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【ツピ!外傷1号室のデコンタミネイションシャワーシステム発動がスタッフドクター西園寺玲先生から許可されました 使用目的、揮発性有機化合物の洗浄 これより適宜薬剤配合を調整しつつ30秒のカウントダウン後洗浄開始します 水圧と窒息に十分留意してください さんじゅう。にじゅうきゅう。にじゅうはち…】
ルナがカウントダウンを始め、ぜろ、と同時にシャワーによる洗浄が開始される。
一秒間に10リットルは、場所を死体周辺に限定したとしてもかなりの水圧だ。これでベンゼンを洗い流すということになる。
ストレッチャー真下の床にある排水溝の自動フラップが全開にされており、勢いよく汚染水が落ちていく。汚染水は病院内の隔離された排水システムにより、コンクリートで固められた地下のタンクに収納される。
今回はベンゼンだが、いわゆる放射性物質も処理することが可能だ。
こうなると南野と西園寺には何もすることがないが、考えを巡らせるにはかなりいい時間帯だ。
「ルナ、洗浄後の化学組成を実施し、精査して終了したら知らせよ」
【ツピ!了解です南野先生 精査には15分ほどかかる見通しです】
「了解だルナ、先ほど現場より逃走した男の追跡はどうか?」
【ツピ!当該人物は搬入直後、業務用通用口から逃走 敷地外に出るまで全カメラで追跡・録画済みです 顔認証は部分的にマスクされていますが 骨格照合用データは確保しました】
「了解したルナ…あとで貴君も警察にドヤ顔されたい」南野がマスクの下でニヤリとゲスな顔で笑う。
「逃げたってことは…こっちの遺体は捨て石ですか」うんざりしながら西園寺が言う。
「ああ。見てみろ、この安っぽいスニーカーに、使い古されたジャージ。こいつはただのパシリだ」
「闇バイトってヤツですか?」
「だろうね」
「可哀想に…中身が猛毒のベンゼンだとも知らされずに、事故ったら即座に見捨てられたわけですね」
「そういうこった。組織力に感動するね」南野は軽く嫌味を言う。
「なんでベンゼンなんでしょうね」
「大昔なんだけどな、これを使ってメタンフェタミンやMDMA、コカインを作るときの溶媒に使っていたんだよ」
「えっベンゼンをですか?」
「そう、バカだよな、今だとトルエンなんだけど……あえてベンゼンを使ったんだ」
「あえて?」
「『古いレシピ』しか持ってないのさ。応用も効かない素人の集まりか、あるいは……昔の製造法にこだわる頑固な『料理人』がいるかだな」
そしてたばこを吸いたいのか、指でたばこを吸うしぐさをしながら再び言う。
「ま、知らんけど」
「随分詳しいですね先生…」少々呆れて西園寺が肩をすくめる。
「元自衛官をなめんなよ」ニヤリと南野が笑う。
【ツピ!汚染物質の精査完了、水70%、ベンゼン29%、エフェドリン0.4%、フェニルアセトン0.3%、チオフェン0.2%、その他一般的なものが10種類ほどが0.1%未満】
「なんだそりゃ…廃液じゃないか」南野がうんざりしながら言う。
「水と油が分離してますね……ベンゼンの純度が低すぎる…」西園寺が死体からIDを探しながらつぶやく。
「それにエフェドリンとフェニルアセトンが両方? 製法が違うのに?」
「ああ。これは残りカスだ。水と油を分ける手間すら惜しんで、全部まとめて捨てに来やがったんだ」
「分離もせず、不純物もそのままで……まさに『動く産業廃棄物』ですね」
「いい迷惑さ…そっちはIDあったか?」
「ID、なしです。完全に身元不明です」
「なるほど了解、下半身も見てみたが何もなしだ」
「あと40分たったらとりあえず出られるって感じですかね?先生」
「そうだなー…というか俺タバコ吸いたい」
「タバコとベンゼン…究極の選択ですね…」
「タバコは栄養だろ?違うか西園寺?」
「…違いますよ…あんなものやこんなものや、そんなものまで入ってます」西園寺はため息交じりに答える。
