ある都市伝説「死刑執行手当の使い方」
拘置所に所属している死刑執行人は、職務遂行後に、同僚三人だけでしんみりと飲むのだという。
荒涼とした恐怖と敬虔さ、微かな死臭のまじった複雑な気分を、そのまま妻子のいる家庭に持ち込みたくないためである。
執行者は専門職ではなく、法務大臣による執行命令が下った後に、多くの刑務官の中から選ばれる。新婚ほやほやの幸せ者や、近々子供が生まれる予定の者は、外されることが多い。
刑の決定は、当日の早朝、暗いうちに死刑囚本人に告げられ、ほぼ午前中に処刑される。
祭壇室で、教誨師の僧が読経を始めると、刑務官の三人は、ボタン室の壁に向かう。
最後の言葉を語り終えた受刑者は、祭壇に回れ右をさせられて、明るく清潔な地下絞架式の絞首刑室に、おずおずと移動する。
この時、恐怖で脚がもつれて、まともに歩けない者も多い。
そこで震えながら白布を頭部に被せられ、膝のベルトをきつく締めつけられる。
予定時間を迎えると、拘置所の所長の合図にあわせて、刑務官は同時にボタンを押す。
三人の誰かが押したボタンの信号が、踏み板を外すのである。
――ガタリ、と非情な音がして、受刑者の姿がすっと消える。
刑務官はそこで、ひと呼吸する。
首に巻きつけられた強靱なロープが、落下による強い衝撃により、瞬間的に延髄と頸椎を骨裂させて、受刑者を縊死に至らしめる。
三人の刑務官は一歩さがり、頭を少し下げ、壁の前で小さく合掌をする。
この物理的なショックは、しっかりと頑丈に作られた近代的な拘置所の建造物においても、壁や空気を通して、微妙に伝わってくる。
床下に消えた死刑囚は、吊されたまま、宙でしばらくもがくこともある。両膝もベルトで固定されているので、それほど派手には動けない。いくぶん捕獲された動物のようにも見える。しかしこれは肉体だけの反射的な痙攣で、本人はすでに意識を喪失している。
しばらくすれば動きは止まり、あとは空調音だけがひびく永遠のような静寂が、物憂げに支配する。
現場当事者だけの奇妙な直感により、自分の押したボタンが受刑者を死に至らしめたことが、当の執行官だけにはわかるという。むろん、複数のダミーのボタンが同時に押されるので、これは理論的にはありえないことだ。しかし潜在意識をしめつけるような重苦しい疑念が、当人だけでなく、他の二人にまでも伝わってくるらしい。ギターやピアノなどのバンドメンバーの楽器の扱いで、相手の体調や精神状態が何となく伝わることによく似ている。
とはいうものの、冷酷に見えるこれらの任務は、最終的には国家と憲法の意志のもとに日々淡々と遂行されている形式的な実務の一つに過ぎない。
「法務大臣は、単にハンコを押すだけだからな……」
というのが、彼らの精一杯の皮肉である。
当日、任務に携わった刑務官には、所長から二万円の「死刑執行手当」が手渡しで支給される。
その晩酒を飲むのは、一仕事終えた解放感と、「お清め」の意味もあるという。どちらかというと、落ちついたバーではなく、適度に騒がしい居酒屋が選ばれる。できれば学生などがいて、賑やかで大衆的な明るい店がいい。
三人は、カウンターか壁際のテーブルで、生ビールのジョッキを酌み交わす。
彼らの間には、他のサラリーマン連には見られない、お互いへの敬意と、親密さの雰囲気が漂っている。一見、どういう職業の者かは傍目にはわからないはずだ。
居酒屋では、その日の任務については一切ふれないのが不文律となっている。
しかし勘定を払う段になると、他の二人が、一人に奢る。
奢る側の二人は、その際に目で合図しあう。理由は告げられることはないが、奢られた当人には、よくわかっている。執行室を出て以来、鳩尾のあたりが重苦しく、寒むけを伴った脅えと戦慄が、ずっと消え去らないからである。
初体験の若い刑務官は、これでようやく一人前と見なされる。
十分にアルコールがまわった彼らは、勢いでカラオケに行くこともある。大抵は、得意の持ち歌を持っている。女心を歌うこぶしの利いた演歌か、湘南系青春ソングのような歌に人気があり、ヤクザや渡世人を歌ったものは敬遠される。どうやら、思い当たる顔が妙にちらつき、しんみりしてしまうらしい。
こうして彼らにとっても、特別な一日が終了する。
「ごくろうさまでした。それじゃ、また……」
三人は、駅の改札やプラットフォームで、他の勤め人と何ら変わらない礼儀正しい挨拶をして、穏やかに別れる。電車内では、無名の帰宅者の一人として、コートの襟に首を深くうずめ、自宅近くの駅に着くまで、それぞれの孤独な時間に耐えなければならない。
――ある中年の女性ドキュメンタリー映像作家が、彼らの記録映画を作ろうとしてずいぶん前から拘置所と交渉しているが、いまのところ丁重に拒否され続けている。