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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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浮沙汰(うわさた)~浮世の沙汰

作者: 中條真行

 「浮沙汰うわさた~浮世の沙汰」


 

 利山(かがやま)さなえはセントラルアート大学美術科の4年生で、22歳を目前にしていた。もう夏休みなのだが、就活もそろそろ本腰入れないといけない。イライラしがちなので、こういう時には友人とカフェでダラダラするに限る。映画同好会の仲間でもある指差(しめし)みどりと、抹茶かき氷を食べながら意味ない会話を楽しんでいた。ある程度スッキリしたところで、みどりが切り出した。

「そういえばさあ、さなえはどこに就職したいの?」

「わかんないけど、とりあえず受かったらどこでもいいかな。」

「は~、相変わらずのユージューフダン。あんたさ。決める時にはビシっとしなくちゃダメだよ。」

「え~、だってそれは今さら無理でしょ。ずっとこうなんだもん。」

「あたしんとこ農家でさ、実家手伝ってるからわかるけど、仕事はキビシーのよ。ダイジョーブかなあ?」

「まあねえ。」

「あ、そろそろ帰らなくちゃ。あんたは、どーすんの?」

「ん~、美容室に行く予定。」

「あー!あのさ!わかってると思うけどさ、智くんは狙ってもダメだかんね。いーーーーーーっぱい取り巻きいるんだから。殺されるよ、マジで。」

「あー、智くんはかっこいいよね。ライバルねえ・・・いっぱいいるとは思うけど、チャンスはあるんじゃない?」

「はあ・・・警告しといたかんね。あんただから心配はしないけど。手出し無用!」

「そんなんじゃないよお。行ってら~。」

 さなえは以前から気に入っていた男性美容師がいた。最初は単純にかっこいいと思っていたのが、だんだん気持ちが傾いてきてしまっていた。恋愛に対して積極的ではないタイプだったので、勇気を絞ってなんとかしようと決めていた。

 そもそも第一印象から違っていた。さなえは気に入った男性の前ではほとんど話せないタイプだったのだが、その美容師の優しい笑顔で骨抜きにされてしまい、さなえも経験したことがない純粋なキラキラ目で話したことを今でも覚えていた。なんだか心の中まで覗かれた気になっていた。勇気を出すしかない。

 さなえはみどりと別れ、「フラウ・デ・ブーテ」に向かった。「美容の花」という意味らしく、腕と雰囲気がいいということで人気の美容室だった。予約していたので、すぐに入ることができた。

「さなえさん、こんにちは。」

 指名したのは、頂路智(ちょうろとも)だ。この店でナンバー2の指名数を誇るイケメンだ。みどりが言ったように、ソフトなイケメンぶりと優しさで人気があった。

「あ・・・こ、こんにちは!」

「今日は大人チックだね。あ、もうすぐ就活かあ。素敵なレディに仕上げなくちゃね。」

「うん・・・そーなの。あのね・・・智くん・・・えー、こんなこと訊いちゃっていいのかなあ。あのね、あたし、どの方向がいいかなあ。文系だけど、ITもアリだとも思ったりする・・・どう思う?」

「そうねえ・・・あ、今日は就活チックにするの?」

「あ、うん、智くん仕様でお願い。」

「オッケー。ああ、お仕事はさ、女性の場合には自分が輝ける道が一番だよ。さて、と。」

(自分が輝ける方向、ねえ・・・それがわかんないの。)

 智が準備する間、さなえは肩の力を抜いた。こうまで話すなんて、緊張する。こんな時、はっきり言って欲しかった。そうしたらその道で行こうって思えるのだが、そこまで求めるのは無理だともわかっていた。それでも言ってほしいのだ。それに、今日はちょっと攻めてみようと思っていたことがあった。ここは気合入れないとダメだ。

 くだらない話をしながら時間はすぐに過ぎ、智は鏡を持ってきて後頭部を見せた。

「はい、こんな感じ。ここをピンで止めて、ここをこう・・・そうそう、そう固めて後ろで丸めたらすぐに面接に行けるよ。どうですか?」

「わあ・・・ナイス!ありがとー!」

「気に入ってもらって良かったです。」

「あの・・・これ・・・?」

 ここが勝負だと思ったさなえは、スマホ画面を見せた。そこにはQRコードが表示されていた。

「ん?・・・えーと・・・。」

 智はさりげなく掌で隠した。そして自分のスマホを取り出してさなえに見せた。

『ごめんなさい。お客さんとは個人的に付き合ってはいけないことになっています。』

「え・・・あ、じゃ、じゃあ、これで。」

 さなえは自分のSNSメッセに登録させようとしたのだが、智はすぐわかったようだ。このお断り文章は何回も使っているのだろう。入力の時間ではなかった。さなえは軽く意気消沈して、会計に向かった。

「おや!加瀬川さん!お久しぶりですね。」

 さなえは智の声を聴いて振り返った。そこにいたのは、同じ大学の同級生で美術部の加瀬川樹里亜だった。日仏のハーフで、相当な美形で有名だった。どこかの芸能事務所に所属しているとも言われていた。さなえとは面識はなかったのだが、学内外ではかなり有名だった。

「智くう~ん!久しぶり!智くんじゃないと、あたしの髪を任せられない。今日もよろしくね。」

 かなりあざとそうな声で、同性からは絶対に嫌われそうだ。現にさなえも嫌いだった。

(あ~嫌。とっとと出よう。)

 会計を済ませて美容室を出ようとしたとき、さなえの目に飛び込んできたものは信じられない光景だった。樹里亜がスマホを見せていて、智がそれを見ていたのだ。

(え?どゆこと?嘘でしょ!)

 たった今断られたばかりなのだ。しかし相手があの樹里亜だと、断っていたはずだと思いはしたのだが気になってしまう。樹里亜のことなので、何度もアタックしていたと想像できた。さなえ自身もまあまあイケてるタイプではあった。あまり自分を出せないのだが、それ以上に焦りが出てきていた。。

 次の日から、さなえは就活そっちのけでひたすら美容に力を入れ始めた。普段大人しいタイプの女性は、一旦火が付くとこうなりやすい。バイト貯金でエステに通い、美肌向上のために、可能な限りあらゆることをやっていった。

(よし、これなら大丈夫よね。)

 さなえは自信をもって予約して、今度はあるSNS上では別名で登録していた智を見つけ、友人申請した。現在の画像を張り付けての申請だった。

『智くん、利山さなえです。登録してくれる?』

 しばらくしてレスがあった。

『利山さん、ごめんね。このアカウント、もう消すんだ。またのおいでをお待ちしております。』

「え!なんでよ!」

 さなえはスマホをベッドに投げつけた。さりげなくフラれたわけだ。だがさなえにも意地があった。

 さなえは自分でもそんなに固執すると思っていなかったのだが、もう止めることはできなくなっていた。あらゆるデータを集め、智の行動パターンを探っていった。

「えっと、智くんの家はたぶんこのあたり。で、よく行くお店は・・・。」

 飲食店やブティック、クラブや乗っている車まで探り出し、ネットの顔認証であらゆるデータを集めていった。様々な情報が出てきたが、それはもうほとんど知れたものばかりだった。これだと、多くのライバルたちは知っていることだし、当然ガードも固い。それでも諦めずに調べていくと、全く新しい住所がヒットした。

「え・・・これ、どこ?・・・この住所、見たことはあるんだよなあ。」

 その住所がやたら気になったさなえは、人間相関図アプリを立ち上げて、自分の関係を調べてみた。知っているなら自分の知り合いにいるはずだと考えたのだ。あらゆるデータを入力して、相関図の立つ上げを待った。間もなくして図が出てきたそれは、ちょっと驚く事実だった。

「この住所・・・鴻分(こうわけ)由紀子先生じゃない・・・なんで?」

 鴻分先生とは、大学美術科の講師である鴻分由紀子のものだった。

「先生、智くんと知り合いなの?あの美容室に通っているのかな。」

 翌日、さなえは由紀子のマンションへ出かけてみた。そこは割に最近できた巨大集合住宅の一棟だった。特に何もない、普通の団地だ。

「これ、やっぱりお客さんだよね・・・。」

 無駄足だったと思い引き返そうとした時、さなえの視界に見覚えある女性の姿が入ってきた。

(ヤバっ!先生だ!)

 さなえは慌てて棟の横にある街路樹の陰に隠れた。どうやら由紀子は気がつかなかったようで、スマホで会話しながら近づいてきていた。よく知っているので、気がついたら何かしら反応あるはずなのだ。さなえはこのまま過ぎ去ってほしいと思いながら待っていた。すると、かすかに会話の声が聞こえてきた。

「・・・うん・・・そう!・・・へえ・・・。」

 いつもは静かで穏やかで優しく、美人で面倒見がいい年配女性講師なので生徒たちの評判は良かった。家庭があって、子供もいると言われていたが、噂にすぎない。さなえは仕事か友人との会話かと思いながら耳を傾けていた。

「・・・そうなんだ・・・忙しいからね・・・なに言ってるの・・・会いたいに決まってるでしょ。」

(え?先生、なに話してるの?)

「ふうん、あの子がねえ・・・智はそこ下手だから、ちゃんとしなくちゃね。」

 だんだんと内容が明確になってきていた。相手はおそらく男の人なんだろうと推測できた。女性とはこのような会話はしないはずだ。そして「あの子」は、樹里亜のことではないだろうかと勘繰った。

「あの子ももうすぐ就職なのよ、そんな・・・うん、イケてるし・・・そうそう・・・え?うーん、どうなのかなあ?ああ・・・あれはちょっとねえ・・・。」

 さなえは耳を傾けながら、何となく嫌な予感がしてきていた。女性の勘が激しく動いていた。まるで男女の関係がある会話に聞こえてきた。

「で、今度はいつ・・・明後日ね。わたしはいいわよ・・・うん、その予定でね。ああ・・・あの子のことは全然気にしなくていいよ・・・うん、あの子は大人しいから。智が人気あるから・・・そうねえ、付き合いたいって思ってるかな・・・うん・・・好きよ、うん、じゃあね。」

 百合子はスマホを切り、マンションに入っていった。その後ろ姿を目で追いながら、さなえの心は爆発しそうだった。

(百合子先生・・・まさか、智くんと付き合ってるの?先生はお子さんいたはずよね・・・不倫?)

 さなえは立ち上がり、そそくさと集合団地を後にした。しかし段々と別の感情が湧きおこってきた。

(あたしのこと・・・大人しい?・・・あたしはいい子だから適当にあしらうの?ええ?)

 本気で付き合えるかもと期待していただけに、ダブルでショックだった。しかしさなえはどうしていいかわからなかった。立ち止まり、マンションを振り返ってつぶやいた。

「先生・・・智くんの彼女なの?」

 

2  

 

 さなえには思い当たることがあった。「フラウ・デ・ブーテ」のナンバー1である剣崎吾郎に、例の加瀬川樹里亜が急接近しているとの情報を得ていたのだ。そこをクローズアップすれば、智への集中度が減ると思った。

 さなえは早速海外の捨てアドを手に入れて、現地での美容師ファンのチャットグループに参加した。そこで「フラウ・デ・ブーテ」の噂を流したのだ。どうせすぐに消す予定なので、盛に盛って書き、すぐに撤退して消した。そして何食わぬふりをして本アドで参加し、成り行きを見守った。

 効果は絶大だった。なぜなら、すでに一部ではささやかれていたからだ。すぐに同グループ内でバズり、吾郎と樹里亜の接近は大ニュースになっていった。

「ねえねえ!さなえ、聞いた?吾郎くんと樹里亜、付き合ってるって!」

 指差みどりは興奮して、さなえをカフェに呼び出した。

「ああ、なんか言われてるね。でも、あたし的には智くんだけでいいんだ。」

「はあ~相変わらずね。あー、でもショック!よりによって、あの尻軽が好みだなんて!」

「でも、それ本当なの?よくある噂でしょ?」

「ありそうじゃん!」

 内心、さなえはしめしめだった。こんなに効果あるとは思っていなかったからだ。すると今度は、吾郎のファンがかなり智に流れ始めた。これは想定外だった。

(もー!結局、イケメンだったら誰でも良かったってこと?計算外!)

 だが吾郎と樹里亜の関係性は、単なる噂ではなかった。樹里亜はかなり自信過剰系で、特に他人の彼氏を奪うことに喜びを覚える最低志向だった。智に接近していたのも、吾郎にジェラさせる手段だったようだ。見た目ほど女性経験がなかった吾郎は、簡単に落ちてしまったと噂されていた。

 だが、思わぬ効果もあった。元々良好とは言えなかった吾郎と智の関係性が悪化したのだ。先輩でもある吾郎の圧に参ってしまった智と由紀子が会っていたという話も耳にした。しかし由紀子には家庭があり、立派な不倫だ。さなえはこの隙間を逃したら、智もダメになると思った。

(今しかない!)

 隙間を作ることに成功したさなえは、その隙間が埋まらないうちに行動に出た。智の行動パターンを調べ尽くしていたので、智がよく通っているレストランに通いだした。そしてタイミングを見つけて、智がやってくる日時に店のすぐ近くで張り込んでいた。

(あたしがこんなにストーカーになっちゃうなんて・・・嘘みたい。)

 そして智はやってきた。さなえはごく自然に智に気がついたフリをした。

「あれ?・・・智くん?こんにちは!」

「おや、さなえさん。あれ、この店、よく来るの?」

「うん、最近ね。ここのサラダおいしいし。あ、入るの?あ、じゃあ、あたしはやめておこうかな。」

「なんで?」

「だって・・・智くん、今人気すごいから。邪魔したらいけないかなって。」

「いいよ。入ろう。俺もここのサラダ好きなんだ。」

 何回も通って半分以上味わっていたさなえは、なにがうまいのかわかっていた。これでこの出会いは偶然ではないことを智に印象付けた。若干傷心気味の智には効果充分なんだろうなと、さなえは思った。。二人は店に入っていった。店内は最近リニューアルして綺麗になっていて、髭面で威勢のいいマスターが声掛けしてくれた。

「いらっしゃーい!あれ、さなえちゃん、今日は智と一緒なの?」

「ううん、たまたまそこで。」

「へええ・・・いい感じじゃん。ささ、座んな。いつものシーザーサラダセット?智は、トンカツセット大盛で・・・。」

「いや、俺も同じでいい。あんまし食欲ねえんだ。」

「おやおや・・・まあ、色々あらあな・・・痛え!何すんだよ!」

 ママさんが思いっきり足を踏んだようだ。

「智ちゃん、気にしないでね。この人、本当に余計なこと言うんだから。さっさと作るの!」

 どうやら吾郎の噂を知っていたようだ。大将も舌を出して肩をすくめ、料理に取り掛かった。

「ねえ、智くん・・・あの・・・。」

「あの噂だろ。気にしてないよ。」

「でも食欲ないって・・・。」

「まあね・・・色々あってね。」

(あ、吾郎くんとか樹里亜とか先生とかね。)

「うん・・・吾郎くん、大丈夫だよ。」

 自分で仕掛けておいて、よく言うと思いながらも、目の前に智がいると本気で心配してしまうさなえだった。やがてシーザーサラダとスープ、それに本日のホットサンドが運ばれてきた。

「おいしそう!ここのサラダの量、すごいよね。それにこのホットサンドがおいしいの!」

「・・・結構ボリュームあるんだね。ホットサンドは初めてだ。」

「あの・・・ごめんね。」

「え?何謝ってんの?」

「あたしと会ったから、いつものじゃなくて・・・。」

「ああ、食欲あんましねえっつったでしょ。気にしなくていいよ。」

「そっか・・・ねえ、智くん。なんでSNSのアカウント消すの?」

「え?ああ、あれ・・・あれは、知られたくない奴に知られたから。だってさなえさんだって見つけたわけじゃん。あれじゃダメだって思ったからね。」

「ええ?誰なの、知られたくない人って・・・あ、わかった!元カノでしょ!」

「違うよ・・・姉だよ。姉に知られちゃったからだよ。」

「え?お姉さん?どういうこと?」

「俺さ、母子家庭だったんだ。ガキの頃、母ちゃんと二人で生きてた。」

 突然のカミングアウトで、さなえは驚いた。

「そうだったんだ・・・え、でもお姉さんって?」

「訳アリなんだよ。俺が十歳の頃に母親が再婚してさ・・・相手がカネ出す代わりに結婚してくれって言ったらしい。姉ちゃんは相手の連れ子でさ・・・これがヤバかったんだ。思い出すのも嫌なくらいにね。色々あってさ。」

「ええ?・・・そうなの?何があったの?」

「言えないよ。世の中には信じられない奴もいるんだって、俺は教えられたんだ。おまけに母親は聞いてもくれない、信じもしない。再婚相手は大酒飲みで俺はその暴力のターゲットになってさ。それで家出してさ、これまた色々あって美容師になったんだ。それでもあのクソ女は俺を探していてね、とうとう見つかっちまった。それで、消したのさ。」

「そう・・・かわいそう。」

「ああ、ごめん。くだらねえこと言っちまった。こないだはごめんね。」

「え、でも・・・樹里亜は?」

「ああ、あれは全く・・・。いつものあのお断り見せただけだよ。結構押してグイグイ来るタイプだから、苦手だし・・・あ、秘密ね。」

「う・・・うん。」

「いけね、食べよう。」

 食事をしながら、さなえは色々考えていた。単純に雰囲気や顔が好きだったのが、急に近い存在になったような気がしていた。やがて食事を終えると、智は会計を済ませた。

「え?智くん、あたしの分は払うよ!」

「いいよ。俺も少し気が紛れたから。」

「智くん、今日はありがとう。あの・・・智くん、好きな人、いるんでしょ?」

「さあ・・・どうかな。」

「あ、訊いたらいけなかった?」

「まあ・・・いるよ。でもさ、こう見えて、俺は結構奥手なんだよ。本当はいい人だなって思っていても、どうしても伝えられない。アホみたいだろ。わかる?」

「ううん、そんなことない・・・カッコいいよ、智くん。・・・その相手の人、気づくといいね。」

 智は少しだけ笑みを浮かべた。

「・・・ああ、そうなったら、俺は本気で恋する。俺が過ごせなかった、幸せな生活を・・・その人と送りたいなって思うよ。」

 智の言葉には力があった。本気なのだろうとさなえは思い、それが自分だったらと考えて悲しくなった。それでも何とか言葉を出せた。

「素敵だよね・・・あの、またご飯一緒に・・・。」

「ああ・・・そうだね。楽しかったよ。」

 智は右手を差し出した。さなえも右手を出し、握手した。逞しく、でも細い智の指が感じられ、さなえはこの感触を絶対に忘れないと誓った。

「それじゃあ・・・利山さん。」

「あのね・・・さなえさんはちょっと・・・せめてちゃん付けで呼んでほしいな。」

「え?」

「普通のトモダチで・・・もいいから。」

 智は頬を指で掻き、いつもとは違う口調で呼んだ。

「じゃあね、さなえ・・・ちゃん。」

 レストランを出て、智はさなえと別れて歩いていった。さなえには、その背中が妙に寂しそうに見えていた。食事の間に、感じたことが脳内を駆けていた。

(智くん・・・本当に先生のことが好きなんだ。)

 はっきりと名を出さなかったが、智は由紀子と会えないでいることの方がずっと辛いんだと思った。時おり寂しそうな目で、さなえを見ていたからだ。そのくせ楽しそうにも見えた。

(あたしのうぬぼれかあ。結局・・・あたしがやった隙間って、一体なんだったんだろ。)

 さなえは自分がやってしまったことを後悔しながら、それでも智と食事できたことが嬉しくて、そのまま家に帰っていった。

 それから数日後、指差みどりからの電話で、寝ようとしていたさなえは起こされた。

「ん~、みどり、どうし・・・。」

『どうしたもこうしたもないの!智くんが・・・首吊ったんだよ!』

「え?何、変なこと言って・・・え?何?何だって?」

『智くんが!死んじゃったの!』

「え・・・ええええ!嘘!嘘嘘嘘!嘘だよね!そうだよね!」

『本当なの!もう出回ってるよ!・・・さなえ?さなえ!どうしたの!さなえ!』

 さなえはスマホを握ったまま、茫然としていた。つい先日に目の前で食事していた智の顔が浮かんできた。そして、激しい感情がこみ上げてきて、さなえは叫んだ。

「うわああああああああ!智くーーーーーーー―ん!わああああああああああああ!」

 その夜、さなえは泣き続けた。

 

 

 さなえは震えていた。ほんの軽い気持ちで隙間を作れば、そこに自分が入れると期待してやっただけなのだ。しかし予想外のことが多すぎた。吾郎と智の関係が元々微妙だったこと、樹里亜は智にすり寄ってはいなかったこと、智の生い立ちに問題あったことなどは考えてもいなかった。

(智くん・・・ごめんね。)

 さなえは主にみどりを通じて情報を集めたところ、智は家族の墓に入れなかったとのことだった。母親の親戚がたまりかねて自分の家族の墓に入れることにしたようだ。あの家庭だったらありうることだろう。さなえはどうしても墓を見なければ、智の死を信じられなかったので、智の親戚の家を探って、休日に向かった。