「WHOには世界禁煙デーってありますよね」
「あるね…いまいましいな…5月31日だ」
「先生はその時にはどうされているんです?」
「嫌味言われる前に、有給取って華麗に逃亡しているよ、酒井やリンドバーグがメッセ送ってきても知らんぷりしてる」
「理乃ちゃんもリリも災難だ…まったく…先生よくWHOクビになりませんね」
「そうだな、俺も不思議だ」わざとらしく肩をすくめる。
何事もなく1時間経過し、二人はようやく閉鎖された外傷1号から外に出る。
外傷1号の出口には簡易テントが張られている。
その中で南野と西園寺は防護服とマスクを引きちぎるように取り、バイオハザードのマークの付いたごみ箱にブチ込む。
外の空気が吸いたくなったのか、二人ともER出口から外に出て、マスコミの目やカメラやドローンがいないところまで移動する。ほんの数メートルだ。
西園寺が、かっはあーと深呼吸する。
南野が加熱式たばこを取り出して吸い始める。紙巻きよりは香りや副流煙は出てこない。
北条とアルサウードがやって来る。
「お疲れ様二人とも。頑張ったね!」爽やかで優しい言葉なのに、北条があまり心のこもってない声でわざとらしく言う。
「北条お前さ…2つ目のがとんでもないババってわかって先に1つ目行ったろ?」加熱式たばこをふかしながら南野が北条を問い詰める。
「さあ…それは…ガラガラポンですから」北条がわざとらしく肩をすくめる。
「あーもう汗だくでこのシャツ台無しですよ…経費で落ちませんかね北条部長?」西園寺がチラ見しながら言う。
「却下」無表情で却下する北条。
「あーもう…今日も厄日でした…」
「そうだな、毎日がエヴリデイ的な何かだ」
「なんですかそれ南野先生…」
アルサウードが2本のペットボトルの水を南野と西園寺に差し出す。
「シュクラン、サラ」南野はお礼を言う。
「アフワン、南野先生」アルサウードが気さくに答えてニッコリと笑う。この病院の中では一番邪気のない笑顔だ。
「…どうだいサラ、勉強になったかい?」
「はい、でも、あの、 <これは最初のトリアージに失敗したのではないでしょうか?> 」
「 <…それを言っちゃあおしまいよ> 」
「 <しかし、そのあとの処理はお見事でした、さすがWHOです!> 」
「 <ありがとうよ…まああんましょっちゅうあっても困るけどな…> 」
「 <ところで南野先生、お聞きしたいことがあるのですが…よろしいでしょうか?> 」
「 <プライヴァシーに関すること以外はオッケーだ> 」
「 <んー…えーっと…イスラエルやパレスチナのアラビア語は、私の湾岸系アラビア語とはずいぶん違うはずです> 」
「 <まあ…そうだよね> 」
「 <先生のアラビア語は完璧に私にもわかるのですが…別に勉強なさったのですか?> 」
「 <それは…まあ…秘密だ> 」
「 <先生……よくわかりませんが、いつか教えてくださいね> 」
「 <機会があったらね> 」
すべて終わり島が引継ぎにやってきて「そりゃあ大変だったねえ…」と割と本気で心配し、特に本宮に語り掛ける。
ERの受付は圧倒的に人員不足、しかももうすぐ佐々木は産休に入ってしまう。
ここで本宮に辞められては塩谷も島も、今日は来てない野川、皆にとって大打撃となる。
まだ若いのに飲み込みはとてもいい。孫のように愛くるしいが意外と度胸もありそうだ。
長く続けて欲しい。
じゃないとワシの腰も…と島は心配している。
「だだだいじょうぶですよ!ありがとうございます!それでは急いでいますので、でわでわっ!」本宮はそそくさとERを後にする。
女性用ロッカールームの入り口で、入ろうとしたアルサウードと出てきた本宮がすれ違う。
「あっサラ先生!お疲れ様でしたー」
「はい、梨沙ちゃん、お疲れ様です」
最近ようやくいい感じの角度を覚えたお辞儀をぺこりとしたアルサウードだったが、ふっ…と甘い香りがするのを感じた。ベンゼンとは違う香り。生まれ故郷のドバイによくある乳香とも違う香り。
…香水?
