異世界人がその一歩を踏み出せる理由を観察してみた件
一ノ瀬燈は、リビングの窓から、風で揺れるブーゲンビリアを呆然と眺めていた。
緑の指を持つ祖父は、白地に八重咲のブーゲンビリアを、リビングの窓縁に立派な木になるようにまで育てあげると、天気の良い日は窓を開けっぱなしにしてその前に座り、よく2人の時間を作ってくれた。
「コーヒーを飲むのに良い景色だろう?」
新しく春が訪れるたびに得意げに笑って、私のいれたコーヒーを飲んでいた85才の祖父が死んで、黙々と家の片付けに明け暮れている間に、日々は過ぎてしまっていた。
さっきも、斜向かいのおばさんが「ちゃんと食べてる?」と心配して、お刺身を持ってきてくれた。
「ご飯を炊いたら、切って醤油つけるだけだから食べて」
イサキとアジは、ご主人が今朝釣ってきた新鮮さでピカピカと光り、サーモンは“彩り”と。
小袋に刻まれた薬味まで入っていて、おばさんは「お茶漬けにしてもいいのよ」と、笑って帰って行った。
人の優しさに触れると心臓がキュッとなる。
この家が古くからここに在るおかげで、お付き合いの長い親切なご近所の方々や、子供の頃から家族ぐるみで出入りしている優しい弁護士先生の助けもあり、一通りのことはつつがなく済み、自分の今後の事など考える気にもなれなくて、ただぼんやりしていたら3ヶ月も経っていただけだったのに。
早くに両親を亡くし、唯一の肉親だった祖父は、私の大学卒業と同時期に入退院を繰り返すようになり「家に帰りたい」と、自宅での完全介護が始まって、きっちり一年後、眠るように息を引きとった。誰もが「大往生ですね」と言いたくなるような、この世で最も理想的な死の迎え方だっただろう。
寝たきりの祖父の介護は、通いのお医者様もヘルパーさんもいたし、何より意識がしっかりとしていた祖父自身の協力もあり、苦労と呼べるような大変さなどなかったが、老人にしてはガタイが良く、頼り甲斐があったあの祖父が、日に日に弱っていくのを感じるのは辛かった。
卒業後の入社が決まっていたインターン先の就職を辞めてしまった事で、祖父はずいぶん心を痛めていたが、小さな頃から一緒に暮らし、大学まで出してくれた大好きな祖父と、離れたく無かったのはアカリの方だった。
2人で暮らすにも大きかった家に、たったひとり取り残され、雪崩のように押し寄せてくる“やらなければならない事”を夢中でこなし、祖父の遺言通りに、手続きや片付けを済ませてゆくうちに、途端に何のやる気も起きなくなってしまったのだ。
「これからは、自分のために笑って過ごしなさい」
頬を撫でる萎れた手に縋り「一緒に連れていって」と、啜り泣く孫にかけた祖父の最後の言葉は、あまりにも悲しく胸に沁みた。
昼前、約束していた弁護士事務所にて、諸々の最終的な手続きが終わり「きちんと食事をしていますか?」と若先生に心配され、一度は断ったのだが「今後の事で少々伺いたい事が」と、食事に連れ出され、場違いなレストランで、向かい合って座っている。
「それで、一ノ瀬さんは、今後の就職の当てとかあるの?」
「今はまだ、あまり考えられなくて」
フレンチのコース料理なのだが、まだランチの時間。アルコールを断っても店に失礼はないだろう。
目の前の若い弁護士は、それこそお互い子供の頃からの知り合いだ。
介護の為に就職しなかった事情も知っているし、親身になってくれているのだろうし、祖父も土地権利の関係で、ずいぶんお世話になっている弁護士事務所の、いずれ3代目になるだろう若先生なのだが、人柄の良い大先生と違って、どうにも拭いきれない軽薄さがあり、好感が持てなかった。
「そうだね。しばらくゆっくりした方がいいかもね。アカリちゃん介護頑張ってたもんね」
ん? ん? ん? 大先生にだって、名前で呼ばれなくなって久しいのに?
若先生は、私が断ったワインをお飲みになっているが、まさかたった1杯目で酔っ払った訳じゃないでしょ?
「ところでアカリちゃんは今、あの家でひとりで何してるの?」
「・・・家事に追われています。家の片付け物が多くて」
「そっか、そっか、無駄に大きい家だものね」
「えっ?」
「あぁ、いやぁ・・・」
何だか今、不穏な事を言われたような。
するとやはり、この後持ち出されるであろう話題を思うと、一気に憂鬱になる。
こちらの不快を感じ取ったのか、向かいに座る男は、ちょっとだけ取り繕うように話題を変えた。
「やあ、よくある質問だよ。無人島に一つだけ持って行くなら何持って行く? 的な」
「はぁ」
「で? アカリちゃんは何持って行く?」
「え?」
「無人島に、突然飛ばされることになって、なんでもひとつだけ持っていって良いとしたら何持って行くって」
「あぁ、じゃあ[日常]で」
「は?」
「あ、いえ」
さっさと食べて、さっさと帰りたい。
何でこんな、不毛な合コンみたいな会話をしなくちゃならないんだ。
「ウゥンっ。じゃぁ〜最後の晩餐は? 明日地球が爆発するとして、最後に何食べる?」
「・・・水で」
「は?」
なんなんだろう?
どうしてこんな質問するんだ?
「アカリちゃん相変わらずだね。こんなの定型文じゃん。生まれ変わったら何になりたい? とかさぁ。昔から思ってたけど、アカリちゃんて空気読めないよね。そんなんだから友達できないんだよ」
「・・・・・」
ああ、そうなのね? この食事はただの職権濫用なのね?
手に持っていたカトラリーを、皿の上に並べ置き、膝の上のナプキンを握りしめる。
アカリが怪訝を露わにすると、若先生は、その薄い唇を引き上げ、ニッコリと微笑みを向けた。
どうやらやっと、本題に入る気になったようだ。
「ところであの家、アカリちゃんはコレからもあそこにひとりで?」
女の子が1人で住むには広過ぎるよねぇ。と続けられ、運ばれてきた皿の上の海老に目線を移す。
なんだろう。それ以上聞きたくない。
「だからさ、これ。これからは亡くなった一ノ瀬太公の代わりに、俺がアカリちゃんの事、守ってあげられるなぁ。と思ってさ」
若先生がポケットから取り出したのは、あのパカっと開くベルベットの箱で、蓋を開けこちらを向けてズイとテーブルの上で差し出されたそこには、透明の石がのった指輪が入っていた。
正気か?
「大先生は知ってるんですか? ご存知なら、弁護士協会に苦情をいれます」
アカリはピシャリと言い放つが「いや、親父は何も、知らないよ」と、ニヤニヤしながら、若先生はぺちゃくちゃとその口を動かし続ける。
あぁ、この人、どうしてこんな嫌な表情をするようになってしまったのだろう?
ひとりになってしまった今、私が大先生の不興を買ってまで、自分に抗うはずがないと信じ切っている。尊大な勘違い野郎の顔。
「アカリちゃん人の話聞いてる? 現実的に考えて? 若い女の子が、あんなどこからでも入れそうなガバガバの古いお屋敷でひとり暮らしなんて大丈夫? セキュリティのしっかりしたマンションの方が良いんじゃないかなって。俺は心配しているんだよ?」
アカリは椅子から立ち上がった。これは、明確な脅迫だ。
とたんにその笑顔に怖気を感じ「失礼します」と、足早にフロントに向かった。
お店の人から、預けていたコートと書類鞄を受け取る。
なめてる相手に指輪渡すとか。キモい虫に遭遇したレベルの恐怖に、どうにかなってしまいそう。
「魔法が使えたら一瞬で塵にしてやるのにっ」
ぐらり
急に足元が抜けたような感覚に、思わず膝から崩れ落ちそうになったが、誰かに支えられたのか、体を引っ張られた。
「成功だっ!」
「聖女様はどちらに!?」
アカリは、一瞬眩しい光に包まれ「貧血か?」と焦ったが、目を開けるとそれまでのレストランのフロントとは景色が変わり、広いフロア、周りを取り囲むように、大勢の人達がこちらを注目し喜び騒ぎあっている。
慌てて身を引くと、同じように、近くでへたり込んでいる人が、1、2、、、他にも5人いた。
「よく来てくださった! 聖女様!」
金髪で西洋風の顔立ちの男性が、隣で自分と同じく床に座っていた、ピンク色のド派手な髪型の女性に手を伸ばした。
アカリが、日本語上手いな。とその様子を眺めていると、再び大きな歓声が上がる。
「勇者様!」
「勇者様までいらっしゃるぞ!!」
「バンザイ!」
「ウハインハイツ聖国に栄光あれ!」
「ウハインハイツ聖国に栄光あれ!」
「ウハインハイツ聖国に栄光あれ!」
にわかに叫ばれるシュプレヒコールに、恐怖を感じる。
なんだこの状況は、ここはどこ? さっきまでいた神楽坂のレストランじゃないの? 何があった?
