11 兎と狼とナイトメア
黒く塗り潰された夢をみる。
何の色もない暗闇で、誰かも分からない数多の声があちこちで聞こえる。「助けて」「死にたくない」「もういやだ」「おかあさん」胸が張り裂けそうな声はやがて途切れ、また新たに生まれていく。逃げる事は許さないと責め立てるように、いつまでも鳴り止む事はない。
ごめんなさい。
何度も何度も、何度も心の中で謝って、必死に耳を塞ぐ。ただじっと耐え、時が過ぎるのを待つしか出来なかった。それ以外の力なんて持ってはいなかった。すると視界が開け、今度は一面に赤が広がる。拭い切れない涙が、血と同じ色の瞳から零れ落ちた。
木も、建物も、仲間すらも、何もかもを飲み込み炎は勢いを増す。人が焼ける嫌な臭いが、体に染み付いて離れない。次から次へと上がる悲鳴。目の前で倒れていく人々。消えていく灯火。自分が歪めた、愛おしいはずの世界。
「なん、で……!!」
ちがうの。こんなことをしたかったわけじゃないの。誰も恨んでなんていないの。何も奪いたくなんて、ないんだよ。なのにどうして、自分の足元には魔方陣が浮かび上がっているのだろう。どうして途切れる事なく詠唱を紡ぐのだろう。やめて、もう止めて。お願いだから、これ以上誰も傷つけないで。約束を果たしかった。あの日望んだのは、たったそれだけだったのに。不相応な願いだったのだと告げるかのようにして、真っ赤な塊が再度落ちた。
「ぁ、あ……」
ひどい吐き気と頭痛が容赦なく襲い、まともに立っていられない。沢山の声も、ほとんど聞こえなくなってしまった。一体どれだけの命が失われてしまったのか、見当もつかない。嘆き悲しむ遺族は、もっと多いに違いなかった。自分の想像が追いつかないほど、多くの……。手で口元を抑えていた時、右足を誰かに掴まれ、恐る恐る振り返る。
「ひ……っ」
ソレはもう、人の形を成してはいなかった。大部分の皮膚が焼け爛れ、両目は潰れ、下半身はどこにも見当たらない。僅かに上下する肩で、まだかろうじて生きているのが分かった。だが、助かるとは到底思えなかった。持って後数分だろう。にも関わらず足を掴む力は強くなっていき、ぎりぎりと骨にまで食い込む。
「緋色の魔女、お前だけは許さない……っ!!」
ああどうして、わたしは。
「……っ」
弾かれたように目を開ければ、見慣れた天井が映る。しかしそれだけでは先程までの光景が夢だったのか現実だったのか判断がつかない。全身に汗を滲ませながら、サイドテーブルに置かれた灯りを頼りに部屋を見渡す。……いつもと何も変わりはしない、薬品の臭いが充満するごちゃごちゃとした自分の部屋。でも、そこに大切な人はいない。
「せお……っ」
――――今、お師匠さまに呼ばれた気がする。
不意にそんな感覚に囚われ、セオドリークはベッドから身を起こす。時刻を確認したら、彼女は眠っている時間帯だった。ならば気のせいか、二度寝しよう……という考えには至らない。彼女の部屋の前まで行って一度だけノックしようと決める。何事もなければそれでいい。彼女が苦しんでいるかもしれない時に、のうのうと過ごすのは二度と嫌だった。ベッドを抜け出し、ローブを羽織ろうとした、その時。安定せずに大きく揺れた魔力が肌に突き刺さった。
「お師匠さま……?」
二人の部屋には、外部に一切魔力を漏らさない結界が張られている。強力な魔法具や魔法書が他所に影響を及ぼすのを防ぐためだ。これは本人達の魔力にも適用された。つまり彼女は、部屋を出た事になる。理解した瞬間、セオドリークは駆け出す。一分一秒が惜しかった。
ようやく辿り着き、ドアノブに手をかける。逸る気持ちを抑えきれずにやや乱暴に開け、一歩踏み出す――前に、自分の腰に抱きつく彼女のぬくもりを感じた。
「お、お師匠さま?」
「どこかいったらやだ、どこにもいかないで、一人にしないで……っ」
突然の事に動揺してしまったセオドリークも、すぐに尋常ではない彼女の様子に気がつく。ただ事ではないと、強く彼女を抱きしめた。
「大丈夫です、大丈夫。私はどこにも行きませんよ。ずっと貴方の傍にいます」
少しでも落ち着かせるため、彼女の背をやんわり撫でる。髪を梳く余裕もなかったのだろう、普段は結ばれている髪は背中で流れたままだ。