 バスで1時間の過疎地だった。墓は、集落の人たちの集団墓地のようで、水田の横に盛り上げた場所にあった。まだ名を彫ったばかりで、磨かれて綺麗な墓だった。さなえは墓までが果てしなく遠く感じていた。やがて、「頂路智 令和六年没 享年二十二歳」の文字が見えると、もう涙が止まらなくなっていた。親戚は窪家ということで、ひとりだけ違っていたことも悲しく感じた。

 さなえは墓の前に来ると、もう立っていられなくなった。腰を落とし、膝をついて泣きじゃくった。

「智くん・・・ごめんなさい!ごめ・・・わああああああ!」

 幸い過疎地でもあり、近くに誰もいなかったので、鳴き声は聴こえなかっただろう。だがそんなことはどうでも良かった。溢れる想いが止められなかった。

「あたし、こんなことになるなんて・・・思ってもいなかった・・・智くんに振り向いてほしかっただけなの!でもでもでも!なんで死んじゃったの!全部あたしが悪い!あたしを責めて!ごめんなさい!許して!わああああああ!」

 それから1時間ほど、さなえは泣き続け、喚き続けた。少しだけできたデートのことが思い出され、優しい顔が何度も何度も浮かんできていた。泣くだけ泣くと、さなえは立ち上がった。

{智くん・・・また来るね・・・それじゃあ・・・さよなら。」

 さなえが帰ってからしばらくして、みどりから連絡があった。

『さなえ、今いい?』

「いいよ。なに?」

『あのね、今日さ、あたしのところにどっかの記者から連絡がきたんだよ。例のチャットグループに知り合いいませんかって。あたしは入ってもいないからわからないって言ったの。そしたらさ、吾郎くんと樹里亜の噂を広めた犯人探しが行われているって。』

「え・・・なんで?」

『そいつがさ、すぐに退出していてね。妙な噂広めたんであんなことになったんだって。あんたじゃないよね。』

「じょ、冗談じゃないよ!あたしの推しは智くんだって知ってるでしょ!」

『だよねえ。そう思ったんだけどさ、なんかえらいことになりそうでさ。あー、面倒だな。あんたのとこにも記者とか来るかもしんないけど、気をつけなよ。』

「うん・・・わかった。サンキュ。じゃね。」

 智の件でまだ心が弱っているところに、この情報はきつかった。

(まさか・・・あれで犯人探し?怖・・・。)

 ある日のこと。家を出て面接に向かうさなえに、妙な男が近づいてきた。歩きながら上目で人を見ている、白髪が多い中年男性だった。もう暑くなりかけていたのに大きなバッグを肩に下げて、色々中に入っていそうなジャケットを着ていた。そして、公園前で声をかけてきた。

「あの・・・すみませんが、田迎坂公園はここでよろしいでしょうか?」

「え?ええ、そうです。」

「ああ、すみませんねえ・・・あの、ひょっとして利山さなえさん、じゃあありませんかね?」

「え?誰?」

「ああ、私はこういう者でして。」

 男は名刺を差し出した。そこには『万事社報道部 記者 絡根(からみね)耕三』と書いてあった。

「万時社・・・雑誌の?」

「ああ、ご存じで?嬉しいな。私どもは元来日本全国のマニアックネタを扱っておりまして、ネットでも出しております。御覧になられたことは?」

「あります・・・けど?」

「では利山さん、でよろしいでしょうかね?なに、すぐに終わります。あの・・・剣崎吾郎って方、ご存じじゃありませんよね?」

「え?その人って・・・。」

「あの、知らないわけがありませんよね。裏、取れてるんですよね。あなた、この人の美容室に通ってますよね。違いますか?」

「あの、あたし急ぎますので・・・。」

 去ろうとするさなえに、耕三は声をかけてきた。

「あなたね、あの噂流した張本人じゃないんですか?」

 さなえは一瞬立ち止まったが、すぐに走って去った。耕三は追ってはこなかったがまるで蛇みたいな気持ち悪い視線はずっと追ってきているように感じていた。

(なんで・・・なんで?なんで?)

 捨てアドで、それも海外のサイトで作ったものだ。一切過去はわからないはずだった。さなえは気分が悪くなって、面接には行かず、電話でキャンセルした。そしてカフェに飛び込み、みどりにメッセした。

『記者、来たよ 怖いよ』

 みどりはすでに就職先が決まっていたので、いつも暇だった。すぐにレスがあった。

『来たのか!どうだった?』

『わかんない なにかあったら教えて』

『おっけ すぐに探るわ』

 さなえもさすがに怖くなり、出社している父親にメッセした。

『おとうさん 今日 変なやつが家の周りにいる 気持ち悪いから、迎えにきて』

 間もなく父親からレスがあったので、さなえは父親の会社の近くで待つことにした。そこは図書カフェで個室もあり、会員なら無料で使うことができた。軽食の自販機もあるので、全く困らなかった。そこで少し安心したさなえは、好みのデッサン書などを呼んですごした。やがて夕方になり、父親からもうすぐカフェ前に着くとあったので、さなえはカフェから出た。すぐに父親の車がやってきた。

「おとうさん、ごめん!」

「最近変な奴が多いからな。しばらくは個人タクシーしなくちゃな。」

 父親は会社の部長で、最近さなえとの間は距離があったので、内心は嬉しそうだった。

「で、記者はなんだって?」

「・・・知らない・・・。」

「そうか。まあいい。気をつけなきゃな。」

「・・・ありがとう。」

 その日はみどりから連絡もなかったので、心疲労もあってぐっすり眠った。翌日も面接は全てキャンセルし、大学にも送ってもらった。何事もなく一日が終わった頃、みどりからメッセがあった。

『さなえ、調べてみたけどさ・・・気持ち悪いんだよ』

『なにが?どうした?』

『これ、見てよ。こんな画像が出回ってんの』

 送られてきた画像を見て、さなえは心臓が止まりそうになった。ひとつは美容室で、樹里亜と智がスマホを見せ合っている場面を、さなえが入り口でガン見している画像だった。さらに驚いたのは、さなえが吾郎と笑いながら話している画像だった。どちらも全く記憶にないシーンだ。

『さなえ!あんた何かやったの?誰かに恨まれたの?』

 さなえは何がなんだかわからなくなった。これ以上は無理だったので、レスをした。

『ごめん きょうはむり ありがと 』

 さなえは父親に頼むのも無理になり、タクシーで帰った。すぐにベッドに入り、ひたすら怯えていた。一体誰が撮影したのだろうと思うと、震えが止まらなかった。まさかこんなことが起きるなんて考えもしなかった。

 

4 

 

 あの画像を見た日から、さなえは常に周囲を警戒するようになった。それは当たり前だ。一度でもあのようなガセ画像を作って出回らせたら誰でもそうなる。だが不思議だった。画像はさなえがターゲットになっていたことだ。意味がわからなかった。

(嫌だよ・・・なんでこうなるのよ!)

 やたら怖かったが、就活は行わなければならない。この日の面接は、アート系で面接可とあった「(株)?A?」だった。デジタルアートカンパニーが正式名称だ。大学から紹介された会社で二階建てのビルを所有していて、一階は事務と工房、二階は工房と会議室になっていた。学生課からこんな募集が来ているよと教えられていた会社で、さなえのデッサンを活用できるかもしれないとのことだった。確かにさなえの希望にかなり近い内容が書かれていた。まだ誰も言っていないはずだと言われ、さなえはこれこそチャンスだと思った。

 さなえは事務室の応接コーナーに通された。会社はまだ昼休みではなさそうだったが、人は少なかった。待っていると、面接官がやってきてさなえの正面に座った。髪を見事に結い上げて眼鏡をかけ、白いスーツでビシっと決めた美人だった。スタイルも抜群で、おそらく三十代にはなっていないと、さなえは思った。

「はじめまして、利山さん。広報担当の小笠原芽倶美(めぐみ)です。今日はわざわざありがとうございます。」

「はい、よろしくお願いします。」

 芽倶美はさなえから履歴書を受け取り、素早く読んだ。

「セントラルアート大学からの紹介でしたね。利山さん、あなたはITでアートされた経験はあるのかしら?」

「ええ、授業でやりました。」

「そう・・・主に何系なの?」

「私は主にデッサンと彫刻が得意でした。アプリでデッサンし、造形は自力でというのが得意でした。」

「へえ・・・彫刻ね。弊社の事業内容はご存じかしら?」

「はい。各種デジアート系のウェブ販売と企業様の広告製作、各種プリントと了解しています。」

「そうですね。あなたもご存じと思うけど、アート系では面接は少ないの。作品を持ってきてもらって決めることが多いわけね。ではなぜ面接したのか、わかるかしら?」

「いえ、そこはよくわかりません。」

「素直でよろしい。わかる方がおかしいわ。だって事務募集ならそう書くでしょ。今回何も書かなかったのは、面接を受けた人の可能性を見たいからなんですよ。」

「可能性・・・ですか?」

「そう。今日まで何人かの方が面接に来られたんだけど、まだ採用はない。なぜかったら、可能性が見えてこないから。通り一辺倒なことではちょっとね。デジタルアートに自信あります・・・だけでは無理。弊社には優秀なスタッフがいるから、そこは募集していないの。」

「それでは、わたしは・・・。」

「あなただけよ。彫刻系って言ったのは。実はね、来年度から3?プリント作品に力を入れる予定なの。たとえばゴジラ。でかいオブジェが目立つところもあるけど、弊社が考えているのはそんなものじゃないの。イメージはこういうの。」

 芽倶美がタブレットで見せてくれたものは、ビルの間に立つ巨大なゴジラで、まさに放射熱戦を吐く寸前の姿だった。三階分くらいはありそうだ。

「これ・・・3?プリンターでできるんですか?」

「やるのよ。正確にはパーツごとに作って現場で接合する。今見ているものが実現できれば、単価は一億円で済むの。」

「え?このサイズで?何十億もしませんか?」

「そう。だから画期的なのよ。そのためには3?感覚がある人を採用したいわけ。弊社の企業予定だから、できれば秘密でやりたかったわけ。だから、合格ね。」

「はあ、やっぱりダメですか・・・え?合格?本当ですか!」

 今までが全くダメだったので、さなえは驚いた。芽倶美は肩をすくめて繰り返した。

「そう。合格。どうかしら?」

「はい・・・はい!ありがとうございます!」

「で、基本給は十五万円で、プロジェクトの予算に応じて手当てが変わる。この例だと、完成時には五00万円くらいかな。」

「ご・・・五00万!」

「もちろん、メインでやった場合よ。プロデュース料なども込みでね。アシストの場合にはそりゃもっと安いけど。そして、基本的には週休二日でフレックス。超えた場合にだけ残業つくけど、できるだけ早く帰ってもらいます。服装は時にこだわらないけど、プレゼンに出向いてもらう場合にはスーツね。ええと、他には・・・まあ、大体こんな感じ。どう?」

「もちろん!がんばります!」

「では・・・この書類に目を通して。」

 書類を渡されたさなえは、ここで書く以外は自宅で書いて持ってくることになった。一通り終わった後で、芽倶美はコーヒーを持ってきた。

「そうそう・・・あなた、セントラルアート大学よね?」

「はい。」

「部活とかは?」

「はい、映画研究会です。」

「映研かあ・・・懐かしいな。わたしも学生時代は映画作ってたのよ。昭和の時代なんて、8ミリ映写機で編集してたんだから。」

「あー、見たことあります。当時は画期的だったんですよね。」

「大学で見たの?」

「はい。」

「それ、たしかあそこの講師先生のよ。あの人はあんなのが好きでね。学生に見せるんだとか。」

 さなえは瞬間、胃が痛くなった気がした。

「あの・・・鴻分先生の事、ご存じなんですか?」

「ああ・・・あの人ね。まあ、噂は色々あってね。まあ、そういうわたしも?ついちゃっているんだけど、あの人も最近そうなっちゃったって噂は耳にするわね。」

「そこまでご存じなんですか?」

「ああ、だってあの人、噂だと昔から年下好みだったみたいよ。結構その辺では有名かもね。」

「え・・・そうなんですか?以前からそんな噂があったんですか?」

「まあねえ・・・余計なことばっかりやってたみたい。なんかそういう噂が・・・利山さん?どうかしたの?」

 さなえの顔面は蒼白だった。膝も震えていた。

「利山さん?」

「あ、あの・・・ちょっと体調悪くて・・・。」

「あら、それはいけない。すぐ帰れる?それとも病院に・・・。」

「い、いえ。大丈夫です。歩いていたら回復するんです・・・今日はこれでよろしいでしょうか?」

「ああ、もういいわ。本当に大丈・・・。」

「平気です。ありがとうございました・・・近々書類持ってまいります。では、失礼します。」

 さなえは?A?を後にした。だがもう頭の中は真っ白だった。まさかこんなダメ押しがあるとは思いもしなかった。予想しないことが立て続けに起こったのだ。何も考えられなくなり、ほとんど無意識でバス停まで歩いていた。ぼんやりしていたので、側溝に気づかずに足を滑らせてしまった。

「キャー!」

 さなえは倒れかけたが、誰かが支えてくれたおかげで無事だった。

「うわ!危ねえ!大丈夫っすか?」

「あ、ありがとうございます・・・はい、大丈夫です。」

 支えてくれたのは、スーツを着た若い男性だった。ほぼ同年代のようだ。

「気をつけて。なんかフラフラしてますよ。」

「いえ、大丈夫で・・・。」

「ほら危ない!」

 さなえは眩暈がして、また男性に支えられた。

「えっと・・・ほら、そこにバス停のベンチがあります。そこに座りましょう。」

 さなえは男性にささえられてなんとかベンチまで歩き、座った。男性は座らずに、立ったまま声をかけた。

「救急車呼びますか?」

「いえ・・・ちょうどここに来るつもりでした。すみません。」

「本当かなあ・・・気をつけてくださいよ。それじゃあ僕は・・・。」

「あの・・・お名前を教えていただけませんか。お礼しなくちゃ・・・。」

「いいですよ!たまたま歩いてただけですから。」

 さなえは男性も面接なのかと思った。典型的な就活スタイルだったからだ。

「あの、あなたも面接を?」

「え?・・・ああ、これですか。まあ、そんなとこです。あれ、あなたも?」

「ええ。」

「まあ、この時期っすからね。そっか・・・あの、別にお礼はいりませんけど、自己紹介だけなら。東日本大学建築科大中洲(おおかなす)拓郎です。」

「あたし・・・セントラルアート大学美術科の利山さなえです。本当にありがとうございました。」

「うーん・・・まだちょっと気になる。ええと、乗るのはバスターミナル方面行きですか?」

「え、ええ。」

「えっと・・・あ、もうすぐ来ます。俺、それまで付き合いますよ。」

「え?いえ、大丈夫・・・。」

「じゃないから危ないわけっしょ?あと、たぶん5分くらいだ。それじゃあ、ちょっと失礼。」

 拓郎はさなえの横に座った。近くで見ると、意外に体格いい青年だった。面接用に刈り上げているようだが、妙に似合っていた。やたら黒くて、屋外で何かやっていそうだ。

「いやあ、面接って疲れますよね。俺、もう2か月全滅っす。」

「・・・就職難の時代ですからね。」

「俺って完全に体育系なんで、面接の間ずっとつま先だけで立ったり座ったりしてるんすよ。そうでもしないとつまんなくて。」

「つま先で?疲れないんですか?」

「疲れはトモダチっす。」

 得意そうに言う拓郎の無邪気な表情に、さなえは一瞬何もかも忘れることができた。そして無性におかしくなった。

「・・・ふっ。」

「あ、笑った。」

「あ、すみません。」

「笑えるようになったらもう大丈夫っすね。」

「あの、何をされているんですか?」

「野球っす。ショートで。」

「へえ、確か東日本大学って野球強くなかったですか?」

「まあまあ強いっすよ。地区の大学野球で必ずベスト4に入ってますから。」

「面接されてるってことは、じゃあ、もう試合には出ないんですか?」

「え・・・そ、そうですねえ。」

「ええ?まだ野球やるんですか!」

「いやあ、あの・・・ずっとベンチ温めてましたから。」

「え?」

「つまりその・・・万年補欠ってことで。」

 さなえは目を丸くして呆れ、そして思わず吹き出した。

「やだあ!あっははははは!絶対レギュラーだと思ったのに!」

「い、いいじゃないっすか!強い部活に入っちまったのが間違いなだけで、自分だってそこそこやれたんすから・・・あ、バス来た。」

 拓郎は立ち上がった。さなえも立ち上がった。

「それじゃあ、気をつけて。」

「ありがとうございました。」

「あの、たぶん歳一緒。敬語はいらねえよ。それじゃあ!」

 さなえは何度も頭を下げてからバスに乗り込んだ。拓郎はバスが発車するまで見送ってくれた。小苗も手を振り続けた。拓郎が見えなくなると、さなえの表情は明るくなっていた。気になることは多かったが。とりあえず救われた気分だった。

 

 

 さなえは書類を持って、?A?に来た。書類を提出して、さなえは芽倶美に訊ねた。

「あ、あの・・・。」

「なに?」

「あの・・・お伺いしたいことがあるんですけど。」

「なんでもどうぞ。」

「ええと・・・あの・・・鴻分先生のことなんですけど。他に何かご存じなのかなって思って。」

「どうかしたの?」

「あの・・・ええと・・・ご家庭のことで・・・。」

 芽倶美は肩を落として種息をついた。

「・・・まあ、離婚しちゃったみたいだからね。それから先はあんまり知らないのよ。わたし的にはあんまりいい印象はないなあ。さなえちゃんは、どう思ってるの?」

「え?先生ですか?すごく美人で評判いいですよ。わたしも好きでした。」

「そう・・・あのね、大人の世界の第一歩・・・余計なことは知らなくていいの・・・なんてね。気にしないで。まあ、だからよく知らない人なの。噂でしか知らない。だから教えようがないのよ。」

「そうなんですか・・・。」

「はい。」

「それじゃあ、3?プリントについてちょっと考えてみようか。」

さなえは引っかかる部分はあったにせよ、触れてはいけないところだとわかったのでそれ以上は考えなかった。そして3?プリンターについて細かく説明を受けた。なかなか面白そうだった。ここのP?だと、画像全般で高度なものが作れそうだ。

 さなえは社長にも会い、かなり期待していると言われて嬉しかった。その後は芽倶美とランチを済ませ、卒業まで何をやれるか楽しみになっていた。

 この日は一日たっぷり暇だったので、最近ちょくちょく中断していたバイトをすることにした。市内にある地域チェーン店で、各種丼を扱う店だった。

「すみません、遅れました。」

「おお、さなえ。内定したんだって?良かったじゃん。」

 最近結婚したばかりの店長が、カツ丼を作りながら返事した。

「はい、やっとです。」

「そっか。もうしばらくだな。残念だなあ、こんな看板ファンキー娘がいなくなるなんて。」

「ちょっと!」

「わははは。さあ入った入った。」

 実に雰囲気いいバイト先だったので、正直ずっとここでもいいかなと思っていたくらいだった。さなえは女性人気の野菜丼の準備を始めた。素揚げした野菜を甘辛いタレに絡めて乗せるものだ。これはさなえも作ることを許されていて、早速作っていた。

「いらっしゃーい。3名様?こちらにどうぞ。」

 店長が案内したのは女性客たちだった。

「野菜丼三つお願いします。」

「はいよ!野菜三つ!」

「はーい。」

 さなえが作っていると、客のひとりが立ち上がって、カウンターごしに声をかけてきた。

「あんた、利山さんじゃないの?」

 加瀬川樹里亜だった。

「・・・はい。」

「ふうん・・・こんなところでバイトしてるんだ。ずいぶん派手に動いているようだけど・・・かわいい顔して、やるもんだね、あんた。」

「あの、すみません、仕事中ですので。」

「あ、そ。あんただろ、吾郎くんを狙って変な噂を流したの。」

 さなえは盛り付ける手が止まった。

「え・・・何のこと?」

「ふううん・・・あたしはあんただと思ってるよ。あんたのせいで、吾郎くんもいなくなったじゃん!ふざけんなよ!」

「すみません、ちょっとお話は・・・。」

 騒ぎに気がついた店長が声をかけてきた。

「ふん・・・なあ、帰るよ。」

「樹里亜、なんでよ!」

「気分悪いんだよ!帰る!」

 樹里亜は気が強いことでも知られていた。常にイエスマンだけを周りに置いて、気に入らないと何を言い出すのかわからない女性だった。男性遍歴も相当だという噂だった。

「・・・たくよお。ああお客さん、お騒がせしてすみませんね。」

 だがさなえの内心は、かなり揺れ動いていた。

(やっぱりあの画像、出回ってるんだ・・・そして、なに?あたしが吾郎くんを狙ってた?なによそれ!)

 往々にして噂というものは尾ひれがつくものだ。だがまさかそう言う事になっていたとは。しかも樹里亜が怒ったということは、あの時美容室にいた樹里亜がそう勘違いして広めたのだろう。確かに自分がやったこととは言え、そこまで言われているとは思わなかった。さなえは泣きたくなったが、堪えて仕事に専念した。そうしなければ心が折れそうだった。救いは、樹里亜くらいしか察していないということだ。証拠はないのだ。

 やがて7時になり、店長がさなえに声をかけてきた。夜のバイトが入っていたからだ。

「お疲れ様、今日はもういいよ。なあ、くだらねえことは忘れるこった。」

「はい。ありがとうございました。」

 さなえは帰途についた。家までは徒歩で15分程度だ。まだ明るいので商店街の中を歩いていくと、一杯ひっかけるサラリーマンの声がやたら響いてくる。それは日常なのでホッとするものだ。角のゲーセンを曲がり、住宅街に向かって歩いていくと、少し暗くなってきた。街灯がつき始めている。もう間もなく家が見えてくるところまで来て、さなえは立ち止まった。

(あれ・・・?)