『聖女』と『勇者』と名指しされた2人が連れ出されそうになると、同じく床に座り込んでいた男性の1人が声を上げた。
「待てっ! どこへ連れて行くつもりだ! ここはどこだ!? まずは説明を求める!」
5人はみんな自分と同年代で、全員日本人に見える。
それとは対照的に、周りを取り囲んでいるのは、ゴリゴリの外国人顔だ。そして服装がエリザベートかマリーアントワネット。違和感しかないとんだコスプレ会場だ。
見上げると、天井に馬鹿でかいシャンデリアが、いくつも吊るされているのがみえたが、その光の粒が、ひとつ、またひとつと崩れて霧散して行くようにみえる。
何あれ? どうゆうこと? 何が起きているの?
「これはこれは勇敢な『マジックナイト』様、失礼いたしました」
壮年の男性が歩み寄り、手をかざすと、笑い、何やら称え合い、拍手をしながら、周りを取り囲んでいた大勢の人達が、一同に大きなドアから出ていった。
手を取られた『聖女』と一緒に『勇者』も連れ出されてしまったが、なぜか、彼女達の顔には笑みがあり余裕があるように見えたし、この状況を受け入れているかのように、すんなりと事を進めているように見えた。
「これから、この国の王族に御面会いただきます。よろしいですか?」
よろしいかって言われても。
「ねえ? とりあえずでいいから説明ないの? こっちは何が何だかわかんないんだけど?」
レッドインナーカラーの女性が、声を上げ立ち上がった。
心の中でツッコミをしていたアカリも、合わせて慌てて立ち上がる。
シャンデリアは、残り1/3も無くなっていた。
どうして、あの不思議な光景に対して、誰も何も言わないのだろう。と、アカリが不安に思っていると、自分と同じく未だひと言も発していない、もう1人の男性も、隣でシャンデリアを見上げていることに気づいた。
「私はこの国の宰相を務めますカニエスと申します。説明はこの後、落ち着いて別室でと思ったのですが。とりあえず、移動しませんか? 『モンストロマスター』様もお疲れでしょう?」
レッドインナーカラーの女性に向かって『カニエス』と名乗ったこの男の表情には見覚えがある。人を騙し、何かを奪い取ろうとする人間の顔。
間違うはずもない。さっきまで、向かいに座っていた弁護士を彷彿とさせる邪な笑顔だ。
この人は信用ならない。
アカリがそう思った瞬間、まだ言葉を発していない隣の男性が、大ジャンプして、シャンデリアのキラキラを掴み取り、音もなくふわりと床に着地すると、アカリの腕を掴んで引っ張った。
「え!?」
抱え込まれるように引き寄せられた身体を反射で跳ね除ける。
またしても景色は変わり、今度は外に立っている。明らかな屋外だ。
だだっ広い草原。
いっそ風が気持ち良い。
見渡す限りの草原。
生まれて初めての風景だ。
ぐるりと反対側を見ると、丘を下ったように見えるその先に、外壁に囲まれた街が見える。
中央の石造りの城を取り囲むように隙間なく家々が並び、外側の壁に近くなるほど家が小さくなっているのがはっきりわかる。
城下町は、二重の壁に囲まれて、ぎゅうぎゅうに詰め込まれているように見えるが、壁からは四方に道が延びていて、今立っている場所にはどの道も続いていない。
あまりの光景によろけると、足に何かあたった。
見ると、先ほど大ジャンプした男性が、意識を失って倒れている。
アカリは、慌てて首に手を当て脈をよみ、その呼吸を確した。
「生きてる」
ドクドクと早くなっていた自分の心臓も、数を数えている間に、少しだけ落ち着いた。
私達は、あの城の中にいたのだろうか?
このままここにいても大丈夫なのだろうか?
ここはどこだろう。もしかして日本ですらないんだろうか?
あぁ、外に出ると本当にろくなことがない。
移動するにしたって、この人、どうしよう。
アカリは、目覚めぬ見知らぬ男性をみて、ため息をつく。
なんとなく、あの街には近づきたくないし、このままこの人をここに置いてこの場を離れるのも、後の事を考えると憚られる。
遮るものが無いだだっ広い草原というのは、こんなに心許ない気持ちになるのかと、不安が募る。
「・・・家に帰りたい」
アカリが泣きたい気持ちでそう呟くと、ヴヴン! と何か、起動音が鳴った。
目の前に、ぽっかりと、見慣れた扉が現れた。
アカリは、立ち上がって迷いなくその扉に近づく。
引き戸の片方だけだが、見慣れたその扉は、間違いなく祖父と暮らしていたあの家の物だという確信があった。裏側に回ると、同じく“外側”の玄関扉。
アカリは、思い切って引き戸に手をかけた。
カラカラカラ と、乾いた音が鳴り、扉は開かれる。
目前に広がったそこは、いつもの自宅の玄関だった。
中に入ると、嗅ぎ慣れた家の、匂いまでする。
アカリは、玄関に置きっぱなしにしていた車椅子を外に出し、地面に倒れている男性を担ぎ上げ乗せると、大急ぎで家の中に入り、リビングのソファーに男性を寝かせた。
祖父よりずっと若いが、祖父の方が体格が良かった。難なく車椅子からソファーに移し替えることができたが、介護に必要と習ったことが役にたって良かったと、胸を撫で下ろす。
車椅子を玄関のたたきに戻し、慣れた仕草で廊下にモップをかけ、思い出したように扉の鍵をかけると、二階に駆け上がって客用のブランケットを持ってきて、未だ意識の戻らない男性にかけた。
「自宅、だな、間違いなく。今朝出てきたままの自分ちそのもの・・・」
もう一度、外を確認しようかと玄関に向かうが、考え直してリビングに戻り、カーテンを開けて窓の外を見ると、白いブーゲンビリアが咲き誇るいつもの5月の庭が見える。
そのまま掃き出し窓も開けてウッドデッキに出ると、庭から先、塀の向こう側には何も見えない、ただ真っ白な空間が広がっていた。
「えっ!?」
慌てて犬走りを通り、玄関に回ると、家の敷地を囲む塀の向こう側は、同じく真っ白。
ひやりとする鋳物の門扉の向こう側を格子の隙間から覗くと、上下も真っ白で、地面が無い。
「怖っ!!?」
走って庭のウッドデッキからリビングに戻り、窓に鍵をかけた。
それから玄関に向かって、恐る恐る扉を開けると、そこにはさっきまでいた、だだっ広い草原がひろがっていた。
なぜかほっとして、玄関の引き戸を閉め鍵をかけ直す。
「ど、どゆこと!?」
アカリは、玄関の上り框に腰掛けて、不安で溢れる涙を堪えることなく、さめざめと泣いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「・・・あぁ、いいな。コーヒー飲みたい」
コーヒーと、タバコの匂いで目が覚めた。
どのぐらい寝ていたんだろう? 見慣れぬ天井に、暖かい空気とえも言われぬ良い香り。
ずいぶん悪い夢を見ていたみたいだが、どんな夢だったかはっきりと思い出せない。
八雲玄は、ゆっくりと体を起こし辺りを見渡した。
どこかでみたことのあるようなアンティーク調の照明に、質の良い革のソファー、高そうなラグ、現実感がないほど設えの良い室内で、まるで古いハリウッド映画に出てくるお屋敷のリビングのようだが、何よりこのコーヒーと煙草の匂いのリアルさに混乱して心臓が高鳴る。
大きく開け放たれた窓の前にあるロッキングチェアーで、タバコの煙を燻らせながら、透けるように白い肌と、真っ黒で艶のあるロングヘアーの女性が、この部屋の中の家具と調和して、一枚の絵画のように窓の外を眺めている。
まるで存在感のない置物のようだ。
しかしあの女性には見覚えがある。
先ほど夢の中の荘厳華麗なフロアで、自分がこの身に引き寄せた女性じゃないか?