「 <Risa-chanのようなまだ若い女子には似合わないような大人の女性の香り…なんでしょうか…?> 」
アルサウードは不思議がるが…それどころではない。
(<先週偶然見つけたハラールのスーパーに行かなくては…この極東の日本であの品揃えの多さは…まさにアッラーが私にお与え頂いた倉庫です!>)
アルサウードも手早く着替えるためにロッカールームに入る。
本宮のスマホには「お客」からの「遅れるとお姉さん悲しいなあー樹里ちゃあーん」というメッセージが入っている。
(はい、「樹里ちゃん」は急がなくては!)と本宮はダッシュで地下鉄の駅に降りていく。
シフトが終わり帰っていく南野と北条が駐車場まで一緒に歩いていく。
「今日の事故処理は…見事だったわ」と北条が素直に褒める。
「あれ?珍しいね北条?」
「今日のはね…あれはERとしては機能してないわよね…ベンゼン事故の患者はほぼ即死だったし…本来連れてくるべきではなかった」
「そうだな…結局あの死体は身元不明、新人救急隊員も身元不明、薄気味悪いぜ」
「ええ…気持ちの悪い話ね…明日警察が来て事情を聞きたいそうよ」
「ま、それはデータをルナ経由で法務に渡してるから…どうでもいいや…法務からの戻りデータで安蒜か高嶺なら上手くネゴれるだろ」
「そうね…特に安蒜先生は…最近はかなり慣れてきたわね、やはり元診療部長、頼れるわ」
「しかし毎日毎日…俺たちは死神の鎌を叩き折るのが仕事なんだが、もう鎌に狩られているなら…話は別だな」
「そうね……また明日ね、ホントお疲れ様、南野先生」
「死神の鎌を折るのが俺たち公共の奉仕者たる医療従事者、ここはさしずめ「公共への奉仕者の巣」といったところだな」
「また意味の分からないことを……おやすみなさい」
「おう、お疲れ。明日は死神の鎌を折りまくろうぜ、北条」
南野は「Powered by HONDAだ、いいだろ」と自虐的に言っているオンボロのシビックで帰っていく。
それを見て「やれやれWHO組はこれだから…」とあきれて笑う北条だったが、北条は…車を持ってなかった…
「なんで駐車場に来てるの私は…話し込むとつい熱中して…いけないなあ…」とぼとぼと歩き出す。
「やっぱり車買おうかな…かわいいのがいいな…チンクエチェントとかMiniがいいな」
聖路都国際病院のER部長たる北条結衣。
その気になればそのランクの車はキャッシュでポンと買えるくらいのサラリーはある。
しかし一番大事なことに気が付いてがっくりと肩を落とす。
「その前に…運転免許取らなきゃ…今度は路上教習で教官と喧嘩しないようにしないと…」
TUNE INTO THE NEXT
SAME SERVANT NEST
SAME ST.ROAT EMERGENCY ROOM
(医療用語?解説)
メタンフェタミン
覚醒剤の一種。脳内化学物質のドパミンを爆上げして多幸感でガンギマリになる「アッパー系」。
ダメ。ゼッタイ。
MDMA
メチレンジオキシメタンフェタミン。覚醒剤の一種。合成麻薬としては昔からある「アッパー系」。
ダメ。ゼッタイ。
コカイン
コカの葉から抽出される昔からある麻薬。説明不要なほど世界に蔓延する「アッパー系」。
ダメ。ゼッタイ。
バイオハザードのマークの付いたごみ箱
いわゆる医療廃棄物を捨てるために明確に分離されているゴミ箱のこと。赤く毒々しく塗られており、バイオハザードの警告マークが書いてある。使用済みの注射針、ガーゼ、防護服、広義のマスクなど。二次感染を防ぐためにも絶対に必要な重要な手順。燃えないゴミとして捨てると日本では廃棄物処理法によって罰せられ、個人は5年以下の懲役若しくは1000万円以下の罰金、法人は1億円以下の罰金。
シュクラン
شكراً、英語転記ではShukran
アラビア語で「ありがとう」の意味。
アフワン
ًعَفوا、英語転記ではAfwan
アラビア語で「どういたしまして」の意味。どの言語でもそうだが、ありがとう、どういたしましてに相当する単語はたくさんあるが、シュクランとアフワンはどちらかというとカジュアルな感じになる。