「ごめんなさい……っ」
縋る風に握り締められた手も体も、小刻みに震えていた。
「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ。わたしなの、わたしがやったの。ごめんなさい、奪ってしまってごめんなさい……っ!!」
ごめんなさい。うわ言のように彼女はひたすら繰り返す。しかしその謝罪はセオドリークに向けられたものではない。過去の人々に、恐らく今も聞こえているのだろう幻聴に対してだとセオドリークは知っていた。
そもそも人格が分かれるというのは、心的外傷が大きな原因と見られている。親に受けた虐待など耐え難い経験をした際に、「これは自分が受けている痛みではない」とまるで身の危険があたかも存在しないかのように思い込む事で、自分を守るのである。そうやって生まれた別の人格が痛みや哀しみを引き受け、その間本来の人格は眠る。自己防衛とも言えるそれは症例が少なく、専門としている医師を探すのも難しい。だが、一つだけはっきりしている事があった。この幼い少女は、そうまでしなければ生き残れない辛い経験をしたのだと。
「お師匠さま……、エイレンティアさま、ティア。大丈夫ですよ、ここには私しかいません。私は貴方を傷つけたりはしません」
こういう時はまず彼女を脅かすものは何もない事を教え、安心してもらうのが先決だった。しかし彼女は弱々しく首を振る。
「ちがうの……、いっぱいいるの。たくさん、たくさん声がして、黒いひとがわたしの周りにいるの」
「それは錯覚です、お師匠さま。耳を傾けてはいません。惑わされてはいけません。ここにいるのは私と貴方だけですよ」
人の影が見えたり、「死ね」などの攻撃的な言葉が聞こえたりするのは、二重人格や多重人格の人がよく訴える症状の一つなのだという。例に漏れず、彼女もそうだった。取り乱した彼女を目にするのは、悲しい事に今回が初めてではない。
「せお、だけ?」
「はい、私だけです。貴方を抱きしめているのは、誰ですか?」
「せお……。セオの、香りがする」
「はい。厳重に結界を張っていますので、許可なしに他の誰も入っては来られません。貴方に害を成すものは何もありません。大丈夫、大丈夫ですよ」
母親が子供に語りかけるようにやさしくやさしく、しかし確実に彼女の不安を取り除いていく。徐々に彼女の体から力が抜けていくのが分かった。セオドリークは涙で濡れた彼女の頬を両手で包み、上を向かせると視線を絡ませる。
「貴方は必ず私が守ります。ですから、おやすみなさい」
「うん……」
消え入りそうな声で呟いた後、しばらくして自分にもたれかかってきた彼女をしっかりと抱きとめる。ぼんやりと光っていたセオドリークの青い瞳から光が消えていった。
「……出来るなら、貴方に魔法をかけたくはないのですが」
時と場合によるとはいっても、どうにも罪悪感は拭えない。人の思考を左右する魔法を彼女は好まないと知っているからだ。だが今は自分の気持ちよりも彼女の身を優先しなくてはと、背中と膝の下に手を差し入れ、持ち上げようとする。が、その前に彼女の大きな瞳がぱっちりと開き、二人の目が合う。
「離せ、クソガキ」
心底機嫌が悪そうな、低い声だった。
「折角です、このまま運ばれてください。軽い魔法とはいえ、お辛いでしょう?」
「いらん気遣いだ、下ろせ」
「まあまあ、そう仰らず」
セオドリークは楽しげに笑って、体勢を変えずに階段を下り始める。苛立ちを隠せないでいる少女は彼に魔法の一つや二つぶつけてやろうかと本気で考えたが、賢明ではないなと渋々妥協した。セオドリークを気遣ったわけではなく、自身の体が怪我をしかねなかったためである。
「お部屋でよろしいですか、お師匠様」
「いや、何か淹れろ」
「はい、何にしましょう。ハーブティーがいいですか、それとも」
「ミルクティーだ。砂糖たっぷりの」
迷いなくきっぱりと言い切った少女を、セオドリークは意外そうに見つめる。
「……よろしいのですか?」
「いいも悪いもない。文句でもあるのか」
「いいえ、滅相もない。了解致しました、腕に縒りをかけて淹れますね」
あの方と同じものを――その言葉は胸に仕舞って、慎重に下りていった。
◇◇◇
