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ストレッチャーが外傷1号に入った瞬間、外傷1号のルナが反応した。

【ツピ!警告、有機化合物検出 物質、ベンゼン 濃度、2.5ppmから急速に増大――ツピ!修正して警告 濃度100ppm突破 警告、防護レベルB以上の防護服着用を強く推奨】


「うわ速いなー」南野があまり興味の無さそうな声でつぶやく。

既にルナに言われる前にレベルBの防護服を1号外傷の入り口のロッカーから取り出している。


「ルナ!西園寺だ!外傷1号をNBCレベル3で閉鎖。負圧開始、ベンチレーション全開、方向はオートで任せる!1号入り口の隔離壁も閉めろ、防護服を付ける」

【ツピ!西園寺先生了解しました。直ちに外傷1号NBCレベル3で閉鎖、負圧マイナス50Pa、ベンチレーションを床から天井に向け全開】


と同時に外傷1号室の扉のシャッターが閉まっていき、赤い回転ランプがぐるぐると回る。

『あぶない!さがれ!』

の表示が外傷1号室の入り口のディスプレイに赤文字で出る。

入り口と外傷室の間は空間になっていて、ここも自動で隔離される。いわば外傷室と外との緩衝地帯バッファだ。


「ルナ、先程のストレッチャーを搬入した救急隊員の馬鹿野郎に覚えがない。データベースと照合し、写真を東京消防庁に送ったのち、照合結果を北条先生に伝達せよ」

ツピ!とだけルナは反応する。

プライバシーに関する部分の復唱は、場合によってはしないことになっており、脅威を判定してルナが決める。


「あー先のヤツ取ればよかったな…北条のヤツ……」

「もう外傷2号は終わってるみたいですね…参りましたね…」

狭い隔離スペースでお互いが手早く防護服を着せあいながら南野と西園寺がぼやく。


「外傷1号聞こえてる?北条よ、状況を知らせなさい」

「北条部長、ちょっと黙ってようか、こっちは狭いところで秒を争って防護服着てる最中だからルナに確認してくれ」

南野がわざとらしく苛立たしい声で答える。

「っ…!了解!まったくあいつらときたら…」

「おい聞こえてるぞ!ルナのマイクは地獄耳だな」

【ツピ!ありがとうございます南野先生】


「 <謙遜するところではありませんよルナ> 」角が立たないようにアラビア語で突っ込むアルサウードだったが、

「 <おっ、そうだなサラ!君も言うようになったじゃないか?> 」とアラビア語で喋りながらニヤける南野。

(<しまった…南野先生はイスラエルにいらっしゃったんだった…!>)アルサウードが後悔しても遅い。


「ファスナーよし、フラップ密閉。西園寺、マスク吸え」

西園寺がズズッ……と息を吸い、マスクが顔に張り付くのを確認する。

「陰圧よし。ノーリークです。先生の背中、バルブ全開。圧力300で満タン…よし」

「お前さんのグローブのテープ、シワがあるから貼り直せ。そこから嫌な感じの毒が入ってくるかもしれない」

「あ、了解です…」と西園寺がテープを貼り直す。

「よし! グローブ、シール完了!南野先生、僕はオールクリア」

「…ベエズラト・ハシェム…行くぞ西園寺」

「了解です南野先生…ロックン・ロール!」

西園寺が隔離スペースの開閉スイッチを蹴飛ばす。誤動作を防ぐため、あえてここの開閉スイッチはセンサーを使っていない。


「 <さてと、サラ、いや、アルサウード先生、これからはおしゃべりではなく放課後の掃除の時間だ。ベンゼンの甘い香りはあんまり好きじゃないんでね。ベンゼン事故のケーススタディになるから、ルナ越しによく見ておくといいよ> 」

