなく答えた。
「魔法は誰かのために使うものなのですよ」
初めて会った時以来魔法を見る事もなかったのだが、彼女なりの信条があるらしい。
「それにわたし、使える魔法少ないのです……。威力もあんまりないですし」
「あんなに大きい魔物もやしてたのに?」
「……魔物を? いつの話です?」
「僕を助けたとき。あれあんただろ?」
それとも思い違いで、火事だとも言うのだろうか。それならそれで受け入れられる気もする。薄々感づいてはいたが、噂されている魔女と彼女の姿が全く結びつかないからだ。
「多分、わたしではないのです。あ、いえ、あなたを家に連れて帰ったのはわたしなのですけど……魔物を燃やしたのは彼女の方だと思うのですよ」
「意味わかんないんだけど」
「うん、そうですね。実はわたしにもわからないのです」
おどけた風に笑っていたけれど、今にも泣き出しそうに見えた。妙に居心地が悪くて、強引に話題を変える。
「足りないのって、なに。僕が買ってくる」
「え? ええと……ってセオ一人で行く気ですかっ。だめです、危ないのです、許可できませんっ」
「買い物くらいできるよ。あんたはその間片付けたら」
「う……っ。で、でも本当に危ないのですよ。世の中良い人ばかりじゃないんですからっ! 魔物だっているしっ」
「だからっていつまでもあんたに頼りきりじゃよくないだろ。何もできない人間にしたいわけ」
正論で返せば、彼女は押し黙る。
「こ、子供は甘えていいのですっ」
「あんただって子供じゃん」
「わたしは六十歳以上生きてるのですよ。立派な大人です!」
「……だれが大人?」
「わたしがっ」
両手を腰に当てて、ない胸を張る彼女は誇らしげだ。そういう仕草をする時点で大人とは言い難いと気付いているのだろうか。
「……うっそくさっ」
「ええっ。ほ、ほんとなのですよ! 魔女や魔法使いは外見にほとんど変化が出ないのです」
「じゃあ絵本でよく老人に描かれるのは何で?」
「うーんと、その方が威厳が出るからとかっ」
「やっぱり嘘くさい」
ばっさり切り捨てれば、「あうう……」と瞳に涙を溜める。しょうもない嘘をつく性格には思えないが、信憑性がなさすぎてどうしようもなかった。
「わたしちゃんと大人なのに……」
「はいはい、認めるから。そのかわり、ついてくるなよ」
「で、でも……。うー、わかりました。”はじめてのおつかい”は大事だって、本で読んだことありますしね」
自分より精神年齢が低そうな少女に子供扱いされて正直なところむっときたが、なんとか抑える。口にしようものならまた反対されそうだったからだ。
「でもいいですか、セオ。街の近くまではわたしが送りますからねっ。一人で森を歩くのだけは許可できません!」
「わかった、それでいいよ」
「じゃあえーとお金とお買い物リストと、これを」
ポケットから何かを取り出し、手を広げて見せてくる。
「笛?」
「迷子防止に作ったものなのです。帰る時は吹いてください、迎えに行きますから」
「うん」
「何かあった時も吹いてくださいね! あ、そうだ、首にかけるといいのですよ」
そう言って、長い紐が首からかけられる。服越しのはずなのに、白い笛はひんやりと冷たかった。
「や、やっぱりわたしも」
「いやだ」
「うう……ほんとのほんとーに、気をつけてくださいね。じゃあ準備はいいです? 飛びますよ」
「いいけど、飛ぶって?」
彼女は茶目っ気たっぷりに笑って、何かを呟き始める。一体なんだろうかと呆然としていると手を差し出されたため、何気なく重ねる。すると足元に魔方陣が浮かび上がり、あ、と思った瞬間には景色が変わっていた。
「……森の、入り口?」
「街まで飛んじゃうと誰かに見られるかもですから。さ、いきましょうっ」
転移魔法、というやつなのだろうか。自分が体験する事になるとは夢にも思っていなかった。普通の子供なら感動の一つでもするのかもしれないが、どうにも何の感情も湧いてこない。結局彼女とは相容れないのだなと、ぼんやり思っただけだった。