01-1/4
「あちゃー、ここもダメかなあ…」
屋根に上ってた酒井は、コーキング材が劣化して雨漏りになる前に修理しようとしていた。
「いや、もうこれ次のお休みで…」材料を買いに行こうと決意した。そろそろ出勤時間だ。
これはシャワーを浴びていくかなあ…と思い、手早くバスルームに入ってシャワーを使う。
シャワーを浴びてドライヤーで胸の高さまである黒髪を手早く乾かし、昨夜ポストから取るだけ取って見てない郵便物に目を通す。
「同窓会のお知らせ…これはいいや」真っ先に捨てられた手紙は、酒井の出身大学の同窓会からのお知らせ。
特に興味はなかった。
WHOからのエアメールが来ている。後期研修過程でWHOに参加している酒井にとってこれは重要なのだが…
「電子メールで先に貰った内容だから、まあいいかな。フランス語わかんないし」
とあっさりと整理ボックスに放り込む。
あとはここの土地の税金系のものが来てないかをチェックしているが……無さそうだ。
(めんどうだなあこれ…いつも時間かかるし…切ろうかな…いやいやいやいやいや、待て待て待て)
と悩みつつ長い髪をシニヨンにきゅっとまとめ、手早く着替える。
今日は雨が降りそうなので、車で出勤することにした。
車と言っても、まだ研修後期課程に入ったばかりの酒井にいい車は買えない。
WHOの都市部IT臨床プロジェクトは国連職員でいうところのP-1から入れたので、それなりのサラリーはある。
それこそ一般の研修医に比べればいい方だろう。
しかしまだまだ…だ。
結局亡き両親が残してくれた作業用のスバル・サンバーをそのまま使っている。
「サンバー君もそろそろフライホイール見てあげないとなあ…お休みにホムセン行ったら修理工場も行ってみるかあ…」
26歳の女子が乗るにはあまりにも奇妙に見える軽トラックだが、酒井にとっては大切な、しかも実利も兼ねた「スーパーマシン」だ。
いつもはジャイアントの自転車で聖路都国際病院まで通っている。
自転車でも15分かからない。逆に車のほうが道が狭いので時間がかかる…この辺りはそんな場所だ。
「では、行ってきます。おとうさん、おかあさん。」
「差押物件」と札の張ってある玄関の横にある簡易ガレージから、酒井はサンバーを発車させる。
660㏄のクローバー4が控えめな咆哮を上げる。「農道のポルシェ」が北新宿の裏道を疾走る。
…
…
「ええっと、早い話、そいつの身元は分からないわけですね?」高嶺がコーヒーをサーバーから自分のカップに注ぎながら刑事に聞く。
「ええ…ベンゼン事故そのものは捜査中なのですが…」築城巡査部長が紙のファイルを閉じながら答える。
先日起こったベンゼン事故、交通事故で運ばれた患者は車内に積まれていたベンゼンが事故のショックで容器が割れ、ベンゼンを大量に浴びて即死。
同乗していた救急隊員は偽物で該当者はいなかった。
「どぞー」高嶺は築城にコーヒーサーバーからコーヒーを注いだ紙コップを渡す。
「あ、ありがとうございます先生…違法にベンゼンを運んでいて…それそのものは違法ではないのですが、提出していただいたデータを見ると明らかに違法薬物の生成に使われていました。」
「それはうちのルナの分析結果でもわかったんですけど…」ルナは対話型AIで医療行為のすべてをサポートする革新的な技術だったが、それ以外にも総合的なサポートを聖路都国際病院の中で行っている。例えば…
「逃走した男が出ていくまでのデータ、骨格からのデータもあってありがたかったのですが、結局この男もよくわかっていません」ちょっと苦々しそうに築城が答える。ミルクと砂糖は入れずに築城がコーヒーに口を付ける。
「つまりまとめると…うちが丸損ということですよねーあーあ…まったくもう…」呆れるように高嶺がため息をつく。砂糖をカップにだばーっと大量に入れている。