 街灯の横に人影が見えたような気がした。こんな時間なので、さなえはスマホを握っていつでも警報音が聴こえるようにして歩いていった。

(嫌だ・・・なにもないといいけど。)

 街灯に近づくと、やはり人影がある。さなえは気をつけて歩いていった。すると人影が少し動いた。黒い服だった。さなえは目を合わさないようにして歩いていると、人影がさなえの前に移動して来た。まるで瞬間移動したようだった。そしてさなえと顔を合わせた。

「ぎゃあああああああああ!」

 さなえは大声で叫んだ。そして腰が抜けて立てなくなった。そしてさなえの声を聞いた近所の人たちが飛び出してきた。知った顔もいれば、初めての顔もあった。

「どうしました!大丈夫?」

 しかしさなえは声を出すことができなかった。顔面蒼白になり、歯の根が合わなくなっていた。

「さなえ!どうしたんだ!」

「さなえちゃん!」

 両親もやってきて声をかけた。さなえは人影を指さそうとしたのだが、もう見えなくなっていた。

「さなえ!」

 我に返って両親の顔を見たさなえは、泣き出した。

「わああああああ!」

「大丈夫だ!よしよし・・・ああ、皆さん、すみません。うちの娘です。ほら、立てるか?」

 泣きじゃくるさなえを抱きかかえるようにして、両親は家に連れ込んだ。さなえは家だとわかると部屋まで走り、鍵をかけてベッドに潜りこんだ。

『さなえ!どうしたんだ!さなえ!』

『あなた、そっとしておきましょう。大丈夫よ。あの子はすぐ立ち直るから。』

 ドアの向こうから両親の声が聞こえてきたが、さなえはそれどころではなかった。ずっと震えていた。

(あれ・・・あれ・・・智くんじゃん!なんで!)

 さなえの前に現れたのは、間違いなく智だった。だが髪は振り乱していて、顔面蒼白だった。縊死したと聞いていたが、間違いなく死人の顔だった。

(なんで!なんで!そんなにあたしが憎いの?)

「いやああああああ!」

 さなえは一晩中、泣き続けた。

 

6 

 

「え?さなえちゃん・・・幽霊?見たの?」

「・・・はい。ショックで・・・。」

「え・そうなの?そりゃあねえ。幻覚ってやつかもね。だったらゆっくり休んだ方が・・・。」

「いえ、気が紛れた方がいいんです。すみません。」

 ?A?も来て最終的な社内のあれこれを教えてもらいながら、さなえは芽倶美に話してみた。

「ふうん・・・まあいいわ。それじゃあ、ご飯食べよっか。すぐ近所においしいパスタがあるカフェあるの。行かない?」

「はい!」

 芽倶美とさなえは、ビルのすぐ近くにあるカフェに入った。二人はナポリタンセットを食べながら、色々話した。おちついたこともあって、ようやくちゃんと話せるようになっていた。

「そっか。まあ、気にしないことね。気にするとさ、また見ちゃうよ。」

「え、芽倶美さんも幽霊見たことがあるんですか?」

「んー、ないな。でも幻覚だったらそうなんじゃない?それなら経験あるもん。一度入院してね、しばらく生死の境をさまよっちゃった。その時にね、結構見たよ。」

「どんなのでした?」

「あたしの場合は、壁一面がお経だったの。耳なし芳一みたいな感じだった。怖かったよ。」

「そうだったんですか?」

「もー死ぬかと思った。1週間ずっと40度近い発熱があったし。」

「えー、大変だったんだ。」

「まあ、それが元で独り身になっちゃったんだけどね。」

「え?どうしてですか?」

「早い話が・・・旦那が行方不明。今ごろどこにいるのやら。それで必死に探したけどいなくてね。3年以上経ったんで、家裁に行ってね。」

「へえ・・・そうだったんですか。」

「あなたはこれからよ。そんなことにならないようにしなさい。大切な人は必ず、いざという時に救ってくれるからね。」

「はい。そう言えば由紀子先生も見つかっていないみたいだし、不安材料多いです。」

「あの人のことはもういいでしょ。いつまで気にしてるの。」

「はい・・・あ、でももし智くんみたいになったら・・・。」

「知らない。そりゃそうなった時でいいじゃない?どうせきっと、どこかの若い男でもつかまえているんじゃない?」

 藪蛇になりかけたので、さなえはランチに集中した。二人はしばらく話して、さなえはそのまま帰宅した。色々話せて気分も帰ることができたから助かっていた。

(幻覚・・・か。そうかもね。だって智くんがあたしの前に来る必要ないもん。)

 正直なところ、現れてほしくもあった。ただし、生前の姿のままで。あんな状態で来てもらっても、それは困る。

(智くん、かっこよかったからなあ・・・でも、あんな過去もあったなんて。)

 義理の姉に、おそらく虐待されか何かで家を出てきたと語っていたことを思い出した。そんなことがあったなんて、さなえにはそれだけでショックではあった。

(だから智くん、由紀子先生に惹かれていたのかもね・・・あ!)

 さなえは連想から思い出した。あの時の画像を作ったのは、一体誰だったんだろう。さなえを狙っていての犯行だろうが、全く思い当たることはなかった。何かの原因があるはずだ。考えていると、意外な可能性が見えてきた。

(まさか・・・由紀子先生?智くんと付き合っていて、あたしが邪魔だった・・・?あたしが智くんにアクションしたから?まさか・・・でも・・・芽倶美さんも言ってた・・・意味深な言い方だった。由紀子先生、見えてない裏があったの?そうなの?)

 そしてそこから、とんでもない考えが浮かんできた。

(だから智くん・・・あたしの前に、あんな姿で来たって?先生に気をつけろって?)

「そうなの!智くん!」

 さなえは思わず大声を出していた。同時に激しく音と声がした。

「わ、わーーーーー!」

 辺りを見ると、前方を走っていた自転車が倒れ、若い男性が腰をさすっていた。さなえは駆け寄って声をかけた。

「大丈夫ですか?」

「う・・・な、なんとか・・・。」

 若い男性は起き上がり、さなえと顔を合わせた。

「あー!」

「あ、ああああああ!」

 同時にお互いを指差して叫んでいた。

「大中洲・・・くん?」

「利山さん・・・?」

「どうしたの?怪我はない?」

「あのなあ!」

 大中洲拓郎だった。拓郎はやっと起き上がり、服の汚れをはたきながらさなえを指差した。

「あんたがいきなり大声出すから、チョー驚いたじゃんか!それでこうだよ!」

「え?あたしのせい?」

「そだよ!横を走ってたら急に叫んだからさあ。」

「え?・・・あ!あたしだ!」

「だから!そー言ってんじゃん!」

「ああああ!ごめんなさーい!」

 さなえは慌てて、ハンカチを取り出した。

「あの、怪我は?」

「わかんねえよ。帰って調べないとさ。」

「ごめーん!これ、使って。」

 さなえはハンカチを手渡した。

「いーよ。タオル持ってっから。」

「ダメ!使って!」

「いや、女ものなんて持って帰れねえじゃん!いいって!」

「じゃあ、今やったげるから!」

 さなえは拓郎の服の汚れをハンカチではたき、拭いた。

「い、いいって!ハズいだろ!」

「誰もいないじゃん!」

「へ・・・あ、マジ・・・。」

 しばらくすると、大体拭けた。さなえは無意識のうちに、拓郎のポケットにハンカチを入れていた。

「あの、クリーニングするなら請求して。はい、これがあたしのQRコード。」

「請求なんざしねえって!」

「いいから!どのみち、登録しといてよ。」

「えー・・・あんたさあ、見かけによらず結構強引だな。」

 拓郎はしぶしぶ読み込んで登録した。

「ほい、しといたよ。」

「改めて、ごめんなさい。」

「もういいって。でさ、何で叫んでたんだ?」

「あ・・・も、妄想・・・?」

「妄想で大声出すなよ。そういうクセあんの?」

「まあ・・・そうだけど、そうでもない・・・かな。」

「よくわかんねえな。まあいいや。もう頭にもきてねえし。なんか変な出会いだな、あんたとは。」

「あたしだって!もっとカッコいい出会いが良かったよ。」

「カッコ悪くて悪かったな!どうせ万年補欠だよ!」

 言いながら卓也はバットとグローブを拾ってバッグに入れて、自転車に乗せた。

「・・・バットとグローブ?まだ野球やってんの?就活してるんでしょ?」

「まあ、好きだかんな。最後までやるよ。今日も練習帰りさ。たまには夜でも自主練してるんだぜ。」

「へえ。そうなんだ。もう部活やんないのに?」

「いいだろ、野球自体が好きなんだから。」

「好きかあ。あたしは野球のこと全然わかんないけど、何かに打ち込めるっていいのかもね。」

「気持ちだけはキングカズだ。少しでもうまくなりてえってね。」

「ええ?カズはサッカーでしょ。」

「気持ちの問題だって!」

 拓郎は両手を広げて気持ちをアピールした。だがさなえは本当にバカみたいな会話やってると気がつき、吹き出した。

「もう・・・あはははは!笑わせないでよ。」

「人をバカにすんじゃねえよ!これでも真面目にやってんだ!」

「だって・・・あっははははは!あー、おかしい!」

「・・・たく。やってらんねえっつーの。そいじゃあ、俺、もう帰る。あんたも気をつけて帰れよ。」

 拓郎は自転車を動かし、少し進んでから振り返った。

「あのなあ。人前で大声出すなよ。結構威力あんだよ。」

「失礼ね!」

「そいじゃな。バイバイ。」

 拓郎は去っていった。さなえはその姿を見て、軽くため息をついた。

(変な奴・・・あ、でも気分いい。変なの。)

 

7 

 

 さなえは大学の卒論完成のために、市の科学物理博物館に来ていた。卒論のテーマは今後のアートの変容についてだ。3Ⅾ製作現場を見てから決めていた。このテーマなら絶対に大丈夫だという自信があった。

 ある程度書いたところで、さなえはバイトに出かけて行った。その途中の事だった。

「おや、またお会いしましたね。」

 あの絡根耕三だった。偶然を装ってはいたが張り込んでいたことは間違いなかった。

「すみません、今からバイトなので・・・。」

「じゃあ、これ見てください。」

 耕三がスマホ画面をさなえに突き付けた。それを見たさなえは、目を丸くした。

「これ・・・?」

「そう。頂路智さん、話しているのは鴻分百合子さん・・・仲良さそうですよね。」

「・・・だから何なんですか!」

「まあまあ・・・ほんの15分程度で済みます。そこのカフェでどうです?バイトには充分間に合いますよ。」

 この男は、さなえのバイト先や時間まで知っていた。気持ち悪くなったが、さなえはこの二人が楽し気に話している画像を見せられたら抗えるわけがなかった。

「いいですよ。なんですか?」

「まあまあ・・・座りましょ。」

 耕三は最初から全て手配していたようだ。座ると同時にコーヒーが二杯、目の前に置かれた。

「利山さなえさん・・・私があなたに用があるのは、先日の件ではないんですよ。」

「え?」

「確かに一部では、あなたが噂を流した本人ではないかと言われてはいましてね。私も最初はそこに興味持ったわけなんですよ。ところがですねえ、調べていくとどうにも腑に落ちないところがあるんですよ。」

「・・・何がですか。」

「まず、出回っていたこの2枚の画像ですが・・・御覧になっていますね?」

 みどりから見せられたあの画像を、耕三も持っていた。

「・・・はい。」

「結構。で、何が引っかかったか。私も記者でよく写真を撮ります。その観点からすると、この2枚、おかしいんですね。」

「え?」

「これは明らかに合成です。たぶんAIを使ったんでしょう。おそらく、ちょっと慣れた素人が作ったのかな。」

「なぜ、わかるんですか?」

「この2枚の角度ですよ。まずこの美容室の画像ですけど、私は実際に行ってみました。で、どのポイントなのかを探したんですが・・・利山さん、あなたこの美容室の前に何があるのかご存じですか?」

「え?ここの前・・・雑居ビルがあって、花屋さんがあって・・・え?警察も・・・ある・・・。」

「でしょ?どう考えてもこのショットを撮影するためには、派出所内ならでないとできないんですよね。軽く覗いてみたんですが、警察の人が座る椅子、そこからでしか無理。他にはポイントありません。しかも、あなたの画像だけが鮮明さが低い。これ、普通は逆でしょ。向こうの画像がぼけるならわかりますがね。」

 さなえは気が遠くなりそうだった。意味がわからないことばかり続いている。

「そして2枚目。これはちょっとわからない。私はどこかのビルからと思っていたんですけどね、街路樹以外には何もない。おそらく、あなたのこの日の画像をどこかで撮影して組み合わせたんですよ。」

「なんで・・・なんでそんなことをする必要があるんですか!意味ありますか!私には何にもないんですよ!」

 さなえは大声を上げた。耕三は人差し指を立てた。

「お静かにね。そこが引っかかるところでね。誰がこれを作ったのか、心当たりはないですか?」

「・・・知りません。思い当たりません。」

「まあ、そうでしょうね。たぶんですけど、あなた・・・この人を推していましたよね。」

 出されたのは、先ほどの智と由紀子の談笑画像だった。

「そもそもですけど、私はこの人を追っていたんですよ。この写真は、やっとのことで現場を押えた時のもので、本当に隙を見せないから苦労しましたよ。あのね・・・この頂路って人・・・実は結婚詐欺師らしいんですよ。」

「・・・え・・・え?なんで?どういうことなんです!」

「だから、結婚詐欺師。」

「結婚・・・詐欺師・・・。」

 さなえの脳裏に、智と食事した場面が繰り返し浮かんできていた。

「そう。奴の手と言うのがありましてね。奴は結構な過去を持っていて、それで相手の気を引くというやり方が多いそうなんです。ただ賢いのが、絶対に自分から結婚したいなどとは言わないんですよ。勝手に相手がそう思い込むように仕向けている。それで頃合いとわかったら逃げ出す。その都度番号を変えてね。だから正式には詐欺かどうか微妙なんですよ。私は別件で探っていた人からその話を聴いていまして、どうもそいつがここにいるのではないかというネタをね、ゲットしたんですよ。だからね利山さん、あなたはある意味ラッキーでした。だって、そういう付き合いをしていなかったわけでしょ。学生さんだし。だから相手にしなかった、っていうところでしょ。」

「・・・嘘よ。」

「ん?」

「そんなことする人じゃない!何も知らないくせに!汚い大人って、大嫌い!失礼します!」

「利山さん!」

 さなえは立ち上がり、逃げるように走り去った。走りながら涙が止まらなかった。あの食事の場面は、さなえにとっては至福の時間だった。好きだった人と幸せな時間を過ごせていて、しかもその後自死していただけに、大切な思い出になっていたのだ。走って走って、ようやく息が切れて止まり、気がつけばバイト先のすぐ近くまで来ていた

「う・・・そんなこと・・・あるわけない!」

 人が多かったので激しく声を上げなかったが、近くの電信柱に寄り掛かって、声を押し殺して泣いた。何がどうなってこうなったのか、理性では理解できた。しかし感情が追い付かなかった。泣くだけ泣いて、さなえは涙を拭いて店に入った。

「こんにちは。ちょっと遅れました。」

「ああ、たった5分の遅刻だ。その分働けよ!」

「はい。」

「どうした?元気ねえなあ。」

「あ、いえ・・・。」

 店長はさなえの顔を見て、腰に手を当てた。

「やっぱり変だ。今日はいいよ。帰んな。」

「え?でも店長ワンオペで・・・。」

「いいから!今日は暇な予想なんだ。帰んな。その雰囲気じゃ、こっちも困る。いいな!」

 店長の人を見る目は確実だった。何度もそれで救われたことがあったし、店を出禁にした連中も見てきた。そんな相手に逆らっても意味がない。

「わかりました。代わりに開いた時間に出ます。」

「まあ・・・元気になったらでいいからよ!」

 さなえは頭を下げて帰途についた。バス停に向かって少し待つ間に、どうしようもなく寂しさと悲しさがこみ上げてきた。このままだと泣きそうだと思った時、スマホが鳴った。メッセだ。

「・・・え?ビッグたっくん?誰これ・・・あ!大中洲拓郎!」

『こないだはあんがと。ハンカチ入ってた。どーしよー。家族に見せらんねーよ!ぜってー返す!いつがいいんだ!』

 さなえはあまりにも間抜けな文章を読んで呆気に取られ、また吹き出した。この男、いつも肝心な時に笑わせてくれている。さなえはレスした。

『いつでもいいよ。早い方がいいの?』

『今、部屋でドライヤー当ててる。今でもいい!』

『明日は?』

『明日はれんしゅー終わりならいい。』

『じゃあ、最初に会ったバス停でどう?5時くらいでは?』

『行く!』

 さなえはスマホを切り、そして大きくため息をついた。そして空を見て、つぶやいた。

「何がどうなってもいい。智くん・・・あの時だけはありがとうね。」

 

 

 最近色々ありすぎたせいか、さなえの体調はイマイチだった。だが拓郎と会う約束があるので、仕方なく終日バイトを終わってから、あのバス停に向かって行った。ここは比較的段差があって、側溝に気づかずに転倒しかけたのだ。たまたま歩いていた拓郎に助けられてから、なぜかよく会う。さなえも何回か付き合った経験はあるのだが、こんな出会いはなかった。

 さなえはバス停のベンチに腰かけて待っていると、やたらキイキイと音が聞こえてきた。

「この音・・・あー、やっぱり君だ!」

 拓郎はゼイゼイ言いながら自転車を漕いできていた。

「プファー!もー死ぬ!なんだよこのチャリ!油差してなかったんかな。重えのなんの・・・あ、ちわ。」

「この間は歩いていたじゃない?」

「ああ、あれは面接だったからな。汗まみれで行けねえだろ。ほい、これ。ありがとよ。」

 拓郎はフリルのついたハンカチを手渡した。家族に黙って洗って、ドライヤーで乾燥させたようだ。しかもやたら丁寧に畳んであった。

「君の家って、どんな家族構成なの?」

「うちは、親父とお袋と、兄貴と弟。兄貴は板前見習いで、弟は高校3年。」

「へえ・・・お母さんいるのに、こんなハンカチダメなの?」

「だ、ダメに決まってんじゃん!建設現場監督で空手有段者の親父に、男が三人だぞ。女っ気ゼロ。お袋だっていつも男どもを怒鳴ってんだ。んなもん見せたらどうなるか・・・。」

「そなんだ。あたしは一人っ子だし、両親は優しいし。男物の何か持って行っても、何か訊かれる程度かな。面白いね、君の家。」

「まあ、毎日楽しいぜ。家の中で全く気を使わなくていい。」

「そう?」

「まあ、よく言われるよ。がさつの極みだってさ。」

 さなえはハンカチをバッグにしまった。

「ところでさ、あんたの大学に加瀬川って派手な女いるでしょ。」

「樹里亜のこと?」

「名前は知らねえけど、うちの奴らがよく話題にしてる。」

「ふうん・・・あたしは好きじゃないけど。」

「そうかあ。いや別に興味はねえんだけどさ。うちの野球部でも、何人か告って撃沈してるみたいだ。」

「まあ・・・派手だもんね。」

「でもさ、実はよくある噂ってやつがあんだよ。」

「なに?」

「その加瀬川って子、うちの助教授とできてるってさ。」

「え!そうなの!」

「国文科の助教授でね。いけ好かねえ奴だけどさ。助教授も相当なベースケなんで。」

「はあ~、あの子やっぱりねえ。」

「ああ、もう一個あった。」

「まだあの人、色々あるの?」

「いや、そうじゃない。利山さんがさあ。」

「あの・・・。」

「なに?」

「名前で呼んでくれない?名字だとさ、なんか違くね?」

「まあ・・・そりゃそうだな。じゃあ、さなえさんで。」

「もう、敬語はいいって自分で言ってたでしょ!」

「ああ、そっか。じゃあ、さなえちゃん・・・なんか恥いけど。さなえちゃんさ、こないだの面接先、なんつったっけ。」

「?A??」

「ああ、そうそう。あそこのこと知ってるの?」

「知ってるって・・・どゆこと?内定はしてるよ。」

「そうか・・・俺も面接いっぱい受けてるじゃん。そん時にたまたま一緒に受けた奴から聞いたんだけどさ、あそこって一回潰れてたみたいだぜ。」

 さなえは目を見開いた。何を言っているのか、意味がわからなかった。

「・・・は?おかしいでしょ?あの会社のこと、誰がそう言ってるの?」

「俺も聞いただけでさ。いやね、そいつの親戚が受けにいったら潰れてたって話からさ、どっかで聞いたことある会社だなって思ってた。その後どうなったかは知らねえけど、一回確認しといた方がよくね?」

 さなえはまた脳内パニックになりかけた。

「だって、内定したし・・・やっと自分を活かせる会社なんだよ?なんでそんなこと言うの?」

「あ、悪い。やめろって言ってるわけじゃない。復活しているんなら問題ないだけだし。」

 さなえは前日の絡根の話を思い出していた。普通に受け入れていたことが、実はとんでもないことのわずかな欠片にすぎないと思い知らされたばかりだ。確かに拓郎は単に注意してくれたに過ぎない。しかしもうさなえは何も考えられなくなってきていた。

「あれ、さなえちゃん、どうし・・・。」

「・・・帰る。」

「へ?気分悪くしたかな・・・俺が悪い?」

「・・・今日はありがと・・・あ、バス来た・・・またね・・・。」

 ちょうどバスが来たところだった。さなえは無表情でバスが停まるのを待った。

「おい・・・大丈夫か?」

「・・・じゃあね・・・。」

「おい!さなえちゃん!」

 だがさなえはそのままバスに乗り込んだ。拓郎は何がどうなったのかわからず、頭を掻きながらさなえを見送った。

(一回潰れたって?んなわけないよ!だってあのコンピューターはどう説明すんのよ!)