それに気づいたら、みるみる先ほどまでのことが思い出された。
そうだ、俺達は異世界移転させられたんだ。
あの白い空間で、神を名乗る者に瞬く間に選択を迫られたと思ったら、あのシャンデリアの下に移転させられていて、訳がわからないまま、また何かに巻き込まれるところだった。
・・・いや、俺が彼女を巻き込んだのか?
今日俺は、あの白い空間へ行くその前に、大学のゼミで一緒だった二ノ宮に久々に呼び出されて、神楽坂のなんとかと言うレストランの個室にいた。
俺の他にも、十数人の同年代の男女がいて、二ノ宮に無理やり婚活パーティーに参加させられたのだと、後出しで「頼むよ!ハル!」と文字通り拝み倒され、渋々残って帰宅のタイミングを探っていたのに、その中の1人の女が『異世界転移』『自分は聖女』『一緒に魔王を倒すパーティメンバーを探している』『質問に答えて欲しい』と訳のわからないことを言い出した。
気味が悪くなって、こっそり逃げ出そうと出口に向うと、フロントで件の彼女が急に倒れ込んだように見えて、思わず引き寄せてしまった。
気づくと、勇者と呼ばれた二ノ宮含む、あの個室でみた4人と共に、真っ白な空間にいて、そこにはこの黒髪の彼女はいなかったはずなのに、転移したシャンデリアの下では、隣に彼女が座り込んでいたので、思わず連れて逃げだしてしまったんだ。
ハルが、先ほどまでのことを反芻していると、不意に声をかけられた。
「起きたのですね。コーヒーいかがですか?」
「あ、い、いただきます」
目の前の女性は頷いて、キッチンのテーブルでコーヒーをカップに注いでいる。
その動作はとても落ち着いていて、まるで自分の家で客をもてなすそれのようで、とてもここが異世界とは思えない。
「あの、ここは?」
「あ〜・・・ここは私の、家、なんですけど、なんか、その、私にもよくわからなくて」
女性は「どうぞ」と持ってきたソーサー付きのカップを目の前に置くと、斜向かいのフットスツールに腰を下ろした。
差し出されたコーヒーを口に含む。美味い。店で出される丁寧にドリップされた美味しいコーヒーだ。
いれるところを見ていたはずなのに、ハルはその味に驚いて目を見開く。
彼女は、そんなハルをみてほっとすると、自分の現状を話し始めた。
「どこから話せば良いのか。今日は、その、さっきまで神楽坂のレストランにいたはずなのに、いつのまにか、どこかのお城? で、大勢の人に囲まれていて、その、そこにあなた方といたのですが、あなたが、シャンデリア? の石をとって私を引っ張ったと思ったら、草原? にいまして、それで、途方に暮れていたら、目の前にここ、この家の扉が現れまして」
女性は取り止めのない話を続けている。
訳がわからないまま、あったことをそのまま話しているようで「私にも訳がわからないのです」と、しょぼくれ話を終えた。
「・・・白い空間には、行かなかったのですか?」
「・・・白い空間・・・それは、その、イマココがその白い空間なのでしょうか?」
「えっ!?」
ハルが驚いた顔をすると、女性は窓まで歩き「壁の向こう側が真っ白なのです」と言った。
慌てて窓の外に出て、敷地の外を覗き見ると、なるほど、真っ白な空間に、ぽっかりと家屋敷が浮いているような現状に、思わずゾッとする。
それに気づいた女性は、家の中を通って玄関までハルを誘うと、その扉を開けてみせた。
「あの街が、さっきまでいたところなのでしょうか?」
女性の指差す方向を見ると、丘の下に高い二重の外壁に囲まれた街が見える。
ハルが呆然としていると、女性は玄関の中に戻り、カラカラと音をたてて扉が閉まった。と、目の前にあった扉が消えた。
「なっ? どっ!?」
ハルが慌てて辺りを見回すと、再び目の前に扉が現れ、開かれると中からさっきの黒髪の女性が顔を出す。
「これは、どうゆうことなんでしょうね?」
すぐに戻ってくれた。
どこか困ったように眉を下げつつ声をかけてくれる女性の顔を見て、心底ホッとしたハルは「実は、」と、城からここまでの事を簡単に説明した。
「ほはぁ〜異世界転移・・・」
目の前の女性は、素っ頓狂な声が出るほど大層驚きつつも「あ、どうぞ」と、当たり前のように家に招き入れてくれる。
空は暮れなずみ、辺りは薄暗くなっていた。
正直、このまま放り出されたらどうしようかと、不安に押しつぶされそうだったので、安堵で漏れ出る息を吐き出すように感謝を述べる。
「ありがとうございます。おじゃまします」
改めて招き入れられた家に入り、リビングに戻ると、先ほどとは違い、窓の外も黒くぬりつぶされている。2人でもう一度、窓から出て、門扉の前まで回り込み、切り取られたように真っ黒になっている空間を眺め、呆然とした。
「あ、初めまして。一ノ瀬燈と申します」
「あ、八雲玄です。初めまして」
やがて、先に我に返ったアカリがやっと名乗ると、お互いに自己紹介し合いながら、2人でまた窓に回り込んで、家の中に戻る。
アカリが、窓の鍵をかけ、重量のあるカーテンをきっちり閉めるのを、ハルは黙ってみていた。諸々どうゆう仕組みだろう。と考えながら。
「あー、えっと、お腹空いてますか?」
「え、あ、そうですね、腹減りましたね」
「夕飯の、時間、ですもんね」
アカリは壁の掛け時計をチラリと見やる。
視線を誘導されたハルの目線の先、郭公が出てきそうな扉のついた古い時計の針は7時を示している。日本にいた時から時間が続いているのだとしたら、今は夕飯時でまちがいないだろう。
ハルが、教えられたトイレと洗面所から戻ると「あり物ですが」と、キッチンの食卓につくよううながされ、個別の角皿に湯気を立てる煮魚と、小さく3種類のお造りの器。茶碗に白米とお椀に味噌汁と、箸置きの上の箸。
いくつかの大皿に根菜の煮物と、生野菜のサラダ、漬け物の小鉢がのっていた。
「い、いただきます」
「はい。召し上がれ」
大皿の料理を取り分けられた皿を渡され、勧められるまま箸を手に取り、飯茶碗を手に煮魚を口に入れる。
「うんまっ」
「良かった」
そう言い交わした後は無言だった。
どれもこれも旨い。
ハルは感動して、夢中で箸と口を動かした。
この状況が異常であることは、わかっている。
わかっているが、和食の家庭料理など、元いた世界より数えても数年ぶりに食べた。
そのこと自体も、この料理を心の底から旨いと思う呑気な考えも、なぜか心根に染み広がって、訳がわからず感情が昂る。
この人が俺を助けてくれなかったら、一体どうなっていたのだろう。
箸を動かす手が止まる。不意に涙が込み上げてきて、ハルは堪えきれなくなり「う、ぐ、」と声を殺して泣き出してしまった。
アカリが、無言でティッシュの箱を差し出すと、ハルは、箸置きに箸を置き箱を手繰り寄せ、人目を憚らず号泣した。
大人になってから、こんなに泣いた事は無いかもしれない。
「良かったら、お風呂使ってください」
「・・・はいっすみません」
急いで顔を拭き、残りの飯を平らげる。そしてまた、促されるまま脱衣所に向かった。
アカリは、タオル類と洗剤やカラン、ドライヤーの使い方を説明すると「あ、そっか、ちょっと待っててください」と、素早く二階に駆け上がり、すぐに戻ってくると、封の開いていない衣類の袋を持ってきた。
「一緒に暮らしていた祖父の余剰品なのですが、もし良かったら着替えにどうぞ」
「新品ですが、もう不要なものですので使っていただけるとコチラも助かります」と置かれたのは、浴衣だろうか? 加えて肌着とトランクスだった。
「何から何まで、すみません」
「いいえ、ごゆっくり」
「お風呂上がりにはキウイがありますよ」と言い残して、アカリは脱衣所の引き戸をカラカラと音を立てて閉め、キッチンの方へ戻っていった。
