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「世界の半分をやろう」と言ったら勇者が契約書を出してきた。

作者: 靴べら
掲載日:2026/06/28

 魔王グランヴェルシアは、黒曜石の玉座に腰掛け、悠然と足を組んでいた。


 玉座の間には、黒炎が揺らめいている。

 天井には赤黒い雷雲が渦を巻き、壁には歴代魔王の肖像画が並び、床には勇者一行がここまで斬り伏せてきた魔王軍幹部たちが転がっていた。


 その中心に立つのは、傷だらけの勇者。


 聖剣を構える腕は震えている。鎧は砕け、額からは血が流れ、それでも瞳だけは折れていない。


 よい。実によい。


 グランヴェルシアは、内心で深く頷いた。


 世界の命運を懸けた最終決戦。黒き玉座に座す魔王。満身創痍でなお立ち向かう勇者。


 ここまで舞台が整ってしまえば、言うべき台詞は一つしかなかった。


「勇者よ」


 グランヴェルシアは、ゆっくりと口を開いた。

 声に魔力が乗る。それだけで玉座の間の空気が震え、倒れていた魔族の何人かが、気絶したままさらに気絶した。


「もし妾の味方になるなら、世界の半分をお前にやろう」


 言った。ついに言った。

 魔王ならば一度は口にしたい、由緒正しき誘惑の言葉である。

 世界を支配する悪の王が、最後に勇者へ突きつける甘美な罠。欲望を試し、正義を揺さぶり、人間の弱さをあざ笑うための決め台詞。

 もちろん、本当に渡す気などなかった。

 勇者はここで叫ぶはずだった。断る、世界は誰のものでもない、と。あるいは、人々の未来を守るために来た、と。あるいはもっと単純に、ふざけるな魔王、と。

 そして聖剣を構え直し、最後の戦いが始まる。魔王は高らかに笑い、勇者は魂を燃やし、歴史に残る決戦が繰り広げられる。

 そう、幼少の頃に読んだ魔王伝に書いてあった。


「分かった」


 勇者は、聖剣を鞘に納めた。


「その条件を受ける。俺はお前の味方になろう」


 玉座の間が、しんと静まり返った。


 グランヴェルシアは笑みを浮かべたまま、しばらく動かなかった。動かなかった、というより、動けなかった。


「……勇者よ」


「何だ、魔王」


「今、妾の聞き間違いでなければ、分かったと言ったように聞こえたのだが」


「聞き間違いではない」


「さらに、味方になるとも言ったように聞こえた」


「言ったな、条件を受けよう」


 勇者は淡々としていた。先ほどまで、剣を交えていた相手とは思えない。戦士としての姿は見る陰もなかった。切り替え早いなおい。

 グランヴェルシアは、玉座の肘掛けに置いていた指をゆっくりと曲げた。

 おかしい。何かがおかしい。

 魔王として完璧な台詞を言ったはずなのに、勇者が想定と違う方向へ歩き始めている。しかもその歩みは、聖剣を抜くためではなかった。


 勇者は背負っていた荷袋を下ろすと、中から分厚い羊皮紙の束を取り出した。続けて、羽ペン、インク壺、印章台、折り畳み式の小机まで並べ始める。

 玉座の間に、これから会議でも始めるのか? と思うような事務的な雰囲気が流れた。


「では、受諾手続きに入る」


「待て待て! なぜ魔王城の玉座の間で、机が組み立てられておるのだ!?」


「お前が条件を提示し、俺が受けた。口約束で済ませるには大きすぎる案件だ」


「文官か貴様! 書類だなんだというのは我らのやることではないだろう!」


