温室への誘い
リヒトは、珍しく子どものような笑顔を見せた。
「マリアベル、温室を改装したんだ。君にどうしても見てほしい」
戸惑いながらも、マリアベルは頷いた。
彼の手に引かれるようにして向かった温室は、驚くほど美しかった。
白、ピンク、赤……無数のバラが咲き乱れ、まるで夢の庭園だった。
中央には可愛らしい丸テーブル。
ティーセットと、小さなケーキが並べられている。
「こんなに……」
思わず声を漏らすマリアベルに、リヒトはふわりと微笑んだ。
「君に、喜んでほしくて」
ふわりと漂う紅茶の香り。
柔らかな陽射しが、マリアベルの頬を温めた。
──まるで、昔夢見た『幸せ』のようだった。
けれど。
「まあ、公爵閣下。お優しいのですね?」
冷ややかな声が、背後から聞こえた。
振り向けば、数人の貴族令嬢たちが、意地悪な笑みを浮かべて立っていた。
「噂では、マリアベル様、未来の御家に不要になるとか」
「家柄だけで選ばれたご令嬢ですものね」
「まあ、愛されるかは別問題でしょうけれど」
ざわざわと、心が波立った。
ああ、私は──
未来では、何もかも失った。
唇を噛みしめたそのときだった。
「やめろ」
リヒトの声が、低く鋭く温室に響いた。
彼はすっと立ち上がり、マリアベルの前に出ると、堂々と令嬢たちを睨みつけた。
「彼女は、私が選んだ。この先も──変わらない」
その眼差しは、強く、真っ直ぐだった。
令嬢たちは顔を青ざめさせ、逃げるように温室を後にした。
マリアベルは、震える指先をそっと組んだ。
リヒト様は、私を……。
──でも、怖い。
未来では、甘い言葉に騙された。
誰よりも信じた人に、裏切られた。
信じたいのに、信じられない。
心が、ぐちゃぐちゃだった。
ふと、リヒトが跪き、マリアベルに目線を合わせた。
「マリアベル。君が怯えても、怖がってもいい。君が心から笑えるまで、何度でも──僕は、手を差し伸べる」
その声は、そっと包み込むようだった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
涙が滲みそうになり、マリアベルは椅子から立ち上がった。
「……ごめんなさい。少し、一人にさせて」
震える声でそう告げ、逃げるように温室を後にした。
後ろから「まぁなんて失礼なのかしら!」「信じられないわ!」と私を非難する声が聞こえた。
貴族はこんな時も毅然としていなければならないのはわかっているけど、以前の記憶を持つ私は耐えられなかった。
リヒトは追ってこなかった。
ただ、優しく、静かに、マリアベルを見送った。
人気のない回廊にたどり着いた瞬間、マリアベルは膝をついた。
──信じたい。
──でも、信じられない。
自分でもどうしていいかわからない。
ただ、心が苦しくて、涙が止まらなかった。