ここはER関係者のラウンジなので、関係者以外に情報が漏れることは無い。こうして管轄の翡翠橋警察署の刑事課から来た刑事とのやり取りも安全に行える。
「これちょっと見てくださいよ築城刑事…あ、ルナ、築城詩織巡査部長に一時的なアクセス権限をあげて」
【ツピ!了解しました高嶺先生 当該記録のみへの一時的なデータのアクセス権を 警視庁翡翠橋警察署 刑事1課の築城詩織巡査部長に付与します アクセス可能時間は60分】
「このルナ…って凄いですよね。本庁のサイバー部門の警部補も驚いてましたよ、私も見たい!って」
「それうちのIT部門が聞いたら泣いて喜びますよ…うちの理事長は『売り物にしようぜ!』とか身も蓋もないこと言ってますけど」
「声で命令を出せる、瞬時に判断する、検知率は限りなく100%、病院中のIoTと接続し集中管理する、医療機器の操作もできる…確かに売れそうですね」
「まあ私の給料には関係ありませんけどね」高嶺が苦笑する。
「でも「ルナ」という名前の人がいたら、起動はどうするんですか?」興味本位で聞いている築城には、特段の疑いを聖路都にかけているわけではない。
「なんかその…なんかあるみたいです、声紋で判断するようです」
「実は本庁のその警部補、名前が「瑠奈」なんですよ、千歳瑠奈警部補」
「…」
「…」
高嶺と築城は、顔を見合わせて爆笑した。
酒井が出勤し、女性用ロッカーで着替えて…といっても上のシャツを脱いでスポーツブラに変えてWHOのスクラブを着ただけだが…聴診器を取ろうと自分のロッカー内の上段を見る。
聴診器が二つ置いてある。どちらもリットマンの標準的なものだが、身長152センチの酒井にとってはどちらも少々チューブが長い。そしてそのチューブが深い紺色とピンク色のものがある。
「今日は…おとうさんのを使わせてもらうね」と酒井はそのうちの一つ、深い紺色のチューブのリットマンを手に取り首に掛ける。
この二つの聴診器は、両親の形見だ。
酒井からは家族の肖像は直接的にはもう見えないが、そこここには確かに家族の肖像が残っている。
最後に首からIDカードを下げる。この病院の職員は首から下げるにしろ、白衣などの胸ポケットに装着するにしろ、横型のものを使っている。
WHOディレクターとして聖路都国際病院のERシフトに入っている南野をはじめとして、リンドバーグ、ンゲマ、グエン、そして酒井のWHOメンバーはすべて縦型のものを使っている。
識別が容易というのもあるが、識別に関してはWHOメンバーはすべて同じデザインの国連ブルーのスクラブを着ており、これには両肩にWHOのマークが入っている。白衣は着ても着なくてもいいが、一応同じ位置にWHOマークが入ってる白衣は用意している。単に動きにくいからというだけで白衣を着ていないだけだ。
酒井がロッカールームを出て受付に顔を出す。今日は本宮と野川がシフトのようだ。ERの受付は、昼間は2人でカバーする。
「野川さん、梨沙ちゃん、おはようございますー!」屈託のない元気さで二人に挨拶する。
「あよーさかいせんせー」かったるそうだが失礼には聞こえない声で野川が答える。
「おはようございます、理乃ちゃん先生!」本宮が挨拶を返す。何やら二人で菓子のたくさん入った袋をあさっている。スーパーで5円で買う袋の優に4倍はある。
「おぉ…そんなお宝、どこで手に入れたんですか…?」目を輝かせて酒井が聞く。
「あーこれ、なんつーの、おたくんとこのボスが差し入れーってさ」不愉快そうな顔ながらもどこか嬉しそうに野川が答える。
「ボスって南野先生ですか?」
「そうです!いつもお疲れさまーって!餌付けされていますねーうふふ」
「餌付けじゃないよ梨沙っちー?こないだまたアタシの名前で吹きやがったからね…補償を求めるって言っただけだよ」どこか鋭さをもって野川が笑う。