「世界の命運がかかってるからこそ、書面が必要なんだ」


 勇者は契約書を広げた。


 その手つきは、魔王と対峙する戦士のものではなかった。どちらかといえば、滞納した税を取り立てに来た文官のそれである。


 こんな勇者は嫌だ、というランキングがあれば堂々の第一位だろう。


「確認する。魔王グランヴェルシアは、勇者レオン・アルバートが魔王の味方になることを条件に、世界の半分を譲渡すると宣言した。相違ないな」


「……確かにそう口にしたことに間違いはない……ないが、勇者よ。普通は断るものではないのか」


「なぜ有利な条件を断る必要がある」


「正義とか、誇りとか、人類の未来とか、いろいろあるであろう!?」


「それを守るために受ける」


 勇者レオンは、広げた地図の上に指を置いた。


「現在、魔王軍の実効支配領域は世界全体の七割。人類側は三割。お前は世界の半分を譲渡すると言った。つまり、勇者側を五割にするということだ」


「ふむ」


「こちらはすでに三割を持っている。追加で必要なのは二割になる」


 グランヴェルシアは、しばらく黙った。

 計算してみると、確かに、世界は半分ずつになる。


「……計算が合っておるな」


「合っている。俺は算術を学んでから魔王城へ来た」

「勇者が何勉強しておるのだ! 貴様に必要なのは勇気だろう!」

「勇気だけで国は運営できない」

「王にでもなるつもりなのか貴様は……」


 こういうことはよく分からぬ。妾の領分ではないだろう、ここは……

 

「ベリアル」


「はい、陛下」


「今の計算は正しいのか」


「正しゅうございます。世界全体の五割を勇者側へ譲渡する解釈であれば、魔王領から追加で移管する領域は二割」


「二割で済むのか」


「陛下。済むという言葉は、お使いにならぬ方がよろしいかと」


「なぜだ。半分と言ったわりには二割であろう」


 ベリアルは、銀縁眼鏡を押し上げた。


「世界の二割でございます」


「二割であろう」


「世界の、二割でございます」


「同じことを二度言ったな」


「二度申し上げねば、陛下が一度目を聞き流されるからでございます」


 宰相は地図の上に指を滑らせた。


「世界の二割とは、小国なら二十、大国でも三つ四つ。人口、耕作地、鉱山、港湾、街道、魔力脈、徴税対象。国家運営上の損失は、甚大でございます」


「……多くないか」


「大変多いです」


「だが、半分よりは少ない」


「腕を一本落とされるより、指を三本落とされる方が軽い。その程度の話でございます」


「痛そうだな」


「痛うございます」


「妾、もしかしてやらかしたか?」


「歴代魔王の中でも、トップクラスにございますね」


「そこまで言えとは言っておらぬ!」


 その時だった。


 玉座の背後に刻まれていた古代魔法陣が、低く唸りを上げた。


 黒曜石の床に赤い光が走り、壁の魔法文字が連鎖するように輝いていく。魔王城そのものが一つの巨大な契約装置となり、空中に古代文字の列が浮かび上がった。


『魔王グランヴェルシアによる条件提示を確認』

『勇者レオン・アルバートによる受諾を確認』

『対価:世界全体の半分』

『追加移管必要領域:二割』

『契約成立』


「……待て待て待て! なんだこれは!」

 

「陛下。この玉座には初代魔王様の絶対契約陣が組み込まれております。玉座の間で魔王が発した重大な宣言は、世界法に登録され、条件と受諾がそろった時点で契約として成立いたします」