 これまでのこともあって、全く処理できない感情がさなえを包んでいた。ぼんやりしていて、うっかり乗り過ごすところだった。

「あ、やばい。」

 さなえは降りて、家に向かった。たった5分くらいの間に、色々なことが浮かんできた。

(智くんが結婚詐欺・・・あの出回った画像が素人が作ったAI合成・・・会社が潰れている・・・意味がわかんないよ・・・)

 あの食事の雰囲気をいつも出しているのなら、確かに女性なら落ちてしまうだろう。皮肉なことに、あれだけ推していたさなえは全くそうではなかった。むしろ、近しい存在になったような感覚だった。ずっと前から知っていて、恋とかの感情ではなくなっていた。それは本当に不思議だった。

(なんでだろ・・・変だ・・・)

 家が見えてきた。先日はこの辺りで、智の幽霊を見た。多少とも辺りが気になってくる。さなえは注意しながら歩き、玄関に着いた。安心したさなえはドアを開けた。

「ただい・・・え?な、なにこれ!」

 我が家の玄関があり、靴箱があるはずだったが、目の前には森があった。薄暗く、木の匂いがした。

「なに・・・なになになに!どこよ!」

 さなえは引き返そうとしたが、開けたばかりのドアもなかった。完全に森の中にいた。

「ぎゃああああ!誰か!助けて!」

 さなえはしゃがみこみ、叫んだ。だが何の反応もなかった。さなえは怖くて震えていたが、かすかな音が聞こえてきたので顔を上げた。目の前に、背が高い男性の後ろ姿があった。

「助け・・・。」

「誰が・・・てめえなんざに会うかよ。俺の人生、散々弄びやがって・・・そのうえ、まだこれか?」

 知っている声だった。さなえはその声が誰のものか思い出そうとしたが、その前に男性が横を向いた。

「・・・智くん・・・?」

 それは間違いなく頂路智だった。ワイヤレスイヤホンをつけていて、誰かと話しているようだった。

「智くん・・・あたしよ!さなえよ!」

 だがそれは智には届いていないようだ。全く聴こえていないようで、智は会話を続けていた。

「これで本望か・・・へ、誰がお前と・・・もうこれで終わりだ・・・俺は、俺で始末をつけるだけさ・・・こんなクソみてえな人生、終わらせるしかねえだろが・・・うるせえ!」

 智はスマホを操作した。

「あの人に動画送ったぜ。お前の悪行を全部喋ってる・・・そうだよ・・・送った。今夜からお前は眠れねえ。ざまあみろ。散々俺を食い物にしてきた罰だ。覚悟しやがれ!」

 智はイヤホンを外し、スマホのチップを取り出して落ち葉にくるんで、近くの木の隙間に押し込んだ。そしてスマホを投げた。スマホは藪の中に落ちて行った。そして横にあった椅子に上がった。

「え・・・ええええ!智くん、ダメー!」

 さなえは叫んだが智は何の迷いもなく、木にかけたロープを首にかけた。そして首を振って笑い、つぶやいた。

「あんた・・・少しでも話せて良かった・・・頼んだよ。しかしよ、最後があのクソとだなんて・・・胸糞悪い。これでやっと・・・クソ人生から自由か・・・。それから・・・頼んだぜ・・・お前しか言えねえんだ。」

 さなえは誰のことを言っているのか、全くわからなかった。どうやら複数の人間のことを思って喋っているようだ。わかったことは、今、自分は智の最後を見ているということだった。

「ほお・・・最後の最後にあの子が・・・浮かんできたのか。神様のご褒美かもな。」

 智はふと、誰かを思い出したようだった。胸を押さえて、首を振った。

「そうか・・・純粋に好きだってことを教えてくれたのは、あの子だったよな・・・あの子とだったら・・・素直だったな・・・もっと早く会っていれば・・・ってか・・・未練がましいや・・・ぼちぼち、お別れするか・・・。」

 そして智は椅子を蹴った。ロープがピンと張り、数秒間の痙攣の後、静寂が訪れた。

「智くん・・・智くん・・・なんで・・・あたしに何を見せたいのよ!」

 さなえは泣き叫んだ。だが声は出ていなかった。周囲の景色も変化していった。そして肩を誰かに掴まれた。

「さなえ!どうしたの!さなえ!」

 さなえは聴きなれた声で、顔を上げた。母の顔があった。そして玄関に座り込んでいた。さなえは周囲を信じられないという視線で見渡し、そしてもう一度母の顔を見た。

「お母さん・・・おかあさーーーーーーん!わあああああ!」

 さなえは泣き続けた。

 

9 

 

 さなえは翌日、?A?にも行かず、バイトも休んだ。一日中ベッドの中で過ごした。好きなバンドを聴いても、動画見ても、全く頭に入ってこなかった。

(なんであたしに・・・智くん、一回しかご飯していないんだよ・・・どうしてあたしにばかり来るの?教えてよ!)

 その思いばかりぐるぐる回っていた。本当に思い当たることなんてなかった。結婚詐欺をやっているという情報もあった。しかしさなえにはどうしても、それは嘘だとしか思えなかった。何かの間違いだ。母親の声掛けにも反応せず、出口のない迷路をただ走り回っているような感覚だった。用足しに部屋を出るくらいがやっとだった。

 夕方になって、ようやく起き上がる気になれた。それでも気は晴れなかった。起き上がってスマホを覗くと、ショートメールにメッセが入っていた。その名前を見て、さなえは飛び上がるように驚いた。

「由紀子先生からだ・・・。」

 智の縊死から一切姿を見せず、パートナーが美容室に文句を言ってきたことしか知らなかった。そして今どうしているのかさえ、全く頭をよぎることさえなかったのだ。それは驚く。

『利山さん、突然でごめんなさい。あなたの時間があるときでいいから、連絡くれるかしら。いきなりでごめんなさいね。』

 連絡先くらいは登録していたので、さなえは電話をしてみた。数回のコールの後で、繋がった。

『もしもし・・・利山さん?』

「あの・・・先生ですよね。はい、利山です。お久しぶ・・・。」

『ごめんなさいね・・・あなたは何も知らないのに巻き込んじゃって。』

「あ、いえ・・・え?巻き込んじゃってって・・・どういうことなんですか?」

『本当に色んなことがあってね。何から話していいのかさえわからないくらいなの。』

「・・・先生、離婚されたって本当ですか?」

『そっか・・・そこから話そうか。あのね・・・わたし、そもそも結婚していないの。』

「え?だ、だって先生、お子さんがいるって噂で・・・ああ、それから美容室に旦那さんが怒鳴り込んできたって・・・。」

『ああ、あの子は、預かっていただけで、トモダチのお子さん。わたしの子じゃない。』

「え・・・ご主人がいらして・・・。」

『あの人は、わたしの兄。兄の家庭が壊れたので、しばらく一緒にいただけ。』

「そうだったんですか・・・なんだかもう、何もかも信じられなくて・・・。」

『そうなっても不思議じゃないわ。あのね、大学にはちゃんと独身だって伝えてあるのよ。だけど周りがね。』

「そう・・・ですか。」

『そして、これが一番、あなたが知りたいことじゃないかと思うの。わたしと頂路くんとのことだけどね。』

「まあ・・・お付き合いしているんでしょ?」

『やっぱりね。そう思われても仕方ない。あなたは智のこと、好きだったんでしょ。』

「え・えええ?・・・そ、それ・・・。」

『いいの。あの人の生い立ちは知ってるでしょ?』

 さなえは智との食事で、そのことを聞かされてショックだったことを思い出した。気に入っていた智の過去は悲惨だった。

「はい・・・大体は・・・。」

『智は家を出て、しばらく転々としていたの。その時、わたしの父が保護観察の仕事していてね。智を保護したの。家庭のこともあって・・・あのお姉さんとお父さんではねえ。特にお姉さんが大変だったわ。わたしを殺してやるなんて言ってね。智に対する執着心は異常だったわ。あそこまでやるなら、もっと建設的な方向で動いたら大成功していたかも・・・そんなお姉さんだった。智の拒否反応もすごくてね。これでは家に戻せないってことになって。そしたら、さすがにお姉さんの異常さが他でも起こっていてね、動物虐待で。あの人、野良猫を殺してたの。それを記事にされて、それでゴタゴタしている間に、やっと家を出ることができたのよ。ちょうど知り合いの美容室の見習いの仕事があったので紹介したわけ。それ以来の付き合いなの。当たり前に年齢差もあったし、当時わたしには彼氏もいたから、男女の関係にはならなかった。まるで弟みたいだった。でもその後もお姉さんは、結構追っていたわね。その度に携帯の電話番号変えてね、逃げ回ったの。結婚詐欺なんて噂もたったけど、お姉さんがそう言いふらしたみたいね。そうすれば探せるだろうって・・・ひどいでしょ?』

 さなえは驚く前に、安心した。結婚詐欺のことで記者に言われていたことが心に残っていたからだ。

「本当ですか?あたし、てっきり・・・。」

『わたしがなんで、利山さんのことを、智が好きなんだって、そう思っていたのか・・・知りたい?』

「・・・なぜですか?」

『智がね・・・最初からあなたのことを好きだったからよ。』

「え・・・えええ?だって智くん、全然振り向いてくれなかったのに!」

『あなたがあそこに通いだした時から、あの子はいいなってわたしに言ってたのよ。わたしも、そう思うって言ってた。』

 さなえは涙腺が緩み、涙が止められなくなった。嬉しさと切なさが入り混じった涙だった。智と食事した時に言っていた好きな人が、由紀子ではなくて自分だったのだ。大きな喜びと同時に激しい後悔もあった。智が言った言葉が繰り返し浮かんできた。

『そうなったら、俺は本気で恋する。俺が過ごせなかった、幸せな生活を・・・その人と送るんだ。』

「うえ・・・うえ・・・智くん・・・なんで・・・ちゃんと言ってくれなかったの・・・うええええん。」

 由紀子はさなえの涙が収まるまで黙って聴いていた。数分後、さなえはやっと話せるようになった。

「すみません・・・もう大丈夫です。」

『そう?無理しないでね。智は本当に素直な子でね、あれだけ悲惨な家庭にいながら決して荒れることはなかった。もちろん、わたしたちも支えはしたけどね。』

「あの、先生・・・あたし、先生が智くんと電話してるとこ見ちゃったんです。それでそう思ってて・・・でも、例のあの子って、誰なんですか?」

『あら、そうなの?だったら勘違いもするかもね。親しい会話だから。ええと・・・加瀬川さんのことよ。智も困ってたしね。』

「えー・・・。」

 さなえは心の中で、思いっきりガッツポーズをしていた。ざまみろと叫んでいた。しかし、なぜああなったのかという疑問が湧いていた。

「でも先生・・・だったらどうして、先生はいなくなって、智はああなっちゃったんですか?」

 少しの沈黙があった。

『そこなのよね・・・問題は。別のことが入り混じっていてね・・・。』

「なんです、それ・・・。」

『なぜ、わたしがあなたと話しているのか。それは簡単には言えないからなの。ひとまず安心していてほしいから。これから色んなことが起きると思う。でも、今まで話したことを覚えておいてね。でないと、あなたは混乱しちゃう。智も、それを望んでいない。』

「先生・・・あの・・・。」

『なに?』

「智くん・・・何回かあたしの前に姿見せたんです。」

『え?』

「あの・・・あっちに行った時の状況を・・・見せてくれました。」

『智が・・・?あなたの幻覚とか?』

「いえ、違うと思います。夢なんかとは全然違ってリアルでした。」

『そう・・・智がねえ・・・それ、誰にも言っちゃダメよ。』

「はい、もちろん。」

『うん。これからどんどん新しいことが耳に入ってくると思うんだ。あなたがまだ知らないことがあるから。気を落とさないでね。それじゃあ、今日はここまででいいね。』

 これでいいわけはないのだが、さなえにとってもこれ以上は頭に入ってこなかった。

「はい・・・いいです。」

『またショートメするね。じゃあね。』

 電話は切れた。さなえはスマホを握りしめ、そしてまた泣いた。

(智くん・・・ありがとう・・・。)

 

10

 

 一日休んだ後、百合子と話して少し楽になれたさなえは、卒論の続きを始めた。市の科学物理博物館で、技術的な内容に関する資料を読んで必要な内容を文章にしたり、時にはネットで調べたりしていた。

 調べていくうちに、3?プリントの世界のすごさがわかってきた。コンパクトな家までできてしまうし、マニアは車体まで作っていた。当然武器なども造れるのだが、それは犯罪行為となる。巨大なオブジェを作るにあたっては、細かい部分を少しずつ精密に構築していく必要がある。将来的には、さらに巨大な機器で造形でぃるだろうと書かれていた。

(これだけの作業を受けるって、すごいな。)

 ただ、材料費や耐久性など、まだまだ考慮の余地はある。さなえはその点に絞って論文を書いていった。本当は会社に電話して芽倶美に訊ねたいところだが、拓郎の言葉が気になっていた。

『あそこって一回潰れてたみたいだぜ。』

(本当だったら逆に訊けないよ・・・。)

 芽倶美にはこれからも世話になると思うので、そのうちにさりげなく耳に入れようと考えた。ある程度終わったところで、バイトに向かった。まだかなり時間の余裕があったので、途中にある大手バーガーチェーン店に入って、ナゲットとコーヒーをオーダーした。かなり人が多かったので探していくと、ちょうど二人掛けの席が空いたので、すばやく確保した。

 なかなかバイト先でまかないなど出ないので、とりあえず小腹を満たしておくのが一番だった。食べながらタブレットを見て、卒論のミスがないかをチェックしていた。

『で、ここ、どうすんの?』

 隣から声が聞こえてきた。声には聞き覚えがあった。

(みどり?)

 さなえは声をかけようとしたが誰かと一緒のようなので、メッセを送ってみた。

『みどり、今からバイトだけどさ。何してんの?』

 すると隣から声が聞こえてきた。

『あれ、あいつからだ。いらねえっつーの。』

 さなえは何言ってるんだと思った。話の途中だから邪魔だったようだ。すぐにレスが来た。

『はあい?今ね、トモダチと話してんの。後でね。』

 まあ、そんなのが来るだろうと考えていたが、あまりにも予想通りだった。そしてまた声が聞こえた。今度は男の声だった。

『続きだけどよ、この画像があんだろ。それをこれにはめ込む・・・そうそう。それで、リアル再現とか、そういうのを翻訳で英語にしてコマンド入れるんだ。』

『はあ~、めんどい!でももういいかな。あいつ、十分困っただろうし。でもさ、こんな時に限ってメッセ送ってくるんだよな、あいつ。』

『そもそもお前が言い出したことだろうが。それでよくマブダチのフリできるよな。』

 さなえは意味がわからなかった。みどりは親友だと思っていたが、それはフリだったというのだろうかと思った。会話は続いていた。

『だってさ~・・・あいつがなかなか振り向いてくれねえって思ったら、まさかあの女に惚れてただなんてさ。信じられねえって。』

『だからってよ、あそこまで落とす必要あるのか?一応はダチだろうに。』

『いーんだよ。あのくらいやんねえと、あのアホわかんねえし。でもさー・・・確かにやりすぎたよな。まさかね、あいつが首吊っちゃうだなんてさあ。』

 さなえは本気で耳を疑った。

(まさか・・・あの画像作ったのって・・・みどりなの?)

 さなえは信じられなかったが、スマホを近づけて会話を録音してみた。全く気がついていないようで、二人は話し続けた。

『あの頂路って奴も鈍かったよな。』

『鈍いっつーかさ・・・あたしも信じられなかったよ。うちの講師とできてたなんてさ。』

『それ、本当かよ。ちゃんと裏取ったんだろうな。』

『女の勘。間違いねーよ。あの女が美容室で会計してるとこ見てみ。智に送る視線が、マジで愛してる目だったよ。だから巻き添えにしてやっただけさ。年下をユーワクするなんてさ。美人ならなんでもいいって思ってる典型だよ。離婚したらしいじゃん。当然さ。』

『美容室に殴りこんできたんだろ、亭主が。』

『たぶんね。また聞きだけど、相当だったらしい。智を出せっつってね。俺のメンツがどうとか、いつまでも逃げるなとかさ。酒臭くてさ、酔ってたって。』

『なる。確かにそりゃあなあ。でもよ、気をつけろよ。これは海外のだけど、わかる奴が見たら、どこでこれ作ったかってわかるんだぞ。履歴も残ってる。情報開示させられたら一発だ。大丈夫なんだろうな。俺まで巻き込むなよ。』

『大丈夫だって。あいつは勝手に死んだだけ。あたしたちはなーーーーんにも手を出してない。掴まっても、ほんの少しで済むよ。』

『お前さあ、推しだったんだろ?よく、んなこと言えるな。前にどっかの記者が聞いてきただろ。もうこれ以上やるなよな。』

『大丈夫だって。あのウブウブオタクのことを教えておいたからねえ。』

『じゃあ、あっちに行ったのかな、あの記者。』

『なんか来たって言ってたね。内心笑ってたよ。あたふたしてたなあ。夢見る夢子だからね、あの子。それにね、まだあたしのことをマブダチだって思ってる。全然疑わない。世間知らずだからね。』

 それから話題は変わった。どうやら元カレと会っていたようだ。元カレはITに詳しい男で、AI画像を作って雑誌社に売り込んでいるとのことだった。復縁する代わりに画像を作ってくれと依頼したらしい。さなえは怒りで体が震えだしていた。

(みどり・・・そこまでしてあたしを落としたいの?マブダチ?よく今まで騙して・・・。)

 だがまだ疑問もあった。由紀子は独身だと言っていた。兄と甥と暮らしているそうだが、何の関係もない吾郎に怒鳴り込む必要などない。考えていると、みどりたちは席を立った。さなえはキャップを深く被り、タブレットで顔を隠した。みどりたちは全く気がつかず、腕を組んで出て行った。さなえは彼らが出て行った少し後にバーガー店を出て、みどりたちの姿を探した。だがもう見つからなかった。

 ちょうどバイトの時間だったので、さなえは向かった。自分でも驚くほどに冷静になっていた。もちろん怒りは山ほどあったのだが、それ以上に智が自分を好いていてくれて、二度も自分に何かを訴えてきた事実が優越感になっていたからだった。むしろ哀れにさえ思えた。樹里亜に対しても同様だった。彼女たちは面倒だが、今回のことの被害者でもある。

(先生がまだ色々出てくるって言ってた・・・このことか。)

 

11 

 

 さなえはまた智の墓を訪れていた。智とゆっくり話したかったからだ。前回のような贖罪の気持ちではなく、本当ならもっと素敵な関係になっていたかもしれないという思いがあった。感謝したかった。

 バス停を降りて墓まで来ると、墓の前に年配の女性の姿があった。水をかけ、掃除をしていた。

「あ、あの・・・。」

「はい・・・?」

「あの、あたし・・・智くんにお世話になっていた者です。お墓参りに・・・。」

「ああ、ようおいでくださったね。ささ、智に手を合わせてあげてください。」

 女性は智の叔母に当たる人で、前回もお世話になった窪佐知代(くぼさちよ)と名乗った。さなえは墓に花を手向け、手を合わせて念じた。

(智くん、ありがとう。あたしを好いていてくれて。強くなれたよ。あたしとだったら、どんな家庭を持てたかな。きっといいお父さんになったよね。子供は何人?どこに住んで、何が好物?もっともっと知りたいよ。)

 本当は二人きりで話したかったのだが、それは次の楽しみにしなければと思い、さなえは立ち上がった。

「あの・・・こんなことあたしが言うのも変ですけど・・・智をお墓に入れてくれて、ありがとうございます。」

「何を仰いますか。あなたともうお一人くらいですよ、こうしてやってきてくれるのは。」

 もう一人が由紀子だということはすぐにわかった。それはそうだろう。

「せっかくです。うちにおいでなさい。智の写真もありますから。」

「ああ、そうでしたね。では、ちょっとお邪魔します。」

 二人はすぐ先にある窪家に入っていった。佐知代は茶と菓子を用意してくれて、さなえは智の写真を見ながら話した。前回と違って、まるで横に智がいるような気がしていた。

「さなえさんでしたね。智は人気あったんですかね?」

「ええ、そりゃあもう。あたしも推しでしたから・・・あ、す、すみません。推しなんて・・・。」

「構いませんよ。そうですか・・・それは良かった。あの子もねえ、本当に苦労したからねえ。あの親、本当にどうしようもない。」

「前にもお伺いしましたけど、あたしが智から聴いたのは、義理のお姉さんのことでした。とにかくひどかったって。」

「ああ・・・親子そろって、どうしようもない。なんであんなのと結婚しちまったんでしょうかね。あの父親の外道さはひどかった。うちに逃げてきたって連れ戻しにくる。親がそう言うなら、わたしたちにはどうしようもないですもん。さなえさんが仰るように、あの娘もひどい。どんなことをされたのか・・・ああ、これだ。智は日記を書いていましてね。読んでください。」