脱衣所のドアは、引き込み戸で、確か、チェッカーガラスとか言うまんまモザイク状のすりガラス。風呂場の扉は、大きく開く3連引き戸で透明だ。
「・・・・・」
風呂場に足を踏み入れると、脱衣所とは打って変わって、コチラは広いモダンなユニットバス。
手すりが設置されているが、何も置いていない。
どおりで渡された洗面器に、お風呂セットが一式入っているはずだ。それ等は全て新品の女性用だと思われる。
しんみりした感情が吹き飛んで、代わりに襲いくる邪な気持ちを吹き飛ばすように、シャワーを浴びた。
に、しても。
足が伸ばせる湯船に浸かるなど、どのぐらいぶりだろうか。
頭と体を洗った後、腰掛け用の段差に足を挙げる方向に座って、深く湯船に浸かりこむ。
この家は、なんだかおかしい。
「祖父と暮らしていた」と彼女は言っていたが、年寄りのいる家が、全てこうだとは到底思えない。
この家は、なんて言うか、田舎の超高級な旅館の様な家なのだ。TVでしか見たことないけど。
全てが整然と調っていて、なんと言うか、丁寧に他者への配慮で満ちている。
口から入る物は全て美味いし、落ち着いていて、静かで、平和。そう、この状態を言葉で表すならただただ平和だ。
言わずもがな、この家の中の調和が保たれているのは、彼女の管理があっての事なのだろう。
「そう言えば、玄関に車椅子が置いてあったな。お祖父さん、要介護者だったのか?」
ハルは、その残された祖父を思って胸が痛くなる。
向こうでは転移者はどうゆう扱いになっているのだろう。
自分は天涯孤独の身だからまだいいが、彼女は、お祖父さんを置いてきてしまった事をどう想っているのだろう。
ジワリと浮かぶ涙を誤魔化す様に、入浴剤で乳白色に濁ったお湯を両手で掬い顔を洗った。
風呂から出て体を拭く。
扇風機の風を浴びながら、タオルドライした後、ドライヤーで髪を乾かす。
言われた通り、お風呂セットは使用済みのタオル同様、脱衣所にある洗面台の中に置いておく。
渡された衣類の袋を開け、ありがたく使わせていただく。
肌着類は全てメイドインジャパンの有名ブランド品だ。肌触りが違う。
浴衣かと想像っていた濃紺の作務衣は、ダブルガーゼだやはり寝巻きなのだろう。着慣れていなくて些か照れ臭くはあるが、どれもサイズがピッタリだった。
この着心地に確信する。
この家の敷地、建具、調度品からも一目瞭然であったが、相当な金持ちだと手に取るようにわかる。
そうすると、彼女がなんの抵抗もなく、すんなりと家に見知らぬ異性である自分を入れてくれた違和感の謎も解ける。
答えはただ一つ。困っている人を放って置けない善人なのだ。
「金に余裕のある人間は、育ちが良いから人柄が良いって本当なんだなぁ・・・」
ハルはそうしみじみと独りごちると、脱いだ服をたたんで抱え、明日の朝、洗濯機を借りることにして、脱衣所を後にリビングに向かった。
「先ほどは、お見苦しい真似をして大変申し訳ありませんでした」
「いえいえ、こんな状況ですし」
「落ち着いていますね?」
「実は、私もお風呂で散々泣きました」
リビングに戻ったハルは、ガラスの器に、一口大にカットされた3色のキウイを、小さなフォークでつまみながら、先ほどの失態を謝罪した。
赤いキウイなど初めて見た。味に濃淡があり良く冷えていて美味しい。
急須からお茶を入れた湯呑みを差し出しながら、何事もなかったかのように淡々と問いに答えるアカリに、バツが悪そうに苦笑いをすると「これからすることに、ひかないでくださいね」ハルはそう言って、覚悟を決めたようにつぶやいた。
「ステータスオープン」
ヴヴン! と起動音を鳴らせて、ハルの目の前に透明なボードのようなウインドウが現れた。
「これが俺のステータスのようです」
ハルは慣れた手つきでボードを傾けると、アカリの方に体を向ける。
アカリは、ハルの座っていたソファーに移動して隣に座ると向けられたそのボードをみた。
ハルカ・ヤクモ 25才 称号[賢者]
種 族:人間
スキル:【翻訳】全言語を理解できる
【魔術】コモン魔法 マナを魔法に変換できる
【司書】検索 など
ユ ニ:【通販】元いた世界の流通商品の購入 など
魔 法:〈全属性〉
加 護:異世界人 加護と称号により、ステータスの偽装隠蔽可。
職 業:無職
状 態:健康
「ほはぁ〜賢者!」
アカリが感嘆を込めた声をあげる。
その様子に、クスッとハルの笑顔がこぼれると、アカリは照れくさそうに表情を戻した。
「私も、できるでしょうか?」
「わかりません。やってみてください」
「・・・ステータス、オープン?」
同じく、ヴヴン! と起動音が鳴る。
アカリ・イチノセ 25才 称号[錬金術師]
種 族:人間
スキル:【翻訳】全言語を理解できる
【魔術】コモン魔法 マナを魔法に変換できる
【錬金錬成】鑑定解析 重力操作 亜空間干渉 など
ユ ニ:【自宅】中で一晩過ごすと物理状態が初期化する亜空間
魔 法:〈水属性〉〈闇属性〉
加 護:異世界人 加護と称号によりステータスの偽装隠蔽可。
職 業:無職
状 態:健康
「わー!できました!」
「スゴイ・・・錬金術師」
「スゴイですか!? 賢者の方がすごくないですか!?」
「あー・・・どうなんでしょう?」
「魔法! 魔法が使えるのですね!? どうやるんでしょう!?」
「え、あ、どうでしょう? 家の中で試すのはやめた方がいいかもしれませんね」
「そうなんですか。残念です」
この空間にいることがもう魔法のような感じがするが? 2人のステータスボードを嬉しげに見比べるアカリに視線を落とす。距離が、近い。同じシャンプーの匂いがする。
ハルは、あらゆる煩悩が暴走しないよう、脳内に咲く菩提の花を数え始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「八雲さんの検索ってなんですか? 私は圏外です」
アカリは、ロックもかかっていない自分のスマホを躊躇なく手渡した。
ハルは(マジかー)と思いつつも、口には出さず、スマホを返しながら頷くと、ソファーの足元に置かれていた自分の鞄からスマホを取り出しみると同じく圏外だった。
「俺のも、圏外です。このステータスボードを使うのですかね? ネットショッピング」
[通貨を入金してください]
「お、当たりですね」
ハルは、スマホを鞄にそそくさとしまうと、同じ鞄から出した財布から抜き取った一万円札をボードに押し付けたが、無反応だった。
「・・・入金の方法を検索」
ボードに検索結果の画面が出る。
「「おぉ〜」」
2人で同時に歓声をあげる。
[この国の通貨を入金]
「この国の通貨とは?」
[ウハインハイツ聖国で流通している通貨には以下のコインがあります]
小銀貨 100ジェン
銀 貨 1000ジェン
大銀貨 10000ジェン
金 貨 1000000ジェン
大金貨 10000000ジェン
白金貨 任意
「こっちの世界の通貨が必要な様です」
「通貨の単位、ジェンって言うんですね」
銀貨から金貨に上がる時に100倍になる以外は10倍で価値が変わる様だ。
金貨の価値がパない。
「これは、金に相当な価値があると言う事ですか?」
「金貨なんて、見た事ないですよ。困りましたね」
同じ事を考えていた様だと、眉を下げハルはアカリを見て答えた。
「見た事ないですか?」
「ないですよ。やっぱ人がいる所に行ってみないとダメですね」
「私、あのお城がある街に戻るのは嫌です」
「あ、それは、俺も」
そう答えて、ハルはふと、その言葉の意味を考える。
この人は、この先も俺と一緒にいてくれるつもりなのか?