紅茶を淹れるのが得意だったわけではなかった。どころか、幼少のセオドリークには縁が薄かった飲み物である。少年の母は、時間をかけて飲み物を淹れる人ではなくマメに買い物する人でもなかった。だから当たり前のようにエイレンティアが淹れてくれた時は驚いたし、見るからに高級そうなそれを平然と出して来た事も信じられなかった。初めての事に、戸惑ったのを覚えている。本当は嬉しかったのに素っ気なく返してしまった事も。
「出来ましたよ、お師匠様」
淹れ方を熱心に勉強したのは、彼女が好んだ事だけが理由ではなくあの頃の態度を悔やんだのもあったのかもしれない。
「特製のミルクティーです」
険しい表情で椅子に座る彼女の前に、花の模様が描かれたティーカップを置く。それを見た彼女は益々眉間の皺を深くし、敵と対峙するかにも似た覚悟の目でティーカップに手を伸ばした。
「淹れ直しましょうか?」
「必要ない。…………女神イシュルーチェと大地の恵みに感謝を」
事務的に淡々と食前の祈りを捧げ、カップの中身を口に含む。セオドリークが予想していた通り、彼女は端正な顔を盛大に顰めた。
「ですから淹れ直しましょうかとお聞きしたのに」
「煩い」
間髪を容れずに言い返した彼女だったが、棘は軽減されている。左手で口元を抑えている姿を見ても、もどさないように必死なのだろう。
「こちらをどうぞ」
セオドリークが差し出したのは、彼が自分用に淹れたミルクティーだった。
「お前のも同じ味だろうが」
「大丈夫です、砂糖は入れていませんよ」
「そうか、それはそれで腹が立つ事だな」
ふうと溜息をつくとカップを持ったまま席を立ち、キッチンに飲みかけのミルクティーを流していく。
「勿体ないですよ、お師匠様」
「お前に残りを飲まれるよりマシだ」
「……厳しいですねえ」
お師匠様が私をどう思っているのかよく分かりました。と苦笑いを浮かべ、自分の分を淹れ直すためにセオドリークも席を立つ。その間に少女は椅子に座り直して足を組み、砂糖が入っていないカップに手をつけていた。
「大体お前、何であんな甘ったるいものを飲めるんだ」
同様のものを基本人格のエイレンティアも飲んでいるわけだが、彼女がなじるのはセオドリークのみである。
「私も初めはびっくりしましたが、慣れれば美味しいですよ」
「慣れ、か」
妙にしみじみと放たれた一言が気にかかり、セオドリークは手早く自分の分を淹れて彼女の元へ戻った。
「お師匠様は何故、飲めないと分かっていながら望まれたのですか?」
「あの子が好むのはどんなものなのか、興味が湧いただけだ。……とてもではないが、アレは私には無理だな」
基本人格は甘いものを好んだが、交代人格は不得意としていた。砂糖は入れないし、後味がすっきりしたものを好む傾向にある。なのにわざわざ飲もうとしたのは、彼女なりに色々と思うところがあったのだろう。
「セオドリーク」
呼ばれた名が、重苦しく響く。その後、彼女はひどく言いたくなさそうに続けた。
「一応、それなりに、ほんの少しくらいは、弟子としてお前を信頼しているつもりでいる」
「有難うございます」
そうは言いつつも、彼女の顔にはありありと「非常に不本意だが」と書いてあった。
「お前が彼女に近付く事を許すのは、あの子を傷つけるような真似は絶対にしないだろうと信じているからだ。だが、近頃のお前の言動は目に余る」
やはりこの話題がきたか、とセオドリークは身構える。そろそろ突っ込まれるだろうなと想定済みではあったのだ。……心当たりが多すぎてどれを弁解すべきなのかは悩んでしまったが。
「あの子が優しいからといって、調子に乗るなよ。あの子は自分の気持ちを中々吐き出せない子なんだから」
「はい、心得ております」
反論の余地もなく、誠実に答える。彼女が言い出せる性格であったのなら、あんな風にストレスを溜め込む事もなかったはずだ。苦痛も苦悩も何もかも一人で背負い込んで、けれど耐えられるわけもなくて、結果、無理が生じる。
世界を置き去りにしたかのようにぼうっとする事もあった。人込みを怖がる事もあった。食べ物の味がしていない時期もあった。もう死にたいと泣き叫んだ日だってある。セオドリークが常に傍にいる昨今は比較的安定してはいるものの、根本的な問題が解決されない限り、彼女の心の病は完治しないのだろう。そう、根本的な問題が解決されない限り。