 佐知代はかなりボロボロになった手帳を仏壇の引き出しから取り出し、さなえに見せた。さなえは読んでいくうちに吐き気がしてきた。

「ひどい・・・仮にも姉弟なのに、性の対象にしていただなんて・・・。」

 日記にはクソ女としか記されていなかった。名前を書くのですら嫌だったのだろう。姉は根っからのセックス依存症であり、実の父親とも関係を持っていたようだ。毎日義父に殴られていたのだが、それは、娘が智と行為を行っていると知った時からだった。

「こんな毎日を送ってたんだ・・・かわいそうに・・・。」

「わたしも会ったことはないんですがね、妹が結婚する時にはお金があって優しくてって言っていたんですよ。でも酒癖が悪くてね。そんな父親とも関係していた娘なんてねえ・・・信じられません。」

「だから、この家が唯一の、逃げるところになっていたんですか・・・。」

「そうです。その当時はわたしの旦那も生きていましてね、俺が絶対に渡さんって言っていたんですけど、癌でねえ・・・智にとっては、それも不幸でした。わたしだけでは到底無理でした。」

「本当ですか・・・はあ・・・。」

 頑固そうだが優しそうな佐知代の亭主と並んで智の遺影も置いてあった。

「智は、家から離れることはできていたんですか?」

「この間来てくれた方、鴻分さんが色々やってくださっていたそうで、あちこち転々としていました。その間は一切関係を断てていたんですよ。」

「それは聞いています・・・けど、見つかったんですか?」

「ええ、最後の仕事場にいた時にね。わたしはよく知らんけど、写真が出回ったみたいでね。それでわかったそうです。」

 さなえは息が止まりそうになった。きっかけは自分だったとは言え、みどりが作った画像が出回ったことが原因だったのだ。さなえ自身がネットで調べ尽くしたように、智を探し出したのだ。さなえは改めて、後悔するしかなかった。

「あら・・・優しいね、智のために泣いてくれて。」

「いえ!違うんです・・・。」

 さなえはこれまでのことを佐知代に話した。些細なことから始まって、合成画像まで作った知人がいたことまでを説明した。

「へえ!・・・今はそこまでわかるんですか?怖い世の中になっちまいましたねえ。でもそれは、さなえさんには責任ないと思いますよ。そういうことは、普通にあること。話を大げさにするなんざ、昔からありますよ。しかしねえ・・・そんな画像まで作れるって。」

「その、義理のお姉さんって方が探し出したんでしょ?やっぱり責任感じます・・・。」

「なんの!あの芽倶美が一番悪・・・さなえさん?」

 さなえの顔は心から震撼した人間の顔になっていた。体中を虫唾が走っていた。怖気がして、血の気が引いていた。

「す、すみません・・・あの!今、なんて仰いました?」

「大丈夫?あの女は小笠原芽倶美が本名でねえ。あの鴻分さんが智を逃がしたって怒り心頭だったそうで。余計なことするなって怒鳴り込んだことは何回もあったようですよ。おまけにね、芽倶美が智の会社を見つけたって父親に言ったら、なんてことしてくれたんだって怒鳴りにいったって・・・自分の娘が原因なのにね。娘って言いたくなかったんで、そこは誤魔化して言わなかったらしいです。智があそこを辞めたのは、あの芽倶美に見つかったからなんですよ。辞めるって決めた時、うちにも電話ありましたよ。もう心配してね。どうするって訊いたらさ、今度は海外に行くって。それもあの鴻分さんに相談して、もうどこに行くってことまで決めたそうなんですよ。それがねえ・・・なんで・・・情けなくてねえ。」

 涙を拭く佐知代を見ながら、さなえはこれまでのことがことごとく一致していたので、完全に納得した。全てつじつまが合っていた。まさに、現実は小説よりも奇なりだった。

「でも・・・なんで・・・あんなことに・・・。」

「ああ・・・自分のことで、鴻分さんまで迷惑かけたと思ったからなんですよ。」

「え?・・・あ!先生が離婚したとかいう噂・・・?」

「ええ。あの子にしてみれば、今までも散々自分を守ってくれていた大事な人じゃないですか。それを離婚だ不倫だと言われたらね。鴻分さんは独身だし、子供もいない。ましてや智と関係していたわけでもないのにね。智にはそれが決定的になったようでね。ああ、それから・・・これも言わなくちゃいけないのかねえ・・・さなえさんだから・・・言いますね。」

「・・・はい。」

「わたしは智から聞きました。自分にはやっと本当に好きだって思える人ができたってね。本当に真っすぐな目で自分を見てくれているからだって。それで告白しようかなってね。」

「ええ?・・・そうだったん・・・ですか。」

「今思えば、それがあなたでした。」

「え?あたし?え?本当にあたしですか?本当に?」

「すぐにわかりましたよ。以前にお墓の前で泣いておられたでしょ。」

「・・・見ていらしたんですか?」

「ここから見えますよ。あの人かって思いました。その報告の直後でしたね、芽倶美に見つかったのは。海外に行きなさいって言ってくれたのは鴻分さんでしたけど、智にとっては絶望でしかなかった・・・やっと幸せを掴みかけたのにね・・・。」

 佐知代は泣きながら話してくれていた。さなえは、智がなぜあの最後を選んだのか、ようやく理解した。そして自分を気に入ってくれていたから、何度も自分に姿を見せていてくれたのだと思った。

「窪さん、あたし、絶対に智のことを忘れません。毎年来ます。そして智には・・・あちらで幸せになってほしいと思います・・・いや、なってもらいまず。でないと、救われないじゃないですか・・・夢でも幽霊でもいいから、また会いたいです。」

「あ・・・ありがとうねえ・・・。」

 佐知代はさなえの手を握り、ぼろぼろ涙を流した。そしてさなえは、智の遺影を眺めた。智は何かを言いたそうにしているように、さなえには見えた。

(智・・・いい叔母さんだね。)


12 

 

 もう夏休みも終盤になっていた。さなえは新しい就職先も決まり、安心して卒論にとりかかっていた。みどりからさなえにメッセがあったのは、その頃だった。それまでは特に何もなかった

『さなえ!あんた、よくやるね!』

『なに?』

『あんた、吾郎と付き合ってるでしょ!』

『ええ?何言ってるの?んなわけないじゃん。』

『送るから見て!』

 みどりから送られてきた画像は、剣崎吾郎と仲良く買い物デートしているさなえとのショットだった。

『何これ?あたし、知らないよ。』

『なに、すっとぼけてんのよ!これ撮影したのは、雑誌記者なんだから!』

『え?みどり、知り合いに記者いたの?この前記者が来たとか言ってたけど。』

『それとは別!これ出回ったら大変だから広げないけどさ!いつ付き合ったのよ!』

『だから知らないってば!』

『あんたさ、かわいいフリして、なにやってんの?いくら卒業間近だからって、これはないんじゃない?』

『あたしは知らないってば。誰か似た人じゃないの?』

『もう、トモダチなくすよ!』

 これでメッセは終わった。みどりはすぐに絡根耕三に連絡した。

「あんた、さなえは知らないの一点張りだよ。どういうこと?」

『だから言ったじゃん。これはあんたのトモダチでしょ、確認してって。本人に確認したってダメじゃん。』

「あいつとはなんちゃってトモダチだから、何でも訊けるの!」

『知らないって言い張っているってことは、そうだってことじゃねえの?』

「あ・・・そか。あの子ったら!智が死んじゃったら今度は吾郎にいっちゃう!なんて尻軽!」

『まあまあ。前にも言ったけどさ。たまたまお前さんから頼まれて、この人を調べていたわけだ。だから顔を覚えていた。だから間違えようがねえ。それでたまたま見かけたから撮影しただけさ。この相手のことを知りたかったんで、そっちを教えてくれよってことだっただろ。このイケメンは、自死した頂路智の上司だった美容師、剣崎吾郎で間違いないんだな。』

「あ・・・頭に来てたんで。そうなのよ!」

『そうか・・・それじゃあさ、繰り返すけど、もうなくなったメッセグループに誰かがガセネタを投稿して消えて、それで美容室が大荒れになった。問題の講師は離婚して行方不明で、頂路は縊死したってことでいいんだな。そしてこの利山さなえって人が、頂路の上司だった剣崎と付き合っている・・・ってことで間違いなんだな?』

「えーと・・・付き合っているかどうかはわかんない。ひょっとしたら、智のことでたまたま吾郎と話していただけかもしんないなあ。あの子、ほんとに男を知らねえし・・・あ、ひょっとしたら吾郎から話があったのかも!」

『つーことはさ、ガセネタ投稿して消えた奴ってさ、その人じゃあなさそうだよな。メンバーの中の誰かがやったんだろ。でなきゃ、剣崎と会う必要はねえだろ。剣崎の方から接近したのなら、そうじゃねえかもしんねえけどさ。』

「あたしも一回カマかけたんだけどさ、反応なかったしね。そういうことできる子じゃあねえし。」

『うーん・・・人ひとり死んでんだ。いいネタになると思ったんだが、どうかなあ。』

「まあねえ。あたしがあんたに頼んだ時ってさ、智の気を引こうとしてたんで頭に来ただけだったしね。合成画像作って見せても、まあ予想通りでつまんない反応。大体さ!智があいつを気に入っていたってことだけでも腹立つのにさ!静かにしてやがれって!」

『うん?なんだその、合成画像って。』

「あ、なんでもねえよ!くだらねえいたずらさ。いかにも手を出そうとしてる女ですよって風な画像だよ。だーけどさあ、広めたって本当に反応薄かった。そういう画像、結構あったしね。そもそもさ、それからの展開が早えーじゃん。翌日には智と吾郎がケンカして、智が辞めちゃったじゃん。グループはそれで大揺れで、それどころじゃなかったもん。おまけにあの鴻分先生の旦那が乱入してきたら、そりゃもう全部忘れちゃうよ。」

『ふうーん?まあいい。俺はネタになりさえすりゃいい。今回では警察さん、縊死以外は動いていねえんだな?聞き込みとかは当然やってるだろうが。』

「だねえ。あたしが知ってる限りではそうだよね。」

『ふーん・・・まあ、そっちの方が都合はいい。警察さんは、色々なトラブルで追い込まれてってことになっているんだろうな。俺が調べた限りではそんな感じだ。だったら書いたって、不思議じゃねえ。剣崎に話したいんだが、居所がわからねえ。知ってるか?』

「いやあ、知らない。写真撮ったあたりじゃねえの?」

『一応調べたんだが、情報はなしだ。見かけたって話もねえ。ということは、あの辺りではない。そうか・・・もう一回調べないとな。あのメッセグループ、いつ消えた?』

「智が死んでからすぐだよ。作った本人が怖くなったってさ。」

『そうか・・・誰か剣崎の情報知ってる人がいたら教えてくれよ。』

「ダメだよ!警察が動いたら嫌じゃん。雑誌だともっと嫌だよ。」

『そっか。じゃあまた訊いてみるか、利山さなえにさ。』

「え?あの子が知ってる・・・ああ、そっか。連絡取ったから会ったんだしね。あいつならいいよ。あたしの名前は出すなよ。」

『わーってるよ。なあ、みどりよ。』

「なんだよ、気持ち悪い。」

『お前よ、なんで俺を振ったんだよ。振った元カレにさ、んなこと依頼するか、普通。』

「あたしは、そーゆーことにこだわらねえの。だいたいさ、二回寝たくらいで元カレ面する方がおかしいだろ?」

『相手がこだわったらどうすんだよ。お前のこった、そういう奴は結構いるんだろうけど。』

「詮索しねえの。記者の悪いクセだよ。そうだな・・・記事になったら、もう一回くらい寝たっていいよ。」

『バーカ、こっちにその気がねえよ。』

「へへ、それじゃあね。」

 電話を切ると、今度はAI画像を作った男に連絡した。

「はい、元気?何してんの?」

『仕事だよ。どうした?』

「例の記者と話したんだけどさ、よくわかんねえって。」

『じゃあ本物か?見てねえけど。』

「一応見てみる?」

『いいよ!もう巻き込まれたくないし。それにな、俺も新しい仕事で大変なんだぞ。画像の作り方はこないだ教えただろ。』

「まだよくわかんない。ねえ、また教えてよ。ご飯しよ?」

『体よく断るよ。最近は本当に厳しいんだ。合成画像だって使い方次第では犯罪になる。俺は真っ当な仕事してるんだ。巻き込むなよ。』

「巻き込む?んなわけないでしょ?大切な元カレだし。」

『都合いい時だけそうなんだよな、お前はよ。すまんが、もう御免被るよ。あーそうだ、もう連絡すんなよ。こないだ、前の男と会ってただろ。知ってんだぞ。それじゃあな。』

「なによ!あたしがその気になってんのに!バイバイ!」

 みどりは性欲を抑えられない体質だった。この日も体が火照っていて、誰かいないかとスマホをいじっていると、メッセが届いた。

「え・・・なにこれ・・・誰?」

 みどりはオープンにしているので、誰でも送ることは可能だ。送り先は「森の中」となっていた。

「またくだらねえ経営とかじゃねえの・・・へえ、何にも書いてねえ・・・か。やっぱりその手・・・え?なに?」

 読んでいるうちに、立て続けに画像が送られてきた。最初は普通の田舎の風景からだった。

「ち・・・痛えやつ。こんなん見せてトモダチになれ・・・え?え?うわあ!」

 画像撮影者は森の中に入っていき、ある巨木の前まで来ていた。そしてロープが見え、輪になっていた。そして視線は上を向き、そしていきなり乱れた。

「こいつ・・・変態じゃん!死にたいってか?冗談きついって!」

 だが最後の画像を見た時、みどりの心臓は止まりそうになった。

「ぎゃあああああ!これ・・・うわああああ!」

 最後の画像は、首を吊った頂路智の顔だったのだ。

 

13 

 

「え?なんでそんなこと話さなきゃいけないんですか?」

「まあ、こっちも仕事なんでね。この写真、私が撮影したんですよ。」

 さなえは耕三から突撃取材されていた。卒論で図書館に行く途中だった。迷惑この上ない。

「あなたが撮ったの?ひどい!それ、脅迫じゃないですか!」

「まあまあ・・・考えてもみてくださいよ。自殺した人の上司と会っていて、しかもどう見ても買い物だ。まるで付き合っているみたいだ。これ、いいネタになりそうと思いませんか?ああ、当然私は記事にしようなんて思っていませんよ。でもね、あなたが話を盛ってグループ投降したって疑いはまだありはするんですよ。結果ね、人が死んでるわけだ。世間様ってのはね、こういうことが大っっっ好きなんですよね。私もネタに困って明日の飯もない、なんてことになったら・・・背に腹は代えられません。とまあ、こちらの状況はお話しましたよ、と。」

 さなえは耕三を、汚物を見るような目で見た。そして突き放すように言った。

「それでも話しません!失礼します!」

 さなえは走って図書館まで行った。ここまで来たら、さすがに中には入ってこられない。耕三も今日はここまでかと思っていた。すると、声がかけられた。

「あの、失礼ですが。ちょっとよろしい?」

「・・・なんだ、あんた。」

 立っていたのは芽倶美だった。いつものように、白いスーツだった。だが耕三は誰だか知らないので、怪訝そうに返した。

「あなた、記者さんよね?」

「記者ですが、それがなにか?」

「今、ちょっと耳に入ったものですから。あなた、あの利山って人、美容院の彼氏とのことで取材しているの?」

「美容院の彼氏?え?なんですか?」

「あなた・・・剣崎吾郎さんと利山さんが付き合っていることを知っているんでしょう?」

「は?違いますよ。失礼な人だなあ。それじゃあ・・・。」

「お待ちなさい。」

 耕三は経験上、声で相手をある程度判別できる。芽倶美の声は、かなりヤバいタイプだとすぐにわかった。

「な・・・なんだよ。警察呼ぶぞ。」

 芽倶美は腕組みをして、意味深な笑みを浮かべていた。

「警察?どうぞ。あなた・・・以前に会っているけど、覚えていない?」

「へ?知らないね。それじゃあ・・・。」

 去ろうとした耕三の腕を、芽倶美は強く掴んだ。

「痛っ!なにすんだよ!」

「ここ・・・ここよね。前もここを掴んだわ。」

「はあ?あんた、ちょっとおかし・・・い?ここ・・・?あんた!ひょっとして?」

「そうよ・・・あんたに虐待の記事書かれて、それでしばらくム所にいたのがわたし・・・思い出した?」

「思い出したよ・・・小笠原芽倶美!」

 耕三は以前、近所の猫が数匹殺されていて警察が動いていると情報を得て、取材したことがあった。そこでたまたま撮影した画像を使ったことで警察が踏み込み、芽倶美を逮捕したのだ。その後耳にしたのが、義理の弟まで虐待していたとのことだった。

「そう、やっと思い出してくれたわね。あの時、逃げていくあんたの腕を掴んだこと、今でも覚えてる。」

「猫の鳴き声を耳にして近づいたら、包丁握っていたあんたがいて・・・やばかったよ。あの時カメラで守らなかったら、今ごろはな。しかし、なぜあんたがここにいるんだ!なんであの人を知っているんだ!」

 芽倶美はにやりと笑った。

「そうだ、その顔だ!猫に包丁を刺す直前の顔だ!お前、何かまたやる気か!」

「あのね・・・わたしを知っているなら、名を明かした以上どうなるか、もうわかるよね。仕事続けたいんでしょ?」

 これは効いた。芽倶美の恐ろしさを知っていたからだ。どこまでも追い続けられるだろう。。

「くそ・・・じゃあ、何の用だ。」

「面倒くさいねえ。じゃあ言うよ。」

 芽倶美は耕三の耳元でささやいた。耕三は顔色を変えた。

「お前・・・!」

「ここまで言ったからにはさ、あんたも道連れだよ。わかってるね。」

「誰がお前なんかと・・・。」

「おっと・・・これ、なにかなあ?」

 芽倶美が見せたものは、複数の画像だった。耕三は真っ青になった。それは民家に忍び込んでカメラを構えている耕三と、誰かに金を渡している画像だった。たまたま撮影したかのようにしか見えない。

「お前・・・これ・・・。」

「そう。わたしはこれでもこうした分野のプロなんでね。こんなの朝飯前さ。」

 耕三はさすがに観念した。見分けなどできないレベルだった。証言や過去のことを考えれば、完全に詰みだ。

「・・・やるしかねえか。」

「はあい。正解。というわけで、今後のプラン説明するから、そこのカフェにおいで。」

 

14 

 

 みどりから連絡がある少し前のこと。さなえは就活で「(株)クリエイティブシンギュラリティ」に来ていた。あの一件以来、?A?とは完全に離れていた。それにあの芽倶美が、智を性的肉体的に虐待していたことがわかった以上、もう関わるべきではないと思っていた。何度か芽倶美から電話やメッセが入ってはいたのだが、ガン無視していた。

 クリエイティブシンギュラリティとは創造性特異点という意味で、全く大手でも何でもなかったが、きちんと業績を上げている会社だった。何度か通って、今日が内定かどうかの最終査定日だった。面接官は人事課長であり、アート系にありがちな超ラフな服で、長髪に髭というものだった。

「ええとお・・・利山さなえさん。これまでの面接ではあ、あなたの能力とお、実績とお、社会性を見させていたきました、と。」

 話し方も、社会不適合者の匂いがプンプンしていた。しかしこれでもおそらくは、マシな方なのだろう。まがりなりにも人事課長なのだ。確かに特異ではある。

「ええ・・・で、その結果はぁ、と・・・内定オッケーということです、はい。」

「え?そうなんですか?」

「まあその~・・・我が社ではぁ、どうしても渉外担当が育たなくてぇ・・・まあその理由っつーのがぁ、我々があまりにもその~・・・アレだアレ・・・ええと・・・アレだよ、アレ。君、わかる?」

「オタク・・・?」

「ん~・・・まあ、正解。正確にはぁ、マニアすぎる連中ばっかなのでぇ、渉外がなかなか成立しなくてぇ・・・。」

 社会と非社会の交渉なら、それは困難だろう。精神はもつのだろうかとさなえは思った。

「わたしもあんまり社会性はない方ですけど。それでもよろしいのですか?」

「まあその~・・・あなたはぁ、あなたの目はぁ、我々を妙な存在だと思っていない目だったのでぇ、それがまあ、決定的でした、ええ。」

 確かに、このマニア軍団と社会を繋げていく役目と言うのは大変だろうと想像できた。マニアはこだわりというか、マイウェイに異常なまでの執着があるので、社会は結果しか求めていないことが我慢も理解もできないことが多い。

 だがこの際贅沢は言っていられない。夏休みの間にほぼ決めてしまわなければ、希望就職はまず不可能だ。それに提示された給与形態は納得できるシステムと金額が示されていた。

「わかりました。よろしくお願いいたします。」

「うん。それでわぁ・・・。」

「あの・・・ちょっとよろしいでしょうか?」

「なに?」

「?A?という会社、ご存じですか?3?プリントやっている・・・。」

「ああ、あそこぉ。たしか潰れちゃったんじゃないかなあ?」

「復活したという話も?」

「ええっとお・・・なーーーーんか聞いたことあるなあ。ああ、そーだ。なんかさあ、一時期レンタルビルやってたとか。」

「レンタル?貸しビルってことですか?」

「そーそー。あそこってさあ、アメリカ本社の子会社でぇ、ころころ経営者が変わってたんだわ。アメリカさんってさぁ、経常利益あがんなかったらすーーーーぐ切っちゃうんだよねえ。だからぁ、機材とかは残ってるんじゃねえかなぁ?ええと、あなたはぁ、あそこ知ってんのぉ?」

「まあ、知り合いがおりまして・・・。」

「やたらでかいことばっか言ってたような気がするなぁ。ほら、ハッタリかけてくるじゃん、欧米ってさぁ。街中ででっかいロボット作るとかさ、低コストだとかさぁ。無理な話なんだけどぉ、俺ら呆れてた記憶があるよ。あんましぃ、関わらないほうがいいよぉ。」

「はい、ありがとうございました。」

 さなえは大まかな話も聞けたので、会社を後にした。さらには?A?がどれだけいい加減な会社なのかもわかった。

(結局・・・芽倶美はあたしを騙していたってことよね。でもなぜ?あんないい加減な会社なのにうちに求人出してきて。そんな余裕あるはずないのに。智を虐待していた女がなんで?)