心がフワッと浮き立った。
「ちょっと待っててください」
アカリはすくっと立ち上がると、軽快な足取りで二階に上がっていき、本当にすぐに戻ると、机の引き出しの様な箱をそのまま持ってきた。
「金のインゴットではどうでしょう?」
「えっ!?」
差し出された箱を覗き込むと、500gインゴットが3つ。実物初めてみた。
「い、一ノ瀬さん! ダメですよ! こんなのホイホイ見せちゃ! それでなくても見ず知らずの異性を気軽に自宅にあげて! 俺が悪い人間だったらどうするんですかっ!?」
「え!? 盗むんですか!?」
「盗みませんよ!?」
「ですよね!?」
いや、いやいやいやいや、違う。そうじゃない。なんで家主が驚いた顔をしているんだ? いくらなんでもぼんやりしすぎじゃないか?
「悪い奴って、金品を強奪するだけじゃないんですよ!?」
「あ、はい。すみません」
思わず謝るアカリだったが、「でも」と話を続ける。
「ここ、この家、私のなんらかの魔法なんですよね? 私を殺しちゃったら、悪い人は、どうやってここから出るんですか?」
「え!?」
「そもそも、現時点で八雲さんひとりで外に出られるんですか?」
「あぁ〜っなるほど。わかりません」
「ですよね? 試してみましょうか?」
2人で玄関の前に立つと、どうぞ。と促され、ハルは玄関の扉を開ける。
真っ暗だ。
見渡す限り真っ黒な空間で、遠近感も無く脳がバグる。足を踏み出すのも恐ろしい。
先ほどの草原が現れないどころか、庭から回り込んだ時にはあった門扉すら見当たらない。
ハルは思わずその身を引いた。
「ですよね?」
アカリは、カラカラと音を鳴らせて閉めた扉を再び開ける。
すると、真っ暗ではあるが、昼間にいた草原が現れた。
「すみません勝手に。草原に置きっぱなしにするのも違うかな。って」
カラカラと鳴る戸を閉め鍵をかけながら「確認もしないでごめんなさい」と、アカリは本人の意思確認もせず、おかしな空間に引き入れた事を謝罪し頭を下げた。
そんなバカな。あの草原に置き去りにされても、無一文で、コネもつても何もない、なんなら不法入国の逃亡犯。死を待つばかりか待ったなしだ。
「いや、あんな道も無い所に取り残されてたら、追い剥ぎに身包み剥がされるか、獣や魔獣に食い殺されていましたよ。この家に上げてくださったことは感謝しかありません」
「魔獣がいるのですか!?」
「魔王がいるのなら魔獣もいるのでは無いですか?」
「そうゆうものですか?」
「ひょっとして一ノ瀬さん、ゲームとかファンタジーとか、あまり興味ない人でしたか?」
「その手のことは不勉強でした。重ね重ねすみません」
ハルは慌てて「そんなことで謝らんでください」とアカリの頭を上げさせる。
アカリは フニャリ と表情を崩して話を続けた。
「八雲さん、私を助けてくださったのですよね? あのお城の人、宰相のカニエスさんでしたっけ? あの人はきっと“悪い人”です」
「え!? そうなんですか!?」
「ただの勘なのですが、私、その、日本にいた時から“悪い人”が分かるのです。すみません。気持ち悪い事言っちゃって。でもその、根拠とか無いんですが、子供の時から“そうゆう事”に敏感で、不思議と当たるって言うか、間違った事ないんです」
「あぁ、なるほど。お金持ち特有のシックスセンス的な」
「なんですかそれ!? アハハハハハっ!」
アカリが初めて声をあげて笑った。
ハルは、その様子にギョッとして、でもなぜか心底ほっとしてしまった。
どこか浮世離れしていて、現実感のない美しさなのにその自覚のなさそうなこの人も、ただの普通の人間なのだなと。
おそらく、生まれた時から随分と裕福な資産家の元に生まれ、様々な人間に色眼鏡で見られ培った特殊能力なのだろう。
「お金持ちなのは祖父で、私は何も持っていなかったんです。最近まで本当に何も。それが先日、その祖父が、天寿を全ういたしまして、唯一の肉親であった私に転がり込んできたと言いますか」
アカリは「簡単に言うと遺産を相続しまして」と、気まずそうに言った。
そうか、お祖父さんは亡くなられていた後だったか。しかも彼女も向こうじゃ天涯孤独の身だったのだな。ハルは風呂での杞憂を思い出した。
「それなら、大事にしないといけないですね。気軽に試すわけにはいきません」
ハルが、柔らかな表情で金塊の受け取りを固辞すると、アカリは「フフッ」と笑いをもらした。
「祖父の遺言でもあるんです『俺が死んだら、俺の物をこの世に一切残してくれるな。全て使い果たしてくれ』と言い遺されていまして」
「使い道に少々困っていました」と、アカリは力無く笑う。
「だってウチには千両箱もあるんですよ。フフッ」
「千両箱!?」
「フフフッ 紙でまとめられた小判が並んで入っているんです。時代劇とかに出てくるアレですよ。重たいので地下の金庫にあるのですが、みてみますか?」
「それは、途方もないですね!?」
「千両箱の他にも、金のインゴットは他にもあるし、そうだ、外国の古い金貨もあったはずです。試してみませんか?」
「な、な、何言ってるんですか!?」
「あ、そもそも地下室はまだ確認していませんでした。あるんでしょうか? 見に行ってみていいですか?」
「それは、別に構いませんが、その、俺もついて行っていいんですか?」
正直に言うと千両箱には興味がある。本物の小判なんて見た事もない。
好奇心で人様の家の金庫を覗くなんてもってのほかだが、彼女はからりと笑い「いいですよ」と簡単に了承した。
そしてまた「ちょっと待っててください」と、トントンと軽やかに二階に上がっていくと、古そうな鍵束を持って降りてきた。
「さあさあこっちですよ」と、嬉しげに促されるままキッチンに向かう。
扉を開けると、壁一面の棚に缶詰や保存食、大きな冷凍庫が2つに、保存が効く野菜や穀物の入った袋や木箱と、様々な食材が並ぶモダンな作りの広い食糧庫だった。
「田んぼも貸してて、小作料の代わりに1年分のお米をもらうんですが、最近は溜まる一方で」
10キロ入りの米袋が積み重ねられた台車の鍵を解除してグイッと押す。ハルが慌てて手伝うと、台車は意外とスムーズに動き、その下の床に、古い観音開きの扉が現れた。
「すみません。なんかワクワクしますね」
「でしょう?」
アカリは笑って鍵穴に大きな鍵を入れ回し解錠した。
「あ、俺がやりますよ」
古い蔵の扉の様な仕様だ。きっと重いだろうと、ハルが代わりに扉を開くと、そこは真っ暗な闇だった。床にあるだけに、底の見えない穴がぽっかり開いている様で、見ているだけで味わったことのない恐怖に包まれた。
「こわっ!?」
「地下室はなかったかぁ〜」
「いえ、待ってください。すみません。一ノ瀬さんが開けてみてください」
玄関での事を思い出したハルは、開けた扉を閉める。
代わって、アカリが、よっこらしょと扉を持ち上げると、そこには先ほど開けた時には無かった階段が現れた。
「なるほど」
「ですね」
2人は頷き合って階段を降りる。
この手の扉は下から開けることができないので、扉は開けっぱなしだ。案の定きちんとロックがかかる仕様になっていた。
「おっかないですね」
「フフッですね。でも、下に降りたらもっとビックリしますよ」
これ以上の恐怖があるのか? と、ハルが恐々短い廊下をついて歩くと、アカリが壁にあるスイッチを押した。
引き戸が自動で開いて、眩しいほど明るい室内が見える。
「シアタールーム?」
「カラオケもできますよ!」
アカリは「地下なので防音対策バッチです」と、大成功とばかりに笑って言った。
「子供の頃に地下室を怖がった私のために、祖父がリフォームしてくれたんです。半分は趣味なのでしょうけど」
アカリは笑いながら言っていたが、その指先は慈しむ様にバーカウンターを撫でていた。