「ろくでもないですね、戦争なんて」
「ああ。何の訓練も受けていない十歳の女の子を放り込まなければ勝てない戦なら、さっさと負けていればよかった」
取り繕わなかった彼女の発言は、王族の前で漏らせば不敬罪で首を刎ねられてもおかしくはない。しかし唯一聞いているセオドリークが異論を唱える事はなく、気にする必要もなかった。
「――――私やお前のような奴の方が、稀なのだろうな」
「お師匠様?」
「お前も短い期間とはいえ騎士団にいたのだから分かるだろう。訓練を受けた兵でさえ初めて人を殺めた際には錯乱する者が多い。戦場なら尚更な」
「……そうですね」
遠い昔の出来事を思い起こせば、彼女の言う通りだった。同類である人間を殺す事への抵抗感は非常に大きく、決して容易な話ではないのだ。仲間や自身が身の危険に晒されても尚、敵を殺せなかったなんて話はそう珍しくもない。克服出来たとしても、命を奪った者の血の罪悪感を死ぬまで背負い続ける事になり、殺さない事を選択すれば倒された仲間への血の罪悪感や恥辱が苛む。どちらも地獄に違いはなかった。立ち直れず、騎士団を辞めていった者達もいる。セオドリークがその輪の中に入る事はなかったけれども。
「結局お前は、そんなところばかり私に似てしまったんだな」
たった一人のためなら、他の何を犠牲にしようとも構わない。躊躇いも後悔もない。それは交代人格の彼女とセオドリークに共通する思想だった。
長く戦場に出た場合、多くの人間が精神に何らかの変調をきたすという。狂気に追い込まれない人間、例えばこの二人のような人間は極少数であり、その場合は戦場に来る前に既にして正常ではない、生まれついての攻撃的社会病質者らしいとは著名な精神科医の言葉だ。いつかブルーノが笑いながら「きみら師弟って怖いよねえ」と半ば本気で零していた事もある。
「悔やみますか」
「いいや。お前が勝手にした事だからな、それ自体はどうでもいい」
どこかほっとしつつも、多少なりとも気にかけて欲しいと思ってしまうのは恋心故か。それすら彼女は「どうでもいい」と切り捨てるだろうけれど。
「お師匠様は惚れ惚れする男前ですねえ」
「好きに言え。だが……、」
彼女が口篭るのは滅多にない。もしや、とセオドリークは一つの可能性を口にした。
「言われたくないのはお母さん、ですか?」
戸惑った風に目線を逸らされ、図星なのは間違いなかった。
「やはり気になさっていたんですね」
「あの子の中で私はそういう位置にいるのかと思うと……。母親になったつもりはないんだが」
「そうですね、お師匠様はどちらかといえばお姉さんといったイメージでしょうか」
「それはそれで微妙なところだな……まあ母親よりはいいのか」
ああでもないこうでもないと頭を抱える彼女は子供っぽく見えて、なんとも可愛らしい。基本人格の彼女と交代人格の彼女が隣に並べば、素晴らしい目の保養になるだろう。現実には叶わない、所詮妄想でかないが。
「……何を笑っているんだ、相変わらず気持ちが悪い奴だな」
「いいえ、何でもありませんよ。ええ、何でも」
「ならその薄気味悪い笑みを止めろ。ああもういい、私は寝る。体に負担が掛かるからな」
最後の一口を飲み込んで、荒々しくカップを置くと席を立つ。その顔には明らかな疲労の色が窺えた。
「お休みなさい、お師匠様。ゆっくりお休みになってくださいね」
「ああ」
そこで、話は終わった。終わってもよかった。終われるはずだった。しかしセオドリークは真剣な顔で何かを考え込み、再び口を開く。
「私は貴方も心配なんです、シ……」
「その名で呼ぶな。私はエイレンティアでいい」
激しい怒気を含んだ声で遮られ、セオドリークは押し黙る。とてもではないが、続けられる空気ではなかった。敵にも味方にも恐れられた彼女の威圧感は、並大抵のものではない。
「……失言でした、お休みなさい」
「お前もくだらない事を考えていないでとっとと寝ろ。ご馳走様」
ぞんざいに言い残して、彼女は去る。一人残されたセオドリークは、悲痛そうに彼女の背中を見送った。
「俺は、貴方の心も守りたいんですよ」
行き場を失った彼女の名前が、音もなくとけた。