 さなえはそんなことを考えながら、あまりにも暑いので近くにあったカフェに入った。アイスコーヒーをオーダーして飲んでいると、離れた席に視線がいき、あやうくコーヒーを吹き出すところだった。

(吾郎くん?)

 あの美容室の指名トップだった剣崎吾郎が座っていたのだ。ひとりでいて、本を読んでいた。さなえはしばらくアイスコーヒーを飲みながら考えていたが、飲み終えると吾郎のところにいった。

「あの・・・すみません。」

「ん?・・・あれ、見覚えある人ですね。」

「あの、座っても?」

「え?あ、はい、どうぞ。」

 さなえは対面で座った。吾郎は本を閉じて、多少怪訝そうな表情でいた。

「あの、あたし、『フラウ・デ・ブーテ』に通っていました。利山さなえって言います。」

「ああ、それで見覚えあるんだ。お世話になりました。すみませんね、閉めちゃって。」

「ああ、いえ・・・それで、あたしは頂路智さんにお世話になっていました。」

「え・・・智の?」

「はい。」

「・・・あいつ・・・馬鹿野郎でさあ・・・もうご存じでしょ?」

「はい。ショックでした。」

「あいつ、辞める直前に俺と話してたんですよ。本当にすまないって。ちゃんと話せって言ったんだけど、迷惑かけられないからって。」

「あの、だれかが殴りこんできたとか伺いました。」

「ああ、あの変な酔っ払いでしょ。あんなのどうでもいいんですよ。お客様の間では、あれで俺と智の間がおかしくなったとか言われてません?」

「・・・はい。」

「全く・・・噂ってのは本当にひどいもんだ。確かにそんなことありましたけど、俺はあいつの生い立ち知っていましたし、ナイスだったんで気にするなって言ったんですよ。世の中には、マジで狂ってる家庭とか個人とかいるもんだ。よくグレなかったと思いますよ。でもね、結局あいつは運命から逃げることができなかったんだ。」

「え、ご存じだったんですか?」

「あなたも知ってるの?」

「まあ、少しは・・・。」

「そうか、結構広まってるんだな。まあ、気にしないでください。どうせ噂なんですから。」

「あの、なんで美容室閉めちゃったんですか?」

「ああ・・・そこですか。どうしよ・・・もういっかな、話しても。いずれ広まるでしょうしね。あれは、オーナーが不倫しちゃって、やめなきゃいけなくなったんですよ。」

「不倫?」

「そうそう。世の中にはマジでえげつない奴がいるもんですよ。あなたも気をつけなさい。」

「えげつない・・・不倫?」

「まあ、結果的には智が言ったことが間違いじゃなかったんですけどね。オーナーと不倫していたってのは、あいつの義理の姉だったんですよ。」

 またここで芽倶美の話が出てきていた。さなえは運命というものを信じざるを得なくなってきていた。偶然では済まされないことだ。

「じゃあ、それで?」

「ええ。義理の姉、義理の父親ってのがどうしようもなかったようで。実際俺もその点では被害に会いました。なんか、あいつが俺んとこにいるってわかったみたいで、義父野郎が酔って乱入してきたんですよ。当然警察呼びましたよ。それで知らされたんです。あの義父野郎、前科三犯のレイプ魔だったんですよ。」

「ええ?そうなんですか!」

「おまけに義姉ってのがマジなサイコパスで、オーナーと不倫したら智がいたってことに気がついたらしいです。本当にとんでもねえ親子だ。」

 そこのところだけは違っていた。芽倶美はオーナーのカネ目当てだったのだろうが、智がいると知ったのはその後に、みどりがつくったガセ画像のためだ。だが、次第にさなえは怖気がしてきていた。徐々に大まかな姿が見えてきていたからだ。

「そうだったんですか・・・智くん、かわいそう・・・。」

「あの女、なんて名前だったかなあ・・・もうどうでもいいけど、あいつだけは許せないですよ。結果的に俺もあそこを辞めなきゃならなくなった。だけどまあ、おかげさまで今度は自分の店を持てるようになりましたけど。」

「え、そうなんですか!」

「ええ。この近くにある商店街の中に物件がありましてね。長い間床屋さんがあったんですけど、今はない。で、商店街の人からお願いされて、来月オープンです。よかったら来てくださいよ。」

「行きますよ!ああ、それじゃあ、色々買い物あるでしょ?」

「そうですねえ。細々したものばっかですけど。」

「あたし、オープン記念にお手伝いしますよ。何か買いに行きませんか?」

「いいですよ。お客様にそれは・・・。」

「いえ、ぜひお願いします。智くんのためにも。」

「智のため、ですか。それじゃあ、甘えようかな。」

 二人はカフェを出て、近くの商店街に向かった。そこに、工事中の店舗があった。

「ほら、ここです。」

「へえ、いいところみたい。」

 二人はそれから商店街で買い物をして、さなえはいくらか手出ししてある程度揃えることができた。

「いやあ、ありがとうございました。」

「立ってるお花でもと思ったんですけど、あれ、高いんでしょ?」

「あははは、女子大生さんには無理かな。ご好意、ありがとうございます。これで十分です。」

「それじゃあ、オープン頑張ってくださいね。」

「もちろんです。ああ、おトモダチにも宣伝お願いしますね。」

「はい!」

 さなえは吾郎と別れて家に向かった。途中ずっと考えていた。全ては偶然なんかじゃないんだと気がついていた。なぜ智が自分のところに来てくれたのかも、こうだと理解できていた。

 気がつけば、もうすっかり夕方になっていた。星もちらほら見えてきていた。さなえは星を見上げ、つぶやいた。

「智くん・・・守っていてね。」

 そして、カメラを持った人影が動いていたが、さなえは気づかなかった。

 

15

 

「え?なんで?」

『なんか、全然連絡取れないのよ。あんた、マブじゃん。行ってみてよ。』

「わかった。行ってみるね。」

 さなえはみどりが住んでいるワンルームマンションに行き、部屋番号を押して、コールした。しかし何の反応もなかった。さなえは電話してみることにした。全く出なかったが、3回目でようやく繋がった。

「今、下に来てるのよ。開けて。」

『・・・会いたくない・・・。』

「いいから!開けてって!ゼミで困ってるってよ!」

 間もなくして、マンションのロックが解除された。さなえは4階に上がり、部屋のチャイムを押した。するとメッセがあり、空いているから入ってとあった。さなえは部屋に入っていった。

「みどり・・・?」

 部屋は乱れていて、みどりはベッドに腰かけてうなだれていた。

「みどり、どうしたの?」

 だが、何の反応もなかった。風呂にも入っていないようで、匂っていた。さなえは換気しようと窓を開けようとした。

「開けないで!」

 みどりが激しく叫んだ。さなえは驚いたが、少しだけ開けておいた。そして換気扇のスイッチを入れて、ベッドの横にある椅子に腰かけた。

「みどり、どうしたの?熱あるの?」

「・・・そんなんじゃねえよ・・・。」

 いつものみどりの声ではなく、低くて何かに怯えている声だった。よく見ると、身体も震えていた。

「どうしたの?なにか食べるの買ってこようか?」

「・・・いらねえ・・・そんなんじゃねえんだよ。」

「じゃあなんで・・・。」

「うるせえ!」

 みどりはベッドに潜りこんだ。さなえはため息をついて、立ち上がった。これではどうしようもない。

「じゃあ、ゼミの方は当分無理だって伝えておくよ。でも、卒業できなくなっちゃうよ?」

 反応がなかったので、さなえは部屋から出ようとした。

「智・・・。」

 さなえは驚いた。なぜみどりが智の名を口にしたのだろうかと思った。振り返り、戻ってベッドの横に座った。

「ねえ、みどり・・・あんた・・・。」

 言葉は途中で止まった。みどりが急に起き上がり、唸るように叫んだのだ。

「あいつが!あいつがあたしを!うわあああああ!」

「みどり!智くんがどうかしたの!」

「うりさい!うるさい!うるさあああああああい!」

 さなえの中に、激しい衝動と怒りが込み上げてきた。こんな感情になることなど滅多にない。さなえはみどりの頬を、激しく平手で打った。

「あんたね!いい加減にしなさい!」

 殴られたみどりは、殴られたまま横を向いて止まっていた。さなえはなんでこんなに怒りが出てくるのかわからなかった。まるで自分の感情ではないように思えた。すると、ゆっくりとみどりが正面を向いた。頬はこけ、目も血走ってはいたのだが、とりあえず正気に戻っていたようだ。

「みどり?」

「・・・出るんだよ・・・。」

「え?なにが?」

 みどりはさなえをゆっくり指さした。

「あんたの推しだよ・・・。」

「え?何のこと?」

「智がさ・・・。」

「智・・・くん?」

「あいつが・・・目を閉じたらさあ!いっつも出てくるんだよ!ゾンビみたいな顔でさ!あたしを指差して睨むんだ!怖えよ!勝手に首吊りやがったくせによ!なんであたしを憎むんだよ!あんだけのいたずらだけで、なんでそこまで恨まれなきゃなんねえんだよ!寝るどころか、目も閉じることができねえんだよ!」

 さなえはみどりが何を言っているのかまるでわからなかった。

「みどり!なんのことよ!いたずらって、なによ!」

「これだよ・・・。」

「これって・・・出回ってた合成画像じゃないの。それがどうし・・・。」

 さなえはようやく気がついた。

「ひょっとして・・・これ作ったのって・・・あんたなの?」

 さなえは全身の力が抜けていくようだった。この画像で、智は芽倶美に所在がわかってしまったのだ。さなえは涙を堪えることができずに、下を向いて泣いた。そして絞り出すように言った。

「みどり・・・この画像のせいで・・・智くんは追い詰められて死んじゃったんだよ!あんた、わかってんの?だから智くん、あんたを恨んでいるんだよ!」

 みどりはまだ、薄笑いを浮かべてさなえを見ていた。もう狂う一歩手前のように見えた。

「へ・・・へへ。これ作ったのは、元カレだよ。あたしが・・・あんたのような夢子ちゃんとマブダチなわけねーじゃん・・・あんたみたいなのがいるとさ、男どもが油断すんだよ・・・でもよ・・・あたしの推しをよ!てめえが取ったんだよ!あたしは聴いちゃったんだよ!あんたの髪をいじった後で、吾郎と話してんのをよ!あの子いいよねって吾郎が言ってさ!智が嬉しそうにうなずいたんだよ!許せるかよ!あたし、あんたに忠告したよね!ライバルいっぱいいるからって!それは、あたしのことだったのさ!だからあんたにいたずらしてやったんだよ!そうさ、あんたにやったんだ!それなのに、なんであいつがあたしを恨むんだ!意味わかんねえよ!」

 さなえはゆっくり顔を上げた。その顔には滲み出るように怒りが出ていた。

「あんたの言う通りだよ。今が今まで、あたしはあんたを1ミリも疑わなかった・・・夢見る夢子だよね、あたしは・・・甘ちゃんだよね。でも!あたしはあんたを許さない!智くんに呪われていればいい!あの画像のせいでさ・・・智くんはサイコパスに見つかったんだよ・・・どこにも逃げ場がなくなった智くんの気持ち、わかる?眠れない?智くんは、もう寝ることすらできないんだ・・・あんたなんか・・・あんたなんか・・・そのまま、くたばればいいんだ!」

「サイコパス・・・誰だよ・・・あたしは知らねえじゃん!そんなことまで、あたしが背負わなきゃなんねえのかよ!逆恨みじゃねえかよ!」

「・・・もういい・・・あんたとは、本当にこれっきりだよ・・・生き別れかどうかはわからないけどね・・・。」

 さなえは無表情で立ち上がった。そして部屋を出ようとした。すると、みどりが近寄ってさなえの袖を掴んだ。

「嫌だ!嫌だよ!これじゃ眠れないよ!助けてくれよ!トモダチじゃねえかよ!死にたくねえよ!」

 だがさなえは、みどりの指をゆっくりと自分から引き離していった。

「・・・誰がトモダチだよ。智くんが許してくれるまで、自分がやったことを悔いていけばいい。死ぬのが嫌だって?・・・智くんがどんな思いで死んでいったか、少しは味わったらどう?眠れなくて死んじゃう、だって?じゃあ・・・そうなりゃいいだけだよ!」

「嫌!嫌!嫌!助けてよお!さなえ!助けて!智に謝って!助けて!」

 さなえは冷たい視線でみどりを見て、部屋を出て行った。みどりの泣き声だけが聴こえていた。さなえはマンションを出て、近所の神社に向かった。鐘を鳴らしてみた。全身の力が抜けていき、手から荷物が落ちて行った。目頭が熱くなり、涙で視界が悪くなっていった。そして激しい感情がマグマのようにこみ上げてきた。さなえはしゃがみこんで両手を床につけ、激しく泣いた。

「う・・・う・・・うわああああああああ!智くん!智くん!智くううううん!ごめんね!あたしの・・・トモダチだと思っていたやつが・・・あんなやつ、惨めに死んじゃえばいいんだ!・・・あたしが・・・あんなやつを・・・トモダチだなんて思ってたから・・・本当にあたしって・・・バカだよね・・・許して、智くん!」

 

16 

 

 さなえがみどりに三行半を突き付けた翌日、さすがにさなえは家から出る気にならなくなっていた。就職も卒論もどうでもよくなっていた。信じていたものがガタガタ崩れていっていたから、仕方ないことだった。食事もほとんど取らず、父母は心配していた。

「ごちそうさま・・・今日は寝ておく・・・起こさないでね。」

 ふらふらと部屋に歩いていったさなえを見ながら、両親は心配していた。

「おい、あいつ大丈夫か?しばらく休んだ方がいいんじゃないのかい?」

「そうねえ。就活やら卒論やらで大変そうだしね。まあ、今日くらいゆっくりさせてあげたらいいんじゃない?」

 さなえは部屋に入り、ベッドに潜りこんだ。いつものようにネットやチャットを見る気もなく、動画も観る気力が失せていた。智の夢、窪の証言、吾郎の話、由紀子の話、そしてみどりの泣き叫ぶ声などが浮かんできて、眠くても寝ることができないでいた。

(苦しいよ・・・智くん、助けて・・・。)

 さなえは智のことを思い、それで救われようとした。強く念じた。だがそれですくわれるはずもない。さなえは悶々としてベッドに横になるしかなかった。

 するとスマホのメッセコールが鳴った。見る気もなかったが、画面を見ると、ひょうきんなマッチョアイコンに「ビッグたっくん」とあった。大中洲拓郎からだった。さなえはほとんど無意識にメッセを見た。

『よっす!あのさー、昨日バイトが終わってさ。就活もあんだけど、当面の食い扶持も探さないといけねえんだわ。どっか知らない?なんでもやるよ!』

 さなえは、最初はこんな時にこんな能天気なメッセ送ってきて!・・・と思ったのだが、なぜか少しだけ心身が軽くなったような気がした。この能天気さというものは、今のさなえにとってはいい薬なのかもしれない。さなえはレスした。

『ごめん あたしは知らない 』

『そうかあ 困ったなあ 親に言う訳にもいかねえしなあ』

『なんで?』

『小遣い、全部パチンコですっちまったんだ』

「ぷっ・・・。」

 さなえには笑みが浮かんでいた。本当にダメな能天気男なので、見ていて飽きない。短い時間だが、心を軽くしてくれている。さなえはやっと普通に考えられるようになって、少ししてレスした。

『聞いてみるね』

『ぐわー! 助かる! (拝むマーク)』

『(笑う人魚)』

『万年金欠の俺が言うのもアレだけどさー 機会あったら食事でもいかがっすか? (木陰に隠れる)』

「は?・・・こいつ、あたしを誘ってるの?」

 さなえはこんなアホ男から誘われるなんて思ってもいなかった。普通の状態だったら、たぶんやんわりと断っていたはずだ。

(でも・・・ちょっといいかも。)

『(オッケーマーク)』

『{土下座のマーク}』

 さなえは拓郎との短いやり取りで、かなり元気になれた。世界は闇でしかないと感じていたところに、一筋の光明があるように思えていた。だが肝心のバイト先の見当がつかない。これまでだったらみどりに相談するのだが、それもできない。考えているうちに、ピンときた。さなえは早速電話してみた。

「あ、先生?あれから連絡しないですみません。」

『元気そうね。良かった。何かあったの?』

「あの、先生は確か今はどこかで働かれていますよね。」

『ええ、調理師免許持ってるから、レストランでね。』

「あの、そこにバイトの空きってありますか?」

『バイト?あなたが?』

「いえ、友人です。男性で、同い年です。」

『ああ、そう?調べておくわね。』

「ありがとうございます。」

『で・・・その人って、どんな人?』

「ええと・・・なんかちょくちょくと出会う人で、あまりよくは知らないんです。東日本大学の野球部ってことくらいで。」

『・・・へえ、そうなんだ・・・いいね。』

「え?何がですか?」

『声がかなり元に戻ってる。いい影響を貰えているみたいね、その人から。』

 さなえは全くそう思っていなかったので、驚いた。

「そう・・・なんですか?わたしはわかりませんけど。」

『いい兆候だと思う。死にそうだったからね。あれから色んな事があったんでしょ?』

 さなえはこれまでのことを話した。芽倶美が美容室オーナーと不倫していたこと、芽倶美があの義姉だと知ったこと、記者がしつこくつきまとうこと、そしてみどりのことなどを一気に語った。

『そう・・・知ったのね。わたしが言葉を濁した意味、もうわかるでしょ?』

『はい、わかります。あの時だったら、もう混乱しちゃって無理でした。少しずつわかってきました。それに・・・智くんのことも。智くん、わたしに告白しようかって思っていたそうなんです。それなのに・・・。』

『そうよ。わたしだって智にハッパかけていたもん。でもね、運命には逆らえないの。起こることはどうしようもない。問題は、そこをどう切り開くか、でしょう?実はね、わたしのところにも記者が来たのよ。』

「え?・・・ひょっとして、絡根とかいう・・・?」

『そう。あなた、例の美容師自殺のことで、不倫したとか言われていますよねって。わたしはすぐにピンと来たわ。これはあの芽倶美の差し金だってね。あいつのいつもの手だし。』

「・・・そうなんだ。」

『そうやって大事にして追い込んでいくのよ。だからアパートを変えたわ。番号も変えて仕事も変えてね。そうすればしばらくは大丈夫。でも、あの芽倶美が絡んでいるから、絶対に次の手を打ってくる。それはたぶん、あなたよ。』

「・・・なるほどですね。」

『強くなったわね。どんな手で来るのかわからないけど、何でもわたしに訊いて。わたしは何もできないけど、アドくらいはできるから。』

「いえ、本当に助かります。ありがとうございます。それでは、バイトの件、よろしくお願いします。」

 さなえは電話を切り、そして考えた。

(あたしは・・・強くなったの?わからないよ。智くんがいてくれたらなあ・・・。)

 だが浮かんできたのは、頭をかきながらニタニタしている拓郎の姿だった。先ほどのイメージが残っていたようだ。さなえは眉を潜めた。

(あんたじゃないの!)