「 <あっ、ありがとうございます南野先生!ベンゼンは毒性が極めて強い化合物です、気を付けてください!インシュアッラー!> 」

「 <このくらいは…とりあえずまだ人間で対応できるよ、アッラーにはその辺で見学しておいてもらおう、お茶を出しておいてくれ> 」

「ちょっとあなたたち!いつまでアラビア語で喋ってるの!わかんないでしょ!あとでルナのログ見るからね!」

「へいへい北条部長。変なことは喋ってないから隅々まで見てくれ、なあ?アルサウード先生?」

「えっ、あっはい、もちろんです!( <放課後の…掃除…?学生が掃除をするのでしょうか…?> )」


「ルナ、ベンチレーションの状況はどうか?」南野が聞く。

【ツピ!現在負圧マイナス50Paで進行中、濃度は5分間で120ppmから95ppmへ減少、さらに減少中】

「もっと強い負圧が必要かな?ちょっと流体モデル見せてもらえるかい?」西園寺が確認する。

ツピ!と了解音が鳴った後、即時に外傷1号の一番大きなディスプレイに流体モデルが出てくる。

もちろんリアルタイムで完全にベンゼンが見えるわけではないが、空気の流れはわかるので気休め程度にはなる。

それよりも外傷1号内のベンゼンの平均濃度と、滞留場所が重要だ。

ベンゼンは空気よりも重いため、下から上に向けて撹拌しベンチレーションを行っている。もちろんルナがフルオートで判断して設定している。


「これは…まるで…」とディスプレイの極彩色の流体モデルを見ながら西園寺がつぶやく。

南野は何か気が付いた事でもあるのかと眉を上げながら聞き返す。

「…まるで?」

「…洗牌シーパイのようです」

「この場で麻雀かよ西園寺…お前さんも太くなったな」

防護マスクの下で南野はニヤリとする。

「十分に洗牌されてるので、負圧はこれで行きましょう」

「了解」


外傷1号はある意味静かだったが、外は大変な騒ぎになっている。

マスコミは完全にシャットアウトしているが、ERは閉鎖されているので残って待っている患者を一般受付に誘導する作業に受付の2人は忙殺されている。

「本宮さん、変なのがいたら、俺に振ってくれればいいからね」193センチの巨体に似合わない優しい声で塩谷しおたにが心配して本宮に話しかける。

「あ、ありがとうございます塩谷さん!あ、あの、これってどのくらい続くのでしょうか…」

「んーそうだなあーレベル3はあまりないけど、状況に応じて変わってくるね…6時間から12時間かな」

「ろっ…ろくじか…んーそうですか…」

「まあ夜勤のしまさんが来るまでは終わると思うよ。こういうことはあるのさ、NとBはあったら困るけど、Cは兵器じゃ無いやつは割とね」

Nが核兵器、Bが生物兵器、Cが化学兵器なのは本宮にもわかる。つまりCは化学薬品による事故だ。

それよりもなによりも、本宮は暗澹たる気持ちになってくる。あーこれ「バイト」に間に合わないやつだ…と。



外傷1号では、できうる限り人力でベンゼンと戦っている。しかし…

「さて…と…じゃないよな、これ確実にCAだよな、どう思う西園寺?」

「CPAですよね…ベンゼン事故で…見た感じベンゼンを飲んでますからね…もう即死ですよねこれ…」日本で使われる用語「CPA」と一応訂正を入れながら、西園寺が遺体の周りをぐるぐる回りながら観察する。

「DOAとわかってて死体を持ってきて、それでERが汚染されるって何の冗談だよ…」

「困ったんでしょうね、燃えるごみの日にはちょっと捨てられませんから」

「うちは死体預かりません…って看板作ってER入り口に立てとくか」

「南野先生…それ映画のネタですよね…ルナが拾ったら知りませんよ?」

「ま、これで東京消防庁には貸しを作ったな」苦々しくも何かカードを得たような嬉しそうな顔をする南野。

「またそんな…一応…みますか?そろそろいいでしょうかね?」

「そうだな…西園寺、お前さんが見るかい?ベンゼン事故の患者を見たことは?」

「うーん…軽い症例ならありますけど、こんなのはちょっと珍しいですよね…」と西園寺が答える。

「ルナ、死体の汚染状況は目視で確認できるかい?」


挿絵(By みてみん)


【ツピ!警告です西園寺先生、当該部分を「遺体」と言い換えないとコンプライアンス上問題を残します 当該箇所は消去します 消去しました】


「あれま、ルナチェックが入ったぞ西園寺」

「参ったなーもう今月3回目なんだよなあ…5回やってしまうと」

「なんか管理に報告が行くって話だよな、セリカちゃんが言ってた」

ITディレクターの原田芹香はらだ せりかは南野と同い年のため、気さくにファーストネームで呼び合っている…が別に恋愛関係には無い。

「ええ…まあ…」

「まあ俺はしらんけど」

「先生……ひとごとだと思ってまったく……それでルナ、分析はどうだい?」


【ツピ!遺体の汚染濃度は空気濃度よりは高いものの、正確な汚染状況は不明です しかしながら水と中和剤を使用して遺体を洗浄し続ければ、搬出しても問題ないレベルになるものと考えられます デコンタミネイションシャワーシステムの使用を推奨します】