「えー?萌那莉紗ってかわいいじゃないですか?」本宮が本気で答える。
「なにがグローバルスタンダードだ、あの野郎…今度吹いたら現金だな、キャッシュだキャッシュ」野川はなるべく高そうな菓子を自分が取りやすい位置にシフトしている。
「ふぅん…私たちにはあんまりくれないんですよね、お菓子」口を少しとがらせて酒井が言う。
「えっ、そんなことないですよ?ラン先生にもマギー先生にも…リリ先生にもあげてたみたいですよ?」本宮が答えながら、チョコレート系を自分に確保しようと袋を漁っている。
「なんだとー!あの男、私だけ餌付けしないと言いやがるか!!」ぷんすかしながら酒井が答える。
「餌付けじゃないよ補償だよ補償」ニヤっと笑いながら野川がほくそ笑む。
ERのエントランスに親子連れがやって来る
12歳くらいの少女と錆びた茶髪の母親、小太りであまりガラの良さそうではない父親。
受付しようとしていたので、皆がそそくさと仕事モードに変わる。
「おはようございます、どうされましたか?」酒井がまず少女に向けて聞く。
「あ…あの…」少女は若干おどおどしながら伏し目がちに酒井に答える。
「なんかねえこの子学校でドッジボール?やってて突き指したそうなんですよ」母親が娘を遮るように話す。続けて、
「ホントさあこいつさあ、どんくさくってたまらねえんだよな」父親がニヤニヤしながら話す。年は40過ぎだろうか。
(なんだこの親…ひどいなあ…)と酒井は不快感を覚えたが、何とかそれを隠しつつ話を続ける。
「ん?なんだいどうしたんだい?」と陳がその会話に入ってくる。チェンは早番で勤務中で、既に別の患者を担当した直後だった。
「あー小梅先生おはようございます、この子が突き指しちゃったそうなんですよ」酒井が答える。
陳 小梅は香港の大学から交換留学プログラムで聖路都国際病院で後期研修医として勤務している。
しゃおまい、は日本語でシュウマイにも聞こえるため、陳本人としてはそれはちょっと…と感じていた。
本人はPlummyとミドルネームで呼んでくれ、あるいはチェンで、と言っている。
香港人は広東語による名前のほかに英語名というものを持っており、もっぱら自分で付けている人物が多い…とのことだ。
しかし小梅という名前は日本語読みで「こうめ」でも通用するため、キュートに感じるのなら…と渋々陳も了承している。
「理乃先生はまだ勤務時間前だろ?私が受けもつよ」チェンは気さくに言った。
「ええホントですか?ありがとうございます!ではお願いしますね!」酒井はいったん関係者ラウンジに行く。
「それでは…こんにちはお嬢さん。私はここの医師のチェンです」とチェンが言いかけた瞬間、チェンはイヤな感じの言葉を耳にする。
「ああ?なんだガイジンかよ…」小太りの父親がわざと聞こえるように悪態をつく。
「…私は香港の医科大学を卒業し、日本語もこの通り支障なくこなしております。それが何か?」
「中国人か…にーはおードクター」と小馬鹿にして言う。
「 <…ルナ、プラミーだ、広東語で話そう> 」
【 <ツピ!広東語了解です チェン先生>】
「 <香港と中国の違いも判らないこのクソバカの娘さんは私が看る。どこが開いてる?>」
【 <カーテン1,3,4号がそれぞれ使用可能です> 】
「 <よし、じゃあカーテン1号を使うよ、このクソバカは一応記録しておいてくれ、なんかムカつくわこいつ>」
【 <ツピ!記録了解です 行き過ぎた暴言等あった場合には速やかに申し出てください 警備を手配します> 】
「 <はは、それには及ばないよ、私がリドカインを1000mgほど、このクソバカの脳髄に刺すだけだ> 」
【 <冗談としては面白いのですが あまり過激な発言は容認できません 記録からは消去しておきます> 】