 だが、救われたのも事実ではある。さなえは拓郎に感謝して、またベッドに入った。今度は本当にぐっすり眠ることができた。ここしばらく、良質睡眠ができていなかったのだ。夢を見ることもなく、起きたらもう夕方近くになっていた。

「・・・あれ、もうこんな時間だ。よく寝た・・・うん?」

 スマホに着信が入っていた。もう見るのも嫌になっていたが、見ないわけにもいかない。さなえはスマホを見た。

「・・・あいつ・・・。」

 相手は芽倶美だった。今までと違うのは、動画のUR?が張り付けてあったことだ。芽倶美は電話してきても留守電に残したことはない。ということは、証拠を残さないということだ。アクセスあったらすぐに消す予定なのだろう。さなえはタブレットを移動させてから、動画を起動させた。

 動画の中は、あの?A?の事務所だった。いつものようにスーツで決めた芽倶美が映っていた。だがその表情は今までとは全然違っていて、まるで蛇の様だった。

『こんにちは。芽倶美です。うふふ・・・さなえちゃん、あなた、見かけによらない子ね。当分騙せるかなって思ってたら、もうわかっちゃったみたいね。あなた、探偵になれるわよ。紹介しょうか?』

 芽倶美の声は面接やその後の声とは全く違っていて、粘っこく低めの声になっていた。こちらが本当なのだろうと、さなえは思った。留守電はまだ続いた。

『はっきり言っておくわ。智はわたしのもの。誰にも渡さない。たとえ死んだってね。智が慕っていた鴻分由紀子も許さない。あんなクソババアに智を渡すもんか!あの女、記者に追いかけさせたらすぐに姿消してしまった・・・絶対に逃がさない!とことん追い詰めてやる・・・そしてあんたもだよ!智が気に入っていただって?はん!そんな女を野放しにできるほど、わたしはできた女じゃないんだよ!あんたを好きなようにできると思って、あの会社を適当にでっち上げたってのに、よく見抜いたもんだ。あの社長だってさ、雇ったホームレスだよ。社員だって、他の会社の人間が見学していただけさ!大学に申し入れたのも、あんたが絶対に乗って来るって思ったからさ。』

 芽倶美の声は激しくなり、目は吊り上がっていて、まるで般若のようだった。

『もう知っているでしょ?あいつから童貞奪ったのはこのわたしさ。あいつを見た瞬間から、あたしの中の女が激しくなっちゃってねえ。親父は酔って殴るしか能がねえクソだけどさ、わたしはあいつを癒してやったんだよ。親父とやったってさ、面白くもなんともない。元旦那だって、全然ね。あいつはわたしの上で死んじゃったよ。恥ずかしいだろうから、行方不明にしておいたさ。その辺は、わたしは慣れてるからね。いつも埋める山の中に放り込んでおいたよ。あの男と比べたら、そりゃあもう、智が最高だったさ。こーーーーーんなに、いっぱい出してくれちゃったよ。たまらないねえ、あの味。』

 芽倶美はもだえながら、恍惚の表情で語っていた。芽倶美は、元亭主すら死なせ、しかも完全に証拠隠滅していたのだろう。他にも何人かは犠牲になっているとしか思えなかった。しかも実の父親とまで関係していた、正真正銘の色狂いだ。さなえは必死で吐き気を抑えながら、動画を見続けた。

『あいつは何回も家出してさ、その度に戻されては殴られ、犯されての連続だったよ。でもさ、あいつもしたたかでねえ。児童相談だけでは無理だと思ったんだろうね。どうやって探したかは知らないけどさ、あのクソババアを見つけやがった。それからは、あいつとは触れ合っちゃいない。あのババアがあれこれ指図しやがったんだ!しかも隙がねえ・・・あたしは悔し涙の毎日だったのさ。思い出すねえ・・・あいつのイク瞬間の顔を。あいつの下半身が恋しくて恋しくてさ・・・もう必死で探したもんさ。それでやっと捕まえたと思ったのが、あの画像さ。馬鹿な女もいたもんだ。素人が作ったらすぐにわかる。あんな女は、どうする価値もねえ。智が振り向かなかったしねえ。でもあんたは別さ。智が振り向いた以上、あんたはあたしの敵なんだよ!』

 無茶苦茶な論理だが、それがサイコパスの所以だ。見ながら、さなえは吐き気以上に怒りがこみあげてきていた。こんな理不尽を堂々と言える思考回路は、どうしようもない。

『ここまで言ったらさ、もうこれからどうなるか大体わかるよね。あんたと、ケリつけなきゃね。ケリってなんだよって・・・思うよねえ。でもね、わたしが我慢できないんだ!智の童貞を奪ったわたしと、友が振り向いたあんたと、どっちが正解なのかってね!ハッキリさせようじゃない!・・・おっと!逃げようったってそうはいかないよ。わたしはこれでも画像合成のプロなんだ。あんたの家から智が出て行く画像とかさ、一緒にラブホに入っていく画像とか、いくらでも作れるんだよ。それを回したらさ、あの親父が黙っていないだろうね。親父はわたしとやった男を許さないし、その女も許さない。家族もおかしいからさ。止められないんだよ、あいつは。絡根も仲間なんでね、逃げたって結構な記事を雑誌に掲載してくれるだろうよ。逃げ場はもう、ないんだよ。』

 さなえも腹が座っていた。こんなサイコ女には絶対負けないと思った。

『どうケリつけるか・・・その判定は、当然智さ。智が首を吊った森、あそこに来てちょうだい。そこで勝負さ。逃げ場はないんだ。あんたひとりで来なさい。いいね。明日の夜、10時に。警察に言ってもダメだよ。警察が動くかどうか、わたしはすぐにわかるんだよ。たくさんカメラ仕掛けているからね。ああ、スマホも家に置いてきな。位置情報、知られたら困るんでね。目印は赤いテープでつけておく。それでは・・・お待ちしております。』

 芽倶美は立ち上がり、きちんと頭を下げたところで動画は終わった。さなえはスマホを切り、しばらく考えた。由紀子に伝えるべきかどうか迷ったが、それはできない。由紀子も動けば危険なのだ。ひとりで戦うしかない。

(智くん、守って・・・。)

 さなえはもう一度アクセスしてみた。すると、もうアクセスできなくなっていた。思った通りだ。さなえは、智の画像を見て、タブレットを抱きしめた。

 

17 

 

 さなえは家を抜け出して自転車を走らせた。あの森までは30分くらいで着いた。自転車を降りて、さなえはあたりを見渡した。この辺りは森と畑ばかりで、民家はない。さなえは持ってきた地図を広げ、電灯で照らした。

(智くん・・・。)

 さなえは地図にあった場所に向かった。辺りを電灯で照らすと、芽倶美が示したように、赤いテープが張られていた。そのテープを辿って進んでいった。森の中に入ると、やがて、ちょっとしたスペースに出た。そこには警察の進入禁止のテープが張られていた。

「ここで・・・智くんが・・・。」

「そうだよ。」

 さなえはビクッとして、声の主の方にライトを向けた。小笠原芽倶美が立っていた。白Tシャツにデニムというラフな服だった。芽倶美が手元のスイッチを入れると、広場周囲の木にかけられたアクセサリーライトが点灯した。これだけの量だと、それなりの明るさになる。さなえは電灯を消した。

「芽倶美・・・どうするの。」

「へえ、年上には敬意を示すもんだよ・・・偉そうに言いやがって。ケリつけるんだよ。」

「だからどうするの。」

「智に決めさせるっつっただろ。これ、なにかわかる?」

 芽倶美が取りだしたものは、ハサミだった。

「それが?」

「これは、智が使ってたハサミさ。店閉める時にパクっておいたんだ。」

「そか・・・あんた、あそこの社長ともできてたんだよね。それで手に入れたの?」

「そこも知ってるのか。まあね。カネくれるからさ、寝てやっただけ。いい服も買えたしね。その最中に、まさか智が店にいたなんて、思ってもいなかったよ。まあ、金だけだったしねえ。そしたらあの画像だ。あたしはそれからあんたを研究したんだよ。こいつが智を狙ってるのかってね。それだけならまだしも、智もお前を・・・だから許せない。智のアパートに行ってさ、ノックしたら智はわたしに気がついて、窓から逃げ出していった・・・そしてそのままここに来たってわけさ。」

「お前が・・・お前のせいだろ!お前が追い詰めたんだ!」

「へ・・・偉そうに・・・男を思い出して会いたいって気持ちに従っただけさ。お前がいなけりゃ!わたしの元に来るはずだったんだ!」

「・・・なんで、あたしなの?関係ないでしょ!」

「あいつはさ、ノックした時に思わず声を上げたんだよ・・・『さなえちゃんか?』ってね・・・そして覗き穴を見て、慌てて逃げ出していったんだ!あいつの心を掴んだ奴がいてさ!そいつがいなけりゃ、首なんか吊らなかっただろうよ!お前のせいだ!」

 さなえは固まった。智はあの瞬間まで、さなえを想っていたのだ。来てくれるのかもと思っていたので、まさかの芽倶美に仰天し、もはやここまでと思ったのだ。さなえの涙腺は緩んだ。

「智くん・・・ありがとう・・・でも!あたしじゃない!お前たちが、智くんを虐待したからだ!それを他人のせいにするなんて、どこまで腐ってるんだよ!」

「虐待だ?あいつに女の体を教えてやったのが虐待か?どこまで甘ちゃんなんだろうねえ。さあて・・・この智のハサミ・・・こいつでケリつける。」

「・・・どうする?」

 芽倶美は広場中央に進んだ。そこに椅子が二脚置いてあった。そして椅子の間の両横には撮影用と思われる三脚が二個置かれていて、その中央には金属製の棒が置かれていた。

「なによ、これ。」

「これはねえ、レーザー照射機だよ。今からここに、ハサミを置く。」

 芽倶美は棒に小皿がついたコンパスのような金属製の二股になったものを通した。それはきっちり棒に収まった。芽倶美は小皿を少し押した。すると二股は滑らかに振り子運動を始めた。

「ここに、ハサミを置くと・・・。」

 ハサミを乗せ、留め金で固定した。するとハサミを乗せたまま、皿は椅子の間を動くようになった。

「これは正確に5分を計測する。すると、この二股の留め金にレーザーが照射されて切れてさ、ハサミはどっちかに飛んでいく。つまり、これがケリだ。さあ、好きな椅子に座んなさい。」

「・・・どっちかに落ちるわけ?」

「そういうこと。智がどっちを選ぶかね?もしあんたの方に落ちたら、わたしは黙って消える。わたしのほうに落ちたら、わたしは好きなようにやる。とっとと座んな。」

「あんたが仕掛けたんだろ。あんたが先だ。サイコパスは何やるかわかったもんじゃない。」

「・・・言ってくれるねえ。まあいい。それじゃあ、わたしはこっちだ。今から始めるよ。タイマーはここだ。」

 芽倶美は手近な椅子に腰を下ろそうとした。

「待って。そっちはあたしが座る。」

「ほほう・・・お好きなように。」

 さなえは恵が何か仕掛けたと思ったのだ。芽倶美は椅子から離れ、もう一方の椅子に腰かけた。さなえは芽倶美から視線を外さず動き、椅子に腰かけた。目の前では、ハサミが静かに振り子運動していて、目の前30センチくらいまで来ていた。これが外れたら、顔付近に飛んでくるだろうと予想できた。

「さて、4分30秒。楽しみだねえ。」

「だから何なの。」

「ほほう・・・甘ちゃんなのに、ちょっとは成長したねえ・・・あんた、まだ未経験じゃあないよね?」

「関係ない!お前なんかに言うことはない!」

「おお怖あ。あと4分か。」

「うるさい。」

「ほほう、わたしに惑わされないようにしているのか?なかなかじゃん。で、相手は何歳だった?」

「質問ばっかりしてくるね。どうでもいいって言ってるでしょ。」

「気になるんだよね。智を魅了したお方ってどんな人なのかってね。じゃあねえ・・・。」

「待って。あたしが訊く。あんた、なんで実の父親と?」

 芽倶美はニヤリと口角を上げた。

「はい、残り3分30秒・・・さてねえ。わたしもよく覚えていない。まだ10代の時に、酔った親父が被さってきたことは覚えている。もうその時には、母親は死んでたから。我慢できなかったんだろうさ。まあ、たぶん気持ちよかったんじゃないの?その後で智が来た時には、わたしはもう仕上がっていた・・・あと3分ね。」

「父親のせいにして・・・卑怯者。」

「そうかねえ?ところであんた、智があの由紀子先生と何もなかったって信じてんの?」

「え?・・・当たり前じゃん。」

「図星、か。内心疑ってたよね、あんたは。」

「うるさい!疑ってなんかない!」

「ほーら、図星だ。わたしはそのこと、知っているって言ったら、どう思う?」

「疑っていないって言ってるでしょ!」

「はい、残り2分30秒。知りたいよね?そうでしょ?うん?」

「・・・うるさい。」

「そうかそうか。知りたいのか。じゃあ教えてやるよ。」

「やめろ!静かにしてろ!」

「あの先生は、智より15歳年上で、わたしより12歳上。結婚の機会はあったけど、複数の彼氏がいた状態だったんで、できなかった・・・そんな女が、イケてる若い智を見て、黙っているとでも?残り2分。」

「なんで、なんであんたが知ってるの!」

「んなこと、探偵に頼めば一発さ。さて・・・ここで問題です。やったかやらなかったか、正解はどっちでしょ?」

「わたしは先生を信じるよ。もちろん智くんも。」

「へえ、甘ちゃんには変わりないか・・・幸せだねえ。そろそろ答えを教えちゃおうっかな。残り1分30秒だけど。」

「うるさいって言ってるの!あんた、さっき好きなようにやるって言ったよね。どういうこと!」

「あんたはどう思うんだい?わたしがあんたを殺すとでも?」

「・・・そうかもしれない。」

「失礼だねえ。甘ちゃんは世間知らずでもある、か。わたしの生い立ちを知ってんなら、わかるでしょ?」

「自分の手は汚さないで、相手を落とす・・・そして猫を殺すんでしょ。」

「へへへ、どうかねえ・・・残り1分だよ。」

「教えなさい!」

「教えるかよ。あんたに対処させたりしないよ。わたしは素直に引くって言ったんだからね。」

「それも信用できない!野良猫捕まえて喜んで殺すようなやつ、信用できるか!」

「わかってるじゃない!ありゃあ快感だったよ。最近は難しくなってきたけどねえ。たまにやってるよ。」

「・・・最低以下の、クズだよ。」

「さてさて、残り30秒切ったよ!」

 芽倶美は蛇のような目で両方の口角を上げていて、耳まで裂けそうに見えた。髪の毛が風になびいて、まさに妖怪にしか見えなかった。タイマーは刻々と減ってきていた。残り20秒になって、芽倶美が立ち上がった。

「おい!変われ!」

「なんで!」

「変われっつてんだよ!」

 さなえは確信した。芽倶美は最初から仕組んでいて、今さなえが座っている椅子の方にハサミが落ちるようにしていたのだと。それで散々揺さぶってきていたのだ。

「嫌だ!」

 さなえは椅子を掴んだ。芽倶美は腰を浮かせて叫んだ。

「お願いだ!変わってくれ!」

「見苦しい!」

 残り5秒になった。さなえは勝利を確信した。芽倶美は変わらず腰を浮かせていたが、叫んでいた時の表情が、またあの妖怪面になってきていた。さなえは気がついた。

「これも罠?」

 時間が来て、レーザーが照射された。ハサミは芽倶美の方に飛び、ハサミはその手に収まった。腰を浮かせていた芽倶美はそのまま立ち上がると、機材を蹴り倒してさなえに近づいてきた。そしてハサミを振り上げた。さなえは恐怖のあまり、動けなかった。

「この瞬間を待っていたんだ!智からお前を消し去ってやるんだ!死ね!」

 

18 

 

 ハサミを振りかぶった芽倶美の腕が降りてくるところを、さなえはまるでスローモーションのように見つめていた。このハサミが首に刺さり、そのまま死ぬんだなと思った。だが次の瞬間、芽倶美の表情が一変した。信じられないものを見た時の目になっていた。

「智・・・?」

 さなえは奇妙な感覚になってきていた。誰かに動かされているように、椅子から立ち上がったのだ。そして声を発したのだが、その声は自分のものではなかった。

「芽倶美・・・。」

 男性の声だった。声質は違っていたが、さなえはそれが誰のものかすぐにわかった。

(智くん・・・!)

 さなえは少しずつ芽倶美に歩いていった。智の声が芽倶美に届いた。

「芽倶美・・・芽倶美よお・・・。」

「智・・・お前・・・生きてるの?お前は!わたしを選ぶんだよな!そうだよな!」

 芽倶美に見えていたのは、生前の智の姿だった。さわやかなその姿を見ると、芽倶美の表情は緩んでいった。今が今まで、さなえと戦っていたとは思えない女の顔だった。

「智、わたしの智。どうして逃げちゃったの?あんたのあそこが、恋しくてたまらなかったんだよ。戻っておいで、わたしの元にさ。」

 芽倶美は両手を広げて智をハグしようとした。智も近づいてきていて、やがて両手を広げた。

「ああ、やっと、わかってくれたんだね?また夜通しやろうよ。いっぱい出せばいいからさ。」

 芽倶美が恍惚の表情になった瞬間、智の姿が一変した。芽倶美の目の前には、すさまじい形相で睨みつける智の姿があった。憎しみが力となって芽倶美の心を直撃していった。憎しみは芽倶美の心の奥底まで一気に到達し、これまで行ってきた数々の行為が芽倶美に襲いかかってきた。まるで妖怪のようだった。どの妖怪も猫を基調とした形状で赤い目をしていて、芽倶美の体を食おうとしていた。芽倶美はさなえから離れて叫んだ。

「うぎゃああああああああああ!」

 芽倶美は人間に出せる限界としか思えないほどに叫んだ。瞼はギリギリまで開かれ、眼球は飛び出すのでないかと思えるほど広がっていた。芽倶美は叫びながら、ハサミを振り回した。

「来るな!来るなああああああ!お前らは殺したはずだああああああ!」

 だが智はゆっくりと迫ってきていた。芽倶美はハサミを振り回したが、まるで距離感が掴めていなかったので、さなえからはかなり離れていた。

「なんだああああああ!こいつらはなんなんだよおおおおおお!」

 芽倶美はじりじりと下がっていき、巨木にぶつかって止まった。ハサミは前に構えたままだ。

「臭え・・・臭えええええ!」

 さなえは感じなかったが、芽倶美には死臭が強く感じられていた。その臭いは、芽倶美の恐怖をさらに増幅させた。芽倶美の目は血走り、涎が垂れ、汗が噴き出していた。恐怖渦巻く中で、芽倶美の表情は複雑に変化していった。怒り、恐怖、そして恍惚と目まぐるしく変化していた。妖怪たちの中心には智が憎しみの目で睨みつけていた。

「来るな!お前に女を教えてやったのはわたしだろうが!なんでわたしを避けるんだ!なんで嫌うんだ!お前が少しでも慕ってくれたらよかったんだ!甘ちゃんのどこがいいんだ!わたしの方がずっと、いい女だろうが!ほら!」

 芽倶美はTシャツを脱いで、上半身裸になった。形のいい胸が露になった。そしてデニムもインナーごと脱ぎ、裸になった。芽倶美は複雑な表情のまま、股間を指差して叫んだ。

「ほら・・・これだよ!これでお前は男になったんだ!ほら、ほら・・・触れよ!ほら!」

 だが智の姿は変わらず、両手を芽倶美の首に回そうとしてきていた。さなえは、一体何を見ているんだろうと、ぼんやり思った。ほとんどが何かに支配されている感覚のままだったからだ。

「智!智!どこに行った!お前はわたしのペットだろ!お前はわたしから逃げられないんだ!」

 次の瞬間、智はこの森の中にいた。スマホを操作しながら、つぶやいていた。

「これで本望か・・・へ、誰がお前と・・・もうこれで終わりだ・・・俺は、俺で始末をつけるだけさ・・・こんなクソみてえな人生、終わらせるしかねえだろが・・・うるせえ!」

 智はスマホを操作した。

「あの人に動画送ったぜ。お前の悪行を全部喋ってる・・・そうだよ・・・送った。今夜からお前は眠れねえ。ざまあみろ。散々俺を食い物にしてきた罰だ。覚悟しやがれ!」

「そうだ・・・お前はわたしに初めて電話をくれたんだ・・・お前は冷たかった・・・悲しかったよ、智・・・。」

 智が最後に電話していたのは芽倶美だったと、さなえは気がついた。誰に電話していたんだろうと思っていたからだ。しかし誰に何を送っていたのかはわからなかった。

 智はイヤホンを外し、チップを取り出して落ち葉にくるんで、近くの木の隙間に押し込んだ。そしてスマホを投げた。スマホは藪の中に落ちて行った。そして横にあった椅子に上がった。

 智は何の迷いもなく、木にかけたロープを首にかけた。そして首を振って笑い、つぶやいた。

「あんた・・・少しでも話せて良かった・・・頼んだよ。しかしよ、最後があのクソとだなんて・・・胸糞悪い。これでやっと・・・クソ人生から自由か・・・。それから・・・頼んだぜ・・・お前しか言えねえんだ。」

 少しでも話せた相手は、さなえだった。さなえにはそれがはっきりとわかった。しかし智は芽倶美のせいでセックス恐怖症になっていた。さなえに好意を寄せていたにも関わらず、その気持ちを出せなかったのはそのためだった。さなえは智の気持ちを察して、涙がこぼれ出してきた。

(智くん・・・。)