万が一のいわゆるパニックルームも担っていて、壁にエレベーターが設置されてあり、二階の祖父の書斎につながっているのだと言う。普段はそちらを使っていたのだそうだ。
「八雲さんお酒好きですか? 私下戸なので、良かったら好きなの飲んでください」
「は!? いえっ、今は遠慮しておきます」
店にはTVやネットでしかみたことのないのに、恐ろしい値段がすると誰もが知っている、和名が大きく描かれたウイスキーの瓶が並んでいる。
ワインセラーもあるそうだが「どれもあまり価値はわからない」とアカリは残念そうに言った。
ハルが酒瓶の並ぶ棚に夢中になっていると、アカリはカウンターの制御装置をいじって何かのスイッチを入れる。
壁のスクロールが電動で巻き上がり、現れたのは大きな金庫扉だった。銀行のそれである。
「マジかーっ」
これは流石に声に出た。
「これも開けてみますか?」とアカリは言ったが、「遠慮しておきます」とハルは笑って即答した。
「では、ご開帳〜!」
アカリがふざけてそのハンドルを回し、扉に体重をかけて引き開けると、金銀財宝、は無かった。
そこはただ、無機質な棚と木箱が並んでいる。
「そうなんですよ〜あんまり面白くないんですよ〜」
「出オチです」とアカリが残念そうに言う。いやいや、十分すごいから。
招かれて金庫の中に入ると、なるほど、いかにも千両箱でござい。な、漆塗りに鋳物の留め金の箱が、棚の下段に積まれている。
「これ、まさか全部千両箱なのですか?」
「そうなんです。ちょっと笑えますよね」
アカリが笑いながら箱の一つを開け、内紙を捲ると、なるほど。時代劇などでみたことのある小判の束が現れた。
「意外とドン引きしますね」
「一箱に入っている小判は20キロぐらいで、とても片手で持って屋根の上を飛び回ったりできないんですよ。でもこれ、そう古い物でもないので、地金の価値しかないそうです。小判って純金じゃ無いんですよ。金銀の合金で、どっちかと言うと銀なのです。『山吹色の菓子』は言い得て妙ですよね。素晴らしいコピーライティング。誰が言い出したのでしょう?」
いや合金の価値だけでも相当な物だ。とハルは思ったが、アカリは「骨董品としての価値なら、この箱の方が高いみたいです。わざと重く作ってあるそうですよ」と笑った。
ハルは「良い物を見せてもらいました」と、呆れた様に笑い返した。
「は!? まさか徳川埋蔵金とか、そうゆうのじゃ!?」
「ウフフッ 違いますよ。純粋に先祖の資産だそうです。大昔から手広く商売をやっていたそうで、詳しい謂れは祖父も知らない。と言っていました。祖父の仕事自体は先代から地主だそうです」
「あるところにはあるもんですねぇ」
「実はこの金庫の中の物は、相続税の対象外なんですよ。この金庫、開かずの金庫だったんです」
「は? え?」
「相続税にも時効があるのをご存知ですか?」
「いやぁ縁のない話なので」
「誰も査定できなかったんですよ。開けられないから」
「あれ? でも」
「えぇ、開きましたね」
ニコニコと屈託なく笑いながらアカリは言うが、どうゆう事なんだろう? とハルは首を捻る。
とにかく、古くから然るべき外部機関に代々管理をおねがいしていたので、法的にも問題無いのだそうだ。
「今となっては、国税庁はここの相続税分損しましたね」とブルジョアジョークを飛ばすアカリに、ハルは規格外の金持ちの真髄を見た。
「フフフッ はぁ、久しぶりに人間とたくさんお話ししました」
「一ノ瀬さんは、今日、なぜあのレストランに?」
「相続の件でお世話になっていた弁護士事務所の方に、手続き上の追加の話しがあると呼び出され『最後にお食事でも』と唆されて、のこのこついて行ったら、脅しまがいの婚姻をちらつかされて、逃げ帰るところだったのです」
「それはっ・・・」
ハルは、二の句が告げず言葉に詰まる。
金持ちには金持ちなりの苦労があるのだと聞いた時、何を世迷言を。と呆れ蔑んでいた以前の自分を省みる。
「以前から人が苦手で、半ば引きこもりの様な生活を送っていました。祖父の介護が終わり、途方に暮れていたのです。人とのつながりが完全に絶たれ、あのレストランで、自分はもう誰も信用することもできず、孤独に人生を終えるのだろうと覚悟してしまいました」
ハルは驚いて顔を上げる。
「ここにあるものは自由に使っていただいて結構ですので、どうか八雲さんのお心のまま、ご自由になさってください」
“最後”に、助けていただいたご恩返しをさせてください。と、アカリは頭を下げた。
ウソだろ。
異常なほどの警戒心の無さに合点がいった。
目覚めた時に、この家のリビングで見た、あの透ける様な存在感の無さは、この清々しいまでに生きる事を手放している心のありようだったのか。
胸が締め付けられるように軋む。耐え難い絶望がゴリゴリと伝わってきた。
「初めて会った人にこんな話、本当に心苦しいのですが、私はもう“良い”のです。私には祖父が全てだった。それが無くなった今、生きる意味が何も無いのです」
「そんな、そんな悲しい事、言わんでくださいっ」
「私はこのままこの家と朽ちていきたいだけなのです。ですのでこれらは、私には無用の長物。気兼ねなく使って頂けたらと、ただそれだけなの」
ハルが、胸を押さえてうずくまる。
賢者が聞いて呆れる。ダメだ。俺にわかることと言えば、この人を説得できる気がしない。それだけだ。
でもどうか頼む、俺の手の届かない処へ飛び立っていかないでくれ。
どうしたら俺が彼女の橘になれるのか、誰でもいいから教えてくれ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「八雲さんは心根の優しい人ですね」
「違う。善人なのは一ノ瀬さんです」
「いいえ。私、そうゆうのがわかるのです。もうすぐシックスセンスの向こう側にゆくので」
「笑えませんよ。俺はそうゆうのは笑えません」
「すみません。失敗しました」
なんとか思いとどまらせる方法はないのかと頭を巡らせる。
すると何か、いや、誰かが肩を、フワリ と掴んだかと思った途端、ひらめきと共に、やおら顔を上げ、ハルは、確信を持ってスキルを発動させる。
「ネットショッピング」
ヴヴン! と起動音がしてステータスボードが現れた。
[入金してください]
「一ノ瀬さん、小判一枚、貸してください」
「はい。切り餅おひとつ25両也」
「・・・紙を・・・剥くのは緊張します」
ハルは、その言葉とは裏腹に、容赦なく包み紙を剥き取り、小判を一枚手に取って、ボードに押し付けた。
小判は床に転げ落ち、ボードのメッセージも微動だにしない。
[入金してください]
「ダメでしたね?」
ハルは、なんのリアクションもないボードを横目に、落ちた小判を拾いあげ包塊ごと返す。
アカリは「それでは」と、待ち構えていたかのように、二の矢を継いだ。
「メイプルリーフと、ナゲットもありますよ」
「・・・聞いた事、あります」
「なんとこちらはフォーナインの金貨です」
「そうやって箱に入っていると、オセロのコマみたいですね」
「っ! フフッ! 八雲さんは例えが上手ですね!」
アカリは笑って、さっきのスマホと同じように、純金製のコインが詰まった箱ごとなんの躊躇もなく渡す。
流石に少しムッとしつつ、ハルはコインを一枚ボードに押し付け手を離した。
コインは小判と同じく無常に床に落ちる。ボードもノーリアクションだ。
お返しとばかりに「フッ」と、ドヤ顔でハルが笑ったが、アカリは矢継ぎ早に三本目の矢を打って出た。
「ペルーの8エスクード金貨です。ライオンがかわいいです」
「丸くないんですね。もしかしたらこちらの金貨に近いのかも」
「一枚百万円ぐらいします」
「っはぁ!?」
「アンティークコインです。祖父は多分、金貨の収集家だったのです」
ちょっとだけ。ほんのちょっとだけドキドキしながら、ハルは受け取ったコインをボードに押し当て手を離した。