「 <君にはかなわないね、ルナ>」
苦笑しながら娘に優しく話しかける。
「さあ、いきましょうか。」
「………」
「野川さーん、カーテン1号使います」チェンが受付に告げる。
「あーいりょうかーいチェンせんせー」けだるそうに野川が答える。
となりでは今の保険証の情報を入力しようと本宮がしているが…
「あれえーおっかしいなあー」
「ん?どした梨沙ちゃん?」
「野川さーん、この保険証の番号入らないんですよー何回トライやってもエラーって出ます」
「あい、あーしのほうで打ってみるわ、コピーかしてみ?」
「あっはい、すいません野川さん!」
保険証のコピーといっても紙ベースでは取っておらず、診察中に預かっている保険証をカメラで撮ってその情報をスキャンしているだけだ。
聖路都国際病院では、紙ベースの事務作業は極限まで少なくなっている。
「んーどうしたの二人とも?」高嶺が築城と一緒に受付に来る。
「あぁ高嶺先生、この保険証の番号がエラーになるんですよー」本宮は答えつつ、高嶺と何回か見たことがある刑事の築城をチラ見する。
「んー、どれどれぇー?」高嶺がカウンター越しに体を伸ばして受付端末のPCのディスプレイを覗き込んでいる。
「………」
白衣を脱いでいる高嶺は身体を伸ばしているのでパンツスタイルのヒップラインがはっきり出ている…風景を本宮はチラ見している。
(やっぱり高嶺先生いいスタイルしてるなー…おなかも全然出てないし、おしりも落ちてない…35歳でこのくらいって「バイトのお客さん」にもあまりいないわよね…)
「…ねえ築城刑事、この番号ってなんか変じゃないかな?」高嶺は保険証を指でつつく。
「ええ、私見ていいんですか?ではちょっと失礼して…」
築城も同じように体を伸ばしてカウンター越しにカードを確認する。築城は現場で動きやすそうなチノパンを履いている。
「…………」
(えっ、この刑事さん、こんなにスタイル良かったんだ…細いのに腰がくびれてて、胸も…私と同じくらいあるかも…ええー28くらいよね……)
そして本宮は何かの妄想モードに一瞬入る。
野川さんは開け透けなくていい人なんだがそれどまり。でも高嶺先生と築城刑事は別の意味でかなり、いい。
(どちらも私はアリだな…口説かれたら普通に抱かれたいかも…)
…
…
「…みやさん、本宮さん?梨沙ちゃーん、おーい?」高嶺が本宮の目のまで手のひらをひらひらさせている。
「っ…??はい!!すいません高嶺先生!」慌てて妄想モードから現実世界に引き戻される本宮。
「どしたの?疲れてるの?」
「い、いえ、なんかぼーっとしてました、すいませんっ!」
「おいおいーたのむぜえーアニキー?」高嶺は自分が性的な目で見られていたとは思いもせずにおどけて言う。
「つーかこれさあ…」野川が保険証をひらひらさせて言う。
「偽造じゃね?」
(医療用語?解説)
フライホイール
Flywheel、はずみ車のこと。車のマニュアル車には必ずあるが、説明が異様に難しい。
回っているエンジンの駆動の回転ムラを防ぐ(ピストンエンジンだと一定で回っているようで回っていない)、その動力をクラッチプレートに伝える、などの役割がある。
クローバー4
エンジンのシリンダー(気筒)の形式の一つ。V6(V型6気筒)とか直4(直列4気筒)とか言われるが、クローバー4はスバルの直列4気筒エンジンのこと。小さな排気量だと3気筒エンジンが多いが、4気筒は振動が少なく高回転まで使える…とされる。
リドカイン
局所麻酔薬。製品名としてはキシロカインなど。歯医者で麻酔を打たれる時は、たいていリドカインになる。極めて短時間(2分前後)で効きはじめる。致死量は成人男性だとだいたい3000mgだが、脳髄に1000mg注射したらもちろんほぼ即死する。
ダメ。ゼッタイ。




