stare in the face
彼女と付き合い出した事に特に理由はない。彼女の方から告白してきたのだが、積極的な彼女は、
「今、付き合っている人がいないなら、お試しでも良いから付き合おうよ!」
などと、理解の範疇外の事を口にしてきたので、それを面白いと思って付き合い出した。なので僕にとって彼女と言う存在は、面白いもの。と言うのが先立ち、恋愛の対象かと言われれば、良く分からない。そもそも僕は異性にも同性にも、この歳になるまで、特に恋愛感情と言うものを抱いた事がないので、彼女と付き合い出しても、これが恋愛なのか? と頭に疑問符が残る日々の連続だった。
彼女の積極性は付き合って尚変わる事はなく、デートの時の彼女はいつも僕の数歩先を歩き、その姿は僕を先導するかのようで、話の度に振り返る彼女は、いつも満面の笑みを浮かべていた。
彼女は好奇心旺盛で、あそこへ行きたいと思い立ったら、その日のうちに行動するような性格で、海へ、山へ、街へ、と僕は日々それに振り回される生活をしていた。
「何がそんなに楽しいの?」
「君といられれば、どこへ行っても楽しいよ!」
いつだったか、いつも笑顔の彼女にそんな事を尋ねれば、彼女は、当然! とばかりにそんな事を笑顔で返す。僕は感情の乏しい人間なので、そんな眩しい笑顔を向けられても、僕の何が良いのやら? と首を捻るばかりで、それで恋愛感情が刺激される事はなかったが。
僕の方もそんな彼女に振り回される生活に慣れてきた頃の事だ。僕たちの交際は、特にケンカや衝突をするような事もなく、このまま交際を続けていけば、もしかしたらそのまま……。そんな漠然とした感覚を抱きながらの交際は、一気に変化を迎える事となった。彼女の家が強盗に襲われたのだ。
幸いにして金目の物を奪われただけで、彼女が何か酷い目に遭った訳ではなかったが、一緒に家にいたご両親、特に強盗に激しく抵抗したお義父さんが、強盗の持っていたナイフで怪我をしたのを目の当たりにした彼女は、ショックで心因性の失語症になってしまった。
医者の話では心因性なので、すぐに元に戻るかも知れないが、いつまでも声が戻らないままかも知れない。つまり今後どうなるかは医者にも分からない。との話を聞かされて、ご両親も僕も、彼女にどう接すれば良いのか、分からなくなってしまった。
明るく社交的で外交的だった彼女は、その日以来見る影もなくなり、いつも部屋に閉じ籠もるようになり、多くの友達たちが心配して彼女の見舞いに来ても、会いたくない。の一点張りで、顔を合わせる事が出来たのは、ご両親と僕だけだった。
「いつもすまない」
お義父さんが頬の傷を撫でながら、僕に謝る事が日常となっていた。流石にこのままでは、と彼女の部屋に閉じ籠ってばかりの生活を心配したご両親が、どこかへ出掛けよう。と誘っても、彼女の答えは「どこも行きたくない」の一言で、彼女は部屋から出なかった。そんな彼女だけれど、僕が誘えば家から出る。なので、朝早くか、夕方遅くか、人気を避けるように、僕は彼女とデートするようになった。
それまでは僕の前を歩いていた彼女の定位置は、僕の後ろに変わっていた。人気を避けても、完全に人目から隠れる事は出来ず、人と擦れ違う時、彼女は僕の服を握り締めながら、僕の背中に隠れる。それに失語症なので、会話はスマホに打ち込んでの合成音声だ。無機質な合成音声では、僕には彼女の想いの機微が捉えきれず、会話の度に彼女の顔を覗き込み、彼女が僕に何を訴えようとしているのか、を必死に読み取るのが、いつからか日々のデートで僕がする重大事項になっていた。
これが契機なのは何とも皮肉だが、彼女の顔を覗き込むようになって、僕は改めて彼女の顔がどんな顔をしているのかを再認識するようになっていた。俯く彼女のまつ毛が長い事、縋るような瞳は朝日や夕日でいつもキラキラしていて、話せないながらも何かを訴えようとする唇は薄く、それでもデートだからと塗られた明るめのリップが、とても彼女に似合っていた。
不思議なもので、彼女の顔を凝視する生活を続けるうちに、彼女が何を訴えようとしているのか、何をしたいのか、何となく理解出来るようになってきていた。視線がどこを向いているかを見れば、どちらへ行こうとしているのか分かるし、不意に彼女が立ち止まれば、その横顔を見れば、草木に咲く花に目を奪われていると理解出来る。
そうして歩調を合わせてデートを重ねていくと、合成音声でのやり取りは段々と少なくなっていき、僕らのデートはいつの間にやら、全く会話のないものへと変わっていき、一言も会話を交わさずに終わる事も多くなってきていた。
そんな、会話を必要としないデートは、僕にも、彼女にも、思いの外心地良かったらしく、日々、朝夕彼女の家に行くと、僕が来るのを待っていた彼女と手を重ね、僕らは目的のない散歩のようなデートをする。
手の温もりと視線のみが僕たちにとって会話であり、それは口や音声を通した会話よりも、もっと心の奥深くで通じ合ったような感覚を、少なくとも僕に与えてくれて、それはとても心の温まる感覚で、この心地良さをいつまでも感じていたい。と僕に思わせるには十二分なものであり、この感覚を手放したくない。と思わせるのにも十二分な時間が僕ら二人の間には流れていた。
ある日の朝、いつもよりも早く、日が昇るより前に、僕は彼女の家に向かった。いつも彼女は僕が迎えに行くよりも早く玄関前で僕が来るのを待っている。だから今日はそんな彼女が支度を調えるよりも早く、彼女の家に行ってやろう。そんな悪戯心だけを持って彼女の家の前まで来れば、彼女は既に玄関前に立っていた。その顔が「してやったり」と物語っており、悔しくて顔を歪めれば、彼女は満足そうな笑みを見せた。
その笑みが可愛くて、僕の心の真ん中を鷲掴みにするには十二分で、僕は何だか恥ずかしくて彼女の顔を真正面から見られなくなり、少し強引に彼女と手を重ねて、いつものようにデートを始めたのだが、あの笑顔が忘れられず、少し緊張して手が汗ばむのを感じながらも、彼女も僕の汗ばんだ手を離す事もなく、いつものコースを少し外れて、ただただいつまでも歩き、僕たちは以前のような、彼女が僕を先導して歩いていた頃に良く通った道を通って、良く来ていた海辺までやって来ていた。
丁度朝日が水平線から昇るのを、何となく眺めながらも手は離さずそのままで、それが何となく恥ずかしくて、でも何となく心地良くて、そして、僕はどうしてこんな気持ちになっているのか不思議で……、
(いや、これ、全然不思議じゃないや)
不思議に思っていた気持ちは、もうとっくの昔に、分かっていた言葉で表せるものとなっていた。これが、そうなのか。と、こんな気持もなのか。と、心と頭が理解して、理解したからか、不意に僕は口を開いていた。
「一生、一緒にいよう」
恥ずかしくて彼女の顔は見れなかったけれど、彼女が僕の顔を見返したのを感じて、同時に僕と重ねた彼女の手が強く握られるのを感じて、それだけで僕は舞い上がりそうになりながら、僕も彼女の手を強く握り返す。
……うん。
その声が聴こえたのが、空耳だったのか本当だったのか分からず、思わず彼女を見返すと、彼女も驚いたような顔をしていて、それからは二人で涙を流して、涙を流しながら、二人とも笑っていた。