[入金してください]
コインは同じく床に落ち、ボードのリアクションも相変わらずだ。俺のスキルよくやった。
ハルが「ダメですね」と、とても良い笑顔を向けるので、アカリは「なんで笑顔?」と眉間にシワを寄せた。
「お祖父さんの遺言を叶えるためには、この金銀財宝をこちらの通貨に換金しなければならなくなりました」
「えっ!?」
「俺の能力に関係なく、何か買物をして使い切るにしても、ここは異世界、金は必要です。困りましたね?」
ハルは、またしても良い笑顔を向ける。
「まさか、お祖父様から託された大切な遺産を、その辺のドブに捨てるような事しませんよね? 一ノ瀬さんは善人ですから、きちんと、正しく、ルールを守ってお金を使い切りますよね?」
「ギャフン! こんなに自分の性格を疎ましく思った事はありません!!」
アカリは叫んだ。大きな声で、ハッキリと。
「アハハハハッ! ギャフンなんて、口に出して言う人、初めてみました!」
ハルは、大笑いしながらも、胸の内で、孫を想い、お粗末な若輩賢者に力を貸してくれた、真の賢人である故一ノ瀬さんに、心から御礼を述べた。
いくつかのお宝をハルに運んでもらってリビングに戻ると、今後、具体的にどうするのか話し合って、やはり人の住む街に行かなければいけない。という結論に至る。
「ではとりあえず、あの城下町から続く道のうちのどれかを選んで先に進んでみるのはどうでしょう?」
「いいですね。でもその前に、準備が必要です」
アカリは、「準備って、旅支度の事ですか?」と顎に手をやる。
買い物ができるわけでもなし、それとも何か特別に必要な物でもあるんだろうか? と、ファンタジーやゲームに疎い事を悔やんだ。
「地図がないんですよ。次の町までどのぐらいかかるかわかりません。旅に出る前に、確認しておいた方がいい事が、たくさんあるんですよ」
それこそ、魔法の練習をしたり、能力の慎重な精査が必要じゃないですか? と、ハルが言添え、なるほどなぁ。とアカリは感心した。
家にいるせいで、忘れていたが、ここは異世界だった。
「八雲さんは、ゲームとか詳しい人なんですね?」
「人並みだと思います。有名なのをいくつか。という程度で」
逆にこのご時世で、全くゲームをした事がない方が珍しいのでは。と、ハルは思ったが、口には出さなかった。
先ほど手渡されたスマホはおそらく初期設定。この家のリビングにはテレビが無いのだ。
浮世離れしているのも頷ける。
「なんにせよ、ゲームの基本として、何ができて、何ができないか、認識しなければいけません。一ノ瀬さんはそうゆう事にあまり詳しく無いのですよね。覚えなければいけない事がたくさんありますね」
「どうしてそんなに嬉しそうなのですか?」
「ワクワクしませんか? 異世界で大冒険ですよ?」
「想像もつきません」
今日の昼までは、家に引きこもっていたいと思っていたのに。アカリは、旅に出る前からすでにゲンナリとしてしまった。
そしてハッとする。
ここはゲームの世界ではない。状況はもっと過酷かも知れない。
「あの、やっぱり移動は徒歩なのでしょうか? 実は私、体力に自信がありません」
おずおずとお伺いを立てるアカリの顔には、ハッキリと「運動したくないでござる」と書いてあり、ハルは思わず「フハッ」と、吹き出してしまった。
アカリはめげずに、交渉を続ける。
「車移動は可ですか? 不可ですか?」
「・・・車、あるんですか?」
「ありますよ?」
「もしかして、免許持ってるんですか?」
アカリは一瞬、口を尖らせると「ちょっと待っててください」と、また二階へ上がって行く。
足音が心なしかご機嫌斜めな音階を奏でているようで、ハルはとうとう「かわいいな」とつぶやいてしまった。
否! 絶対にあかんやつ! ナイチンゲール症候群か、吊り橋効果。ダメ! 絶対!
少なくとも、自分で身を立てられるようになるまでは、この家に頼らざるを・・・
ハルは、ここまで考えて、本当に嫌になると、頭を抱え込んだ。
自己嫌悪で反吐が出る。
なぜか一ノ瀬さんは、俺の事を善人と信じているらしいが、俺は本来そんな褒められた人格など持ち合わせてなどいない。
今だって、こうやって、心が弱っている人の意に反して利用することしか考えていない。
なんで俺の思考のベクトルはいつもこんなにクズなんだ。
城でだって、1番近くにいたから彼女を連れて逃げた。
1人より、2人の方が都合がいいと考えたからで、助けたわけじゃない。
既知の二ノ宮がいたのをわかっていたのに、あいつが『勇者』に選ばれた途端、躊躇もしなかった。
彼女がこちらに来たのは、巻き込んだ俺のせいなのに、それを説明してもいない。
俺は、一ノ瀬さんが思っているような、優しい人なんかじゃない。
本当のことを言ったらどう思われるのか。少しでも嫌悪感を持たれたら。この家から追い出されたら。そう考えると、怖くて仕方がないから、笑顔で取り繕っているどうしよもないクズなのに。
彼女の事を心配するふりをして、その実、自分が助かることしか考えていない。
今日初めて会った女性を、何も知らないのをいい事に、やんわりと懐柔して俺に依存させ、コントロールしようとしている。
わかっているのに、自覚しているのに、これから更に俺が言おうとしていることの、なんと浅ましいく卑しいことか。
ハルは「フッ」と息を吐き出し自虐的に笑うと、それでも俺は、死にたくないんだ。と言い訳のような理由をつけて顔を上げた。
「ほら、ゴールドですよ!」
二階から戻ってきたアカリが、得意げに突きつける免許証を見て、ハルはこれまでと同じく笑みを絶やさず、にこやかに応える。
「こちらでは免許証の携帯は必要ないと思いますよ? そもそも、まだ自動車はないんじゃないかな。相当目立つと思いますが、車移動するなら街道をそのままというわけにも行かないかもしれません。その辺は様子をみながらになりますが」
「そっかぁ、剣と魔法の世界ですもんね。やっぱ馬車ですかねぇ?」
しょんぼりとするアカリに、まさか馬車まであるとか言わないよな? と、曖昧な笑みを返し「改めてお願いがあるのですが」と、ハルは話を切り出した。
アカリは「なんでしょう」と、ソファーに腰を下ろし、話を聞く姿勢を正す。
ここはおそらく、現代日本からは遅れた文明の、剣と魔法のファンタジー世界です。
夜は街灯などなく真っ暗で、旅路を進める事ができません。きっと夜営が必要ですが、道中、どんなモンスターや野盗や魔物に遭遇するかわからない。多少の訓練や情報収集は必須です。
ですからせめて次の街までの間。と、ハルは覚悟を決めたように続ける。
「家事はなんでもします。旅の間、俺をこの家に住まわせてくれませんか?」
「え、はぁ、それはもとよりそのつもりでしたのに。本当に礼儀正しい方ですね」
アカリはむしろ驚いたように答え「お部屋はこちらを使ってください」とさっさと案内されたのは、リビングに隣接した和室の客間だった。
隣は洋間だけど、こちらの部屋のベットマットが無いのです。
二階は私室と、祖父の書斎、それに続く寝室で、私は今そこで寝起きしています。
他に3部屋あるのですが、全部物置になっていて、移動させようが無く、もはや気軽に廃棄できなくなりました。もう一度中身の精査が必要かもしれません。
そう申し訳なさそうに説明するアカリに、ハルは、とんでもない。と恐縮してみせ話題を変えた。
「なので2階はおすすめできないのです」
「そんな、十分ですよ! それより、改めて実験が必要とは思いますが、おそらくこの家の中では俺は鍵付きの扉は自由に開け閉めできません」
「あぁ、なるほど、そうゆう条件のあるかもしれないですね。あれ、でも、トイレは大丈夫でしたよね?」
ハルは思いつきで「問題は鍵か? 鍵穴がある扉の鍵を持っているかどうかでしょうか?」と推察を述べると「玄関ならばスペアキーがありまからすぐ試しましょう」とアカリに急かされ玄関に向かう。