 だが、頼んだ相手は誰なのだろうかは、わからかった。智はその相手に何かを託したようだ。しかし最後に電話したのが芽倶美だった。最後の最後で、究極の逃亡をする直前に、思いのたけを伝えたのだ。芽倶美は満足そうに笑った。

「そうだよ・・・お前はわたしのものだって。」

 智の背後に、由紀子と吾郎と、もうひとりの男の姿が浮かんでいた。その男の姿は、さなえには見覚えがあった。そしてさなえの姿がひときわ眩しく光って現れた。

「ほお・・・最後の最後にあの子が・・・浮かんできたのか。神様のご褒美かもな。」

 智は胸を押さえて、首を振った。

「そうか・・・純粋に好きだってことを教えてくれたのは、あの子だったよな・・・あの子とだったら・・・素直だったな・・・もっと早く会っていれば・・・ってか・・・未練がましいや・・・ぼちぼち、お別れするか・・・。」

 そして智は椅子を蹴った。ロープがピンと張り、数秒間の痙攣の後、静寂が訪れた。

「智おおおおおお!」

 芽倶美は叫び、頭を抱えた、

「悪かったよ!でも、我慢できなかったんだ!勘弁してくれ!」

 首を吊った智はそのまますっと降り、死んだ時の姿のまま、芽倶美に歩いてきた。そして、芽倶美の首に手を回してきた。芽倶美は立っていられず、座って智を見ていたが、やがてすさまじい怒りの表情で立ち上がった、ハサミをまた握っていた。

「殺したいのか?わたしを?・・・嫌だ!お前はわたしのものだ!死んでもわたしのものだああああ!」

 芽倶美はカッと目を見開き、智に向かってハサミを突き出した。次の瞬間、芽倶美の頭に何かが激しくぶつかった。芽倶美はガクンと揺れ、目を見開いたまま、髪を振り乱して倒れていった。

「え・・・なに?」

 さなえはすっと、自分が自分の体に戻ってきたような感覚になっていた。目の前には巨木があり、その横に芽倶美が倒れていた。さなえは何が起きたのか、全く理解できないでいた。動かそうにも動けないまま、倒れた芽倶美を眺めていた。芽倶美は目を閉じ、顔には血が流れていた。手に持ったハサミは放り出され、さなえの前に転がってきた。そしてハサミの横には、野球のボールも転がっていた。

「え?ボール?」

 言うと体が動き出した。さなえはハサミとボールを持ったが、脳内は完全にストップしていた。無意識だったのだ。すると、ガサガサと音がして横の茂みから男が出てきた。

「ふー!間に合った!ちゃんと当たってくれたわ!」

 大中洲拓郎だった。

「いやあ、悪い。なかなか投げる空間が作れなくてさ。藪を切っているぶんだけ遅れちゃって。これでも野球が好きで・・・おい!さなえちゃん!」

 さなえは目の前が真っ白になり、気を失っていった。

 

19 

 

 さなえはベッドで目が覚めた。

「あれ・・・あたし、教会に・・・。」

「さなえ!良かった!」

 母親がさなえに抱きつき、泣き出した。横では父親がさなえの手を取り、やはり泣いていた。さなえはそれでも状況把握ができていなかったが、父母の横に由紀子の姿を見て、ようやく全て理解できた。寝ていたのは病院のベッドだった。

「あたし・・・あれから・・・?」

「ちょっとよろしいですか?・・・さなえちゃん、今から検査があったり、警察の方が質問したりするの。終わったら全部話すからね。」

「先生・・・え、警察?」

 それから病院で様々な検査が行われ、多少の外傷はあるものの全く問題はないと診断された。それから県警捜査官がやってきて、なぜあの時間にあの場所にいたのか、なぜ小笠原芽倶美は裸で頭部に外傷を受けていたのかという質問があった。拓郎のことは黙っていたが、近くに野球のボールが落ちていたと知らされたので、答えておいた。

「それ・・・こういうことです。」

 ボールのことはよく知らないが、芽倶美が転倒したようだと答えた。さなえはスマホに録画しておいた、芽倶美の動画を捜査員に見せた。見終えると、捜査員のひとりから声が漏れてきた。

「やはりあいつか・・・。」

「あいつ?どういうことですか?」

 捜査員たちは顔を見合わせたが、ひとりがさなえに伝えてきた。

「あの小笠原芽倶美は動物愛護管理法違反で捜査途中です。父親は器物破損の疑いがあるんですよ。よく無事でした。芽倶美は、なぜ裸で?」

「え?・・・あの、よく覚えていません。いきなり狂ったようになって、そして襲われた記憶だけがあるんですけど・・・。」

 拓郎の名は出さない方がいい。

「そうでしたか・・・やはりないや、ありがとうございました。」

 さなえは何か訊かれるのかと思ったが、捜査員たちはそのまま引き下がった。さなえは本当に訳が分からないまま、無事退院した。その日は家でゆっくりして、翌日、さなえは鴻分由紀子と待ち合わせた。ところが驚いたことに、拓郎も同行していたのだ。

「拓郎!あんたなんで?」

「ま、ま・・・。」

「まあまあ・・・まず、さなえちゃんにちゃんと話さないとね。」

 三人は近くのイタリアン店に入り、ランチを食べながら話をした。

「ええとね、一番意味がわからないところから始めましょうね。この大中洲くんが、なんでここにいるのか・・・いや、あの場所で何をしていたか、かな?」

「・・・はい。」

「この大中洲くん、わたしの甥なの。」

「・・・え?えええ?」

「そして、智くんの弟分でもある。わたしと一緒にいる間に、すっかり仲良くなっちゃってね。」

 さなえは理性では理解できたが、予想外すぎる答えで何も反応できなかったが、驚きはさらに続いていた。

「そしてね、この子はいつの間にか、さなえちゃんと出会っていたわけじゃないの。わたしがずっと、見張っていてって頼んでいたのよ。」

「え・・・ええ?拓郎!あれ、たまたま会ったんじゃないの?」

「へへへ、実はそーなんだ。智兄からもさ、さなえちゃんを守ってくれって頼まれててさ。でもまさかあの日に出かけるなんか思ってもいなくて。実は何気に追跡アプリ入れておいたんだ。」

「え・・・そうだったんだ。」

「ああ、裏技使ってさ、メッセ交換したときにインストしておいた。」

 さなえは急いでスマホを取り出した。確かに入っていた。

「・・・あんた、あたしに黙って入れてたの!」

「しょ、しょーがねーじゃん!それで居場所わかったんだし。で、急いで行ったけどさ、持ってるもんつったら野球道具しかなかったんだわ。で、あの時に相手の女が刺そうとしたからさ、俺、コントロール良くねーけど、ドンピシャで側頭部に当たってくれたわけよ。」

「万年補欠なのに、よくそんなことやろうと思ったよね。」

「あー腹立つ!」

「だって自分でそう言ってたから!」

「俺は確かにそーだけどさ!野球は好きなの!」

「はいやめ~。」

 由紀子は止めたのだが、笑っていた。

「さなえちゃん、あなたは普通硬いタイプじゃない?でも拓郎といると柔らかくなるのね。」

「え?そうですか?・・・嫌だなあ。」

「そーゆーとこがいかんって言って・・・。」

 由紀子は拓郎の口を塞ぎ、拓郎はもごもごしながら由紀子を睨んだ。

「とりあえず、もうひとつ報告ね。あの小笠原由紀子、動物愛護管理法違反に加えて脅迫罪、詐欺罪、さらに名誉棄損罪もつきそうね。で、現在は精神鑑定中。」

「精神鑑定・・・あるんでしょうか。あれだけ細かにやっていた人が・・・。」

「そこは専門の肩にお任せするしかないわね。いずれにしても、当面は出てこれないってこと。精神科か拘留かはわからないけど。」

「あの・・・もうちょっといいですか?あたしの友人・・・の指差みどりですけど、何かご存じですか?」

「彼女のことはわからないけど、フリー記者の絡根耕三は、共謀罪で逮捕されているみたい。」

「ああ、そうだ。おばさん、もういっかな。最終面接が今日あるんだわ。」

「ああ、もういいわよ。色々ありがとうね。あ、それから・・・あんた、わたしの指示以外で行動したでしょ。」

「・・・なんのことかなあ?」

「利山さんと繋がりたくて、メッセしてバイト頼んだでしょ。

「あ!あれ・・・拓郎、そうだったの?」

「ま、ま、ま・・・じゃあ、しつれ・・・。」

「ちょっと待って。」

 さなえが声をかけてきた。

「えー?まだ何かあんの?」

 さなえは拓郎に頭を下げた。

「え・・・おいおいおい!なんだなんだ!」

「色々と、本当にありがとう。拓郎って、いつもあたしを助けてくれていた。落ち込んだことも何回もあったけど、そんな時に限って笑わせてくれていたわね。そして最後は・・・あれ、かっこよかったよ。エースみたいで。」

 拓郎はぽかんと口を開けたまま固まった。由紀子は笑みを浮かべながら、拓郎の顎を軽く叩いた。拓郎の歯は、音を立てて咬み合った。

「・・・うお!あー、顎痛え。おばさん、なんでいつもこうやんのさ!」

「あのね、あんたがそうやって顎が開いたままの時って、どうしていいかわからない時でしょ。これがいい刺激になるのよ。で、さなえちゃん。ありがとうね。」

「いえ・・・ねえ拓郎、今度、ご飯行かない?」

「へ・・・?なんで・・・痛え!」

 由紀子が拓郎の尻を叩いた。

「もう、本当にニブチンなんだから。さなえちゃん、オッケーみたいよ。はい、さっさと面接に行ってらっしゃい。」

 拓郎は首を傾げながら店を出て行った。その際さなえをチラ見したが、さなえは小さく手を振っていた。

(本当にありがとう・・・拓郎。)

 

20

 

 その後さなえの耳に入ってきたのは、みどりは不眠症になっていて、病院に入院して治療を受けているとのことだった。意味不明なことばかり言うので病院がみどりのスマホに入っていた友人たちに聞き取り調査したところ、そうなって当然だとの意見ばかりだったそうだ。結果として、当面はかなり重症なので、当面は就活できそうもないとの診断だった。

 さなえは芽倶美に面会しようと思ったのだが、芽倶美の方で拒否されてしまった。代わりに、担当官が会ってくれた。

「利山さん、小笠原さんの現状を知ったら納得されると思いますよ。」

 担当官が見せてくれたのは、現在処分待ちで拘留されている芽倶美の画像だった。見たさなえは、口を押さえた。

「これじゃあ、まるで・・・。」

「ええ、こうでもしないと、いつどうなるかわからないんですよ。」

 画像に移っていた芽倶美は拘束衣を着ていて、口には何かを咬まされ、両腕両足は拘束具を装着されていた。

「もうどうしようもない状態なんですよ。自傷しますし、眼球をほじくり出そうとします。足を自由にさせていたら、足で目を突こうとしますし・・・。利山さんの面会自体がまず無理ですが、一応本人に確認したんですよ。しかしあなたのことを耳にしたとたん、壁に体当たりして・・・ええと、『出ていけ!ここから出て行け!』と怒鳴るんです。意味不明ですが、動物虐待をやってきた者によく見られる現象のひとつだそうです。殺してきた動物たちが襲ってくるとかで。あなたを、動物のひとつと思い込んでいるのかもしれません。ですから面会はしばらく無理ではないかと思われます。」

 あの凛々しくて、スーツでキメていた芽倶美の姿からは想像もできない、荒れた画像だった。さらに、父親も逮捕されていた。智の母親に対する虐待行為だった。

「わかりました・・・。」

 さなえは、担当官からの説明で心が決まった。もう彼女は世に出てくることはないだろう。だとしたら、今後は自分のことだけを考えていくしかない。

 さなえは内定していたクリエイティブシンギュラリティにできるだけ通った。以前の自分とは思えないくらいに、次々にイメージが湧いてくるのだ。以前からやりたかった3?アートにもチャレンジして、代表が応募することを勧めるとすぐに当選してしまった。

(なぜ、こんなにイメージが湧いてくるんだろう・・・。)

 製作しながら、さなえは自問自答を続けていた。ある日、さなえは強いインスピレーションを感じた。そのイメージから浮かんできたものが、それまでのさなえだったら思いつかないものだった。さなえは閃いたことを、絶対に卒論にしようと思った。テーマは、当初はアートと社会性についてというものだったが、変更していた。

 さなえのゼミ担当教授は、そのテーマを見て眼鏡をはずし、呆れたようにさなえに訊ねてきた。

「君、なんでこのテーマにしたんだね?『人の噂が生み出すアート性について』・・・書かれている内容は、人の噂というものは往々にして間違っているということからだ。そこから生み出される恐怖こそ、アートの完成形である・・・。なぜだね?」

 教授は、ゼミを始めた頃のさなえの雰囲気が全く変わっていることにも驚いていた。半年程度の間に、人間はこうも変わるものだろうかと思わせるほど、さなえは大人の雰囲気を醸し出していた。

「・・・ここしばらくの間に、わたし自身が色々な噂に翻弄されてきました。それで思ったんです。アートの基本は恐怖と生存本能なのだと。それを社会的に昇華できたものがアートになるだけです。たとえば、クトゥルフ神話のラブクラフト、エドガー・アラン・ポー、ピカソ、ギーガーらの基礎は恐怖です。彼らが抱いた恐怖をそのまま描いたら、アートにはならなかったと思うんです。おそらく、世間から彼らは決して好意的には見られていなかったはずです。彼らは、人が怖かったんです。」

 さなえの心には、ここしばらくのことが浮かんできていた。

「しかし彼らにも支えがあったわけです。友人だったり親戚だったり・・・その存在があったからこそ、彼らのために表現したものがアートとして認められています。なぜなら、そこに人の愛情があるからこそ、世間に認められてきたと思います。人嫌いな彼らと世間を繋いでいたものは噂です。人は他人を傷つけたくないから、噂という形になります。」

 みどりから始まった噂のことを、さなえは思いだしていた。この場合は妬みだったが、普通にあることだ。みどりの心の中にあった邪心は樹里亜らの噂によって増大し、今度は自分で噂を流して攻撃するという行動に出てしまった。また、それをより一層強めたのが、芽倶美だった。

 そんな状況下のさなえを支えてきたのが両親であり、由紀子であり、拓郎であり、なによりも智だった。

「わたしはアート系に就職が決まっています。正直、最初は無理かもって思っていました。ですが恐怖体験を、支えてくださった方々を想って表現してみたら、ものすごく自分に合っていました。恐怖は誰でも嫌なものですが、それは生存本能を刺激してくれるものでもあります。それで、このテーマにしました。」

 教授は人差し指を立てて、さらに質問した。

「この、浮沙汰というサブタイトルの意味はなんだね?」

「これは『うわさた』と呼んで、噂という言葉の語源だそうです。浮ついた出来事を人に話したことで沙汰、つまり裁判での判断になったそうです。それで、つけてみました。」

 教授はうなずき、感心したように話した。

「いや、見事だ。利山さんの今後が楽しみだよ。」

 卒論を完成したさなえには、もうひとつやることが決まっていた。

「窪さん、また来ました。」

「おお、ようおいでなさったねえ。」

 さなえは智の叔母の家に来ていた。彼女もまた、さなえを支えてくれた存在でもあったからだ。さなえはここまでのことを説明した。

「・・・そうですか。あの芽倶美がねえ・・・当然の報いでしょうね。しかし、あそこにはもう親戚はいないはず。妹とも連絡取れないんですよ。」

「え?そうなんですか?」

「警察は探してくれていますが・・・わたしにはなんとなく、もう・・・この世界にはいないんだろうなって思っています。あの子もかわいそうではありました。」

 佐知代は若い娘の写真を額に入れていた。

「最初の結婚前の、あの子です。見てやって・・・ほら・・・こんなに・・・ぐす・・・にこにこ笑って・・・。」

 佐知代は泣き崩れ、さなえは見ているしかできなかった。彼女も智同様に、あの親子の犠牲者なのだ。さなえは額を手に取り、ながめた。若い頃なので、智によく似ている。さなえは額を置いて手を合わせた。そして智の墓に向かった。

 この墓は佐知代が毎日のように手入れしているとのことだった。綺麗にされていた。さなえは墓の前に腰を下ろし、手を合わせた。

(智くん、やっと・・・ケリつけたよ。成仏してね。)

 目を開けて立ち上がり、振り返って、さなえは腰を抜かしそうになった。拓郎が立っていたのだ。

「びっくりした!驚かせないでよ!なんでここにいるの?」

「だって・・・智兄の墓参りができてなかったし。来たらさなえちゃんがいただけだよ。」

「あ・・・ごめん。じゃあ、手を合わせて。」

 拓郎は花を手向け、手を合わせた。さなえも一緒に手を合わせた。先に顔を上げると、拓郎の肩が震えているのがわかった。声をかけようとしたが、拓郎の声が聞こえてきてやめた。

「智兄、かたきはとったぜ・・・悔しかったよな!俺、ノーコンだったけど、最後の最後でストライクとれたぜ。三振だ!成仏してくれよな・・・クソー!なんで、今ここにいねえんだよ!」

 さなえは拓郎の普段の姿を知っているので、意外だった。こんなに熱い男だったとは。拓郎は涙を拭いて、さらに続けた。

「智兄、俺、もうひとつ言いたいことあるんだ・・・好きな人がいる。」

(え?そんな人いたの?)

 さなえは拓郎が、いつの間にそんな女性を見つけていたのか、少しムカついた。自分はあんなに大変だったのにと。

「あのさ、智兄・・・俺、そんなつもりは毛頭なかったんだ。智兄のためにって思ってやってきていただけなんだ。でもさ・・・でもさ!智兄が好きだったんだよな、その人のこと!」

 さなえは驚いて口を手で塞いだ。まさかだった。

「智兄、俺、どうなるかまるでわかんねえ。俺みたいなダメ野郎にはさ、あんな子は似合わねえってこと、すっげーわかってる!でもでもでも!どうしようもねーんだよ!智兄、お願いだ、許してくれないか!俺、あの人に告白してえんだ!いいだろ!智兄の代わりに、もしオッケーだったら・・・もし、オッケーだったら!ぜってー幸せにする!何があっても幸せな家庭を作りたい!子供もほしい!かわいい女の子と、強い男の子がいいんだ!それで・・・家は・・・ちょっと自信ねーけど・・・ダメかなあ・・・。」

「ダメじゃないよ・・・告るなら、ちゃんとこっち見てよ。」

 拓郎はゆっくり振り向いた。さなえは流れてきた涙を拭いていた。

「馬鹿・・・本当に下手だし、不器用なんだよね。いつもいつもそうだった。あたしを見守ってくれただけじゃない。いつも笑わせてくれていたじゃん。どれだけ・・・どれだけ助けられたと思ってるの・・・拓郎がいなかったら、あたし、とっくにどうかなってたよ。それにね・・・夢を見たんだ。」

「え・・・。」

 さなえはうなずいて、智の名前の碑の前に屈んだ。

「あたしもね、最初は智くんが好きだった。でもあたしなんか振り向いてくれないんだって思ってたら、智くんも気に入ってくれていた。それがわかった時、すっごく嬉しかった・・・でももう、智くんはいないんだ・・・悲しかったよ。でね、拓郎がやっつけてくれた時、入院してて夢見たの。夢の中で、あたしは智くんと結婚式場にいた。それで、最後にキスした時にね、智くんじゃなくなっていたんだ。」

「それ、で?」

「智くんは、拓郎になっていたんだ。」

 拓郎はじっとさなえの後ろ姿を見ていた。何も言えなかった。

「智くんね、何度かあたしのところに来てくれていたんだと思う。あの芽倶美に騙されるなって言いたかったんだろうなって。そして最後にあの夢を見せてくれたんだって・・・勝手に思ってる。そうでしょ、智くん。」

 最後は涙で声になっていなかった。さなえは言いながら、智の優しさを感じていた。あんな環境にいながらも、智は優しい男だった。

「俺もそう思う。」

 さなえは涙を拭いて振り返った。拓郎は仁王立ちしていて、涙を堪えていた。

「智兄は優しかったよ。でも、すごく悲しそうだった。」

「拓郎・・・。」

 さなえも立ち上がって、拓郎と向かい合った。

「あのさ・・・俺、弱虫でさ。特に勝負どころで弱えんだ。でもさ、智兄のかたきではど直球でストライクとれた。思わずガッツポーズしたよ。生まれて初めての快感だった。で、思ったんだ。」

「何を・・・?」

「俺は、あの快感を、もう一回味わいたい!勝利投手になりてえ!だから!」

 拓郎は一回ためて、腹の底から吐き出した。そして右手を差し出した。

「利山さなえさん!俺と付き合ってください!」

 しかし右手は何の感触もなかった。

「・・・やっぱり、ダ・・・え?」

 さなえは両手を広げて、笑顔を浮かべていた。そして一歩前に進んだ。

「握手なんて・・・他人行儀じゃん。」

 さなえは拓郎に飛びつき、抱きしめた。拓郎は差し出した右手をそのままで固まってしまった。

「もうわかってた・・・わかってたんだよ!とことん不器用な拓郎!なんでも下手な拓郎!でも、ずっとあたしを見守ってくれている拓郎!大好き!」

 拓郎は右手をさなえの背中に回し、ハグした。そしてさなえの顔を見て、キスをした。柔らかい感触が二人を包み込み、しばらく離れなかった。

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