第7章:視察者の眼
第7章:視察者の眼
視察の日、ハリラ学舎の前に現れたのは、艶のある黒髪を後ろに束ねた、淡い緑の外套をまとった青年だった。
「フェザス家三男、リアム・エルネスト・フェザスです。視察の許可、感謝いたします」
丁寧な口調。だが、その瞳にはどこか乾いた虚無があった。
アカイアは一瞥して、それを見逃さなかった。
「堅苦しいのは抜きだ、リアム。こっちは毎日、泥と汗と子どもにまみれてる」
その言葉に、リアムはわずかに目元を緩めた。
◆
リアムは一通り、授業を巡った。
読み書きの教室では、7歳の少女が「壷の詩」と題して、火と赦しについて綴っていた。
木工の部屋では、少年が改良型の収穫道具を手に、設計意図を熱弁していた。
カミカゼの前では、魔石の圧縮率と民家の断熱効率について、十歳の子らが議論を交わしていた。
「……これは、想像以上だな」
ぽつりとつぶやいたリアムに、随行していた護衛がちらと目をやる。
だが彼はそれに気づかず、ただ、どこか遠いものを見るように教室を眺めていた。
◆
視察を終え、簡易テラスで茶を啜る二人。
アカイアは汗をぬぐいながら、麦茶の器を片手にくつろいでいた。
ふいに、リアムが口を開く。
「アカイア殿……あなたは、“秩序”をどう思いますか?」
「ん? またざっくりした質問だな。どこから話せばいい」
「私は幼い頃から、“支配は必要悪”だと教えられてきました。
だが、ここの子たちは、命令もなく、自ら学び、働いている。
これは……“秩序”ですか? それとも、“混沌”ですか?」
アカイアは一瞬黙り、器を持ち上げ、静かに一口すすった。
「リアム。秩序ってのはな、“誰かの支配”じゃない」
「……」
「“全員が納得して動ける仕組み”だ。支配は、その一つの方法に過ぎん。
だがここでは、“自分で選んだ知識”が、互いに補い合って自然と秩序を作ってる。
もしそれが混沌に見えるなら……教え込まれた“秩序観”の方が、たぶん間違ってんだよ」
リアムは何も返さなかった。
だがその視線の奥に、微かに揺れるものがあった。
焦燥とも、解放ともつかない、感情のひだが静かに揺れていた。
◆
帰りの馬車の中。揺れる車体の中で、リアムは窓を見つめたまま、拳を握りしめていた。
(なぜ、こんなにも……心がざわついている?)
(あの少女が“学びたい”と目を輝かせた瞬間、何かが……胸の奥で崩れた)
(私は……あんな顔をしたことが、あったか?)
リアムの中に、幼い頃の記憶がよぎる。
父の命令に黙って従い、兄の陰に隠れていた自分。
(兄たちは力と権威で争い、父はすべてを支配しようとする)
(だが……あの学舎には、“支配の外”にある何かが、確かに存在していた)
◆
数日後。
ハリラ領には、一通の封書が届いた。フェザス家の紋章付き――だが、公文書ではなかった。
それは、リアム個人からの私的書簡だった。
『アカイア殿
先日は視察の機会を賜り、誠にありがとうございました。
一つ、願いがございます。
もし許されるのなら、今度は“視察者”としてではなく、“学ぶ者”として――
私に、あの学舎の門を、もう一度、開いていただけませんか』
その文を読んだアカイアは、静かに笑った。
「さて……一人目の貴族が“落ちた”な」
◆
風が吹く。
その風の中に、新たな波紋の予感があった。
貴族という硬直した石に、小さなひびが入ったのだ。
そこに芽吹くのは、知識か、希望か、あるいは革命か――
アカイアの眼は、次なる訪問者をすでに見据えていた。