試すと、ハルの予想は大当たりしていた。
「良かった! 正解みたいですね。1人ではどうです?」
「使えないですね。一ノ瀬さんに扉を出現させてもらえないと、スペアキーではこれが限界のようです」
それでも扉が消えないだけでも助かる。あの扉が消えた時は死ぬほど怖かった。と苦笑いするハルに、アカリは「それは失礼しました」とていねいに頭を下げて定案を続ける。
「試してみて使えるようなら、玄関の鍵同様、地下蔵の鍵を渡しておきます。私は2階から入れるので」
言われた通りにパントリーに戻って、床の蔵扉を試すと、問題なく使えたので鍵を受け取った。
なぜかそのまま進み「金庫扉の開け方は?」と当たり前のようにアカリが聞くので、ハルは「知りたくありません」と固辞する。
試すだけでも。結構です。と、繰り返し「都度渡してください」とハルが折れると「お小遣い制みたいですね・・・なんでもありません」と、アカリは目をそらせて言った。
誤魔化すように「他の部屋の鍵はスペアがありません」とアカリが明言すると「そうゆうものですよね」と、ハルも納得した。
「トイレにはやはり、鍵穴がないから暗闇にはならなかったのですね」
「そうですね。開けっぱなしでする事にならなくてよかったですね? 八雲さん」
2人で アハハ と笑い合う。オードリーか。
この鍵の制約から、ハルは、やはり和室に落ち着く事になった。
中は畳敷きの和室だが、扉は木製の引き込み戸で、襖や障子と違いしっかりしている。
引き込む分壁が厚いのだろう。こうゆうところに金のかけ方の違いを感じる。
8畳間に、板の間があり、その上に腰高の出窓がある明るそうな部屋だった。
もちろん今は、障子がしまっている。
「奥の押入れの上段に布団、下段に、座布団と、文机と三杯引きの脇置きがあります。座椅子やちゃぶ台もあったかも」
手前は中板が無いので好きに使ってください。と言われ中を覗き見る。
隣の洋間もおおよそ8畳だそうだ。天蓋枠のあるセミダブルのベットに、レターデスクと同じデザインの椅子。腰高の出窓と、こちらはウッドデッキにつながる掃き出し窓もあった。
板の間とベットが無い分、和室の方が広く感じる。
どちらの部屋も鍵穴は無く、内鍵がついていた。条件はクリアしている。
「板の間にベットを置くこともできますが、今ウチにあるベットでは部屋が狭くなるかもしれません。買い物できるようになったらお好きなように模様替えしてください」
アカリはそう説明したが、ここは本来客間として用意された部屋なので、何もかも揃っているようでも、実質は何も無い部屋だ。心地よく過ごして欲しい身としてはいささか不安になる。
「何か、他に必要なものはありますか?」
「日本の俺んちより広いですよ。6畳一間の家賃10万です」
駅近でロフトがあり、トイレと風呂が別だったんです。と、ハルは眉を上げつつ自虐的に笑った。
「なるほど?」
「いまいち実感できてませんね?」
「すみません想像できません」
そんなやりとりをして、再び2人同時に笑い合う。
アカリは、家事分担の話になると、正直あまりキッチンをいじられたくありません。自室だけ管理していただければ良いので、他は任せてくれるように言った。
そんなわけにはいかない。と、ハルは提案を固辞するが、おそらくファンタジーに疎い自分では、外の事ではハルに頼りっきりになるだろうから。と、アカリも困った。
「それでは一階のトイレとお風呂のお掃除お願いできますか?」
「喜んで」
なるほど。アカリのこの言い分から、二階にも風呂とトイレがあるのだな。とハルは察した。
「台所は私の城なので、管理も調理も任せていただけると助かります。もちろん冷蔵庫や茶棚は好きに開けていただいて構いませんし、食糧庫の物品もご自由になさってください」
お酒もできるだけ消費してくれると助かる。とアカリは言ったが、ハルとて大酒飲みというわけでも無い。
「では、次の街に着いたら売りますか?」
「そんなもったいない! すぐに悪くなる物ではないですし、保留でお願いします」
その言葉に、フフフっと笑って「祖父も、飲めなくなってから、同じような事を言っていました」と、アカリは目を細めて言った。
「米があの量ですし、肉や魚は冷凍のがあるので、食材についてはしばらく大丈夫ですが、生野菜が心許ないですね」
「次の街までどのぐらいかかるのでしょうかねぇ」
と、ハルが言ったところで、今度はほぼ同時にあくびが出て、ふはっと、アカリが吹き出し笑った。
「今日のところはもう寝ましょうか?」
「そうですね。魔法やスキルの精査は明日以降に試みましょう」
「それでは・・・明日の朝ごはんは7時です。おやすみなさい」
「改めて、今日は本当にありがとうございました。おやすみなさい」
壁の掛け時計は、とっくに深夜0時を回っていた。
今夜はとりあえず寝る事にして、明日に備える事にする。
ぺこりと頭を下げて、二階に上がって行くアカリを見送って、リビングの電気を消し、与えられた自室に入る。
ハルは、そっと部屋の内鍵をかけ、布団を敷いて、スマホと充電機をコンセントにセットして枕元に置き、部屋の電気を消す。
この家の、電気も、コンロのガスも、水回りの水道も排水も、どこからきて、どこへ行っているのか見当もつかない。
圏外でオフネットなのに、スマホの充電マークをみて、長いため息が出る。
「しんどい」
横になるなり、口を衝いて出てしまった己の本音に困惑しつつ、自分の当初の思惑通り、なんの抵抗もなくこの家の居住を了承したアカリに、なぜこんなにもイラ立っているのか、わからないまま、ハルは目を閉じる。
長く押し入れに入っていたはずの布団は、柔らかで暖かく、お日様に干した匂いがした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、朝食の用意をしようと、冷蔵庫を開けたアカリは「ギャー!?」と、雄叫びともとれる悲鳴をあげた。
「どうしましたっ!!?」
「冷蔵庫の中の物が、昨日使ったはずのお刺身が! イサキと、アジと、サーモンがあるのです!!」
慌てて部屋から出てきたハルに、アカリは早口で言って、ハッとすると、炊飯ジャーに駆け寄り バカッ と蓋を開けた。
「ご飯が、炊きたてだ・・・」
「おぉ、米が立ってる。艶々で美味しそうですね」
「違うんですっ! 今朝はパンを食べるつもりだったから、タイマーかけてないんです!」
「んん?」
「昨晩のご飯は、昨日のお昼前に炊いていたのを、夕飯で食べたので、その残りが保温されているはずなんです! なのにっ」
「あぁ、一ノ瀬さん。もう一度ステータスボード、みせてもらって良いですか?」
アカリは眉を寄せながら、ハルの言葉の訳も分からず、とりあえず口に出した。
「ステータスオープン」
ヴヴン! と起動音と共にボードが現れる。
アカリ・イチノセ 25才 称号[錬金術師]
種 族:人間
スキル:【翻訳】全言語を理解できる
【魔術】コモン魔法 マナを魔法に変換できる
【錬金錬成】鑑定解析 重力操作 亜空間干渉 など
ユ ニ:【自宅】中で一晩過ごすと物理状態が初期化する亜空間
魔 法:〈水属性〉〈闇属性〉
加 護:異世界人 加護と称号によりステータスの偽装隠蔽可。
職 業:無職
状 態:健康
「あぁ、ほらここ、この ユニ ってところ、これ、【ユニークスキル】って、一ノ瀬さん独自のスキルなんですがね、【自宅】って言う能力の説明にあるでしょ、『中で一晩過ごすと物理状態が初期化する亜空間』って」
「それって、それって、どうゆう意味ですか?」
「あぁ〜・・・この家の中の物は実質消費されない?」
2人でもう一度炊飯器を覗き込んだ。
根本から間違っていた事に同時に気づいた2人は、正しく同時に叫ぶ。
「「え、まさかっ!?」」