「あー洗うやつか、本来のベンゼン事故では屋外でやるよな」

「ここのやつを使うと汚染水は下に行きますよね、下水に流せませんよね」

「そのまま流せるかよ…医療廃棄物とも違うし…タンクに溜めるんだよ、ルナ、当該手順を確認されたい その通りか」


【ツピ!その通りです 当院ではレベル3以上のデコンタミネイションシャワーシステムによる汚染水は、汚染の種別や濃度により一時的に地下のタンクに保管されます】


「そのあとは…どうなるんです?」

「災害時の協定によって、自衛隊…まあ多分陸さんだと思うけど、そこが取りに来る」

「あとで自衛隊が汲み取りに来るってことですよね?」

「…お前さん、地方大財閥の御曹司にしては汲み取りなんて知ってんだな」

「またそれですか…そのくらい知ってますよ、うちの田舎にはまだあるんですよ」

「にしても自衛隊に頼むのはなんか嫌だな」

「元自衛官としては気になりますか?」西園寺がニヤっと笑って南野を見る

「またそれかよ…」


お互いいじられるポイントを殴り合っているだけなので、虚しさに苦笑する。

疲れているが、重い腰を上げて南野はルナに指示を出す。


「ルナ、デコンシャワー起動準備よろし。起動許可は西園寺先生が出す」

「あれ、僕じゃないと出せないんでしたっけ?」

「WHOの俺は出せないだろ…NBCレベル3だぞ?」

「ああ…そうでした…ルナ、パラメータ確認。まずは…ノニオン系界面活性剤を蒸留水に3%添加して毎分…そうだな…時間はオートにしよう」


【ツピ!了解です西園寺先生、適切に界面活性剤を使用、まずは残留ベンゼンを乳化させます そのあとはPEG400で洗い流し、最後に次亜塩素酸ナトリウムでクリンナップします この手法でよろしいでしょうか?】


「うわーこういうのはルナには勝てねえな…どっからデータ持ってくるんだろうな」

「今度ラシッドに聞いておきます…ルナ、このプランだと時間はどのくらいを見込んで、汚染水はどのくらい排出の見込みだい?」


【ツピ!最初の15分で毎分600リッター、次の45分で毎分300リッター、1時間と仮定した場合、合計22.5トンです】

「ええっと…ここのタンクは5トンが5個だよな……足りるけど」

「そのあとでしばらく換気すれば…ルナ、当該計画のPT…予測時間を聞かせよ」


【ツピ!1時間洗浄後、フルパワーでベンチレーションすればおよそ12時間で検知以下になると推測されます】

「推測では不足である、確定情報を知らせよ」


【ツピ!失礼しました南野先生、これで確定で間違いありません】

「了解したルナ、では当該計画で実施する、以後、西園寺先生の指示を待て」


(医療用語?解説)


NBC

核兵器(Nuclear)、生物兵器(Biological)、化学兵器(Chemical)の3つを合わせた軍事用語。戦争時に使われる恐れのある大量破壊(殺戮)兵器。医療がこれに対応することは困難で、特に核兵器は対処のしようがない。生物兵器と化学兵器はある程度対応が可能とも言える。聖路都国際病院では考えうる範囲で最高のNBC体制をとることが可能という設定。民間ではCBRN(Chemical, BioBiological, Radiological(放射性物質), Nuclear)で括られることが多い。


防護服レベルB

各種危機に際して医療関係者や警察官、軍人を守るための防護服は状況によって4段階あり、Bは上から2つ目の重装備となる。


ベエズラト・ハシェム

בעזרת השם、英語転記ではB'Ezrat HaShem

ヘブライ語で「神の助けを借りて」という意味。南野は11年間イスラエルにいて、医療現場ではヘブライ語とアラビア語を使い勤務していた。南野自身はユダヤ教でもイスラム教でもないが、場面に応じてよく使われる2つの言語のフレーズを使うことがあるという設定。


インシュアッラー

إن شاء الله、英語転記ではInsha'Allah

アラビア語で「神の御心のままに」。アラビア語圏(イスラム圏)ではよく使われる。アラビア語はカタカナ日本語への転記が非常に難しく、表記揺れがたくさん発生する。インシャラー、インシュラー、インシャアッラー、いろいろある。


洗牌

しーぱい。麻雀用語。ゲームを始める前に麻雀牌をじゃらじゃら混ぜること。麻雀漫画ではイカサマをする最大のチャンス。


CA、CPA

心肺停止状態のこと。Cardiopulmonary Arrestの略だが、CPAは日本で、CAは主に海外で使われる。

ぶっちゃけもう死んでいるという状態。脳死状態かどうかは判断が分かれる。


DOA

医療機関到着時に死亡している状態のこと。Dead On Arrival。頭部が切断されている、丸焦げになっているなど、見た目で明らかに死んでいる状態。トリアージの場合は「黒」が付けられる。


デコンタミネイションシャワーシステム

汚染物質を洗い流すシステムの総称。除染シャワー。実際にある。化学物質や放射性物質は洗い流すことが一番かつ最も重要な手段となるが、水が禁忌となる物質もある(アルカリ系物質、マグネシウム粉、ハロゲン、シアンなど)。


PEG400

ポリエチレングリコール400。溶剤や可塑剤として使われるが、「何かを薄める」という目的でも使われる。ベンゼンは水に溶けないため、これで薄めながら除染するという設定。

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