「妾はそんなこと聞いておらんぞ」


「即位式で、ご説明申し上げました」


「そうだったか?」


「陛下はその時、玉座の座り心地を確かめながら『たいへん偉そうでよい』と」


「それは覚えておる。実に偉そうな座り心地だった」


「契約陣の説明は、お聞きになっておりませんでした」


「なぜちゃんと聴かせなかった!」


「陛下は『細かいことはあとにせよ』と」


「言いそうだな!」


 グランヴェルシアは拳を握りしめた。過去の自分を殴りたい。


 その拳なら、山脈を砕ける。海を割り、空を焼き、古代竜の頭を一撃で地面に叩きつけることもできる。


 だが、契約は殴れない。


「取り消せ」

「不可能です」

「妾は魔王だぞ」

「契約上は不可能だ。陣を壊せば、契約違反として追加一割を没収される。我々の領土は四割になります」

「それは嫌だな」

「私も嫌にございます」


 魔王は、ゆっくりと勇者を見た。


「勇者よ。妾の味方になると言ったな」

「言った」

「ならば、この契約をなかったことにせよ。味方なら妾の損を防ぐべきであろう」

「それはできない」

「なぜだ」

「契約を維持した方が、魔王領の長期的な存続に資するからだ」

「勇者よ。妾の味方、という言葉の意味について、どうやら我々の間には深刻な見解の相違があるようだ」

「俺もそう思う」

「妾の配下となり、妾を称え、妾のために人類を裏切る。そういう意味ではないのか」

「違う」


 勇者は、実にあっさりと言った。


「相手が崖に向かって歩いているなら、止めるのが味方だろう」

「妾は崖になど向かっておらぬ。世界の七割を支配する偉大な魔王であるぞ」

「では聞くが。魔王軍の兵糧庫はあと何日もつ。前線維持の月間軍費は。占領地の反乱件数は。中央穀倉地帯の今年の収穫見込みは」

「知らぬ知らぬ知らぬ知らぬ! そういうことはベリアルに任せておる!」

「崖どころか、すでに片足が空中に出ているぞ」


 グランヴェルシアは、ゆっくりとベリアルを見た。


「妾は破滅寸前なのか」

「財政的には」

「なぜ言わなかった」

「毎朝、申し上げております」

「いつ」

「朝議で。陛下はいつも『細かい話はあとにせよ』と」

「妾が悪いのか」

「はい」

「妾の側近なら忖度とかないのか……」


 勇者は、騒ぐ魔王を横目に、地図へいくつか印をつけていった。


「では、移管領域を決める。面積は二割。停戦と復興のため、連続した領域でなければならない」

「妾は毒沼を推す」

「却下する」

「では、泣き叫ぶ森」

「却下」

「死霊荒野」

「却下」

「よく分からないけど怖い谷」

「名前からしていらない」

「勇者のくせに選り好みするな」

「使えない土地を押しつけるな」


 勇者は、地図の中央を指差した。


「中央大穀倉地帯。南方港湾都市群。西方魔鉱山。東西交易路。黒牙関門。魔力脈の三大結節点。この範囲で、おおむね二割になる」


 グランヴェルシアは、しばらく勇者の指先を見つめた。


「勇者よ。今、重要そうな名前ばかり並ばなかったか」

「重要な場所だから必要だ」

「重要な場所だから渡したくないのだが」

「そこを押さえなければ、停戦線として機能しない。それに人間領と接してるのはこの部分だけだからな」

「むぅ……妾から見ると財布と胃袋と玄関を同時に持っていかれているように見える」


 ベリアルが静かに頷いた。


「陛下。その認識は、おおむね正しゅうございます」

「正しいのか!」

「面積こそ二割。されど国家運営上の価値は、桁が違います。勇者殿は、的確に急所を抜いておられます」

「急所を抜いておいて味方を名乗るか貴様は!」


 魔王の叫びが玉座の間を揺らした。

 遠くの山が一つ崩れる。

 やはり力は圧倒的だった。だが、崩れた山から税は取れなかった。


 ◇◇◇


 勇者管理領は、驚くほど早く動き始めた。

 穀倉地帯では徴税が見直され、逃げていた農民が戻り始めた。港湾では複雑怪奇だった税が整理され、商船が再び入った。鉱山では作業時間が定められ、労働者が死ななくなった。黒牙関門では捕虜交換が行われ、何年も帰れなかった兵士が家族の元へ戻った。

 数年もすると、街としても活気あるものとなっていた。なんであいつ勇者なんてやってたんだよ。


 もちろん、すべてがうまくいったわけではない。


 人間王国は勇者を裏切り者と呼び、魔王軍の武闘派は魔王を腰抜けと呼んだ。教会は勇者管理領を異端の地と呼び、貴族は税制改革に怒り、商人は税がまだ高いと文句を言い、農民は税が下がっても天気に文句を言った。

