僕の護るべき星16
僕は夜、部屋から兄様と共通のバルコニーに立つ。兄様は隣の部屋だからいつでもこうやって話ができる。
「兄様起きていますか?」
「聡かい?どうしたんだ」
「実は最近とても大切なものを見つけました。僕にとっては護らなきゃいけない星のようなものです」
初夏の夜風が、僕の着崩した浴衣の裾を優しく揺らす。
見上げる夜空には、都会の灯りに負けじと、いくつかの星が静かに瞬いていた。
「星、かい……」
兄様も僕と同じようにバルコニーに立っている。今日はだいぶ調子がいいようだ。兄様は僕の言葉をなぞるように呟いた。その横顔は、昼間の食卓で見せたときよりもずっと白く、どこか儚げだ。けれど、その瞳は夜の闇を映して深く澄んでいた。
「それは、浅山家のご令嬢のことかな?それとも、何か新しい学問の目標でも見つけたのかい?」
兄様のどこまでも無垢な問いかけに、僕は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
兄様は、僕が今日、そのお名前を騙って高瀬さんを動かし、叔父様を破滅に追い込んだことなど微塵も知らない。僕が護ろうとしている「星」が、この一条家の秩序を根底から覆しかねない、身分違いの不遜な恋だということも。
「いいえ。もっと身近で、僕のすぐ側にいて、僕が闇に迷いそうになったときに、いつも変わらない光で足元を照らしてくれる……そんな存在です」
僕はバルコニーの手すりをそっと握りしめた。
頭に浮かぶのは、先ほどまで僕の足元に跪き、冷たい半ズボンを着せてくれた巧の、あの直向きな指先の手触り。お屋敷の激流の中で、僕を「聡様」と呼び、全幅の信頼を寄せてくれる、あの強い瞳。
「そうか」
兄様はそれ以上深くは追及せず、ただ穏やかに微笑んだ。
「聡がそこまで大切に想えるものに出会えたなら、僕は嬉しいよ。お前はいつも自分のことを二の次にして、お父様や僕の顔色ばかり伺っているように見えたからね。……その星を、どうか離さないであげなさい」
「はい。命に代えても、決して手放しません」
僕は夜空を見上げたまま、心の中で強く誓った。
兄様の言う通りだ。僕はもう、父様に怯えて泣くだけの子供ではない。
この手を血に染め、一条家の闇に魂を売ってでも、僕は僕の星――巧を護り抜く。触れ合うのは小指だけでも、交わす言葉が主従の線の上であっても、僕たちの絆は誰にも引き裂けない。
「夜風が冷たくなってきた。兄様、そろそろお部屋に入りましょう。僕もそろそろ部屋に戻って寝ます」
「ありがとう、聡。お前は本当に、優しい弟だ」
兄様は自分の部屋へと戻り、僕も自身の部屋に戻る。
お屋敷の夜は静かに更けていく。けれど僕の胸の奥には、昼間の芝居よりも濃く、熱い決意の火が、消えることなく灯り続けていた。
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「あ、聡様。お茶を持って参りました」
「巧――」
「そろそろお休みですか?」
「うん。今日はちょっと疲れちゃった…。…あのね…」
「はい」
「巧は僕の事怖くないかなって…そう思っちゃって…」
その微かに震える声を聞いた瞬間、僕の胸の奥は、はらはらとした焦燥と、それ以上の愛おしさで焼き切れそうになっていた。
聡様。貴方が今日、広樹様の名前を騙って高瀬さんを動かし、あの叔父上を容赦なく破滅に追い込んだこと。
そして今、その細い肩にどれほど重い罪と、僕への狂おしいほどの執着を背負い込んでいるか。
――すべて、知っています。
知った上で、僕は貴方の足元に跪き、冷たい半ズボンを穿かせる忠実な犬を演じ続けている。危なっかしくて、今にも壊れてしまいそうな貴方の謀略を、裏からすべて支え、隠蔽しながら。
僕は持ってきたお盆を近くのテーブルに置くと、音もなく聡様の前に歩み寄った。
そして、いつものように、ごく自然に彼の前に膝を突く。見上げる聡様の瞳は、まるですべてを見透かされまいと怯える、気高い夜の星のようだった。
「どうして、僕が聡様を恐れるなどと思うのですか?」
僕はそっと手を伸ばし、聡様の冷えた指先に触れた。
触れ合うのは、いつも通りの主従の境界線。けれど、そこに込める熱量だけは、一条家の誰にも見せない本物の男のそれだった。
「聡様がどれほど冷徹な策を巡らせようと、誰を闇に突き落とそうと、僕にとっては関係のないことです。僕が護ると決めたのは、一条家の秩序でも、正義でもありません。……ただ一人、僕の足元を照らしてくれる、聡様だけです」
「巧……」
「ですから、どうか一人で怯えないでください。貴方が闇に迷うとおっしゃるなら、僕はその闇ごと、全部貴方を抱きしめてご覧に入れます」
そう言って、僕は聡様の華奢な手のひらを包み込み、そっと甲に唇を落とした。
はらはらするほど危うい、僕たちの純愛。貴方が僕のために手を汚すというのなら、僕はその手を何度でも、この命に代えて洗い流し、貴方を綺麗な主君の座に据え置き続けよう。
「……今日はお疲れになったのでしょう。お召し物を楽なものに替えますね、聡様」
いつもの穏やかな従者の微笑みに戻り、僕は彼を見上げた。僕の強い瞳が、聡様の不安をすべて溶かしていくのを確信しながら。