 戦場の音は少しずつ減っていった。戦時下では考えられない、実に平和な文句だ。


 代わりに増えたのは、荷車、市場の声。鍬の音。パンの匂い。子供の泣き声。


 ある日、グランヴェルシアは臨時統治庁の窓から街を見下ろしていた。

 通りの向こうで、角の生えた魔族の少女が、人間のパン屋から焼きたてのパンを買っている。その隣では、人間の子供が魔族兵の尻尾を掴み、怒られて泣いていた。

 平和と呼ぶには、まだ不格好だろうが、戦時よりはずっとマシなものだ。

 しばらく、魔王は何も言わなかった。


「……勇者よ」

「何だ」

「妾は、世界の二割を取られた。良いところばかり取られた」

「そうだな」

「敵ならば焼けばよい。裏切り者ならば首を刎ねればよい。だが貴様は、味方として正しいことをしておる。妾が怒りにくいではないか」

「怒ってはいるだろう」

「とても怒っておる」

「なら問題ない」

「あるわ」


 グランヴェルシアは、ふっと息を吐いた。その横顔は、世界の七割を支配した魔王のものではなく、一人の王のものだった。


「だが、悪くはない」


 勇者は、少しだけ目を見開いた。


 それから、視線を手元の地図に落とした。中央に広がる、白く塗り直された管理領。捕虜が帰り、農民が戻り、商船が入る土地。


「……正直に言う」


「何だ」


「俺は、この条件を受ければ戦争が止まると踏んだ。だが、お前が本当に認めるとは思っていなかった」


「ほう」


「魔王は、最後まで魔王のまま死ぬものだと思っていた。聖剣で斬るしかないと。……そう思って、ここまで来た」


 勇者は、聖剣の柄に手を置いた。抜くためではなく、確かめるように。


「お前を斬らずに済むとは、計算に入れていなかった」


 玉座の間とは違う、統治庁の小さな窓辺で、勇者が初めて言葉に詰まった。


 グランヴェルシアは、その様子をしげしげと眺めた。


 そして、にやりと笑った。


「勇者よ。貴様、今、ほんの少し人間らしい顔をしたな」

「忘れろ」

「忘れぬ。妾を斬りたくなかったと、そう言ったのだぞ」

「今から斬ってやろうか」

「やってみるか?」


 勇者は聖剣を、妾は魔剣を抜き、構える。そしてどちらともなく吹き出した。


「やめじゃやめじゃ、もう争う必要はない」

「ああ、そうだな」


 領土割譲から数年経ち、ようやく、魔王と勇者の間に硬い握手が結ばれた。


「ところで勇者よ、握手のついでに一つ頼みがある」

「火山噴火演出費なら却下だ」

「まだ何も言っておらぬだろ!」


 ◇◇◇


 その夜、領土割譲より月に一度の統治会議が開かれるようになった月例会議が行われていた。

 戦前にこの広間で話し合われていたのは、どの国を攻めるか、どの都市を焼くか、誕生日にどの火山を噴火させるか、といった華々しい……華々しい? 議題ばかりだった。

 今はもう違う。税制、兵站、街道に食糧。財政赤字。


「皆の者、聞け」


 声が響く。魔族たちは一斉に頭を垂れた。

 グランヴェルシアは、相変わらず賢い王ではない。細かい話からはすぐ逃げるし、難しい書類を読むと眠くなるし、何かにつけて火山を噴火させたがる。

 それでも、この数年で、一つだけ変わったことがあった。


「妾は、今年の予算書を読んだ」


 大広間に、どよめきが走った。


「最後まで読んだぞ。三度ほど眠ったが、最後まで読んだ」


 魔族たちは、感極まったように顔を見合わせた。中には、こっそり涙を拭う古参兵もいる。世界の七割を支配した魔王が、書類を最後まで読んだ。あの、そういうことの一切を嫌い丸投げしていた魔王様が。彼らにとっては、どんな勝ち戦よりも嬉しい事だった。


 末席で、宰相ベリアルが、眼鏡の奥でそっと目を潤ませていた。


 ――この日を、何年待ったことか。


「ゆえに、妾は決めた」


 グランヴェルシアは立ち上がり、拳を掲げた。


「火山噴火演出費を、復活させる」

「何度も却下だと言ってるだろう」


 即座に、声が飛んだ。


 広間の隅、いつの間にか書類を抱えて立っていたのは、勇者レオンだった。今や統治庁の長として、月例会議には欠かさず顔を出している。


「なぜ貴様がここにおる」

「呼ばれたからだ。財政の議題があるなら、俺が出るのが筋だろう」

「妾の城の、妾の会議だぞ」


「お前の城の、お前の赤字だ」


 グランヴェルシアは、ぐっと言葉に詰まった。


「……一発だけ。誕生日に、小さいのを一発だけ」

「農地に灰が降る」

「ではせめて、魔王像の空中浮遊案を」

「それは通った。来月、東の広場で除幕式だ」

「通ったのか!?」


「観光資源になる。使えるものは使う」


 魔王は、満足げに胸を張った。


「ふふ。やはり貴様は、妾の味方だ」


「チョロいぞ魔王」


 そう言いながらも、勇者は次の議題の書類をめくっている。

 魔王が世界の二割を失った日から、もう何年が過ぎただろう。

 一部から失策と言われている、契約は、いまだに有効なままだった。

 なお、魔王本人は晩年まで、こう主張していたという。


「あれは失策ではない。妾による、高度な政治判断であった」


 そのたびに勇者は、決まって同じことを言った。


「嘘をつくな。ノリだっただろう」


 すると魔王は、少しだけ間を置き、胸を張って答えるのだった。


「うむ。ノリだった!」

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